北条氏康第五十二回

十六

 享禄(きょうろく)二年(一五二九)五月二十六日、駿河で隠居生活を送っていた保子(やすこ)が亡くなった。享年七十七。
 この時代としては、かなりの高齢である。
 保子は宗瑞の三つ上の姉で、氏綱にとっては伯母にあたる。
 保子の子、氏親(うじちか)は三年前に五十六歳で亡くなっており、氏親の嫡男・氏輝(うじてる)が後を継いでいる。
 宗瑞は風雲児と呼ばれ、一代にして大名にのし上がった英傑だが、姉の保子の生涯も波瀾万丈だった。
 宗瑞と保子が生まれたのは備中(びっちゅう)荏原郷(えばらごう)である。
 駿河や伊豆、相模とは遠く離れた西国だ。
 年頃になって、保子は駿河の国主・今川義忠(よしただ)の妻となり、宗瑞は京に上って幕府に仕えた。
 もし保子という姉がおらず、保子が今川家に嫁ぐことがなかったならば、恐らく宗瑞は幕府の役人として生涯を終えたであろう。
 龍王丸(たつおうまる)と名乗っていた氏親が六歳のとき、義忠が戦死した。氏親が幼かったため、家臣たちの多くが義忠の従弟・小鹿(おしか)範満(のりみつ)を当主に推した。たとえ幼かろうと嫡男が相続するべきだと主張する家臣たちもおり、今川家で家督を巡る争いが起こった。
 両者の争いは合戦にまで発展した。
 この争いに堀越(ほりごえ)公方や扇谷上杉氏が介入した。
 扇谷上杉氏の家宰・太田(おおた)道灌(どうかん)は兵を率いて駿河に入り、駿府郊外に布陣した。
 代々、今川家は幕府に忠実な家である。その今川氏を自分たちの味方にできれば、扇谷上杉氏の影響力は駿河にまで及ぶ。道灌は、次の主になる者に恩を売ろうとした。
 小鹿範満を支持する者たちは氏親の命を狙ったので、保子は氏親を連れて駿府を脱出し、小川郷に逃れた。絶体絶命だったと言っていい。
 このとき、宗瑞が駿河に乗り込み、道灌と直談判して、この内紛を決着させた。氏親が元服するまで小鹿範満を後見役として、事実上の国主にするという調停案を道灌に飲ませたのである。
 宗瑞は、わずか二十一歳だった。
 道灌の軍事力を怖れ、今川の家臣たちも、この調停案を受け入れた。
 数年は平穏なときが過ぎた。
 しかし、氏親が成長しても、小鹿範満は氏親に支配権を譲ろうとせず、それどころか、またもや氏親を亡き者にしようと企んだ。
 調停から十一年後、宗瑞は密かに駿河に下向し、少数の兵を率いて今川館を急襲し、小鹿範満を自害に追い込んだ。そのおかげで氏親は今川の家督を継ぐことができた。
 氏親の立場が不安定だったので、宗瑞はそのまま駿河に留まり、伊豆や相模との国境に近い興国寺(こうこくじ)城を預かることになった。
 その四年後、宗瑞は、いわゆる「伊豆討ち入り」を成功させ、堀越公方・足利(あしかが)茶々丸(ちゃちゃまる)を追い払って、伊豆の支配権を握った。そこから相模、武蔵へと勢力を伸ばしていくことになる。
 こうして見ると、宗瑞、保子、氏親という三人には切っても切れぬ強い絆が存在することがわかる。
 宗瑞がいなければ、保子と氏親は殺されていただろうし、保子がいなければ、宗瑞が駿河の内紛にかかわることもなかったであろうし、氏親がいなければ、宗瑞が城持ちになることもなかったであろうし、それすなわち、今の北条氏が存在しないということである。この三人の運命は密接に絡まり合っており、姉と弟、母と子、叔父と甥は強い信頼と愛情で結びついていた。
 宗瑞が生きている頃、伊勢氏と今川氏は兄弟国のように助け合った。対等ではなく、常に宗瑞が一歩下がって、へりくだる関係だった。
 宗瑞は氏親を「御屋形さま」と呼び、氏親は宗瑞を「叔父御」と呼んで尊敬し合っていた。
 だから、この両国には何の問題も発生しなかった。
 宗瑞が亡くなっても、この関係を維持できたのは、宗瑞が氏綱に、
「御屋形さまを敬え」
 と言い残したからである。
 そもそも氏綱の「氏」という字は氏親から偏諱(へんき)を賜(たまわ)ったものである。氏綱も宗瑞に倣(なら)って氏親に対しては常にへりくだった態度を取って、「御屋形さま」と呼んだ。
 しかし、氏親が亡くなると、両国の関係が微妙に変わってきた。
 氏親の後を継いだ氏輝を、もはや氏綱は「御屋形さま」とは呼ばなかった。氏輝を侮(あなど)ったわけではなく、伊豆と相模を支配下に置き、武蔵にまで進出する大国になった今、もはや今川家とは対等であるという意識が氏綱にも家臣たちにも芽生えていたからである。
 それでも氏綱と氏輝の関係は良好だったし、ふたつの国の間には目立った懸案はない。依然として友好国同士には違いないが、兄弟国とまでは言えない。ごく普通の国と国の関係になったのである。
 それを決定づけたのが保子の死である。長く続いたふたつの国の友好関係が終わりに向かっていく象徴的な出来事だった。
 実際、この数年後には両国の関係が極度に悪化し、ついには氏綱が駿河に侵攻するという事態にまで発展する。

十七

 四年前の白子原の敗戦以来、北条氏は劣勢が続き、扇谷上杉氏と、それを支援する諸大名の圧力に耐えつつ、じっと力を蓄えてきたが、ようやく反攻に転じた。
 氏綱は風向きが変わり、向かい風が追い風になってきたことを敏感に察知したのである。
 ひとつには、扇谷上杉氏の強力な後ろ盾である山内上杉氏で内紛が起こったことである。
 白子原の合戦の数ヶ月前に山内憲房が本拠の上野平井(ひらい)城で病死した。その後を継いだのは、古河公方・足利高基の次男で、憲房の養子となっていた憲寛である。憲房には実子・五郎丸がいたが、まだ三歳の幼児だったので、いずれ五郎丸が成長すれば、五郎丸に家督を譲るという約束で憲寛が当主の座についたのである。
 しかし、憲寛には独善的な振る舞いが多く、信賞必罰(しんしょうひつばつ)も公平でなく、好みの家臣を贔屓(ひいき)するようなことばかりしたので家中には不穏な空気が渦巻いた。
 更に古河公方家から連れてきた者ばかりを重んじ、古くから山内上杉氏に仕えてきた家臣たちを冷遇したので、ついに家臣たちの怒りが爆発し、憲寛を排除して、五郎丸を当主にしようとした。
 この争いは深刻で、両者はしばしば合戦まで起こした。軍事的には五郎丸を推す側が優勢で、このため憲寛は父の高基に支援を要請した。
 これが今度は古河公方家の内紛に火をつけた。
 高基の嫡男を晴氏(はるうじ)といい、元々、二人は不仲だった。何か大きな原因があって不仲になったのではなく、性格的にソリが合わなかったらしい。
 高基は凡庸な男である。お坊ちゃん育ちで、性格は温和、争いごとを好まない。政治や軍事に興味がなく、面倒な政(まつりごと)などは側近に丸投げして、お気に入りの女たちをそば近くに侍(はべ)らせて詩歌管弦の遊びにばかり耽(ふけ)っている。
 二十二歳の晴氏はまったく正反対の性格だ。英雄肌の男で、政治に容喙(ようかい)して高基のやり方を批判し、時には自ら兵を率いて出陣することもある。権謀術数を好み、己の勢力拡大に熱心で、かつての面影もなく衰えている古河公方家の現状に憤怒し、何とか再興して関東に号令したいと意気込んでいる。
 そんな晴氏の目から見ると、高基のやり方が歯がゆくて仕方がない。
 深酒と荒淫(こういん)が祟(たた)ったのか、高基は四十を過ぎてから体調を崩して寝込むことが多くなっている。そんな高基を見て、
「父上、あとのことはわたしに任せて隠居なさいませ。隠居して気楽に遊び暮らせばよいのです」
 と、折に触れて、自分に家督を譲ってほしい、と懇願した。
 そうは言っても、高基はまだ四十五歳で隠居を考える年齢ではない。政治や軍事に関心はないが、古河公方という地位にあるからこそ好き勝手に遊び暮らすことができることもわかっている。わずかな隠居料をもらうのでは、そう気儘(きまま)な暮らしもできないのである。
 執拗に隠居を迫る晴氏に高基は腹を立て、ついには晴氏の廃嫡を考えるようになった。息子は他にもいるのである。自分の言いなりになるおとなしい息子を後継ぎにする方が、後々、自分にとってもいいのではないか、と思案した。
 この動きを晴氏が知ったことで、両者の対立は決定的になった。
 そんなときに憲寛が高基に支援要請してきた。
 高基としては、当然、憲寛を支えようとする。
 晴氏は反対した。政治的な判断ではなく、自分の得にならないと考えたからだ。
 つまり、強大な力を持つ山内上杉氏の当主と高基の絆が深まり、互いに助け合うことになれば、高基の力が強くなりすぎてしまい、もはや晴氏が高基に逆らうことなどできなくなってしまうということである。高基から古河公方の座を奪い取るには、憲寛ではなく、五郎丸が山内上杉氏の主になってくれる方が得だと考えた。それは結果的に高基の力を削(そ)ぐことになるからである。憲寛は弟だが、弟のことよりわが身がかわいいのだ。
 晴氏は五郎丸を支持する姿勢を明らかにした。
 激怒した高基が晴氏を討伐しようと図ったことから、古河公方家も高基派と晴氏派に分裂し、両者の対立は合戦沙汰にまで発展した。
 山内上杉氏と古河公方家における家督を巡る争いは関東全域に波及した。これを「関東享禄の内乱」と呼ぶ。それほど大がかりな争いだったのである。
 どちらの家も扇谷朝興にとっては大切な同盟者である。その両家で深刻な内紛が起こったため、どちらも朝興に力を貸す余裕がなくなった。せっかく北条氏を追い詰める包囲網を築いたのに、その包囲網に綻(ほころ)びが生じてしまったのである。
 漁夫の利を得たのは氏綱だ。
 甲斐の武田氏は信濃や駿河に盛んに兵を出しており、今は関東に目を向ける余裕がない。房総の真里谷武田氏や里見氏も、それぞれ身近に敵を抱えており、そう気軽に関東に兵を出せる状態ではない。
 そこに山内上杉氏と古河公方家で内紛が起こったのだから、氏綱とすれば、今は扇谷上杉氏だけを相手にすればいいということになる。白子原の敗戦以来、これほど有利な状況はなかった。
 氏綱は直ちに兵を動かし、三年前に朝興に奪われた小沢城を攻めた。
 元々、北条氏の城だったので、その弱点はよくわかっている。周囲が平坦で、山を背にしているわけでもなく、川沿いにあるわけでもないので、攻めやすく守りにくい城なのだ。
 氏綱は小田原を出た翌日には、小沢城を一万の大軍で包囲した。朝興の救援が間に合わないように迅速に動いたのである。城兵に戦意がなく、降伏の使者を送ってきた。わずか二日で小沢城は落ちた。
 朝興と直に戦ったわけではなかったが、ようやく白子原の雪辱を果たしたことになる。
 これに気をよくした氏綱は、小田原に帰還すると伊豆千代丸の元服の儀を行うことにした。
 伊豆千代丸も十五歳で、とうに元服してもおかしくなかったのだが、敵の重圧を受けて苦しんでいるようなときに、一生に一度のめでたい儀式をするのは避けたいというのが氏綱の意向で、
(せっかくならば、皆の気持ちが盛り上がったときにやりたい)
 と考えていた。
 小沢城を奪い返すという明るい材料が出たことで、氏綱も伊豆千代丸の元服の儀を行う気になったのである。
 十二月、伊豆千代丸は元服し、北条氏康(うじやす)となる。
 通称は新九郎(しんくろう)。
 新九郎という名前は、元々は宗瑞が名乗っていたが、宗瑞から氏綱へ、氏綱から氏康へと、北条氏の嫡男の通称として引き継がれることになる。
 氏綱は、朝廷から官位を賜っていたので、以後、新九郎ではなく、左京大夫殿と呼ばれることになる。

北条氏康

画・森美夏

Synopsisあらすじ

伊豆・相模を制し、梟雄と呼ばれた祖父・北条早雲がついに逝ったのは、伊豆千代丸(のちの北条氏康)が五歳の夏だった。家督を継いだ父・氏綱は小田原を本拠に、関東への版図拡大を画している。早雲は孫の治世を見越し、ある手を打っていた……。軍配者シリーズ、北条早雲シリーズに連なる〈北条サーガ〉最終章が、ついに始動!

Profile著者紹介

1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。

「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。

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