北条氏康第十一回

 学問するとき、上座の宗真に対して、伊豆千代丸、勝千代、平四郎の三人が下座に並んで坐る。文机の上には『孫子』が載っている。
 宗真は、三人に順番に『孫子』を読ませ、その解釈を述べさせる。三人で学ぶようになって数日経つと、平四郎の学問が伊豆千代丸や勝千代に比べて抜きんでていることがわかった。勝千代は平四郎には劣るが、しっかり下調べをしてくるので、講義の足を引っ張るということはない。
 問題は伊豆千代丸である。
 元々、学問が苦手である上に、やる気もないので下調べも不十分である。読み下しもつかえてばかりいるし、解釈も的外れなことが多い。自分でもわかっているのか、講義の間は、ずっと不機嫌である。
 三人で学んでいるといっても、あくまでも伊豆千代丸のための講義である。伊豆千代丸を置き去りにして先に進むわけにはいかない。当然ながら、講義は亀の歩みの如く、のろのろしたものにならざるを得ない。平四郎は行儀よく待っているが、勝千代は退屈そうな顔で溜息を洩らしたりする。
 午後の剣術稽古も似たようなものである。
 体の弱い平四郎は剣術稽古には参加しないので、伊豆千代丸、勝千代、弁千代の三人が十兵衛に稽古をつけてもらう。
 十兵衛は一人ずつ順番に相手をし、悪い癖を直したり、新たな技を教えたりする。
 その後、子供たち同士で立ち合わせる。
 伊豆千代丸は勝千代にはまったく歯が立たない。
 三度立ち合って、三度とも負ける。
 弁千代とは互角である。三度の立ち合いのうち、一度か二度は伊豆千代丸が勝つ。
 もちろん、それも大きな屈辱である。伊豆千代丸は九歳で、弁千代は四歳なのだ。背も低く、目方も軽い。そんな相手に互角というのでは少しも威張れる話ではない。
 ところが、稽古が進むに従って、弁千代が腕を上げた。三度の立ち合いで、伊豆千代丸はかろうじて一度しか勝てなくなった。時には三度とも負けることがある。つまり、勝千代に三度負け、弁千代にも三度負けるということである。
 これほどの屈辱はない。
 そもそも勝千代や弁千代が奈々と遊ぶのを邪魔するために、一緒に学問したり剣術稽古をすることにしたのに、学問もダメ、剣術稽古もダメということになると、奈々と遊んでも少しも楽しくなくなってきた。
 講義が終わって、午後の剣術稽古が始まるまで、伊豆千代丸は奈々の部屋で一緒に遊ぶのが日課である。平四郎も加わることがある。
 平四郎は常に控え目で、身の程をわきまえているから、伊豆千代丸も平四郎と一緒だと心地よいのである。
 三人で双六をしているとき、伊豆千代丸は賽(さい)の目に恵まれず、三度続けて奈々と平四郎に負けた。
「わしは何をやってもダメだ。自分で自分が情けない」
 と目に涙を浮かべる。
「......」
 あまりにも伊豆千代丸が暗い顔をしているので、奈々も言葉を失う。
「そのようなことはございません」
 平四郎が自分の手をそっと伊豆千代丸の手に重ねる。
「若君は優れた御方でございます」
「わしのどこが優れているというのだ?」
「自分に何が足りないのか、ちゃんとわかっておられるではありませんか。しかも、それを隠すことなく、きちんと認めていらっしゃいます。なかなか真似のできることではございませぬ」
「世辞を言うな」
「違います。世辞などではございません。若君は御屋形さまのご嫡男、自分が思うことを何でもできる御方なのです。気に入らぬ者がいれば遠ざければよいだけのこと。しかし、それをなさらず、自分がダメだとおっしゃる。わたしなどには真似できませぬ」
「そうかのう......」
「学問において、わたしは若君や勝千代殿よりも先んじておりますが、それは、わたしがお二人よりもたくさんの書物を読んでいるというだけのことに過ぎませぬ。体が弱いので外で遊ぶことができず、剣術稽古もできず、書物を読むしかないからです。それだけの違いなのです。若君が剣術稽古で勝千代に勝てぬのは、勝千代の方がたくさん稽古をしてきたからに過ぎませぬ。戦で父を亡くした勝千代は、自分が強くならなければ生きていくことができなかったのです。だから、必死に稽古したのでしょう。武者として戦に出るためには、そうするしかなかったのです。しかし、若君は違います。戦に出るときは、大将なのです。軍勢を率いていく御方なのですから、剣術など苦手でよいのです」
「え? そうなのか?」
「敵と太刀打ちをするのは一騎駆けの武者のすることでございます。若君は、そんなことをなさる必要はありません。本陣に腰掛けて、じっとしていればよいのです」
「しかし、学問ができなければ、戦にも勝てぬではないか。わしは兵法がよくわからぬ」
「ご心配には及びません。それは軍配者がします」
「軍配者? 金石斎(きんこくさい)のことか」
 氏綱には根来(ねごろ)金石斎という軍配者が仕えているのだ。
「いいえ、金石斎さまではございません。若君には、別の軍配者がおられます」
「わしは知らぬ。誰のことを言っているのだ?」
「奈々の兄、小太郎殿でございます。今は下野の足利学校におられます」
「そうなのか、奈々?」
 伊豆千代丸が奈々に顔を向ける。
「わたしは何も知りません」
 奈々が首を振る。
「学問もできぬ、剣術も苦手、双六でも負ける......それでいいというのか?」
 伊豆千代丸が平四郎に訊く。
「よいのです」
 平四郎がうなずく。
「学問ができずとも、剣術稽古や双六で負けてばかりでも、若君はにこにこ笑っておられればよいのです」
「ふうん、そういうものか」
「もちろん、それでは嫌だとおっしゃるのであれば、他にもやりようはございます」
「何をすればよい?」
「宗真さまの講義を受ける前に、わたしは念入りに下調べをいたします。若君がそうしたいとおっしゃるのであれば、一緒に下調べをいたしましょう。剣術稽古のことはわかりませぬが、十兵衛さまに頼めば、何か考えて下さると思います。双六は遊びですから気にすることはございません」
「わかった。では、明日から平四郎と下調べをすることにする。学問は好きではないが、平四郎と一緒にするのなら、それほど嫌でもないからな。頼めるか、平四郎?」
「はい、喜んで」
 平四郎がにこっと笑う。

北条氏康

画・森美夏

Synopsisあらすじ

伊豆・相模を制し、梟雄と呼ばれた祖父・北条早雲がついに逝ったのは、伊豆千代丸(のちの北条氏康)が五歳の夏だった。家督を継いだ父・氏綱は小田原を本拠に、関東への版図拡大を画している。早雲は孫の治世を見越し、ある手を打っていた……。軍配者シリーズ、北条早雲シリーズに連なる〈北条サーガ〉最終章が、ついに始動!

Profile著者紹介

1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。

「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。

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