影なき街角 第12回
通りは、ひっそりと湿った霧に包まれ、静かに眠っている。ときおり、霧の中から馬のひづめの音が、聞こえてくる。辻馬車が、夜遊びをした者をつかまえては、行ったり来たりしているのだろう。
人通りはなく、ときどきそうした辻馬車と、行き違うだけだ。
スペンサーは、ブロックごとに背後の様子をうかがったが、アープとハメットの向こうには、濃い霧が広がるだけだった。足音を含め、怪しい音は何も聞こえてこない。
先刻の狙撃者が、アープの言うフランク・スティルウェル、とやらの一味の者だとしても、今夜はもう襲って来ないだろう。一味にとって、アープを狙う機会はほかにいくらでも、あるはずだからだ。
とにかく今夜のように、応戦するのがむずかしい状況での撃ち合いは、願い下げにしたい。相手方にしても、こんな霧の出た夜にアープを狙ったところで、目的を果たすのはむずかしいはずだ。警告かいやがらせかの、どちらかに違いない。
ほどなく、マーケット通りに出た。
アープは、古いビルの角を右へ曲がって、さらに歩き続ける。
五分ほどで、何ごともなく目的の店、〈アルハンブラ・サルーン〉に着いた。
スペインの古都、グラナダにあるアルハンブラ宮殿を模した、豪華な飾り付けのファサード(正面)が、何よりの目印だ。
スペンサーの知る限り、この店はダンス・フロアとテーブル席の部分、それに賭博場とバーの部分を低い木の柵で仕切った、広すぎるほど広い床面積を売り物にしている。
ダンス・フロアの奥には、一段高くなった広いステージがある。何もないときは、西部のバファロー狩りの様子が描かれた、豪華な緞帳(どんちょう)で奥が隠されている。
そこで一日に何度か、にぎやかなレビューが行なわれる。
レビューとは、パリでだいぶ前からはやっている、歌と踊りと寸劇をごちゃまぜにした、にぎやかなショーのことだ。
スペンサーも何度か見物したが、その昔トゥムストンなどで見たものとは、踊り子も衣装も、仕掛けも演出も、まるでレベルが違っている。その豪華なステージに比べれば、アリゾナやネヴァダのレビューなど、けちな田舎(いなか)芝居にしか見えない。
ほんとうのオーナーが、アープだとは思いもしなかったが、とにかくなかなかの事業家ではある。
そんなことを考えているあいだに、アープはサルーンの横の細い路地にはいり、スペンサーとハメットに手を振って、合図した。
「一緒に中に、はいってくれ。今夜、護衛してくれたお礼に、一杯ごちそうしよう」
それを聞いて、スペンサーはさりげなく振り向き、ハメットを見た。
通りの、薄明かりを背にしたハメットは、御意のままにとでも言いたげな風情で、小さく肩をすくめた。
スペンサーが向き直ると、アープはそのまま路地を奥へはいって行った。二人は、そのあとに続いた。
アープが、十数ヤードはいったところで足を止め、どこかを軽く蹴りつける。
すると、右側の壁の上に小さな明かりがつき、その下にあるに頑丈そうな鉄のドアが、目にはいった。どうやらそこが、裏口らしい。
アープが鍵をあけ、重そうなドアを一人で軽がると引きあけて、スペンサーとハメットを中に入れる。
同時に明かりがつき、そこに小さなホールが現れた。
左に延びる、細い廊下が見える。
アープはその廊下を、奥のマホガニーの重そうなドアまで進み、鍵をあけて中にはいった。スペンサーとハメットも、あとに続く。
そこはアープ用の、個室になっているらしい。
趣味のいい、応接用のテーブルとソファのセット。
側板に、葛(かずら)の彫刻が施された、玉突き台ほどもある大きなデスク。
奥のサイドボードには、ずらりと種々雑多なボトルが、並んでいる。まず、おもてのバーでは目にしたことのない、珍しい高級酒ばかりだった。
スペンサーは思わず、生唾をのんだ。
アープが、サイドボードの酒棚に近づいて、古いブランデーのボトルを取り出す。
さらに、いかにも高級そうなグラスを三つ用意して、慎重に酒をついだ。それを二人に手渡し、自分のグラスも取り上げる。
グラスに顔を近づけただけで、豊かな香りが鼻のあたりをおおい尽くし、スペンサーはちょっとたじろいだ。
思わず、グラスから口を遠ざけて、軽く咳き込む。生まれて初めて嗅ぐような、かぐわしい香りだった。
これまでも高級な酒を、飲んだことがないわけではない。しかし、これほど芳醇な香りの酒には、出会ったことがない。
一方のハメットは、たいして驚いた様子もみせなかった。
そのあたりの、安いバーボンでも手にしたように、無造作にグラスの中身をぐいと、半分くらい空けてしまう。
咳き込みもせず、赤ん坊がミルクでも飲んだような、満足げな顔をしている。
これには、さすがのアープもあきれたらしく、軽く含み笑いをした。
「もう少し、味わって飲んでもらいたいな、ハメット君。いや、これからはダッシュ、と呼ばせてもらおう。かまわんだろうね、ダッシュ」
ハメットは、気まずそうな笑みを浮かべた。
「もちろんです。恥ずかしながら、酒の飲み方を知らないので、申し訳ありません。ぼくは、もともと酒の善し悪しに、こだわらない方でしてね。要するに、酒であればなんでもいいわけで、高級な酒でも安い酒でも酔い方は、まったく変わらないとくる」
アープは苦笑し、あきれたというように首を振って、自分のグラスに口をつけた。
それを見て、スペンサーも一応注意しておこうと、ハメットに声をかける。
「ダッシュ。二杯目からはもう少し、味わって飲むようにしたまえ。せっかく、アープさんが珍しい酒を、ごちそうしてくださるんだからな」
ハメットは、わずかに恥じらうような笑みを、口元に浮かべた。
「すみません。いつも忙しくしているので、急いで飲む癖がついてしまって。それに、ちびちび飲むと、妙に悪酔いするんですよ」
アープが、指を立てて言う。
「この酒は、急いで飲んでもちびちび飲んでも、悪酔いすることはないよ。寝る前に飲むには、うってつけの酒といってもいい」
ハメットは、アープに目を向けた。
「ぼくは、寝酒をしないんです。むしろ、気持ちよく酔ったときは、眠るのがもったいなくなるたちでね」
それを聞いてスペンサーは、場を取り繕う必要があるような気がして、アープに話しかけた。
「たぶん、ダッシュは髭も生えないうちから、手当たりしだいに酒を飲んできたので、かえって味が分からなくなったんですよ」
冗談めかして言うと、アープは短く笑って応じた。
「わたしも子供のころ、安いバーボンに慣れ親しんできたせいで、だんだんいい酒を飲まなくなってしまった。まずい酒だと、そうたくさんは飲めない。結果的には、それがよかったのかもしれんよ。おかげで、ほとんどしらふのまま保安官の仕事を、まっとうできたわけだからな」
「いや、まったく。おっしゃるとおりです。いわゆる拳銃使いで、アープさんのように長生きしている人は、めったにいないでしょう」
アープが、小さく肩をすくめる。
「それは、わたしが勇敢だったからではないし、射撃がうまかったからでもないよ。ただ単に、どんなときでも頭に血がのぼらず、冷静でいられたからにすぎないんだ。それと、体が丈夫だったことも、あるだろう。もしかすると、それがいちばんだったかもしれん」 スペンサーは、もっともだというしぐさで、大きくうなずいてみせた。
いかにもアープらしい、おもしろくない返事だった。
ハメットが、唐突に言う。
「酒を飲むと、むしろ眠れなくなりますね、ぼくの場合は。頭が冴えてきて、頭の中におもしろい話の筋が次から次へと、浮かんでくるものですから」
それを聞くと、アープはにわかに興味を引かれたように、目を光らせた。
「ほう、おもしろい話の筋、とね。きみは作家にでも、なるつもりでいるのか」
「いや、そんなつもりはありません。ただ、本を読むのは子供のころから、好きでした」「たとえば、どんな本を読んできたのかね」
ハメットは、ブランデーを一口飲んで、少し考えた。
「ほとんどが、ダイム・ノヴェル(三文小説)ですね。キルケゴールも読みましたが、くだらないので途中でやめました」
ハメットの口から、ダイム・ノヴェルとキルケゴールの名前が、同時に出るとは思ってもみなかったので、スペンサーはあっけにとられた。
アープは、キルケゴールを知らなかったとみえ、咳払いをして話を変えた。
「実は、ときどき新聞記者や伝記作家から、わたしの評伝を書かせてくれ、という申し出があるのだ。つまり、わたしから昔話を聞き出して、それをまとめる気でいるらしい。もし、きみにそのような仕事をする気があるなら、考えてみてもいいぞ」
それを聞くなり、スペンサーはほとんど度肝を抜かれて、ハメットを見た。
ハメットは、驚いた様子も見せずに笑みを浮かべ、ブランデーを飲み干した。
一息ついて言う。
「それはぼくには、まだ荷が重いですね。アープさんの、お仕事や生き方をきちんと理解するには、もう少し人生経験を積む必要があります」
アープは、何か言おうとするように手を上げかけたが、途中でやめて口をつぐんだ。
自分でも、妙なことを口走ってしまった、という顔つきだ。
スペンサーは、そのすきにもう一口だけ酒を飲み、グラスを置いた。
ハンカチで口元をぬぐい、もう十分だという意思表示をする。これ以上飲んだら、際限がなくなりそうだった。
それを思うと、こんな高級な酒を息も継がずに、二口で飲んでしまうハメットの、野放図なふるまいには、舌を巻かざるをえない。この若さで、これほどの飲みっぷりを披露するとは、まったくもって驚くべき若者だ。
アープが、それを見て眉一つ動かさないことも、意外だった。よほど、ハメットのことを気に入った、としか思えなかった。
それならそれで、対応を考えなければならない。明日の正式契約のとき、ハメットを正式にアープの護衛担当にしてやる、という手もある。
そう肚(はら)を決めると、ようやく少し気分が落ち着いてきた。
Synopsisあらすじ
1911年、サンフランシスコ。ピンカートン探偵社支局長のクリストファ・スペンサーは捜査の途中、路地で不良少年たちに襲撃を受ける。窮地を救ったのは白い麻のスーツを着た長身の男。彼は名前を、ハメットと名乗った――。逢坂剛が敬愛する作家・ダシール・ハメットを題材に描く、新たな探偵小説、開幕!
Profile著者紹介
1943年東京生まれ。80年『暗殺者グラナダに死す』でオール讀物推理小説新人賞を受賞しデビュー。86年に刊行した『カディスの赤い星』で直木賞、日本推理作家協会賞、日本冒険小説協会大賞をトリプル受賞。2013年に日本ミステリー文学大賞、15年には『平蔵狩り』で吉川英治文学賞を受賞。「百舌」シリーズや「長谷川平蔵」シリーズなど著作多数。
Newest issue最新話
- 第18回2024.12.27