夢燈籠 狼を野に放て第17回
五
白木屋の株価が四百円を突破した一月末、白木屋の名義書き換えで明白になった株主構成に世間は仰天した。
大株主に名を連ねていたのが、横田英樹という気鋭の実業家だったからだ。
横田は合計で百二万八千株。堀は七十七万株、合計で百七十九万八千株となり、防戦側となる白木屋の六十六万株を大きく上回った。
これでは勝負にならない。しかも堀が横田と手を組んだことも明かされ、白木屋側は慌てて財界に支援を頼んだ。
一方、堀は鏡山と知己でもあり、双方で話し合い、妥協点を見出そうと呼び掛けた。これに応えた鏡山は横田と会うことに合意する。
二月一日、双方は日活国際会館内の堀社長の執務室で顔を合わせた。
横田側は、横田と堀以外に、朝日麦酒(現アサヒビール)の山本為三郎社長と東京生命の富成宮吉社長の四人、白木屋側は、鏡山社長、高橋龍太郎取締役、朝日生命の行方幸吉社長、野村生命の西村勝太郎専務の四人だ。
留吉は書記役としてアテンドしたが、白木屋側も書記役が帯同してきたので五対五となった。
双方は財界の会合で知己なのか、和やかな雰囲気で会議が始まった。横田だけはその輪に入れず、にこやかな顔で話を聞いているだけだ。
互いの知人の話やらゴルフコースの話に花を咲かせた後、堀が唐突に切り出した。
「さて、いつまでも楽しい話をしているわけにもいきません。今日の本題に入りましょう」
その言葉によって、対座する両陣営に緊張が走った。
堀が緊張を解すように笑みを浮かべて言う。
「私たちの提案は至ってシンプルです。ここにいる横田君を副社長か専務にしていただけませんか。それですべては丸く収まります」
「よろしくお願いします」と言って、横田が頭を下げた。
まずは先制攻撃で主導権を握ろうという横田の策だ。ところが鏡山は一枚上手だった。
「もちろん横田君は前途洋々な企業家です。しかしデパート・ビジネスについての知識が足りないのも事実です。それゆえ、まずは堀さんに白木屋の会長に就任いただき、横田さんを鍛えていただきたいのです」
堀の眼光が鋭くなる。
「では、横田君は平取締役にでも就けろと仰せですか」
「いえいえ、会長付か会長補佐ではどうかと」
――馬鹿にしやがって。
最大の株主を足蹴にするようなことを鏡山は平然と言ったが、横田は依然としてにこにこしている。
堀が笑みを浮かべたまま言う。
「私には、そのつもりはありません」
「いやいや、そこを何とか。われわれには、ショービジネス界で日活を押しも押されもしない存在に押し上げた堀さんの知識と経験が必要なんです」
鏡山がへつらうように言う。
「私は日活のことで手一杯です。日活による買収なら話は別ですが、私だけが白木屋さんの会長職に就くことはできません」
それは尤もな話だった。買収なら役員から管理職まで日活の社員を送り込めるが、堀一人が会長に就任したところで、名前だけの会長に祭り上げられ、鏡山たちは実権を渡さないだろう。
「それは残念です」
「ですから、横田君を副社長か専務に就けてほしいんです」
「お待ち下さい」
それまでにこやかだった鏡山の顔が真剣になる。
「白木屋は江戸時代に創業され、三百年暖簾(のれん)を守り続けてきました。横田君がどのような手を使って当社の株を集めたかは知る由もありませんが、どこの馬の骨とも素性の明らかでない者を、白木屋の重役に迎え入れることはできません」
――何だと。
留吉は思わず顔を上げた。だが、横田はポーカーフェイスを崩さない。
「鏡山さん、それは少し失礼じゃないかな。横田君は横田産業を一代で立ち上げた切れ者だ。出自など関係ないだろう」
「いやいや、経営には付き合いが大切です。政財界の大物に会い、堂々と渡り合うには、それなりの学歴と――」
鏡山は口ごもったが、開き直ったかのように言った。
「それなりの家柄が大切なのです」
――宣戦布告だな。
この瞬間、友好的買収の道は閉ざされ、敵対的買収の火蓋が切られたと言ってもいいだろう。
「なるほど。鏡山さんは学歴と家柄を重視した経営をおやりなのですね」
「いや、そういう意味ではなく、対外的な付き合いには、その二つが大事だと言いたいのです」
「分かりました。残念ながら、われわれの間には、まだ溝がありそうですね」
「そういうことになります」
鏡山が自陣営を見回しながら言う。そこには「異論はないですね」という確認の意味が込められているのだろう。
「では、これで話し合いは終わりということでよろしいですね」
「はい。ご多忙の中、ありがとうございました」
鏡山たちが頭を下げながら部屋を出ていった。それを堀が見送っていったが、横田はソファーに掛けたまま微動だにしない。
留吉が声を掛ける。
「社長、送らなくてもよろしいんですか」
「いいよ。どうせ喧嘩だ」
横田は平然としているが、その腸(はらわた)は煮えくり返っているのだろう。
やがて堀が戻ってきた。礼式としては、ここは堀の本拠なので、横田が送らなくても非礼には当たらないが、堀が戻るまで十分ほどかかったので、今更ながら横田も行った方がよかったのではと思った。
「連中をエレベーターまで送ってきたよ」
「そうですか。それで何か言っていましたか」
「いいや、世間話を少ししただけだ」
「それにしては時間が掛かりましたね」
確かに、エレベーターまで送るのに十分は長い。
「奴らがまた会長就任の件を蒸し返してきたんだ。それで少し立ち話をした」
「それで何と答えたのですか」
「私の気持ちは変わらんよ」
「恩に着ます。ここまで来たら全面戦争ですね」
横田が立ち上がって頭を下げる。
「残念ながら、そうなるだろうね」
「では、古荘頭取に会わせて下さい」
「会ってどうする」
「融資を申し入れます」
「それは私の方からお願いしておくよ」
「いや、会うと会わないでは段違いです」
堀が困った顔をする。
「それはそうだが、古荘さんのことは私に任せてくれないか」
「そこを曲げて何とか――」
「いや、実はね。君の件は私に一任されているんだ。つまり、古荘さんに用があっても、すべて私を通してくれということだ」
その言葉が、古荘から出たかどうかは分からない。だが、こうした金絡みの人脈の場合、やたらの人間を連れていき、その後に貸し借りでもめたりすると、連れていった人間が債務を肩代わりせねばならないことがある。むろん紹介しただけなら法律上、何の責務も生じないが、道義的責任を果たさなければ、政財界からは村八分になる。
横田が無念そうにうなずく。
「分かりました。どうか八千万円ほど都合をつけていただけませんか」
――横田だけで過半数を抑えるためには、横田は二十万株必要になる。一株四百円として八千万円か。
留吉は即座に計算したが、八千万円など貸してくれるわけがないのは、横田も分かって言っているのだろう
「八千万円か。そんな途方もない額、貸してくれるとは思えんね」
「しかし、ここまで来たら勝つしかありません」
「それは分かっている。だがね、古荘頭取にも立場がある。白木屋買収の資金を君に提供したとなれば、全銀協から何を言われるか分からない」
そこには、「私だったらいいが、君には金を貸さないだろう」というニュアンスが含まれていた。
――ここにも厚い壁があるのか。
考えてみれば古荘も守旧勢力なのだ。たまたま堀に融資して白木屋株を買わせただけで、横田に金を貸す義理はない。
「つまり古荘頭取は、この横田には金を貸してはくれないのですね」
「残念だが、そういうことになる」
横田が膝を叩いた。
「分かりました。金は自分で何とかします」
「それがよい」
横田は深く頭を下げると、日活国際会館を後にした。
帰路のキャデラックの中で、横田はいつもと違って口数が少なかった。そんな気まずい雰囲気を振り払うように、留吉は明るく言った。
「これで妥協の余地はなくなりましたね。それならそれでいいじゃないですか」
「まあな。しかし発行株式の大半を押さえ、経営権を奪うには多額の金が必要になる」
「どこの銀行も融資してくれないのでしょうか」
「ああ、先ほどの話で分かったのだが、全銀協に入っている銀行は、どこも貸してくれないだろう」
言葉の裏を読むのは大切だ。自陣営の千葉銀行が貸さないのなら、どこの銀行に行っても同じことなのだろう。
「つまり銀行は守旧勢力側なんですね」
「そうだ。この国の銀行は自分たちの権益を守ること、すなわち企業と持ちつ持たれつの関係が築ければ、それでよいと考えている。奴らは、うちのような新興企業が、大企業の間に入り込んでくることを許さないのだ」
「これまでお付き合いの深かった三和銀行もだめですか」
横田産業のメインバンクは三和銀行になる。
「三和銀行などは都銀でも下位だ。全銀協に反旗を翻すことなどできない」
「では、どうするのです」
「危うい橋を渡ることになるかもな」
横田がため息をつく。そんな横田を見るのは初めてだった。
「社長、引き時を知るのも名将なのではありませんか」
「引き時か。しかし、ここまで言われて引っ込んでいるわけにはいかない」
「待って下さい。怒りや意地で経営はできません」
横田が驚いたように留吉の顔を見た。口汚くののしられるかと思いきや、横田は笑みを浮かべた。
「ありがとう。君は私が間違っている時に正論を吐いてくれる。確かにその通りだ」
それでも横田は、眉間に皺を寄せながら言った。
「だがね、ここで引いたら、私は横田産業という一中堅企業の社長にすぎないことになる」
「では、なにが狙いなんですか」
「日本の政財界に風穴を空ける。これは後進のためでもあるのだ」
その心意気は大いに買える。
「分かりました。社長に大義があるなら、私もお手伝いします」
「どう手伝ってくれる」
「金策をします」
「誰に」
「株を売ってくれた一人、尾津喜之助氏はどうでしょう」
横田が首を左右に振る。
「君は尾津氏から株を買い取ってきたが、彼が何者か分かっていない」
「テキ屋ですよね」
「そうだ。しかし、尾津はかなりヤクザに近い。さすがの私も彼から金を借りる勇気はない」
「では、どうしますか」
「君」と横田が運転手に呼び掛ける。
「日本橋に向かってくれないか」
「日本橋に何があるんですか」
「高利貸の事務所がある」
さすがの留吉もため息を漏らさざるを得ない。
「社長、買収は長い戦いです。金利の高い金を借りたら、たいへんなことになりますよ」
「分かっている。だから金を借りるのではなく、これから会う人物を自陣営に引き込む」
そこまで言われては、留吉に反論はできない。
横田の指示に従い、キャデラックは日本橋のビル街の中でも薄汚れた一つのビルの前で止まった。
Synopsisあらすじ
戦争が終わり、命からがら大陸からの引揚船に乗船した坂田留吉。しかし、焦土と化した日本に戻ってみると、戦後の混乱で親しい人々の安否もわからない。ひとり途方に暮れる留吉の前に現れたのは、あの男だった――。明治から平成へと駆け抜けた男の一代記「夢燈籠」。戦後復興、そして高度成長の日本を舞台に第2部スタート!
Profile著者紹介
1960年、神奈川県横浜市生まれ。早稲田大学卒業。『黒南風の海――加藤清正「文禄・慶長の役」異聞』で第1回本屋が選ぶ時代小説大賞を、『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞と第1回高校生直木賞を、『峠越え』で第20回中山義秀文学賞を、『義烈千秋 天狗党西へ』で第2回歴史時代作家クラブ賞(作品賞)を受賞。
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