北条氏康第五十四回

十九

 縁側に冬之助が一人で坐り、手酌で酒を飲みながら月を愛(め)でている。
(世の中には不思議なことが多い。わからぬことばかりだな。いや、それは違う。不思議なのは世の中ではなく、人の心だ。そう、人の心......)
 己の運命を顧みると、つくづくそう思わざるを得ない。
 扇谷上杉氏を救ったのが冬之助であることは間違いない。白子原の大勝で扇谷上杉氏は息を吹き返し、飛ぶ鳥を落とす勢いで破竹の快進撃を続けていた氏綱の野望を頓挫(とんざ)させた。その功を自ら誇ったことはないものの、誰もが認める厳然たる事実であった。
 白子原の合戦の後、主の朝興は、
「この恩は生涯、決して忘れまいぞ」
 と涙ながらに冬之助の手を押し頂いたほどだ。
 確かに冬之助の功績は疑いようもなく素晴らしいものだったが、功績が大きすぎると、それを妬(ねた)む者が出てくるのも世の常である。
 喉元過ぎれば熱さを忘れると言われるように、北条氏を押し返し、失った領地も取り戻し、味方も増えてきて、この際、南武蔵を取り戻すだけでなく、相模に攻め込んで一気に小田原を衝(つ)いてやろうか、などという景気のいい話が飛び交うようになると、
「曾我(そが)一族がいなくても、わしらだけで北条をねじふせることができる」
 と強がる者も出てくる。
 朝興にしても、白子原以後、蕨(わらび)城や小沢城を落としたり、山内(やまのうち)上杉(うえすぎ)氏や里見(さとみ)氏と手を結んで玉縄城や鎌倉を攻めたりして、軍事的・外交的な成果を挙げるうちに、冬之助に対する感謝の念も薄らいできた。そういう朝興の気持ちの変化を察して、
「白子原の手柄は養玉(ようぎょく)一人だけのものであるかのように言う者がありますが、それは間違っています。命の危険も顧みず、御屋形さまが戦場に踏み止まるという勇気を示したからこそ、北条も罠にはまったのです。すなわち、白子原の合戦で手柄を立てた第一は御屋形さまであり、次が養玉でありましょう。にもかかわらず、自分一人の力で勝利を手に入れたかのように養玉が振る舞うのは納得できませぬ。誰もがそう申しております」
 と、朝興におもねる佞臣(ねいしん)もいる。
 単に冬之助を誹謗中傷(ひぼうちゅうしょう)するのではなく、朝興を持ち上げることで、遠回しに冬之助を貶(おとし)めるという言い方をするのがうまいところで、初めのうちは朝興も聞き流していたが、白子原以後、着々と成果を挙げたことで己の力量に自信を持つようになり、次第に、
(そうかもしれぬ。わしがいたからこそ、養玉も力を振るうことができたのだ。にもかかわらず、自分一人の手柄のような顔をするのは許せぬ)
 という気持ちになってきた。
 とは言え、そんな感情を露骨に表に出すほど朝興も初(うぶ)ではなく、それまでは常に冬之助を戦場に帯同していたのに、いつの間にか帯同することが減ってきた、戦に関する相談をすることもなくなってきた、というやり方で、徐々に冬之助を遠ざけるようになった。
 冬之助の最大の理解者であり、庇護者であったのは祖父の曾我兵庫(ひょうご)だが、ここ数年体調を崩すことが多く、特にこの一年ほどは寝込んでばかりで、ほとんど朝興のそばに出仕していない。朝興も兵庫には遠慮があるし、長年にわたって扇谷上杉氏を支えてきた重鎮だから、家臣たちも曾我一族に対する不平や不満があっても、兵庫が健在なうちは、それを表立って口にすることはせず、せいぜい陰口を叩いて鬱憤を晴らすことしかできなかった。
 その兵庫が年明け早々、亡くなった。
 七十九歳という高齢だから、大往生と言っていい。
 すでに曾我の家督は冬之助の父・祐重(すけしげ)が継いでいる。本来であれば、五十四歳の祐重が兵庫に代わって朝興を支え、扇谷上杉氏の柱石となるべきはずだが、祐重には兵庫のような政治力もなく、冬之助のような軍事的な才能にも恵まれていない。台所奉行にでも任じれば、与えられた仕事をそつなく律儀にこなすであろうが、要はその程度の器ということである。ごく平凡な男なのである。
 だからこそ、兵庫は孫の冬之助に期待した。自分のように、朝興の側近として扇谷上杉氏を支えてほしいと願ったのだ。
 確かに冬之助には、兵庫が足元にも及ばぬほどの軍事的な才能がある。天才と言っていい。
 が......。
 政治の才能はない。
 そもそも政治が好きではない。
 兵庫が代々の主に重く用いられてきたのは偶然ではない。主に取り入って、その思いを汲んで、自分がなくてはならぬ存在だと信じさせることに意を尽くすのはもちろんのこと、自分を脅(おびや)かしそうな家臣たちの足を引っ張って蹴落とすようなこともした。自分の競争相手になりそうな者は容赦なく排除してきたのである。そういう政治的な根回しや権謀術数(けんぼうじゅっすう)に長(た)けていたからこそ、常に第一人者の立場にいることができたのだ。
 兵庫が元気なときは、兵庫が政治を受け持ち、冬之助が軍事を受け持つという役割分担ができていたので、冬之助は好きなように腕を振るうことができた。
 この一年、兵庫が出仕しなくなってから、冬之助は自分に対する風当たりが明らかに強くなってきたことを敏感に感じていた。
 だからといって、それに対抗しようとも考えず、別に腹も立たず、ただ、
(勝手にしろ)
 という気持ちだった。
 冬之助が好きなのは、知力を尽くして全力で敵と戦うことだけで、それ以外のことは、どうでもいいのである。ちまちました裏工作やら政治的な根回しをするのは性に合わない。
 年明け、朝興は軍勢を率いて河越城を出陣し、小沢城を攻め、江戸城を攻めたが、冬之助は事前に何も知らされなかった。軍配者が軍事行動に関して何も知らされないのだから、これほど屈辱的なことはない。
 軍配者には、ある意味、渡り鳥のようなところがある。己の才能を高く買ってくれる主を求めて、主家を替えるのである。むしろ、ひとつの家にずっと仕える軍配者が珍しく、一流の軍配者であれば、主家を三つか四つくらい替えているのが普通だ。それが軍配者にとっての勲章になるのである。有能だからこそいくつもの家に召し抱えられるわけで、無能な軍配者を召し抱えるような家はない。
 冬之助も曾我の生まれでなければ、とうに扇谷上杉氏を見限っていたであろう。冬之助ほどの軍配者であれば引く手数多(あまた)で、どこの家でも高禄で召し抱えようとするに違いない。
 しかし、それができる立場ではない。
 冬之助が他家に仕えるのは、扇谷上杉氏が滅亡したときだけであろう。それまでは、たとえ腹に据えかねることがあろうと、屈辱に耐えるしかない。
(まあ、みんなが命懸けで戦っているとき、のんきに酒を飲んでいればいいというのだから気楽なものさ)
 月を愛(め)でつつ、そう自分を慰めるしかない。

二十

 六月の初め、扇谷朝興が三千の兵を率いて河越城を出た、という知らせが小田原の氏綱に報じられた。
 朝興は河越から南下し、深大寺(じんだいじ)城に入ったという。
 深大寺城は、現在の調布(ちょうふ)市にあった城で、玉川を挟んで小沢城と対峙する位置にある。
 一月に小沢城を攻めたとき、朝興は深大寺城には入らず、いきなり小沢城に攻めかかった。不意を衝けば、さして堅固とは言えない小沢城など簡単に落とせると踏んだからである。
 しかし、失敗に終わり、方向を転じて江戸城を攻めたが、これもうまくいかず、さしたる成果を挙げることもできず河越城に引き返した。
 それを反省し、今度は腰を据えて小沢城を攻めるつもりで出陣してきた。だから、深大寺城に入ったのである。
 小沢城を攻め落とすことができれば、玉縄城と江戸城の連携に楔(くさび)を打ち込むことができるし、鎌倉を脅かすこともできる。政治的にも軍事的にも小沢城を奪う意味は大きい。
 もちろん、北条方も、それは承知している。
 だからこそ、何としてでも小沢城を守り抜く覚悟だし、その備えもしている。
 今や、玉川を挟んで向かい合う小沢城と深大寺城が両家の争いの最前線と言っていい。
 朝興の出陣を知った氏綱は直ちに陣触れを発し、出陣の支度を始めた。急なことなので、それほど多くの兵を集める暇がないが、今大切なのは兵の数より、少しでも早く小沢城に向かうことである。ある程度の兵が集まったら、すぐにでも小田原を出発するつもりだ。
 小沢城の城代は石巻(いしまき)家貞(いえさだ)で、宗瑞・氏綱の二代に仕えている重臣である。勇猛で戦もうまいが、今の小沢城には、わずか三百の兵しかいない。農作業が忙しい時期なので、兵を村々に帰郷させており、多くの兵を城に常駐させることができなかったのである。もちろん、朝興は、それを承知で攻めかかってくるのだ。
 氏綱は氏康と小太郎を呼び、
「その方たちも、わしと共に出陣せよ」
 と命じた。
 それを聞いて、氏康の顔が朱色に染まる。ついに初陣のときがきたのだ。興奮するなという方が無理であろう。
「心構えは、できておるか?」
「はい、もちろんでございます」
「小太郎、おまえは常に新九郎(しんくろう)のそばにおれ。戦とは、どういうものか教えてやってくれ」
「承知しました」
「孫九郎と太郎衛門も連れて行く」
「さぞや喜ぶと存じます」
 氏康がうなずく。綱成は早く戦に出たくて、うずうずしているのだ。初陣が決まったと知れば大喜びするに違いないし、いつも沈着冷静な盛信とて平静ではいられないであろう。
「戦に出るといっても、今回は、できるだけ、わしのそばにいてもらうつもりだから、敵と斬り合うようなことにはなるまいが、それでも戦というものを肌身で感じることはできよう。初陣は、それで十分であろうよ。功を焦って勇み足をしてはならぬぞ。おまえは一騎駆けの武者ではなく、いずれ総大将にならねばならぬ立場にいるのだからな。それを決して忘れるな。よいか?」
「そのお言葉、しかと胸に刻んでおきまする」
「うむ」
 部屋に戻ると、氏康は綱成と盛信を呼び、初陣が決まったことを告げた。
「おおっ!」
 綱成は興奮して拳(こぶし)で床をどんどんと叩き、やったぞ、やったぞ、と繰り返す。
 それに比べると、盛信は落ち着き払った様子で、
「では、支度を始めなければなりませぬな......」
 米や味噌はどれくらい持っていけばいいだろう、薬も用意しなければならぬし、替え馬は二頭くらい連れて行けばいいだろうか、とすると、下僕が二人では足りないかな......と具体的な出陣支度について、ぶつぶつつぶやきながら思案し、どうなのでしょう、青渓先生、と小太郎に意見を求める。
「最初は、あれもこれもと多くのものを持っていきたいと考えがちだが、実際に必要なものは、そう多くはない。荷物が多すぎると、かえって身動きが取れなくなってしまう。戦支度をするときは、できるだけ荷物を少なくするように心懸けることが肝心だな」
「そういうものですか」
「他国に遠征するのと違って、今回は小沢城に着くまで北条家の支配地を通るわけだから、何か足りないものに気が付けば、途中で手に入れることができる。米や味噌をたくさん持っていくより、銭を多く持っていく方がよいのではないかな」
「心得ておきます」
 盛信がうなずく。心持ち頬が赤く染まっているのは、やはり、いくらか興奮しているせいであろう。
「わたしたちには、どういう役割が与えられるのでしょうか?」
 綱成が氏康に訊く。
「今回は父上のそば近くにいて、戦がどういうものか肌で感じよと言われた。おまえたちも、わしのそばにいるのだ」
「では、若殿の旗本ということですね?」
「まあ、そう考えても間違いではないだろうが、たぶん、戦に出ることはないぞ。もちろん、敵が本陣に斬り込んでくれば話は別だろうがな」
 そうだよな、と氏康が小太郎に顔を向ける。
「敵は深大寺城に入り、こちらは小沢城に入ります。敵の数は三千ほどと聞きましたから、それくらいの数では決戦を挑むこともできないでしょうし、城攻めも難しいので、恐らく、しばらく睨(にら)み合いを続けた後、敵は兵を退(ひ)くのではないでしょうか」
 小太郎が答える。
「えっ、睨み合いだけで終わりですか。せっかくの初陣なのに、それでは肩透かしではありませんか」
 綱成は不満そうだ。
「何のための戦か、よく考えることだ。こちらとしては小沢城を守ることが何よりも大切なことであり、小沢城を守ることができれば、敵と干戈(かんか)を交える必要はないのだ。合戦をすることなく敵が退いてくれれば、兵を損じることもないし、無駄な出費も避けられる。そうしてくれれば、こちらとしてはありがたい。そう考えなければ駄目だ」
「すみません」
 小太郎に説諭されて、綱成がしょんぼり肩を落とす。
「そうがっかりするな。戦など、これからいくらでもある。おじいさまも父上も、それこそ何十回も合戦に出ている。敵は武蔵の扇谷上杉だけではない。下総にも上総(かずさ)にも上野にも甲斐にも敵がいる。当家は敵に囲まれていると言っていいほどだからな」
「そうだよ、若殿の言う通りだ。これから先、数え切れないほど戦に出なければならないのだから、今回は御屋形さまのおっしゃるように戦がどういうものか、間近で知るだけで十分だと思う。そうは言っても、戦では何が起こるかわからない。青渓先生、戦に臨むにあたって、何が最も大切なのでしょうか。教えていただけませんか?」
 盛信が訊く。
「それはな、死なぬことだ。命を惜しむことだ。たとえ負け戦であろうと、生きてさえいれば、またやり直すことができる。死んでしまったら、それで終わりだ。それ故、命を大切にしなければならぬ。妙な意地を張って命を危険にさらすのは愚かなことだと心得ておくがよい」
「はい」
 綱成と盛信が声を揃えて返事をする。

二十一

 小田原城で慌ただしく出陣の支度が進められているとき、とんでもないことが起こった。
 氏綱が高熱を発して寝込んでしまったのだ。ありきたりの発熱ではなく、立ち上がることもできず、まともに話すこともできないほどの重症だ。寒い時期でもないのに、がたがたと全身を震わせ、歯をカチカチと打ち鳴らす。
 ちょっとくらいの熱ならば無理をしてでも出陣したであろうが、自分の手で水を飲むことすらできず、厠(かわや)にも行けないほどだから出陣など不可能である。重臣たちが氏綱に指示を仰ごうにも、高熱に魘(うな)されて、わけのわからないことを口走るだけで、どうにもならない。仕方がないので、重臣たちが集まって、善後策を協議する。
「出陣を先延ばしするべきではなかろうか」
 松田顕秀(あきひで)が言う。
「何を言うか。悠長なことをしていては、敵に小沢城を落とされてしまうではないか。あそこには三百の兵しかいないのだぞ。長くは持たぬ」
 大道寺(だいどうじ)盛昌(もりまさ)が気色ばむ。
「玉縄城から五百くらいの兵を小沢城に向かわせ、玉縄城には小田原から兵を送ればよかろう」
「甘い」
 盛昌が首を振る。
「玉縄城にも、今は一千くらいの兵しかおらぬ。そこから五百も小沢城に送れば、今度は玉縄城が手薄になってしまう。敵も馬鹿ではない。すぐさま深大寺城を出て、玉縄城を包囲するであろうよ」
「だから、小田原から兵を送るのではないか。手薄になるといっても、一日か二日くらいのものだ。それくらいならば持ちこたえられよう」
「小田原から兵を送るというが、いったい、誰が指揮を執(と)るのだ? 難しい戦になるぞ。小沢城だけでなく、玉縄城の心配もしなければならないのだからな。しかも、すぐに小田原から送ることのできる兵は二千くらいのものだ。敵より少ない」
 重臣筆頭の立場にいる松田顕秀と大道寺盛昌の二人が唾を飛ばし合って激しく意見をぶつけ合うので、他の者たちは口を挟むことができない。二人の言うことは、それぞれに一理あり、どちらが正しく、どちらが間違っていると言えないせいもある。
 そのとき、
「わしが行く」
 それまで黙って二人の話を聞いていた氏康が口を開いた。
 重臣たちが、えっ、という驚き顔で氏康を見る。
 氏康が重臣たちの話し合いに加わるのは初めてなので、そこに氏康がいることを誰もが忘れていた。別に氏康を軽んじているわけではなく、わずか十六歳で、まだ初陣すら経験していない氏康に意見を求めても何も答えることができまい、氏康を困らせるだけだ、という気遣いがあった。
「父上の病は重そうだ。きっとよくなるとは思うが、二日や三日でよくなるとも思えぬ。父上が回復するまで出陣を先延ばしにすれば、小沢城は落ちてしまう。かといって、玉縄城の兵を小沢城に差し向ければ、盛昌の言うように、今度は玉縄城が敵に包囲されるやもしれぬ。どちらも大切な城だから、決して敵に渡すことはできぬ。それ故、父上が考えていた通り、明日、二千の兵を小沢城に向かわせるのが一番いいと思う。その兵をわしが率いていく。父上の名代としてわしが出向くだけのことで、それ以外のことは何も変える必要はない。明日出陣すれば、明後日には小沢城に入ることができよう。二千の兵が入れば、そう簡単に城は落ちまい。敵の攻撃に耐えていれば、父上の病もよくなろうし、それまでには、もっと多くの兵が集まってもいよう」
 氏康が淡々とした口調で言う。少しも気負った様子はない。
「しかしながら、気を悪くなさらないでほしいのですが、若殿には、まだ戦の経験がございませぬ。いきなり二千の兵を率いて敵地に向かうのは荷が重すぎるのではありませぬか?」
 盛昌が言いにくそうに口を開く。
「その通りだ。それ故、わしは父上の名代として出陣するが、戦のことは、その方に任せる。わしは余計な口出しをせぬ」
「え? わたしに指揮を?」
「百戦錬磨の盛昌ならば、敵をあしらって小沢城を守り抜くことは、さして難しくはあるまい。わしは、その采配を見て、戦について学びたいと思う」
「ああ、なるほど、それがよいわ」
 顕秀がぽんと膝を叩く。
 冷静に考えてみれば、今回は敵と決戦するために出陣するのではなく、あくまでも小沢城を守るために出陣するに過ぎない。氏康の言うように、氏康を名代として担ぎ、盛昌が実際の指揮を執るのであれば、小沢城を守るのは、それほど難しくはないはずである。今、何よりも大事なのは急ぐことだ。明日小田原を出立し、明後日小沢城に入る......それがぎりぎりで、わずか三百の兵しかいない小沢城が、それ以上、持ちこたえるのは無理であろう。
 顕秀に続いて、他の者たちも口々に、それがよい、それしかない、と賛同する。
 これで方針が決まった。
 明日の早暁、出陣である。

北条氏康

画・森美夏

Synopsisあらすじ

伊豆・相模を制し、梟雄と呼ばれた祖父・北条早雲がついに逝ったのは、伊豆千代丸(のちの北条氏康)が五歳の夏だった。家督を継いだ父・氏綱は小田原を本拠に、関東への版図拡大を画している。早雲は孫の治世を見越し、ある手を打っていた……。軍配者シリーズ、北条早雲シリーズに連なる〈北条サーガ〉最終章が、ついに始動!

Profile著者紹介

1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。

「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。

Newest issue最新話

Backnumberバックナンバー