北条氏康第五十一回

十五

「若君」
 廊下から勝千代と平四郎が声をかける。
「入れ」
 部屋の中から伊豆千代丸の声がする。
 二人が部屋に入ると、伊豆千代丸が畳の上で仰向けにひっくり返っている。
「そんなにお加減が悪いのですか?」
 勝千代が訊く。
 今日の宗真の講義を伊豆千代丸は休んだ。体調が優れない、という理由であった。
 その後の剣術稽古も休んだ。
 心配になった二人は、稽古が終わってから見舞いにやって来たのである。
「ダメなのだ......。何もやる気がしない」
 伊豆千代丸が溜息をつく。
「わかります。無理もありませぬ」
 平四郎の目にみるみる涙が溢れる。
 ひと月ほど前、伊豆千代丸の母が長患いの末に亡くなった。
 病がうつってはならぬという理由で、氏綱は伊豆千代丸が病室に立ち入ることを禁じた。それ故、母を直(じか)に見舞うことはできず、襖越しに話をすることしかできなかった。それでも伊豆千代丸は何かあると、すぐに母に知らせに行った。
 なかなか母に会うことができない淋しさに耐えられないとき、
(母上は病と闘っておられる。わしなどより、ずっと辛いに違いないのだ)
 と自分に言い聞かせ、誰にも悲しみを見せないように心懸けた。どうにも我慢できないときには、布団に潜り込み、声を押し殺して泣いた。
 そんな辛さに耐えることができたのも、いつか母の病が回復し、いつでも好きなときに会えるようになるのだ、と期待していたからである。
 が......。
 その期待はかなわなかった。
 しかも、死に目にすら会えなかった。
 それは氏綱が禁じたのではなく、母の遺言だった。骸骨(がいこつ)のように痩(や)せ衰えたみじめな姿を伊豆千代丸に見てほしくない、まだ元気だった頃の姿だけを覚えておいてほしい......お福が涙ながらに伊豆千代丸に伝えた。
 お福は、伊豆千代丸が納得せず、母上に会いたいと泣き喚(わめ)いて暴れるかもしれないと危惧した。
 しかし、そんなことはなかった。
 伊豆千代丸は母の願いを聞かされると、
「そうか。わかった。母上がそうせよとおっしゃるのなら、わたしは従う。最後の親孝行だからな」
 と素直にうなずいた。
(若君も立派になられた)
 と、お福は感心したが、実際には、そうではなかった。
 伊豆千代丸は、一人でこっそり城を抜け出すと、郊外の森をうろつき回り、疲れ果てて地面に坐り込むと、声を放って泣いた。人の体から、いったい、どれほど多くの涙が溢れ出るのか、と自分で驚くほど泣き続けた。ついに涙が涸(か)れ果てると、泉で顔を洗い、城に戻った。
 それ以来、何もする気がなくなった。学問していても、剣術稽古をしていても、どこか上の空というところがあり、ふと気が付くと溜息をついている。
 そんな伊豆千代丸を、勝千代も平四郎も、宗真も小太郎も、周囲にいる者たちは誰もが心配した。安易な慰めの言葉をかけることをためらうほど、伊豆千代丸の悲しみは深く、その悲しみが癒(い)えるには時間がかかることがわかるだけに、そっと見守ることしかできなかった。
 そんな状態が一年ほど続いた。
 母は亡くなる前に剃髪(ていはつ)して出家し、養珠院(ようじゅいん)さまと呼ばれた。
 養珠院の一周忌法要が済んだ後、氏綱は伊豆千代丸を呼んだ。
「実は、京より後添いをもらうことになった」
「そうですか。それは、ようございました」
 養珠院の後添いということは側室ではなく、正室を迎えるという意味である。
 氏綱がわざわざ伊豆千代丸を呼んで話したのは、この一年、伊豆千代丸がどれほど母の死に衝撃を受けていたか、よくわかっていたからである。
 元々、精神的にも肉体的にも強い子ではない。
 家臣たちが、
「若君が後を継いでも、当家は安泰であろうか」
 と心配するほど、ひ弱だったのである。
 氏綱にも、それがわかっているから、これ以上の衝撃を与えたくないという気持ちで話したのである。
 だが、案外、平静を保っているので、かえって氏綱の方が驚いた。
 伊豆千代丸が平静だったのは、
(いずれ、そういうことになるだろう)
 と予想していたからだし、伊豆千代丸だけでなく、家臣たちも、そう噂していた。
 京から正室を迎えるとなれば、当然、政略結婚である。お互いに相手の顔も知らずに結婚するのだ。個人の好き嫌いで結婚するわけではなく、家と家の結びつきを深めるための結婚なのである。
 そうしなければならない事情が理解できるくらいには、伊豆千代丸も大人になっている。
 つまり、それほど北条家が追い込まれている、ということなのだ。白子原で敗れ、里見勢に鶴岡八幡宮を焼かれてからというもの、北条から離反する豪族が相次いでいる。軍事的にも両上杉氏の攻勢を受け、守勢一方である。
 政治的にも軍事的にも揺らいでいる立場を強固なものにするために、氏綱は室町幕府の権威と政治力に頼ろうとしている。
 氏綱が正室に迎えるのは前関白・近衛(このえ)尚通(ひさみち)の娘である。
 尚通は関白を二度務め、太政大臣(だいじょうだいじん)に昇ったほどの大物だ。氏綱と結婚するのは正室の子ではないが、尚通の嫡男で、第十六代の近衛家の当主である稙家(たねいえ)の異母姉にあたる。
 稙家は二十六歳だから、その姉となれば、すでに三十近い大年増である。この時代の感覚からすれば、すでに中年で、子供を産むことは期待されていない。そういう観点からしても露骨な政略結婚と言える。
 近衛家当主の姉というだけでも重みがあるが、すぐ下の妹は第十二代将軍・足利義晴(よしはる)の妻である。この妹とは母親が同じだから仲もいい。
 つまり、この結婚によって、北条家は近衛家だけでなく、将軍家とも縁続きになることができる。
 この結婚を成立させるために、氏綱は莫大な費用を注ぎ込んだ。要所要所に賄賂(わいろ)をばらまき、様々な裏工作をして、ようやく尚通の承諾を得た。
 そういう政治的な根回しをしてまで、この結婚にこだわったのは、幕府の権威にすがらなければならないほど、この時期の北条氏が追い詰められていたということである。
 その北条家を率いる氏綱の苦労がわかるから、伊豆千代丸も、わがままなど口にせず、素直に祝意を述べたのだ。
 ここ数年、氏綱の苦労する姿を間近で見ることで、
(大名家を率いるというのは、こんなにも大変なのだな)
 と、伊豆千代丸はしみじみと思い知らされている。
 いずれ自分が氏綱の後を継いで、北条家を率いることになる。その日のために氏綱から少しでも多くのことを学ばなければならぬ、と己に言い聞かせている。
 この結婚の効果は、すぐに現れた。
 氏綱は従五位下に叙せられ、左京大夫(さきょうだゆう)に任じられたのである。
 これには、三つの大きな意味がある。
 ひとつには、北条氏が成り上がりなどではなく、幕府から正式に認められた大名であるというお墨付きを得たことである。
 ふたつには、北条氏の家格が今川(いまがわ)氏、武田氏、両上杉氏と同等になったことである。
 そして、三つ目は、左京大夫という官職の意味である。実は、この左京大夫は、鎌倉幕府の執権を務めた北条氏の主が代々任じられた官職なのだ。
 伊勢から北条に改姓したとき、古くから関東に土着する豪族たちは、
「由緒ある家名を簒奪(さんだつ)するか」
 と憤慨し、特に激怒したのが両上杉氏である。
 両上杉氏は、この改姓を認めず、公文書では常に「伊勢」という名称を使い続けた。
 亡くなった氏綱の妻、伊豆千代丸の母は執権を務めた北条氏の末裔(まつえい)である横井氏の出身だから、少なくとも伊豆千代丸には北条を名乗る資格があるのだが、そんな理屈を両上杉氏は決して認めようとしなかった。
 しかし、氏綱が左京大夫に任じられると、さすがに両上杉氏も沈黙せざるを得なくなった。
 幕府が、
「北条を名乗ってもよい。鎌倉以来の北条氏を継承しても構わぬ」
 という許しを与えたようなものだからである。
 そういう思惑がなければ、わざわざ左京大夫に任じるはずがなかった。官職など他にいくらでもあるのだ。このあたりに近衛家や将軍家と縁続きになった効果がはっきり現れている。
 両上杉氏が沈黙したのは、氏綱を罵倒すれば、それは氏綱を北条氏の正当な後継者であり、幕府支配下の大名として認めた幕府を批判することになるからであった。
 この時期、幕府は政治的にも軍事的にも、ほとんど力を持っていない。ただ権威だけがある。その権威は、特に伝統のある名家に対して効き目がある。両上杉氏も、元々は幕府のおかげで関東に根を張ることができた家である。幕府の権威を否定するのは自分たちの立ち位置を否定するようなものだから、たとえ不愉快であっても幕府の権威を重んじる必要がある。
 白子原の敗戦以来、北条氏は劣勢が続いていたが、婚姻政策がうまくいったことで、政治的には、ようやく両上杉氏に一矢報いることができた。
 だが依然として軍事的には劣勢である。
 氏綱は虎視眈々(こしたんたん)と反撃の機会を窺(うかが)っている。

北条氏康

画・森美夏

Synopsisあらすじ

伊豆・相模を制し、梟雄と呼ばれた祖父・北条早雲がついに逝ったのは、伊豆千代丸(のちの北条氏康)が五歳の夏だった。家督を継いだ父・氏綱は小田原を本拠に、関東への版図拡大を画している。早雲は孫の治世を見越し、ある手を打っていた……。軍配者シリーズ、北条早雲シリーズに連なる〈北条サーガ〉最終章が、ついに始動!

Profile著者紹介

1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。

「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。

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