Interview著者インタビュー

はじめに
 伊勢新九郎(しんくろう)は一代にして伊豆・相模を征し、戦国大名にのし上がった。出家して早雲庵宗瑞(そううんあんそうずい)と号す。
 後世、北条早雲として知られる男である。
 若い頃から病気や怪我とは無縁だったが、永正十六年(一五一九)七月、風邪をこじらせて寝込んだ。舟遊びで体を濡らしたことが原因だったという。
 病は悪化し、床を離れることができぬまま、八月十五日、伊豆韮山(にらやま)で亡くなった。享年六十四。
 戒名は早雲寺殿天岳宗瑞大禅定院という。
 後を継いだのは嫡男・氏綱(うじつな)で、このとき三十三歳である。
 九月、氏綱は宗瑞の法要を行ったが、二ヵ国を領した大名の法要にしては質素で地味だった。
 氏綱としては、できるだけ盛大に法要を執り行いたいのが本音だったが、
「わしが死ねば周辺国が攻め込んできて戦になるやもしれぬ。葬儀など質素でよい。無駄なことに金を費やさず、いざというときのために備えよ。それがわしへの最後の孝行だと思え」
 と、宗瑞に釘を刺されていたので、質素な法要を営むしかなかった。
 実際、東からは扇谷(おうぎがやつ)上杉氏、山内(やまのうち)上杉氏が、北からは武田氏が、宗瑞の死によって伊勢氏が動揺し、後継を巡る内紛でも起これば、その隙に乗じて伊豆や相模に攻め込んでやろうと虎視眈々と牙を研いでいた。
 宗瑞の存在があまりにも大きすぎ、敵ですら宗瑞の実力を怖れていたので、誰が後を継いでも宗瑞を超えることはできず、伊勢氏の勢力は衰えるだろうという見方がほとんどだった。宗瑞という太陽の陰に隠れて、氏綱の存在はあまりにも地味だったのである。
 偉大な父の後を継いだ二代目というのは、
「おれだって父には負けぬぞ」
 と妙な見栄を張って無理をしがちなものだが、氏綱に、そういう見栄はなかった。幼い頃から宗瑞に厳しく教育されてきたせいで、
(父上の教えには従わなければならぬ)
 と固く信じていた。
 宗瑞を心から尊敬し、その偉大さを認めていたので、宗瑞を超えてやろうなどという野心を最初から持っていなかった。
 氏綱は宗瑞の遺言に従い、無駄な出費を抑え、油断することなく防備を固めたので、両上杉氏や武田氏もつけいる隙がなかった。
 翌年、氏綱は鎌倉寺社領と相模西部で検地を行った。代替わり検地の最初である。
 この検地には重大な意味があった。
 伊豆という土地に縁もゆかりもなかった宗瑞が伊豆を征し、領主として平穏に伊豆を治めることができたのは農民からの強い支持があったからである。
 宗瑞の時代、その支配地において、一度として土着の武士たちが反乱を起こしたことがない。なぜかといえば、もし武士どもが宗瑞に反旗を翻せば、宗瑞を慕う農民たちが反乱者を叩き殺すに違いないと武士たちにはわかっていたからである。宗瑞の身に何かあれば、自分たちの生活が立ち行かなくなることを農民たちは知っていたので、何があろうと命懸けで宗瑞を守る覚悟だったのだ。
 それほどまでに宗瑞が農民たちに慕われたのは、宗瑞の定めた年貢率が理由である。
 この当時、領主が農民たちを搾取することが甚だしく、七公三民ならましな方で、戦が続いて領主の財政が厳しくなると、八公二民くらいはむしり取られた。十のうち八つも奪われれば、もはや、農民がまともな暮らしをすることはできない。翌年の種付けすら不可能である。農民は飢え、大量の餓死者が発生する。
 宗瑞が伊豆の支配者となったとき、周辺国の主たちは口々に宗瑞を「悪人」と罵り、憎悪した。宗瑞のやり方があまりにも自分たちのやり方と違っており、極端に言えば、社会秩序を破壊しかねないと警戒したからである。
 宗瑞は何をしたのか?
 実に単純なことで、年貢率を四公六民にしたのである。宗瑞が伊豆に攻め込むまで、伊豆の農民たちも八公二民という重税に苦しんでいた。それがいきなり四公六民である。自分たちの取り分が一気に三倍になったのだから農民たちは驚喜した。
 宗瑞の身に何かあれば、地獄の暮らしに戻ってしまう。
 だからこそ、農民たちは武士の反乱など決して許さず、何があろうと宗瑞を守ると決意していたのである。
 その宗瑞が亡くなった。
 農民たちは年貢が重くなることを何よりも怖れた。
 四公六民という奇跡のような年貢率が維持されないとしても、何とか五公五民、いや、六公四民くらいにしてもらえないものか......それが農民たちの願いであった。いったい、年貢率は、どうなるのか、と氏綱の代替わり検地を固唾を呑んで見守った。
 氏綱は宗瑞の年貢率を踏襲した。四公六民である。
 農民たちは安堵し、
「韮山さまと同じように小田原さまも守って差し上げなければならぬ」
 という気持ちになった。
 宗瑞の後継者としての氏綱の立場は盤石になったと言っていい。
 足許を固めると、次に氏綱は外交に手を付けた。
 戦を避けつつ、伊勢氏の力を強めようとしたのだ。
 それが古河公方(こがくぼう)家との婚姻である。
 古河公方家には大した実力はない。軍事的にも、経済的にも無力と言っていいほど非力である。
 ただ権威だけがある。その権威を後ろ盾とする政治力も侮りがたい。
 一方の伊勢氏には軍事力も経済力もあるが、権威はまったくない。
 元々、宗瑞は備中荏原(えばら)郷の生まれで、伊豆にも相模にも何の所縁もない。京都にいる頃、室町幕府に仕えていたものの、身分は高くなかった。
 それ故、大名にのし上がってからも、
「宗瑞など成り上がりものではないか」
 と蔑まれた。
 伊豆や相模の豪族たちには、歴史や伝統という点では伊勢氏など足元にも及ばない、鎌倉幕府以来という名家が少なくないのである。
 古河公方家と結びつけば、そういう名家にも家格で見劣りすることがない。
 両家の思惑が合致し、永正十八年(一五二一)二月、古河公方・足利高基の子・亀王丸(かめおうまる)と氏綱の娘の婚約が成立した。
 氏綱の非凡さは、これで満足することなく、更に鋭い一手を放ったことである。
 それが伊勢から北条への改姓であった。
 宗瑞が本拠とした韮山は、源頼朝が流刑されていた土地であり、その周辺は鎌倉幕府の執権を世襲した北条氏の領地であった。
 そこに目を付けた氏綱は、
「伊勢氏は北条氏の後裔である。これからは伊勢ではなく、北条と名乗ることとする」
 と宣言した。
 一般には、古河公方家との家格を釣り合わせるために改姓した、と解釈されることが多い。
 確かに、それも間違いではないが、それだけではない。
 氏綱には、いずれ関東全土を支配しようという野望がある。宗瑞から引き継いだ野望だ。その野望の実現のために、宗瑞は、しばしば武蔵や房総に兵を出したが、うまくいかなかった。
 古くから関東に土着する武士たちからすれば、よそ者の伊勢氏の攻撃は「侵略」なのだ。
 だから、必死に抵抗した。
 しかし、伊勢氏ではなく北条氏が攻撃すれば、それは「侵略」ではなく、かつて支配していた土地の「回復」になる。執権として絶大な権力を振るった北条氏は、武蔵・相模の国守に任じられ、関東一円を支配下に置いていたからである。氏綱には武蔵や房総に攻め込む大義名分ができる。
 しかも、関東の武士たちは、伊勢氏と敵対する山内上杉氏、扇谷上杉氏を始めとして、昔は北条氏に臣従していたわけだから、氏綱に反抗するのは旧主への反抗という理屈になる。そういう論理を組み立てて、氏綱は関東征服を正当化しようとした。実際に軍事行動を起こす前に政治的な揺さぶりをかけたわけである。
 当然ながら、両上杉氏を始めとする敵対勢力は激怒し、氏綱が北条姓を名乗ることを絶対に認めようとしなかった。氏綱の論理を机上の空論として無視できなかったのは、この時代、筋目や名分が重んじられていたからで、何の実力もない古河公方家が関東で尊敬されていたのも、そのせいである。もし伊勢氏の改姓を放置すれば、時間が経つにつれて、それが既成事実化してしまう。それを怖れたのである。
 これ以降も両上杉氏の公式文書には「北条氏」という言葉は一切使用されず、常に「伊勢氏」と表現された。改姓など決して認めない、という両上杉氏の強い姿勢の表れであった。
 五年前の永正十五年(一五一八)七月、伊勢氏と扇谷上杉氏は和睦し、その和睦は依然として守られていたものの、北条への改姓を機に、両氏の関係は急速に悪化した。何かきっかけがあれば、たちどころに大規模な軍事衝突に発展するのは間違いなかった。開戦前夜というようなきな臭い雰囲気が漂い始めている。

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