北条氏康第二十九回

「少しだけですよ」
「わかっておる」
 お福の言葉に、伊豆千代丸は素直にうなずく。
「お待ち下さいませ」
 お福が廊下から部屋に入っていく。
 伊豆千代丸は、おとなしく廊下に控える。
 しばらくするとお福が戻ってきて、
「どうぞ、こちらに」
「やった」
 伊豆千代丸の表情がパッと明るくなる。喜び勇んで部屋に入り、部屋を横切って、その奥に進もうとする。
「そこまでです」
 お福がぴしゃりと言う。
「え」
 襖(ふすま)に手をかけようとした、伊豆千代丸の動きが止まる。
「中に入ってはならぬそうです」
「でも......」
「襖越しにお話なさいませ。ちゃんと返事をして下さいますよ」
「うん」
 伊豆千代丸が襖の前にちょこんと坐る。大きく深呼吸してから、
「母上」
 と呼びかける。
「伊豆千代丸ですか」
 襖の向こうからかぼそい声が聞こえる。
 伊豆千代丸の母・珠江(たまえ)である。昔から体が丈夫ではなく、ことに伊豆千代丸を生んでから床に臥(ふ)せることが多くなった。二年ほど前から肺の病が重くなり、一日のほとんどを病室で過ごし、人に会うことも滅多にない。伊豆千代丸も、病が伝染(うつ)ってはいけないというので病室への立ち入りを氏綱から禁じられている。
 ひ弱な珠江を氏綱の正妻に迎えたのは、亡くなった宗瑞の考えであった。珠江の実家である横江氏は鎌倉北条氏、すなわち、執権として鎌倉幕府を支えた得宗家の末裔と言われている。将来的に関東の覇権を握ることを目論(もくろ)んでいた宗瑞は、名家の血を容(い)れることが、いつか役に立つと考えたのである。
 氏綱が伊勢氏から北条氏に改姓したとき、扇谷上杉氏や山内上杉氏を始めとする関東の名門士族は、
「詐称である」
 として、これを認めず、今に至るまで氏綱を「伊勢新九郎(しんくろう)氏綱」と呼んでいる。
 だが、鎌倉北条氏の血を引く伊豆千代丸が当主になれば、「詐称である」とは言えなくなるはずであった。
「どうしたのですか?」
「あの......父上が上杉との戦に勝ったそうなのです。江戸城も落としたそうです。それで、わたしは......何と言うか、嬉しくて仕方なかったので......」
「わざわざ知らせに来てくれたのですか?」
「はい」
「ありがとう。伊豆千代丸は優しいのね」
「あの......」
「どうしたの?」
「学問にも剣術稽古にも励んでいます。宗真先生も十兵衛も、それに小太郎も、とても上達したと誉めてくれるのです」
「それは、よかった。母もうれし......」
 突然、襖の向こうで激しく咳き込む音が聞こえ、
「大丈夫でございますか。しっかりなさいませ」
 そばに仕えている女たちの慌てた声が聞こえる。
「母上?」
「たらいをこちらに......それに手拭いも」
「もっと持ってきなさい」
「急いで」
 女たちの声に咳の音が混じる。
「母上」
 伊豆千代丸が咄嗟に襖に手をかける。
「いけませんよ」
 その手を、お福が押さえる。
 が......。
 ほんの少し襖が開いた。
 布団に体を起こした珠江が激しく咳き込み、その背中を女たちが撫でさすっている。
 珠江が襖に顔を向ける。
(あ)
 伊豆千代丸が息を呑む。
 珠江の口許がべっとりと血にまみれている。肌は透き通るように白く、眼窩(がんか)は落ちくぼんで、目の下には濃い隈がある。両手は、枯れ枝のように細い。
 伊豆千代丸と珠江の目が合ったとき、目の前で襖がぴしゃりと閉められた。

北条氏康

画・森美夏

Synopsisあらすじ

伊豆・相模を制し、梟雄と呼ばれた祖父・北条早雲がついに逝ったのは、伊豆千代丸(のちの北条氏康)が五歳の夏だった。家督を継いだ父・氏綱は小田原を本拠に、関東への版図拡大を画している。早雲は孫の治世を見越し、ある手を打っていた……。軍配者シリーズ、北条早雲シリーズに連なる〈北条サーガ〉最終章が、ついに始動!

Profile著者紹介

1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。

「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。

Newest issue最新話

Backnumberバックナンバー