北条氏康第十九回

十九

 小太郎は城を出た。行き先は風間村である。小太郎の先祖が切り開いて根を下ろし、亡くなった父と母が生まれ育った土地だ。
 風間村は小田原城から西に二里のところにある。
 北条氏が支配するまでは大森氏が風間村を支配していた。絶え間ない戦と大森氏の圧政に苦しみ、風間一族は宗瑞を頼って韮山に逃れた。先祖代々暮らしてきた土地を離れることを嫌がる者もいたが、大森氏の支配は苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)と言うしかなく、そのまま風間村に残ったのでは一族が根絶やしにされかねないところまで追い詰められたので、最後には皆で移住を決意した。移住を渋る者たちを根気強く説得したのが小太郎の父・五平であった。
 それから三十年近く経った今、風間一族は再び先祖の眠る土地に戻ってきた。
 五平は亡くなり、五平の弟の六蔵が棟梁として風間一族を率いているが、北条氏における風間一族の役割は昔から変わっていない。
 宗瑞が五平に命じたのは敵地の情報収集である。風間村の出身者たちが薬売りや針売り、僧侶や野武士、修験者(しゅげんじゃ)に化けて甲斐、武蔵、上野、下野、時には下総(しもうさ)、上総(かずさ)にまで旅をした。命じられた仕事を着実にこなしていくうちに忍びの集団として認知されるようになり、いつしか風間党と呼ばれるようになった。
(またか......)
 風間村まで半里というあたりから、小太郎はたびたび強い視線を感じるようになった。
 周囲を見回しても、取り立てて変わったことはない。畑仕事をしている農夫や、鬼ごっこをして遊んでいる子供たちがいるだけだ。
 だが、
(見張られている)
 と、小太郎にはわかる。
 今の風間村は、かつての風間村とは違う。ありふれた農村ではないのだ。もちろん、村の周囲には畑や田圃(たんぼ)があり、日々、家人が野良仕事に励んでいるものの、それは本業ではなく、あくまでも仮の姿に過ぎない。
 風間村は、今や北条家における忍びの総本山なのだ。それ故、見知らぬ者が村に近付けば、それを警戒するのは当然で、何者かがどこかから小太郎を注視しているのであろう。
 やがて、村に入る。女たちや子供がいるが、小太郎の姿を目にした途端、ぴたりと口を閉ざして冷たい視線を向けてくる。
 六蔵の家がどこなのか訊ねようと、小太郎が近付いていくと、さっと背を向けて、その場から立ち去ってしまう。
 小太郎がうろうろしていると、
「こっちだよ」
 女の声がして、小太郎が振り返る。
「あずみじゃないか」
 六蔵の娘で、小太郎にとっては従妹だ。年齢は十六。
「久し振りだね。背が伸びたんじゃない?」
「当たり前だ。もう四年も経っている。おまえだって変わったじゃないか」
「わたしが? 変わったかな?」
「背も伸びたし、それに......」
「それに、何?」
「いや、別に」
 きれいになった、と言いたかったが、気恥ずかしくて口にできなかった。
「頭も青々と剃っているし、墨染めの衣も似合っているし、何だか、本物の沙門(しゃもん)みたいだよ。それとも本当に出家した?」
「まさか」
 小太郎が首を振る。
「足利学校で学ぶには、こういう姿をしなければならないという決まりがある。それに従っただけだ。こんな形(なり)をしているが、経文はまったく学んでいない。せいぜい、般若心経を唱えることができるくらいだな」
「軍配者になるには武術の稽古もするの?」
「いや、足利学校で武術は教えてくれない」
「それにしては、小田原に帰るなり、随分と活躍したらしいじゃないのよ」
「知っているのか?」
「当たり前でしょう」
 あずみが、ふんっ、とおかしそうに笑う。
「自分のたちの足元で起きていることも知らないで、他国のことなんか調べられると思うの? 風間党は、間抜けの集まりじゃないのよ」
 昔の風間党とは違うんだから、と小声で付け加える。
「なるほど、自分たちの身を守るために、敵のことだけでなく味方のことも探っているということか。大したものだ」
「嫌味?」
「違う。感心している。風間党は、よく働いてくれると御屋形さまも喜んでおられた。だが、出る杭は打たれる、という諺(ことわざ)もある。風間党を妬む者が家中にいても不思議はない。よくよく注意していなければ味方に足元をすくわれることもあるだろう。そうならないためには、外だけでなく、内にも目を光らせておく必要がある。しかし、それほど耳が早いのなら、なぜ、おれが訪ねて来たのかもわかっているのだろうな?」
「たぶんね」
 あずみがうなずく。
「叔父御は、いるのか?」
「いるよ。今朝早く旅から戻った」
「たまたま、ということは、ないのだろうな?」
「あんたが昨日小田原に戻ったことを知って、急いで戻ったに決まっているじゃないか」
「さすが風間党の棟梁だ。うちに案内してくれ。叔父御に会う」
「いいよ、こっちだ」
 あずみが先になって歩き出す。
「慎吾もいるのか?」
「いない、と思う。朝早く、どこかに出かけたきり帰ってこないから」
「そうか」
「よかったんじゃない? 別に会いたくもないでしょう」
 慎吾はあずみの兄で、小太郎と同じ十八歳である。
 昔から反(そ)りが合わず、従兄弟同士だが仲が悪い。
 小太郎に言わせれば、慎吾の方が一方的に小太郎を毛嫌いして目の敵(かたき)にしていた。
 とは言え、あずみの言うように、再会を喜ぶという間柄でないのは確かだ。

北条氏康

画・森美夏

Synopsisあらすじ

伊豆・相模を制し、梟雄と呼ばれた祖父・北条早雲がついに逝ったのは、伊豆千代丸(のちの北条氏康)が五歳の夏だった。家督を継いだ父・氏綱は小田原を本拠に、関東への版図拡大を画している。早雲は孫の治世を見越し、ある手を打っていた……。軍配者シリーズ、北条早雲シリーズに連なる〈北条サーガ〉最終章が、ついに始動!

Profile著者紹介

1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。

「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。

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