北条氏康第五十回

十四

 白子原における敗戦によって、それまで膨張を続けていた北条氏の勢力拡大に歯止めがかかった。大量の戦死者を出したこともそうだが、何より、氏綱が重傷を負ってしまい、長きにわたって前線から身を引かざるを得なくなったことが大きかった。
 氏綱は小田原城で療養に努めた。いくらか具合がよくなると箱根に湯治に出かけた。
 軍勢を率いて出陣するなどということは不可能で、実際、氏綱が再び戦場に姿を見せるのは白子原の一年後のことになる。
 その間、扇谷上杉氏は着々と勢力回復に努め、北条方の城や砦(とりで)を攻めた。
 勝ち馬に乗らねば損だ、という思惑から、上総(かずさ)の真里谷(まりやつ)武田(たけだ)氏が武蔵に、甲斐の武田信虎(のぶとら)が相模(さがみ)に攻め込んできたりした。朝興(ともおき)を支援するという大義名分を振りかざしての出兵だが、実際には、北条氏が弱っている隙に少しでも領地をかすめ取ってやろうという思惑である。何とか撃退したものの、北条氏は守勢一方という有様だった。
 大永六年(一五二六)六月には朝興に蕨城(わらびじょう)を落とされた。
 江戸城を奪い返して武蔵南部の支配権を取り戻そうとするだけでなく、一気に相模に攻め込もうという意図を示したのが、九月の小沢(おざわ)城攻略である。
 北条氏は鎌倉の北に玉縄(たまなわ)城を置き、鎌倉を守ると同時に、武蔵方面からの敵の侵攻を食い止める役割を担わせている。
 小沢城は現在の川崎市にあり、玉縄城の北に位置している。江戸城を攻めるのを後回しにして小沢城を落としたのは、朝興が玉縄城攻めを考えている証であった。
 玉縄城を落とすことができれば、鎌倉が手に入る。朝興は関東の盟主という立場を手に入れることができるのだ。その政治的な意味は大きい。
 軍事的には、玉縄城を落とせば、そこから小田原まで、北条方の強固な城は存在しないから、相模の東半分を奪うことができる。
 しかも、東相模を奪えば、江戸城は孤立する。
 小田原との連絡を絶たれ、何の支援も期待できないとなれば、江戸城は立ち枯れるしかない。遠巻きに包囲すれば、いずれ降伏することになる。江戸城が落ちれば、南武蔵が手に入る。
 白子原における敗戦によって、氏綱が払わなければならない代償は、あまりにも大きすぎると言えるであろう。宗瑞の代から何十年もかけて築き上げてきたものを、すべて失うかもしれないという瀬戸際に追い込まれてしまったのだ。
 当然ながら、氏綱も手をこまねいていたわけではない。玉縄城を支援するため、大道寺盛昌、伊奈十兵衛らに大軍を預けて出発させた。
 白子原の戦いが起こるまで、扇谷上杉氏は孤立無援の状態だった。独力で北条氏と対決しなければならなかったのである。
 だが、白子原における勝利で風向きが変わった。
 真里谷武田氏や甲斐の武田氏だけでなく、山内(やまのうち)上杉氏や安房(あわ)の里見(さとみ)氏らも秋波を送ってきた。勢力拡大を続ける北条氏を苦々しく思いながらも、その強大な力に立ち向かう覚悟がなかった者たちが、北条氏の敗北を知り、ここぞとばかりに群がり出てきたわけである。
 山内上杉氏の家督は、去年の三月、憲房(のりふさ)が亡くなった後に、古河公方(こがくぼう)・高基(たかもと)の次男である憲寛(のりひろ)が継いだ。憲房の実子・五郎丸(ごろうまる)がまだ三歳の幼児だったため、養子の憲寛が後継者になったのである。
 ごく当たり前の流れではあったものの、それでも五郎丸を当主に推(お)す者たちとの間で内紛があり、それを鎮めるのに時間がかかった。朝興の度重なる支援要請に応えることができなかったのは、そういう事情があったからだ。
 それから一年半が過ぎ、ようやく憲寛の立場も固まって、外に目を向ける余裕が出てきた。
 当主の座に納まったものの、憲寛には何の実績もない。何か目立つ働きをして、皆を驚かせてやりたいという気持ちもある。
 そんなところに、
「共に北条を攻めましょうぞ」
 と、朝興から誘いが来た。
 白子原の勝利以来、朝興が快進撃を続けていることは憲寛も承知していたし、北条の動きが鈍いこともわかっている。
(悪くない話だ)
 ふたつ返事で引き受けた。
 九月、両上杉軍は小沢城を攻めた。氏綱が玉縄城に兵力を集中し、小沢城が手薄だったこともあり、わずか数日で小沢城は落ちた。
(何と呆気ない。戦とは、これほど簡単なものか)
 経験がないだけに、憲寛は単純に喜んだ。
 この勝利に気をよくし、
「玉縄城も攻めましょう」
 と、朝興に誘われると、
「それは大いに結構ですな」
 機嫌よくうなずいた。
 こうして十一月になると、玉縄城攻防戦が展開された。両上杉軍も満を持して攻撃を始めたし、迎え撃つ北条軍も入念に支度を調(ととの)えている。一進一退の攻防が繰り広げられた。
 この頃になると、朝興の政略に凄味が出てきている。
 もちろん、曾我(そが)兵庫(ひょうご)や冬之助の助言があってこそだが、白子原以来の勝利が政治家としても武将としても朝興の器を一回り大きくしたのは確かであった。
 玉縄城を落とすのが容易でないことは朝興も承知しており、だからこそ、両上杉の大軍がここで足止めされるのは面白くないと考えた。
「北条を慌てさせてやりましょうぞ」
「何をするのですか?」
「ふむ......」
 朝興は若い憲寛を教え諭(さと)すように、北条が必死に玉縄城を守ろうとするのは、この城を失えば、鎌倉を失うことになり、それは東相模を失うことに繋がるからだ、と説明する。
「それは、わかります」
 憲寛がうなずく。
「北条軍は玉縄城に立て籠もっている。城から出て野戦になれば勝ち目がないとわかっているからです。それすなわち、鎌倉の守りが手薄になっているということではありませんか」
「では、囲みを解いて鎌倉を攻めるのですか?」
「いやいや、それはよろしくない。背後を衝かれて不覚を取らぬとも限りませぬからのう。こちらが有利なのに、わざわざ何も危ない橋を渡ることはないでしょう」
「では......?」
「手は打ってあるのです」
 朝興がにやりと笑う。
 そう、この時期の朝興は深謀鬼謀(しんぼうきぼう)が心の奥底から無限に湧き出るが如くであったと言っていい。
 朝興の放った一手は、安房の里見氏を使嗾(しそう)することであった。
 宗瑞が三浦氏を滅ぼして三浦半島を支配下に収めたのは、かれこれ十年ほど前のことになる。その後、宗瑞は兵を率いて何度か渡海し、茂原(もばら)近辺にまで侵攻した。これは房総半島に割拠(かっきょ)する豪族たちに深刻な衝撃を与えた。伊豆から相模へと東に向かって支配地を広げる北条氏は、いずれ武蔵を征すれば、その次は房総方面に攻めて来るに違いないと考えたのである。
 しかし、武蔵には扇谷上杉氏という難敵がいるし、その背後には上野(こうずけ)を本拠とする強大な山内上杉氏も控えている。
 北条氏が武蔵制圧に手こずれば、矛先を房総半島に転じるかもしれなかった。そういう考えがあるから、宗瑞が茂原まで攻め込んだのではないか、と疑ったのである。
 その当時、房総半島には突出した大名は存在せず、千葉氏、真里谷武田氏、里見氏などが小競り合いを繰り返していた。いずれも両上杉氏とは比べようもないほど規模の小さな大名に過ぎない。その両上杉氏ですら北条氏に圧迫され、扇谷上杉氏など滅亡の瀬戸際まで追い込まれたのだ。
 それほど強大な北条氏が房総半島に進出してくれば、自分たちなどひとたまりもなく平らげられてしまうに違いない......そんな怖(おそ)れを房総の豪族たちは抱いていた。長い歴史のある土着の大名たちからすれば、新興勢力である北条氏が何を考えて膨張政策を取り続けているのかわからないという不安を感じるのである。
 その点、自分たちと同じ旧勢力である扇谷上杉氏ならば、たとえ勢力拡大したとしても、どう対応すればいいか、付き合いが長いだけによくわかっている。
 だからこそ、北条の力が弱まったと知るや否や、彼らは扇谷上杉氏への合力を表明したのである。
 玉縄城を攻める前に、朝興は里見氏に使者を送り、北条軍を玉縄城に足止めしている間に鎌倉を攻めよ、と指図した。
 氏綱が知れば、卒倒しかねないほどの恐るべき策と言っていい。
 たとえ鎌倉を落としたとしても、朝興にとって戦術的・軍事的な意味合いはほとんどない。
 元々が無防備な都市であり、四方に開けているため、攻めやすく守りにくい都市の典型であり、大軍が攻めればひとたまりもないのである。
 氏綱にとって、東相模防衛の要は、あくまでも玉縄城であり、鎌倉ではない。
 しかし、政治的な意味合いは言葉で表しようがないほど大きい。
 初代の征夷大将軍・源頼朝以来、鎌倉には幕府が置かれてきた。関東武士にとっては鎌倉こそが政治の中心なのだ。古来、鎌倉を支配する者が関東武士の主であるという漠然とした思いがある。
 三浦氏を追って鎌倉を手に入れた宗瑞が子供のようにはしゃいで大喜びしたのは、そういう関東武士の心の機微を知っていたからである。
 軍事的に考えれば、里見軍を三浦半島の南端・三崎口(みさきぐち)あたりに上陸させ、北条の守備軍を打ち払いながら北上させる方が堅実で、地に足のついたやり方であろう。
 しかし、朝興は鎌倉を攻め落とすことによって得られる宣伝効果を重視した。
 それでなくても白子原の敗戦以来、北条氏の実力を疑う声が関東に広まっている。
 ここで鎌倉まで失うことになれば、
「北条など、所詮、成り上がりに過ぎぬ。大した力もない」
 と見切りを付ける豪族が続出するであろうし、それは、
「やはり、関東の盟主は上杉であろうよ」
 という見方に繋がる。
 里見軍を稲村ヶ崎(いなむらがさき)あたりに上陸させ、一気に鎌倉を攻めさせる、という策を聞かされたとき、
(そんなことをして何になるのか?)
 と、冬之助は首を傾(かし)げた。
 このあたり、やはり、軍配者というのは政治家ではない。戦略ではなく、戦術中心の思考をするから、里見軍を稲村ヶ崎に上陸させるのであれば、鎌倉など素通りさせ、玉縄城の包囲に加わらせるべきだと考えた。
「鎌倉を奪うというのは、城をひとつやふたつ落とすのとはわけが違うのだ」
 なぜ、鎌倉を落とすのか、そのことにどんな意味があるのか、という説明を聞かされて、
「おおっ」
 と、冬之助は嘆声し、思わず膝を叩いた。
「よきお考えにございまするなあ」
「氏綱の面(つら)に泥を塗ってやるのだ」
 ふふふっ、と朝興は腹を揺すって愉快そうに笑う。

 数百艘の船に分乗した里見軍が稲村ヶ崎に上陸し、鎌倉を攻めたのは十一月十二日である。
 里見軍が安房館山(たてやま)から出航したという知らせは氏綱のもとに届いていたから、氏綱は中相模の豪族たちを中心とする軍勢を鎌倉防衛のために差し向けていた。一千ほどだが、里見軍も七百くらいのものだから兵力に不足はない。
 鎌倉の北では玉縄城の攻防戦が続いており、北条軍も両上杉軍も鎌倉方面に兵を出す余裕はない。
 里見軍は意気盛んだったが、北条軍には数で劣っている。思うように鎌倉に攻め込むことができず、郊外で一進一退の攻防が続いた。
 これに苛立(いらだ)ったのが里見(さとみ)軍を率いる里見義豊(よしとよ)で、まだ二十歳にもならぬ若者であった。このまま退却したのでは、何のために遠征してきたのかわからないし、己の立場が危うくなるかもしれぬという不安も感じた。
 義豊は里見家の正当な後継者だが、だからといって立場が盤石(ばんじゃく)というわけではなく、常に叔父の実堯(さねたか)に立場を脅かされている。
「攻め落とすことができぬのであれば焼いてしまえばいい」
 義豊は北条軍の目をかすめて数十の兵を鎌倉に侵入させ、火をつけて回るように命じた。
 数が少なかったこともあり、鎌倉という町そのものは無事だったが、ひとつ、重要なものが燃えた。
 鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)である。
 長い歴史を持ち、関東武士の心の拠り所とも言われる神社が兵火で焼け落ちたのである。
 この衝撃があまりにも大きかったので、この日の戦いを鶴岡八幡宮の戦いとも大永(だいえい)鎌倉合戦とも呼ばれる。
 戦いそのものは北条軍の勝ちで、撃退された里見軍は這々(ほうほう)の体(てい)で船で逃げ去った。
 しかし、氏綱は大きなものを失った。鶴岡八幡宮を焼かせてしまったことは、大袈裟に言えば、関東武士の魂を蹂躙(じゅうりん)させたのと同じことであった。どのような罵詈雑言(ばりぞうごん)を浴びせられても、氏綱は甘んじて受けるしかなかった。
 玉縄城は両上杉軍の猛攻を何とかしのぎきったが、氏綱は少しも喜ぶ様子がなかった。
 この後、氏綱は鶴岡八幡宮を失ったことに苦しめられ続け、鶴岡八幡宮を再建することが氏綱の悲願となる。十年以上の長い時間をかけて、この大事業に取り組むこととなり、それがようやく終わったとき、氏綱の生涯も幕を閉じることになる。

北条氏康

画・森美夏

Synopsisあらすじ

伊豆・相模を制し、梟雄と呼ばれた祖父・北条早雲がついに逝ったのは、伊豆千代丸(のちの北条氏康)が五歳の夏だった。家督を継いだ父・氏綱は小田原を本拠に、関東への版図拡大を画している。早雲は孫の治世を見越し、ある手を打っていた……。軍配者シリーズ、北条早雲シリーズに連なる〈北条サーガ〉最終章が、ついに始動!

Profile著者紹介

1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。

「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。

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