北条氏康第三十三回

第三部 風摩小太郎

「つまらんのう」
 伊豆千代丸(いずちよまる)が絵図面の上に白いコマを放り出して畳にひっくり返る。
「投げ出すのであれば、若君の負けですぞ」
 勝千代(かつちよ)が言う。
「ふんっ、それでよいわ。退屈でたまらぬ」
「今までと同じことをやっているのですけどね」
 平四郎(へいしろう)が首を捻る。
「やはり、あの不細工な勘助がいないと駄目なのじゃな。憎らしいことばかり言う意地悪な奴だと思っていたが、いなくなってみて、ようやくありがたみがわかった」
 四郎左は伊豆千代丸たちに、兵法を学ぶ応用編として図上演習を教えてくれた。『平家物語』や『太平記』などの軍記物を教材にして、一(いち)ノ谷(たに)の合戦や壇(だん)ノ浦(うら)の海戦、湊川(みなとがわ)の合戦といった有名な戦いを絵図面上で再現するのである。伊豆千代丸と勝千代、平四郎が敵味方に分かれ、自分が総大将になったつもりで、兵に見立てた白と黒のコマを使って合戦をする。
 図上演習を行うに当たっては、最初に様々な制約を設ける。実際の戦いと同じように兵力に差をつけたり、軍勢が布陣した場所の有利不利の違いを明確にしたり、歩兵が進む場合と騎兵が進む場合でコマの進み方に違いをつけたりした。
 時には、双方の兵力差があまりに大きすぎるときがあり、
「これでは最初から負けがきまっているようなものではないか」
 と、伊豆千代丸が不平を口にした。
「ほう、おかしなことをおっしゃる。現実の戦とは、そういうものでございます。とても勝てそうにないようなときでも戦わなければならぬときがあるのです。早雲庵(そううんあん)さまも、御屋形さまも、何度となく、そんな戦を経験してきたはずですぞ。しかし、若君のような泣き言などは口にしなかったはず」
「泣き言など言っておらぬ」
「ならば、黙って始めればよい。負けが決まっているような苦しいところから、どうやって勝機を見出すか、それを思案なされよ」
 四郎左は、伊豆千代丸に対しても、まったく遠慮なく、ずけずけと駄目出しをした。苦し紛れに伊豆千代丸が投げ遣りなやり方をすると、
「何という阿呆な御方か。今のやり方で、多くの兵が死にましたぞ。バカ殿のおかげで死ぬ者たちは何と哀れなことであろう。なんまいだぶ、なんまいだぶ......」
 平気でそんな言い方をしたのである。
 面と向かって、阿呆とか、バカ殿とか罵(ののし)られて、伊豆千代丸は何度も悔し涙を流した。
 それでも、やめるとは言わず、我慢してがんばったのは、家臣たちから、
「頼りない若君じゃのう」
 と白い目で見られているのを知っていたからだ。
 去年の秋、城を出て遊びに出かけたとき、巨大な猪に襲われて、伊豆千代丸は九死に一生を得た。勝千代が身を投げ出して猪の勢いを削(そ)ぎ、たまたま急場に遭遇した小太郎の弓矢のおかげで助かったのだ。
 その一件に関しても、
「さすが猛将と呼ばれた福島(くしま)正成(まさしげ)の子じゃ」
「主のために命を投げだそうとするとは、幼いとはいえ立派な武士よなあ」
 と、勝千代の評判は大いにあがり、
「学問しかできぬ頭でっかちかと思っていたが、武芸も達者だったのか。大したものだ」
 小太郎も一目置かれるようになった。
 それに引き替え、伊豆千代丸の評判は散々である。
「震えて足がすくんでいたというぞ。小太郎の妹と乳母に守られて青い顔をしていたらしい。何と情けないことよ」
 もちろん、面と向かって口にする者はいないが、陰口というのは、どこからともなく耳に入ってくるものである。
(わしは意気地なしではない)
 悔しくてたまらないから、それまで以上に学問や剣術稽古に励んでいるのだし、いつの日か大将として戦に臨むとき、図上演習が役に立つと聞いたから、四郎左に面罵(めんば)されても必死に食らいついた。自分は決して頼りない若君などではない、と家臣たちに認めてもらいたいと思うからだ。
 そう思って努力してきたのに、突然、四郎左がいなくなってしまった。どこかに旅立ってしまったのだ。当然ながら、図上演習もできなくなった。
 四郎左の代わりを小太郎に頼みたかったが、そもそも小太郎は、
「まだ早すぎます。兵法をしっかり学び終えてからやることなのですから」
 という考えだ。実際、足利学校では卒業を控えた学生たちがやることなのだという。
 仕方なく勝千代や平四郎を相手にして三人でやってみるが、これが何ともつまらない。自分たちのやり方がいいのか悪いのか判断できないせいだ。しっかりした判定役がいないと、どうにもならないのである。
 その結果、
「つまらんのう」
 と、伊豆千代丸は投げ出してしまったわけである。
「では、三人で兵書でも読みますか? 兵法を身に付けるには、まず兵書をきちんと読みこなして頭に入れることが大切だと青渓(せいけい)先生もおっしゃっていましたから」
 平四郎が生真面目な物言いをする。
「学問なら、毎日やっている」
 伊豆千代丸がつまらなそうに答える。
「そうですとも。剣術稽古をやりましょう。体を動かすと気持ちがよくなりますよ」
 勝千代が目を輝かせる。学問では平四郎にかなわないが、剣術の腕なら自分が一番だとわかっているからだ。
「やらぬ」
 伊豆千代丸が首を振る。
「では、何をなさるのですか?」
 平四郎が訊く。
「もう何もやらぬ」
「え」
「何をすればいいかわからぬ。何もやる気がしないのだ」
「しかし......」
「おじいさまがよく話しておられた。心に迷いが生じたときには坐れ、と」
「坐る? もう坐っておりますが」
 勝千代が不思議そうな顔をする。
「バカ者。そういうことではない。座禅を組むということだ」
「はあ、座禅ですか」
「やったことがあるか?」
「ありませぬ」
「平四郎は?」
「わたしもありません」
「ほほう、二人ともやったことがないのか」
「若君はあるのですか?」
 勝千代が訊く。
「おじいさまにやり方は教わった。まだ幼かったので、あまり真剣にはやらなかったが」
 伊豆千代丸は胸を反らし、だから、これからやるのだ、おまえたちも一緒にやれ、わしが教えてやる、と威張ったように言う。自分だけが座禅のやり方を知っていることが嬉しいらしい。
「いいか、こうやるのだ」
 伊豆千代丸が結跏趺坐(けっかふざ)の姿勢を取る。いくらかぎこちないものの、そう悪い姿勢ではない。
「こうですか......」
 勝千代が右足を左の腿(もも)に載せる。それから同じように左足を右の腿に載せようとするが、うまくいかずに仰向けにひっくり返ってしまう。
「はははっ、勝千代は鈍いのう」
 伊豆千代丸が愉快そうに笑う。
「仕方ありますまい。初めてなのですから。若君とは違います」
 勝千代がむっとした顔で言う。
「平四郎、やってみよ」
「はい」
 伊豆千代丸を真似て、平四郎が結跏趺坐の姿勢を取る。勝千代よりも体が柔らかいので、初めてでも苦労することなくできる。
「ほれ、見るがいい。平四郎は簡単にできたぞ。やはり、おまえが鈍いのだ」
「......」
 カッとなって勝千代は頭に血が上る。顔を真っ赤にして何度も試みる。そのうちに、
「お、できましたぞ」
 ようやく、それらしい格好になり、勝千代が嬉しそうな声を発する。
「背中が曲がっておる。ピンと伸ばすのじゃ」
 伊豆千代丸が勝千代の背中をどんと叩く。その拍子に勝千代がまたひっくり返る。
「ダメじゃのう。無理せずともよい。今日のところは、わしと平四郎の座禅を見ていればよい」
 伊豆千代丸は平四郎と並んで結跏趺坐の姿勢を取る。
「右手を下、左手を上にして四本の指を重ねる。親指同士を軽くつけて円を描く。これを法界定印(ほっかいじょういん)という。このままの格好で、少し先の畳を見る。やや目を閉じるが、すべて閉じるのではない。半眼にする。そして、ゆっくり大きく息をする。平四郎、やってみよ」
「はい」
 平四郎がゆっくり呼吸を始める。
「では、わしも始めよう」
「若君、それからどうするのですか?」
 勝千代が訊く。
「それから? それだけじゃ。後は何もせぬ。何も考えてはならぬのだ。心の中を空っぽにする」
「しかし、いろいろ心に思い浮かぶではありませんか。空っぽになどできませぬ」
「勝千代は阿呆よなあ。そのための修行なのではないか。もうわしらの邪魔をするな」
「そうはいきませぬぞ」
 負けず嫌いの勝千代は、自分だけできないことが悔しいらしく、また何度もやり直す。しばらくすると何とか結跏趺坐の姿勢を取る。苦労したので顔に汗をかき、息が荒くなっている。
「静かにせぬか」
 伊豆千代丸が注意する。
「わかっています」
 二人を真似て、勝千代がゆっくり呼吸を始める。
 ようやく三人並んで座禅をする。
 それから四半刻(三十分)ほど......。
「今日は、ここまでにしよう」
 伊豆千代丸が姿勢を崩す。
「はい」
 平四郎もふーっと息を吐きながら足を伸ばす。
「どうだった?」
「何というか......体が軽くなったような気がします。ちょっと足が痺(しび)れましたが」
「実は、わしもだ。この姿勢に慣れるまでは苦労するなあ。勝千代、もうやめていいのだぞ。いつまでもやっていると苦しかろう」
 伊豆千代丸が声をかけるが、勝千代は返事をしない。
「おい......。ん? こいつ、寝ておる」
「え」
 平四郎が勝千代の顔を覗き込む。
「本当だ。寝ています」
「結跏趺坐の姿勢を取ったまま居眠りするとは......器用な奴だな」
 伊豆千代丸と平四郎が顔を見合わせて笑う。
「起こしますか?」
「放っておけ。気持ちよさそうに眠っている」
「そうですね。しかし、いつまでこの格好で寝ていられるものか......」
 と、平四郎が言った途端、勝千代が大きく舟を漕(こ)ぎ、前のめりになる。床にごつんと額をぶつけて、
「あれ、何だ、これは!」
 大きな声を上げて、目を覚ます。夢でも見ていたらしい。
「座禅はどうだ、勝千代?」
 笑いをこらえながら、伊豆千代丸が訊く。
「はあ......なかなか、よいものでございますなあ。何とも言えぬ心地よさを感じました」
「ほう、そうか、そうか。勝千代は座禅が気に入ったか。それは、よかった」
「心を空っぽにするというのは、どういうことなのか、最初はよくわかりませんでしたが、今は何となくわかる気がします」
「おじいさまは毎日持仏堂(じぶつどう)に籠もって座禅を組んでおられた。一日に一度ではなく、何度もだ。何がそんなに楽しいのだろうと不思議だった。おじいさまに訊いたことがある。楽しくはない、とおっしゃった。しかし、苦しいわけでもない。ただ、座禅を組むと心を空っぽにすることができるのだとおっしゃっていた。心に迷いが生じて、どうしていいかわからなくなったときに座禅を組み、心の中を空にして最初から考え直すのだ、と。城にいるときだけでなく、旅先でも座禅を組んだというし、聞いた話では合戦の合間に座禅を組んだこともあるそうだ」
「合戦のときにですか? 敵と戦っているときに」
 平四郎と勝千代が驚く。
「そう聞いた。味方が苦戦し、このままでは負けてしまいそうだというとき、いきなり、おじいさまは地面に腰を下ろして座禅を組んだそうだ」
「そんなところを敵に襲われたら、ひとたまりもないではありませんか」
「何もしなくても、どうせやられてしまうんだよ。それほど追い込まれてどうしようもないから、そこから助かる方法を考えないとダメなんだ」
「何となくわかる気がします。負け戦になると、どうしても気持ちばかり焦って、何とかそこから逃げ出そうとしてしまいますよね。でも、誰も踏み止まって戦おうとしなければ、それで終わりじゃないですか。兵法書にもそんなことが書いてあった気がします。戦に負ける者というのは、敵に負ける以前に己の弱い心に負けてしまうのだ、と」
 平四郎が言う。
「確かに、合戦の最中に座禅を組むというのは、よほど強い心がなければできないだろうけどな」
 勝千代がうなずく。
「よし、これからは、わしらも毎日座禅を組むぞ。学問と剣術稽古をするだけでなく、座禅を組むことで心を強くするのだ。おじいさまのようにな」
「はい」
「はい」
「もう居眠りはするなよ、勝千代」
「は?」
「気持ちよさそうに眠っていたぞ」
「......」
 勝千代が顔を赤くする。

北条氏康

画・森美夏

Synopsisあらすじ

伊豆・相模を制し、梟雄と呼ばれた祖父・北条早雲がついに逝ったのは、伊豆千代丸(のちの北条氏康)が五歳の夏だった。家督を継いだ父・氏綱は小田原を本拠に、関東への版図拡大を画している。早雲は孫の治世を見越し、ある手を打っていた……。軍配者シリーズ、北条早雲シリーズに連なる〈北条サーガ〉最終章が、ついに始動!

Profile著者紹介

1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。

「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。

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