波乱万丈な頼子第五回

二章

「じゃ、二〇一号室にいらっしゃる方は、近々、出て行かれるんですか?」
 莉々子が訊くと、
「たぶん」と、老人は視線を遠くに飛ばした。
 たぶんって。あなた、大家さんでしょう?
莉々子は続けた。
「でも、さっき、行方不明とかなんとか」
「そんなこと、言ってませんよ」
 あれ? 聞き違いかな、じゃあ......、
「あの、もしかして、長期不在とか?」
「え?」
「だって、郵便受け」
 言いながら、莉々子は、差し込み口からチラシがあふれ出てる郵便受けを指さした。
「ああ、あれね。ずっと前からそうなんですよ」
「うん? どういうことですか?」
「なんか、ここの人、面倒くさがりなのか、郵便受けの中身をそのままにしがちなんですよ。たまりたまって、もうこれ以上入らないって段階になって、ようやく中身を取り出すの」
「は......」
「ほら、前みたく、郵便って滅多に来ないじゃないですか。来るのは、ダイレクトメールとかチラシとか。どうでもいいようなものばかり。ここだけの話、うちでも、そう。郵便受けを開けるのは、一週間に一度ぐらいかな」
「は......」
「今は、LINEとかショートメールで事足りますからね」
 大家が、得意げに、スマートフォンを上着のポケットから取り出した。ドクロをかたどったロックンロールなスマートフォンカバーが、あまりに似合っていない。
「とはいえ、大切な郵便もときどき来るから困ったもんです。以前も、住民税の納付書が届いているのを見逃して、納税するのが遅れたことがあったんですよ。そしたら、まんまと延滞金とられましてね。まったく、あれにはあったま来たなぁ。そういう重要な書類なら、書留とか速達で送って欲しかったですよ。......ああ、それと、こういうこともありましてね、郵便受けの中に――」
 いったい、なんの話しているんだ。これだから、老人は困る。論点がどんどんずれていって、時間だけが浪費される。
「いずれにしても」
 莉々子は、強引に話を引き戻した。
「頼子さんは、二○一号室にお住まいなのですね?」
「はい?」
「だから、頼子――」
 ここまで言って、莉々子ははっと言葉を止めた。そうだった。私はただの、通りすがり。このアパートが気になってちょっと寄ってみたという設定だった。
よりこ・・・って?」
「いえ、あの。......ああ、そうそう。さっき、郵便受けからこぼれ落ちていた水道料金かなにかの領収書を拾ったんですけど、そこに、頼子って。......ああ、もちろん、その領収書は、ちゃんと戻しておきましたよ」
 我ながら、ナイスな言い訳だ。
「は?」大家が、眉間に皺を寄せた。そして、
「それは、なにかの見間違いでは? または、他の家に届けられたものなんでは?」
「うん?」
「だって、二〇一号室に住んでいるのは、男性ですよ」
「は? 男性?」
「そうですよ。男性の一人暮らし。歳は四十代で――」
 大家は、さきほど莉々子がしたように、ここではっと言葉を止めた。しばしの沈黙の後、照れ笑いを浮かべ、
「いやいや、今のは忘れてください。個人情報をべらべらしゃべるなって、妻にもよく注意されるんですよ」
「あの、本当に、男性の一人暮らしだったんですか?」
「だから、個人情報なので、これ以上は」
「その人は、いつからこのアパートに?」
「.........」
 大家は、貝のように口を堅く閉ざす。
 こうなったら、万事休すだ。
 っていうか。ということは、やっぱり、藤村の見立て違いということじゃないか。なにが、大船観音よ、なにが日差しよ。まったくの見当違いじゃない。......あーあ。なんか、馬鹿みたい。せっかくの休日に、こんなところまでのこのこやってきて。
 あれ。でもちょっと待って。だったら、事務所に相談メールを送ってきた「頼子」って、何者? メールに記されていた住所は、確かにここだった。部屋番号はなかったが。ということは、他の部屋ってこと?
「あの。このアパートで、七十代ぐらいの女性が一人暮らししていませんか?」
「は?」
 大家が、いかにも怪訝な顔つきでこちらを睨み付けてきた。
「あ......、もうこうなったら、本当のことを言いますね。実は、ある人を探しているんです」
「探している?」
 大家の表情が、少しだけ緩んだ。そして、
「あんた、もしかして、調査会社の人?」
「は? ......ええ、まあ。調査会社というか、事務所というか......」
「ああ、なるほどね。時々あるんですよ、そういうの。前にも、結婚相手の身元調査をしているという調査スタッフが来たことがありますよ。あのとき、うっかりべらべらしゃべっちゃってさ。大変な目にあったんですよ。調査していた相手は、DV夫から逃げていた女性でしてね。おれがしゃべっちゃったもんだから、旦那に居所がバレて。......失踪しちゃったんですよね。その後、遺体で見つかって、おれまで事情聴取されちゃったんですよ」
「遺体......」
「だから、店子の情報は絶対にしゃべらないって決めているの」
「そうですよね」
「ただね。これだけは言える。うちのアパートには、現在、七十代の女性は住んでいないってことだけは。......これは、別に個人情報じゃないよね?」
「住んでないんですね?」
「そう。だってさ、高齢者の一人暮らしなんて、孤独死が怖いじゃない。孤独死なんてされたら、事故物件になっちゃう。そしたらオオシマなんとかっていうサイトに掲載されて、世界中に晒されちゃうんですよ。それだけは、勘弁してほしい。うちらみたいな大家にとって、事故物件ほど恐ろしいものはないんだからさ」
「確かに、そうですね」
「だから、うちは、そもそも六十歳以上の単身者には貸さないの」
「住んでいる間に六十歳になったらどうするんですか?」
「今のところ、そんなケースはないですけどね。若い人にしか貸さないから。たいがいは、四年も住めば、出て行く。......ただ、二〇一号室の人だけは、ちょっと困っているんだよね。もう六年も住んでいる。このままずるずると住まれたら、ちょっと面倒だなぁって」
「あの、繰り返しますが、二〇一号室にお住まいの人は、本当に四十代男性なんでしょうか?」
「あんた、しつこいね。これ以上質問したら、警察呼ぶよ?」
「あ、すみません」
「嘘だよ。嘘。あんただって、仕事だもんね。本当は色々と教えてあげたいけどさ、このご時世だからね、勘弁してくださいよ」
 大家が、眉毛を八の字にして、苦笑いする。......本当は、仕事でもなんでもないんだけど。っていうか、私、何やってんだろう?
 急に我に返ったように、莉々子も苦笑いした。そして、
「はい。わかりました。今日はありがとうございました」
 と、深々と頭を下げたときだった。地面に落ちていた一枚の葉書が目に入った。......領収書? いや、違う。督促状だ。
 拾い上げてみると、CMでよく見るノンバンクからだった。宛名は、このアパートの二〇一号室とある。......名前は、柏木光太郎(かしわぎこうたろう)。
 たぶん、郵便受けからこぼれ落ちたものだろう。
あれ。日付が、ずいぶんと古い。半年前になっている。
「あの。これ」
 それを大家に渡すと、大家もなにか違和感を覚えたようだ。そして、突然、
「あ」
 と、声を上げた。その顔色は青い。
「まさか」
「どうしたんですか?」
「まさか、まさか」
「だから、どうしたんですか?」
「いや、でも。家賃はちゃんと入金されている。今月分だって、先週にちゃんと」
「大家さん?」
 しかし、莉々子の声は大家には届いていないようだった。大家は二〇一号室の郵便受けの中身をすべて取り出すと、それらを一枚一枚確認しだした。
「あーーーーー!」
 絞め殺される瞬間の鶏のように、大家が突然、奇声を上げる。
 ぎょっとする莉々子を尻目に、大家が慌てて、階段を上りはじめた。
 訳もわからず、莉々子もそのあとを追う。
「どうしたんですか? 大家さん?」
 しかし、相変わらず、大家の耳に莉々子の声は届いていない様子だ。
 大家は血相を変えながら、階段を駆け上っていく。そして、二〇一号室の前で立ち止まると、
「うん?」
 なんだろう。妙なニオイがする。干物でも焼いているのだろうか。いや、違う。生ゴミのニオイ? いや、それとも違う。
 大家の顔が、ますます青くなる。
 そして、くるっと向きを変えると、その隣の二〇二号室のインターホンを押した。
 出てきたのは、三十代とおぼしき、男性だった。男性は、鼻をずるずるやりながら、
「なんすか?」
「異臭がしませんか?」大家が、怒鳴るように質問する。
「いやー、どうだろう。実はぼく、去年、コロナにかかって、それきり、臭覚が変なんですよ。だから、よくわからなくて」
 うそ。こんなに妙なニオイが漂っているのに、わからない?
「医者に診せたら、蓄膿症だっていうんですよ。で、来月、手術する予定なんですけどね。......つか、大家さん、どうしたんですか?」
「二〇一号室の人、最近、見ませんでしたか?」
「いやー、見ませんね。つか、会ったこともないですね。......って、本当にどうしたんですか?」

波乱万丈な頼子

Synopsisあらすじ

法律事務所で事務職をしている高幡莉々子は仕事の一環で見つけた、ある動画チャンネルに興味を抱く。「頼子」という70代の女が、困窮した生活状況や波乱万丈な人生を語る動画だ。投げ銭だけでも相当儲けているはずなのに、やらせじゃないの? ちょっとした好奇心から莉々子は次第に取り返しの付かない事態に巻き込まれていく・・・・・・。

Profile著者紹介

1964年、宮崎県生まれ。多摩芸術学園卒業。2005年『孤虫症』でメフィスト賞を受賞し、デビュー。11年に文庫化された『殺人鬼フジコの衝動』がベストセラーに。他の著書に『坂の上の赤い屋根』『さっちゃんは、なぜ死んだのか?』『ノストラダムス・エイジ』など多数。

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