北条氏康 巨星墜落篇第二十二回
十六
軍議が終わると、城内では、兵たちに酒が振る舞われ、飯も出された。それまでは、いつまで籠城が続くかわからないので、兵たちもろくに食うことができず、常に腹を空かせていた。
兵たちは大喜びし、飲めや歌えの大騒ぎになる。心得のある者が笛を吹いたり、太鼓を叩いたりして、あたかも祭りでも始まったかのような有様である。
これは翌日も続いた。
城内の騒ぎは、城を包囲している長尾軍の耳にも入る。大手門の上に、酔っ払った兵が現れ、これみよがしに放尿する姿も見た。
「何を浮かれ騒いでいるのだ?」
「負け戦と決まって、頭がおかしくなったのではないか?」
「いやいや、そうではあるまい。諦めて降伏すると決めたから、最後に酒や兵糧を使い切ってしまおうという魂胆であろうよ」
長尾軍の兵どもは、苦々しい顔で噂をする。
彼らの待遇もいいわけではない。
敵の城を落とし、その城を略奪したときだけ、いい思いができるのだ。
臼井城が落ちれば、飯も食えるし、酒も飲めると期待している。
にもかかわらず、彼らが飲み食いするはずのものを城兵が腹に詰め込んでいるのが悔しくてならないのである。
浄三(じょうさん)は、長尾軍の陣中には殺気が満ちていると言ったが、今では、それに憎悪も加わった。自分たちの腹に入るはずだった飯や酒を減らしている者たちに対する深い憎しみである。
長尾景虎も兵どもと同じように考え、腹を立てた。
「素直に降伏すれば、かわいげもあるものを、何だ、あの騒ぎは! 笛や太鼓で浮かれ騒ぎおって。捨て鉢になったのか」
降伏勧告などせず、さっさと攻め潰してしまえばよかったと後悔するが、二日間の休戦期間を与えたのは自分だから、律儀にその約束を守るつもりでいる。どうせ明日には負けを認めて開城するのだ、最後の悪あがきであろう、と自分に言い聞かせる。
が......。
翌朝、すなわち、二十三日の早朝、城から長尾軍に向けて矢が放たれた。その矢には書状が結びつけてある。すぐに景虎の元に届けられた。
そこには、城がほしければ攻め落としてみよ、と記され、胤貞(たねさだ)の署名がある。
これを読んで、景虎は激怒した。
元々、血の気が多く、短気なのである。
本当ならば、とっくに落城させていたはずなのに、温情をかけて、開城降伏を勧めた。開城すれば、城兵の命を助けるとまで申し出た。寛大な慈悲を示してやったのである。
にもかかわらず、その厚意を踏みにじり、人を馬鹿にしたように浮かれ騒いでいる。
景虎は顔が真っ赤になるほど怒り、
是程の小城何程の事あるべき。唯一責にもみ落せ
こんなちっぽけな城、ひと思いに攻め潰してしまえ、と命令したわけである。
怒っているのは景虎だけではない。
お祭り騒ぎをして、酒や飯を食らう城兵に長尾兵も怒り心頭なのだ。
長尾軍を怒らせて冷静さを失わせる......それが浄三の狙いであり、そのためにお祭り騒ぎを演出したわけだが、見事にうまくいった。
直ちに長尾軍が臼井城に押し寄せる。
最後の堀がまだ残っているので、堀を越えられる場所は限られており、城の四方から同時に攻めかかることはできない。
長尾兵が堀を越え始めたのを見ると、突然、大手門が開き、城から騎馬と歩兵、合わせて三百ほどが打って出た。原大蔵丞(はらおおくらのじょう)と高城胤辰(たかぎたねとき)の率いる第一陣である。
一万五千という大軍が城を包囲しているといっても、そのほとんどは、まだ堀の向こう側にいる。
堀を渡ったのは、五百人ほどに過ぎない。
そこに城方が襲いかかったわけである。
三百と五百だから、数だけ比べれば、長尾軍の方が多いが、この状況で、その程度の兵力差は何の意味も持たない。
長尾軍は、城方は籠城すると決めつけており、まさか城から出てくるとは想像もしていない。動揺し、慌てた。城方の騎馬武者が駆け巡ると、長尾兵は算を乱して逃げ惑った。
彼らは堀の向こう側の味方の陣地に逃げ戻ろうとする。
しかし、そこには堀を渡ろうとする味方が満ちているから、押し合いになって身動きが取れなくなる。
そこに城方の騎馬武者と歩兵が攻めかかる。
もはや合戦ではなく、一方的な攻撃である。
「馬鹿者めが、何をしているのか。さっさと堀を越えて攻め進め」
堀の向こうで馬を走らせながら、景虎が兵を叱咤する。
兵たちは必死に堀を越えようとするものの、最初に堀を越えた兵たちは城方に攻められて戻ろうとする。味方同士が揉み合って身動きが取れないという混乱がしばらく続き、その間に多くの長尾兵が討ち取られた。
しかし、何といっても兵力の差は大きい。
徐々に堀を越える長尾兵が増え始め、疲れの見え始めた城方の第一陣を押し戻し始める。
重い鎧を着用し、馬上で刀を振り回す騎馬武者が元気に戦うことができるのは、せいぜい、一時間くらいのものである。歩兵にしても、槍や刀を手にして敵と戦えば、三十分で筋肉が強張って腕の感覚がなくなると言われる。
疲労した第一陣は大手門に向かって退却を始める。
それに長尾兵が追いすがる。
そこに、第二陣の五百が城から打って出た。
大手門と堀の間で激しい戦いが行われる。
全体としては城方が優勢である。
長尾軍は出だしで躓いて劣勢となり、その状況を改善することができない。あちらこちらに死傷した兵が倒れているが、それを助ける余裕すらないのである。
(おのれ)
味方が押されているのを眺めて、景虎が地団駄踏んで悔しがる。
野戦には滅法強いが、城攻めは得意ではない。
だからこそ、降伏開城の勧告までしたのである。慈悲深いから、そうしたのではない。城攻めが得意なら、そんな悠長なことをせず、さっさと攻め落としたであろう。
そもそも野戦と城攻めは戦い方がまるで違う。
野戦においては臨機応変に柔軟な対応が必要とされる。自分も敵も動いているのだから、当然、そうなるわけである。硬直したやり方では敵の動きに対応できないのだ。
その点、景虎には天才的な閃きがあり、敵の動きを察知して、その一歩先の手を打つことができる。常に敵に先んじて兵を動かすから負けないのだ。その閃きは、どれほど兵学を学んでも身に付くものではなく、持って生まれた才能と言うしかない。
だが、城攻めでは、そうはいかない。
城は動かない。
敵の動きに対応して、その先を読んで叩くという景虎が得意のやり方が通用しない。
城攻めをするときは、将棋を指したり、囲碁を打つように、定石を踏まえて、着実に城方を苦しめていくという、真綿で首を絞めるやり方をしなければならない。
そういう意味で、城攻めは知識の積み重ねがモノを言う。野戦が天才の活躍する領分だとすれば、城攻めは秀才が活躍する領分なのだ。
定石から外れたやり方で、常に野戦で勝利をつかんできた景虎が、城攻めのときだけ定石を踏まえるなどということができるはずがない。天才は常に天才であり、いきなり秀才になることはできない。
城攻めの名人といえば、武田信玄である。
景虎の好敵手だが、戦のやり方はまるで違っている。
臼井城を攻めているのが信玄であれば、何はともあれ、城の周囲に巡らされている堀をすべて埋めてしまい、裸城にしてから、ゆっくり攻めるであろう。堀のなくなった平城など、一日で攻め落とすに違いない。
景虎の失敗は、堀をひとつ残した状態で総攻撃を命じたことである。わずかひとつだし、幅もそれほど広くないし、深くもない。
だから、甘く考えた。
天才ならではの過ちである。
堀を埋めてから、四方から総攻撃を始めていたら、浄三も為す術がなかったに違いない。
現実には、城の周囲にはまだ堀がひとつ残っており、その堀が長尾軍を足止めしている。かろうじて堀を越えた長尾兵は、城方に追い立てられ、次々に討ち取られている。
城方の第二陣も縦横無尽に長尾軍を蹴散らし、疲れが見えてきた頃、第三陣と交代した。
実は、この第三陣こそが、この攻撃の核である。
佐久間主水介と松田孫太郎の率いる八百は、第一陣、第二陣のように大手門と堀の間で戦うのではなく、積極的に堀を越え、長尾軍に攻めかかっていく。
出撃前、浄三は、
「長尾兵などほうっておきましょう。要は、長尾殿の御首級を奪ってしまえば、この戦には勝てるのですから」
と、主水介と孫太郎に言い含めた。
つまり、八百人が一団となり、景虎の本陣を襲って、景虎を討ち取ろうというのである。
単純で大胆な策だが、きちんと味付けがなされている。
いきなり本陣を衝こうとしても、長尾軍の分厚い壁に跳ね返されただけであろうが、第一陣と第二陣が長尾軍を混乱させたため、分厚い壁には隙ができている。その隙を衝き、主水介と孫太郎は真っ直ぐに本陣を目指す。人為的に隙を作ったのが浄三のうまいところで、絶妙な味付けと言っていい。
景虎を捜すのは容易である。景虎のそばには常に毘沙門天の旗が翻っているからだ。
このときの長尾軍の対応が、どれほど長尾軍が混乱していたかを如実に象徴している。
戦況を冷静に分析すれば、本陣に迫る敵は、わずか八百人に過ぎないのだから、本陣の前に二重三重の防御陣を敷き、敵を食い止めている間に左右から包囲すれば、城方は為す術がなかったであろう。信玄ならば、そうしたに違いない。
しかし、景虎は、城方が本陣に突撃するのを見ると、
「おのれ、わしに勝負を挑もうというのか。面白い。受けてやろう」
すっかり頭に血が上り、自ら敵軍を迎え撃とうとした。
総大将がこんな有様なのだから、落ち着いて敵を迎撃しようと対処できる者がいない。
結局、本陣に迫る敵軍に個別に立ち向かうという、最悪の格好になる。
景虎が無事だったのは、ふたつの幸運のおかげである。
ひとつは景虎の旗本衆が死に物狂いで戦ったこと。
もうひとつは夕闇が迫ってきたことである。
夕闇に紛れ、景虎の本陣は後退した。
松田孫太郎は、それを追いかけようとしたが、
「ここまででござる。城に引き揚げましょうぞ」
主水介が止めた。
「くそっ、あと一歩のところだったのに」
孫太郎は歯軋りして悔しがるが、ここで深追いすれば、自分たちが退路を断たれ、敵軍の中で孤立して自滅する、ということはわかる。
やむを得ず、主水介と孫太郎は兵をまとめて城に引き揚げる。
この日の戦いは、圧倒的に城方の勝ちである。
長尾軍がこれほど無様な戦をするのは初めてであった。
Synopsisあらすじ
一代にして伊豆・相模を領した祖父・北条早雲、その志を継いだ父・氏綱、そして一族の悲願・関東制覇を期する氏康――氏政に家督を譲ったものの、長尾景虎の猛攻に氏康は気の休まる時がない。危うい局面を武田信玄との同盟で凌いできたが、西から新たな危難が迫る……北条三代目の物語もいよいよ大団円!
Profile著者紹介
1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。
「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。
〈北条サーガTHE WEB〉
http://www.chuko.co.jp/special/hojosaga/
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