北条氏康第四十回

 年が明けて、大永(だいえい)五年(一五二五)正月。
 小田原城で小太郎(こたろう)の元服の儀が行われた。烏帽子(えぼし)親は氏綱(うじつな)が務めた。
 武家の男子が元服すると、前髪を落として月代(さかやき)を剃(そ)る。子供の姿から大人の姿に変わるのである。
 そして、名前も変える。
 例えば、小太郎にとって最大の恩人であり、生涯の師と言っていい伊勢宗瑞(そうずい)の場合、幼い頃は鶴千代丸と呼ばれていた。これが幼名である。
 元服して、通名を新九郎(しんくろう)と改め、諱(いみな)を盛時(もりとき)とした。
 後、出家してからは宗瑞と号し、早雲庵(そううんあん)とも称した。
 小太郎は、やや変則的である。
 元服前に足利(あしかが)学校に入学し、足利学校では僧形(そうぎょう)で学ぶのが決まりだったので、得度(とくど)はしなかったものの、青渓(せいけい)という僧名を名乗った。
 金石斎(きんこくさい)もそうだが、軍配者は成人してからも僧形でいる者が多い。小太郎自身、足利学校から小田原に戻ってからも、頭は総髪のまま後ろで束ねているだけだし、墨染めの衣を常服にしている。その姿を見れば、誰も小太郎を武士だとは思わないであろう。
 そういう事情があって、小太郎は元服しても特に幼名から通名に改めなかった。ある意味、青渓という僧名が通名のようになっていたからだ。
 むしろ、小太郎にとっては、この元服によって、正式に「風摩(ふうま)」という由緒ある家の主になったことが感慨深かった。城下に屋敷を賜り、家禄を与えられ、使用人まで使う身分になったのである。ようやく奈々を引き取って一緒に暮らすことができるようにもなった。
(ここまで出世するとは......)
 宗瑞と出会ったとき、小太郎はただの小太郎に過ぎなかった。風間(かざま)小太郎というのは、風間村出身の小太郎というほどの意味に過ぎず、姓を持っていたわけではない。父の五平(ごへい)を亡くしてからは貧窮に喘(あえ)ぐ生活を送った。自分の田畑を持っていなかったから、百姓ですらなかった。野良仕事の手伝いをすることで、かろうじて糊口(ここう)を凌(しの)いだのである。
 二十歳になったばかりの小太郎だが、その短い人生を振り返ると、山あり谷あり、まさに波瀾万丈であり、よくぞここまで辿り着いたものだと自分でも驚きを隠すことができない。

 元服が終わった翌日、小太郎の屋敷に伊豆千代丸が訪ねて来た。平四郎(へいしろう)と勝千代、お福、そば仕えの女中たち、警護の武士たちも一緒だ。十人以上の大人数だが、北条家が大きくなるにつれ、氏綱の跡取りである伊豆千代丸の重みも増しており、万が一のことがあってはならぬというので、ちょっとした外出も物々しいものにならざるを得ないのだ。
「おお、若君ではありませんか」
 門前で伊奈(いな)十兵衛と出会(でくわ)した。
「十兵衛か。来たところか?」
「はい。風摩家の主となった小太郎がどんな顔をしているのか見物しようと思いまして」
「暇なことよのう。父上は戦の支度で忙しくしておられるぞ」
「いろいろ策を練っておられるのでしょう。わしなど、策が決まってから、お指図に従うだけなので気楽なものです。あ......もしや、小太郎は留守なのでは?」
 氏綱が忙しくしているというのなら、軍配者である小太郎や金石斎も忙しいはずであった。
「ああ、それは心配ない。ちゃんと先触れを出して、わしが訪ねることは伝えてある。もちろん、お役目があるのなら邪魔するつもりはないが、今日は暇らしいぞ」
「昨日は疲れたでしょうから、一日くらい休ませてやろうという御屋形さまの気遣いかもしれませんね」
 伊豆千代丸と十兵衛が立ち話をしていると、小太郎が屋敷から走り出してきた。門前に人が集まっている気配を察したらしい。
「若君、それに十兵衛さま。こんなところで何をしておられるのですか?」
「なあに、おまえの噂話をしていただけだ。それにしても......」
 十兵衛が小太郎をじろじろ眺める。いつもと同じ墨染めの衣をまとっている。
「薄汚い格好だな。今や風摩家の主なのだから、少しはましな格好をしたらどうだ?」
「失礼な」
 小太郎がムッとする。
「ちゃんと洗ってるから汚れてませんよ」
「ふんっ、おまえのことだ。どうせ自分で洗ってるんじゃないのか?」
「そうですが」
「こんな大きな屋敷の主が、井戸端で汚れ物を洗うのは変だと思わないか?」
「いいえ、別に。なぜですか?」
 小太郎が不思議そうな顔をする。

十一

 伊豆千代丸たちは奥座敷に通された。堅苦しい訪問ではないので、あまり礼儀作法にとらわれることなく、皆、思い思いに気楽な姿で坐っている。
 そこに奈々とあずみ、それに小太郎が茶と茶菓子を運んできた。その家の主が自ら運ぶというのが最大のもてなしである。茶と茶菓子を並べると、
「たくさんの贈り物をありがとうございます」
 小太郎が姿勢を正して伊豆千代丸に頭を下げる。その後ろで、奈々とあずみも小太郎に倣(なら)う。
「何がいいのかわからないので、お福に選んでもらった。喜んでもらえると嬉しい」
 伊豆千代丸がにこっと笑う。
「おまえは、なぜ、ここにいるんだ?」
 十兵衛があずみに訊く。
「わたしが頼んだんです。この屋敷で奈々と暮らすことになったものの、やはり、女手がないと何をどうしていいかわからないことが多いですから」
 十一歳の奈々に女主人の役を務めるのは無理だから、その代わりをあずみに頼んだということであろう。
「祖父母も親もおらぬし、他に兄妹もいないからな。二人きりで、この広い屋敷に住むのは淋しそうだし、奉公人の指図をするのも大変だろう。戦になれば、小太郎は御屋形さまに従って出陣しなければならない。そうなると、奈々は屋敷に一人で残されてしまう。それは辛かろう?」
 十兵衛が奈々に訊く。
「はい」
 奈々がこっくりうなずく。
「そういうときは城に来ればよい。今までと同じように暮らせばよいのだ。わしもいるし、平四郎や勝千代もいる。お福がきちんと世話してくれる」
 伊豆千代丸が言う。
「それでは屋敷を持った意味がないではありませんか。おお、そうだ」
 十兵衛がぽんと両手を打ち合わせる。
「おまえたち、夫婦(めおと)になればよいではないか」
「は?」
 小太郎がぽかんとする。
「そういう約束になっているのではないのか? ならば、さっさと一緒になればよい」
「ちょっと待って下さい。突然、何を言い出すのですか。わたしとあずみは身内なんですよ」
「身内といっても兄妹ではあるまい。いとこ同士が夫婦になるのは、さして珍しいことではない」
「ああ、そうじゃ。それがよい。小太郎とあずみが夫婦になれば奈々も安心できよう。わしから父上に話してやろう」
 伊豆千代丸も賛成する。
「何をおっしゃるのですか。昨日元服したばかりなのに、いきなり所帯を持てなどと......早すぎます」
「それは違う」
 十兵衛が首を振る。
「元服が遅すぎたのだ。おまえ、いくつだ?」
「二十歳ですが」
「普通は十三か十四で元服するのだ。十五でも遅いくらいなのに、二十歳で元服とは遅すぎる。まあ、長く足利学校で学んでいたから仕方ないが......。あずみ、おまえはいくつだ?」
「十八です」
「ほら、ぴったりだ。十八なら、とうに誰かに嫁ぎ、子を生んでいてもいい年頃だぞ。風間の家が普通の武家とは違っているにしても、やはり、女は女だからな」
「もう、やめましょう。すぐに出陣しなければならないのに、今はそれどころではありませんから」
 小太郎が上擦(うわず)った声で言う。
 あずみも顔を赤くしている。
「青渓先生、出陣はいつ頃ですか?」
 勝千代が訊く。
「恐らく、来月になったら、すぐだと思うな」
「岩付城(いわつきじょう)を攻めるのですか?」
 平四郎が訊く。
「よく知っているな」
「わしらはまだ本当の戦には出られないが、戦に出たつもりで、いろいろ策を練っているのだ」
 のう、と伊豆千代丸が勝千代と平四郎を見る。
 二人が真剣な面持ちでうなずく。
 北条と扇谷上杉(おうぎがやつうえすぎ)との本格的な戦いは、ちょうど一年前に始まった。両者の間で行われたいくつかの合戦を素材にして、三人は図上演習に励んでいるのだ。
「若君が指揮を執っていれば、今頃は河越(かわごえ)城も手に入れることができましたかな?」
 十兵衛がからかうように訊く。
「合戦するだけでよいのなら、わしが勝つ。だが、そこに調略が絡むと、どうなるかわからぬ」
 伊豆千代丸が生真面目な顔で首を振る。
「調略がうまくいけば、合戦をしなくても城を落とすこともできます」
 小太郎が言うと、
「それで岩付城を奪ったのだろう? 父上から訊いた。誉めていたぞ」
「しかし、すぐに奪い返されてしまいました。わたしのやり方が手緩(てぬる)かったからです」
 小太郎が肩を落とす。
「戦とは、そういうものだ。そう何でもうまくはいかぬ。向こうも必死なのだからな」
 十兵衛が慰めるように言う。
「ああ、早く戦に出たいなあ」
 勝千代が溜息をつく。
「おまえは戦が好きなのか?」
 十兵衛が勝千代を見る。
「好きか嫌いか自分でもわかりませんが、北条家の役に立ちたいと思うのです」
「立派な心懸けだ。しかし、すぐには無理だろう」
「なぜですか?」
「確か、若君と同い年だから十一だな?」
「はい」
「若君が元服なさるのは十三か十四だろう。おまえの元服も、そのときだ。元服するまで戦に出ることはできぬ」
「それは残念です」
 勝千代が更に大きな溜息をつく。
「焦ることはない。今はできるだけ多くを学ぶことだ。それが戦で役に立つ。勝千代や平四郎の知恵が若君をお守りすることになるだろう」
 小太郎が言うと、二人がうなずく。

北条氏康

画・森美夏

Synopsisあらすじ

伊豆・相模を制し、梟雄と呼ばれた祖父・北条早雲がついに逝ったのは、伊豆千代丸(のちの北条氏康)が五歳の夏だった。家督を継いだ父・氏綱は小田原を本拠に、関東への版図拡大を画している。早雲は孫の治世を見越し、ある手を打っていた……。軍配者シリーズ、北条早雲シリーズに連なる〈北条サーガ〉最終章が、ついに始動!

Profile著者紹介

1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。

「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。

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