影なき街角第1回


1

 一九一一年六月十三日、午前零時十分。
 夜霧に包まれた、サンフランシスコの市街は半ば、死んでいた。
 風もないのに、空き缶らしきものが横手の路地を、転がる音がする。犬か猫か酔漢(すいかん)か、あるいは不良少年どものしわざか、いずれかだろう。
 すでに、日付が変わって火曜日になり、人通りは途絶えてしまった。今はやんだが、ついさっきまで、小雨が降っていた。
 ピンカートン探偵社のサンフランシスコ支局長、クリストファ・スペンサーは小太りの体を揺すりながら、湿った敷石の上を歩き続けた。レインコートを着てはいるが、夜霧が容赦なくまとわりつくので、気持ちが悪い。
 スペンサーは今、トレンチコートを体にしっかり巻きつけた、トゥスピック・ドノヴァンを、尾行していた。ドノヴァンは、のべつ爪楊枝(トゥスピック)をくわえる癖があるので、そう呼ばれているのだ。
 その夜、スペンサーはたまたま、この市を東西に走るサター街と交差する、ブキャナン街を少し南にはいった、〈サクラフジ〉というバーに立ち寄った。そこでゆくりなくも、ドノヴァンと行き合った。暗いカウンターの端から、反対側の端にすわるドノヴァンを、目ざとく見つけたのだ。もちろん向こうは、スペンサーを知らない。
 そこは、日本人向けのアパートやホテル、商店、飲食店などが建ち並ぶ、いわゆるジャパンタウン(日本人街)と呼ばれる区域の、最北端にあるバーだった。その一郭は、チャイナタウン(中華街)に比べて治安がよく、まっとうな商売をする店が多いことから、深夜でも比較的安全なのだ。
 スペンサーも、実物のドノヴァンと顔を合わせるのは、初めてだった。
 しかし、爪楊枝の癖と半分ちぎれた左の耳たぶで、支局に張ってある手配書の記述を、すぐさま思い出した。人相書きの絵はあまり似ていないが、細かく書かれた説明書きの方は、本物とぴったり合っていた。
 ドノヴァンは、このサンフランシスコでは、まだ悪事を働いた形跡がない。
 しかし、中西部のカンザス州では、数カ月前からお尋ね者になっている、と聞いた。同州の、トピーカやダッジシティなど、複数の町で発生した未解決の銀行強盗事件が、ドノヴァンとその一味のしわざとされ、州内と周辺の州に手配書が回っているのだ。
 むろん、ピンカートンのサンフランシスコ支局にも、カンザス支局からそれが届いていた。
 ドノヴァンたちの、荒っぽく容赦のない仕事ぶりから、一味は三、四十年前に開拓時代の西部を荒らし回った、リーノウ兄弟やジェームズ兄弟、ヤンガー兄弟などの強盗団にも匹敵する、悪党の集団といわれた。
 一味が所持している銃器は、一発ごとに撃鉄を起こさなくても、引き金を絞るだけでシリンダー(輪胴)が回る、より使い勝手のよいリボルバー(回転式拳銃)だった。早撃ちに向いた、開拓時代のシングル・アクションの拳銃は、相対的に少なくなっている。
 州を超えて活動が可能な、FBI(連邦警察)は三年前の、一九〇八年に創設されていたが、まだ組織が十分に整わず、満足に機能していなかった。開拓時代の連邦保安官も、新設されたFBIに吸収されるよりも、州警察に鞍(くら)替えする者の方が多かった。その州警察も規模からして、他州での捜査活動までは手が回らず、州同士の連携はないに等しい。
 しかし東海岸から西海岸まで、広い捜査網を持つピンカートン探偵社は、州境にかまわず捜査活動を行なっている。さらに、どの州であろうと遠慮なく、容疑者を捕縛したりもする。したがって州警察も、他州にまたがる犯罪の捜査については、ピンカートンの持つ捜査網を、当てにするところが少なくなかった。ピンカートンが、捕らえた容疑者を手配地域の州警察に引き渡せば、そこで正式に逮捕、取り調べが行なわれ、裁判にかけることが可能だ。
 そればかりではない。
 かりに、逮捕時に格闘や撃ち合いになった場合、たとえ相手の犯罪容疑が確定していなくても、ピンカートンの探偵が暴行罪や傷害罪、さらには殺人罪に問われることはない。 そんな次第で、今やピンカートン探偵社は、州を超えて全米にネットワークを張る、一大捜査組織になり上がった。東部はもちろん、カンザス州より西の西部各州の主要都市にも、数多くの支社や拠点を持ち、悪党どもの動静に目を光らせている。
 そのためピンカートンは、悪党連中から連邦警察や州警察以上に恐れられ、蛇蝎(だかつ)のごとく嫌われる存在に、のし上がっていた。
 この探偵社は、南北戦争のおりに北軍の情報局を指揮し、リンカーン大統領の護衛を務めた、アラン・ピンカートンによって設立された。その後、二人の息子がアランの遺志を継いで、今日の地位と規模を築き上げたのだった。今やピンカートン探偵社は、全米の犯罪の摘発に欠かせない、絶対的な存在になっていた。
 ともかく、スペンサーとしてはたとえ偶然にしろ、カンザスから手配されたドノヴァンを目にした以上、ほうっておくわけにいかなかった。むろん、いきなりは捕縛できないにせよ、この町でのねぐらを突きとめるだけでも、むだにはならない。明日以降、ドノヴァンの動きをひそかに見張って、悪事に取りかかるタイミングで捕らえれば、確実に支社のお手柄になる。
 濃い霧は、近距離で尾行しても気づかれにくい、という利点がある。しかし逆に、気を緩めれば簡単に見失う恐れがあるので、瞬時も油断するわけにはいかない。
 かといって、あまり近づきすぎれば尾行を悟られ、まかれる恐れが出てくる。それだけに、こうした深夜の尾行には細心の注意が必要で、いつもの何倍も神経をすりへらすことになる。
 相手が相手だけに、ベテランのスペンサーもさすがに、緊張していた。
 ガス灯の明かりも、こうした濃い霧の中ではほとんど、役に立たない。むしろ、光源の周囲が妙に明るいために、下の歩道が暗闇に沈んでしまう。
 ドノヴァンの歩く足音は、バーを出たときから少しも変わらず、一定のリズムを刻んでいた。ドノヴァンをはじめ、ひとかどの悪党なら後ろから来る足音には、人一倍敏感なはずだ。少しでも異常を感じれば、すぐに警戒心を抱くだろう。そのためにスペンサーは、いつも足音のしないラバーソールの靴を、はいているのだ。
 今、ドノヴァンの足音はメトロノームのように、正確なリズムを刻んでいる。
 スペンサーは逆に、そのことが気になった。もしかすると、途中でだれかがあいだに割り込み、ドノヴァンと入れ替わったのではないか、という不安を覚える。
 いや、そんなはずはない。
 ドノヴァンの足音は、終始途切れていない。耳には自信があるつもりだ。
 ブキャナン通りを南にくだったドノヴァンは、日本人街のメインストリート、ポスト街を横切って、次のゲアリ街との交差点に向かった。日本人街を離れるにしたがい、看板の明かりはほとんど、消えてしまう。まれに、灯がついているのはいかがわしいバーか、女を斡旋する店くらいのものだ。
 ドノヴァンがチャイナタウンでなく、ジャパンタウンのゲイシャ・サロンにはいったのには、理由があるだろう。チャイナタウンは、すねに傷を持つ連中がよく潜伏するため、市警察の目が光っている。中には、市警察に寝返って仲間を売る、仁義知らずの悪党も少なくない。その危険を避けるために、ドノヴァンは安全なジャパンタウンの店を、選んだに違いないのだ。
 スペンサーは、ドノヴァンについてゲアリ街の方へ向かった。
 ゲアリ街に出るまでは、右側に口をあける細い路地が、何本かある。
 そうした路地は、昼間こそ人通りのある普通の抜け道だが、夜になると浮浪者や不良少年が集まり、ゆすりやたかり、かっぱらいを働く、物騒な路地だ。
 ドノヴァンは、ゲアリ街にぶつかる二本手前の路地に、迷う様子もなく曲がり込んだ。 スペンサーは、急いでその角に身を寄せ、耳をすました。足音が規則正しく、遠ざかっていく。
 片目でのぞくと、その路地は数十ヤード先が突き当たりの、T字路になっていた。正面の煉瓦の壁に、ぼんやりと霧ににじんでともる、街灯の光が見える。
 その霧の中に、街灯へ向かってまっすぐに歩き続ける、ドノヴァンの影が浮かんだ。それがしだいに、霧に紛れて遠ざかりつつある。この一本道では、途中でどこかの建物にはいるか、突き当たって右か左に曲がるか、どちらかしかないだろう。
 いずれにせよ、それまで待っているわけにはいかない。ここで見失ったら、今度はいつ出会えるか、知れたものではない。
 スペンサーは路地にはいり込み、霧ににじむ行く手の街灯の明かりを頼りに、濡れた石畳の上を走り出した。体は重いが、鍛えた足には自信がある。足音を立てずに走るのも、得意中の得意だ。
 路地を半ばまで来たとき、先を行くドノヴァンが突き当たりのT字路に、到達した。そこは衝立のような、赤レンガの壁になっている。
 ドノヴァンは、迷う様子もなく左へ曲がった。
 それを見失うまいと、スペンサーは全力で走った。
 壁まであと十ヤードほどに迫ったとき、少し先の壁際に立っていたドラム缶が、急に大きな音を立てて倒れ、転がり始めた。それも、一つだけではない。三つ四つ、いちどきにスペンサーを目がけ、殺到してきたのだ。
 スペンサ―は、あわてて先頭のドラム缶をよけ、二つ目を横へはじき飛ばそうとした。 そのとたん、ドラム缶から転がり出て来た人影が、ものも言わずに飛びかかってきた。街灯の明かりに、継ぎだらけのデニムのつなぎを着た、少年の姿が見えた。
 それを押しのけるより早く、別のドラム缶から飛び出した、同じような格好の仲間たちがどっとばかり、スペンサーに襲いかかる。スペンサーはたちまち、不良少年の群れに手足を抱え込まれて、その場に引き倒された。
 頭目らしい少年が、レンガのようなものを拾い上げ、頭に叩きつけようとする。
 スペンサーは顔をそむけ、かろうじてそれを避けた。しかし、肩口に一撃を食らって、苦痛の声を漏らす。
 たちまち、体中に少年たちの拳やレンガが、降ってきた。スペンサーは、無我夢中で腕を振り放し、頭を抱え込んだ。
 そのとき突然、背の高い人影が少年たちの背後に現れ、レンガを持った少年の頭を棍棒のようなもので、無造作に殴りつけた。さらにその手を止めず、別の少年たちの腕や足を立て続けに、打ちのめしていく。
 少年たちは悲鳴を上げ、たちまち浮足立ったと見る間に、路地をレンガ塀とは反対の方向へ、こけつまろびつ逃げ出した。頭をどやされたあげく、スペンサーから引き離された少年も、足元を乱しながら仲間のあとを追い、駆け去って行く。
 受けに回ると、まるでだらしのない連中だった。
 少年たちの足音が遠ざかると、やおら頭の上から声が降ってくる。
「だいじょうぶですか」
 腕をつかまれ、助け起こされたスペンサーは、なんとか立ち上がった。
 肩に痛みが走ったが、さいわい骨が折れた様子はない。
「ありがとう。助かりました」
 礼を言って、相手を見る。
 白い麻のスーツを着た、たっぷり六フィートはありそうな長身の男が、スペンサーの顔をのぞき込んだ。
 口髭を生やしているが、街灯の明かりによくよく見直すと、襲ってきた少年たちとさして変わらぬ、まだ十代の若者のようだった。
 若者は、手にした棍棒らしきものを、腰の後ろにしまった。
「こんな時間に、一人でこのあたりの路地を通り抜けようなんて、むちゃもいいところですよ。十中八九、ああいうやつらに襲われますからね」
 豊かな銀髪に、鋭い目つきの若者だ。
 スペンサーは、ちらりと奥のレンガ塀に、目を走らせた。むろんドノヴァンの姿は、とうに消えている。
「まあ、それは承知してるんだが、ちょっと人を追っていたものでね」
 正直に言うと、若者は壁に顎(あご)をしゃくった。
「それらしい男なら、そこを左の方へ曲がって行きましたよ」
「ああ、知っている。おれも見た」
「曲がって少し行くと、〈ノバ・フリスコ〉という深夜営業のバーが、まだ店をあけている。そいつは、そこへ行ったんじゃないですか」
 それに答えず、スペンサーは若者の顔を、見直した。
「このあたりに、詳しいようだね。今のがきたちも、相手があんたと分かったとたん、逃げ出したようだが」
「あいつらが、夜中にこのあたりの路地で悪さをするのを、ときどきこらしめてやるからです。一人じゃ何もできない、根性なしのがきどもでね」
「それが、あんたの仕事かね」
「仕事じゃないけど、フリスコ(サンフランシスコの俗称)にはこういう物騒な場所が、あちこちにあります。ときどき巡回して、不良少年どもに痛い目を見せてやるのが、楽しみの一つでね。この街の、こうした危ない地区のほとんどは、頭の中にはいってます」
 若者はそう言って、握ったままだったスペンサーの腕を、やっと放した。
 スペンサーは、崩れたレインコートの形を直しながら、口を開いた。
「ともかく、助けてくれて、ありがとう。お礼に、その〈ノバ・フリスコ〉とやらで、一杯ごちそうしよう。ビールくらいなら、かまわんだろう」
「いいですよ。ごちそうになります」
 若者はうなずき、並んで歩きだした。スペンサーより、頭一つ分背が高い。
 バー〈ノバ・フリスコ〉はまだ開いていたが、むろんドノヴァンの姿はなかった。というより、客はだれもいなかった。
 L字形の、カウンターだけの小さなバーで、顎髭を生やしたメキシカンらしい男が、しわくちゃの新聞を読んでいた。
 若者と肩を並べて、奥の隅のストゥールにすわる。
 スペンサーはバーボンの水割りを頼み、若者にはビールを注文してやった。
 グラスと瓶をぶつけて、乾杯する。
「ともかく、さっきは助かった。おれは、クリス・スペンサーだ。あんたの名は」
「ぼくは、ハメットです。サミュエル・ダッシュ・ハメット。H-A-M-M-E-T-Tと綴ります。ダッシュ、と呼んでください」
「そうか。助けてくれて、ありがとうよ、ダッシュ」
「どういたしまして、ミスタ・スペンサー」
「こっちもクリス、と呼んでくれていい。あんたは、学生か」
 スペンサーの問いに、若者は肩をすくめた。
「前は、高校にかよってたけど、中退しました。今は鉄道会社で、警備員をしています」 スペンサーは酒を飲み、サミュエル・ダッシュ・ハメットと名乗った若者の、腰の後ろに、うなずきかけた。
「さっき、そこへしまった小型の棒は、ブラックジャックだろう。革の袋に、砂を詰めたやつのことだが」
 ハメットは顎を引いて、瞬きをした。
「そうです。手製ですけどね。ブラス・ナックル(手にはめる真鍮の武器)もほしいんだけど、まだ手にはいらなくて」
「そんなに、喧嘩(けんか)の道具を集めて、どうするんだ」
「護身用ですよ。この街も近ごろ、中西部の連中が流れ込んで来たりして、物騒ですからね」
「それは知ってるが、中西部から来た連中はまず例外なしに、六連発を持ってるんだ。ただの喧嘩道具じゃ、太刀打ちできないぞ」
 ハメットは、また肩をすくめた。
「それでも、切符の料金を着服する車掌(しゃしょう)をこらしめて、自白させるのには役立ちますよ」
 スペンサーは、ハメットの顔を見した。
「鉄道会社には、そんな悪い車掌がいるのか」
「まあ、たいした数じゃありませんがね。四人に一人くらいかな」
 その返事に、つい苦笑が出る。
 ハメットは続けた。
「一人見つけるごとに、会社からご褒美が出るんですよ。メッセンジャーの仕事より、稼ぎがいいこともあります」
 口ばかりでなく、実際に腕に覚えのある若者のようだ。先刻の立ち回りを見ても、それは明らかだった。
「親兄弟はどうしてる」
 試しに聞くと、ハメットは軽く肩をすくめた。
「親父が飲んだくれなので、おふくろと姉とぼくと弟、みんなで稼いでます」
「そいつはたいへんだな。それで食っていけるのか」
「おっつかっつですね。割りのいい仕事があれば、いつでも転職するんですが」
 スペンサーは、少し考えて言った。
「もしその気があるなら、助けてくれたお礼に別の仕事を、紹介してやってもいいぞ。あんたは若いのに、けっこう腕が立つようだしな」
 ハメットが、興味を引かれたように、目を光らせる。
「殴り合いや取っ組み合いには、いささか自信があります。どんな仕事ですか」
「おれが働いてる会社だが、メッセンジャーの仕事よりは、ずっと割りがいいはずだ」
 ますます興味を引かれたらしく、ハメットは顔をのぞき込んできた。
「なんという会社ですか」
「ピンカートンだ。探偵や調査の仕事をしている」
 スペンサーの返事に、ハメットはわずかに身を引いた。
「ピンカートン探偵社ですって。ええ、聞いたことがありますよ。労働争議に、スパイの探偵を送り込んで、労働者を内側から押さえ込むのが、主な仕事なんでしょう」
 スペンサーは、また苦笑した。
 確かに、世間ではそのように見られることが多いが、こんな若者までそう思い込んでいるとは、いささか業腹だった。
「まあ、そうした案件もなくはないが、それはごく一部にすぎないよ」
 ほんとうのことは、さすがに口にしにくい。
 ハメットは長めの首を、ひょこひょこと動かした。
「それはともかく、もともと探偵社というのは、浮気してる旦那や奥さんのあとをつけ回す、あまり日当たりのよくない仕事だ、と聞きましたがね」
 スペンサーは、首筋を掻いた。
「うちの会社は、そういうけちな仕事はやらないんだ。たとえば、逃亡中の殺人犯や強盗犯、それに横領犯や詐欺犯などを、探し出してつまかえるのが、おれたちの本領でね。言ってみれば、悪者退治ってことさ」
 少なくとも、建前はそうだ。
 ハメットが、眉根を寄せる。
「けっこう、危ないな。あまり、割りに合わない仕事かも」
「そうでもない。いろいろと、恩恵もある。たとえば、銀行強盗犯をつかまえたら、銀行側が取りもどした金の何割かを、褒賞金として払ってくれるんだ。うまくやれば、割りのいい仕事になる」
 ハメットは、少し考えて言った。
「かりに入社したら、どれくらい給料が出るんですか」
「試用期間の一カ月は週給五ドルだが、それが過ぎたら週給十五ドルになる。手柄によっては、割増金も出るぞ。それに、必要とあれば六連発の自動拳銃も、支給される。もちろん、弾丸つきでな」
 それを聞いて、ハメットはまたもぞもぞと、肩を動かした。
「ほんとですか。話が、うますぎるような気がするけど」
「そのかわり、仕事はきついぞ。一晩中、寝ずの番で容疑者を見張るとか、一カ月間同じ相手を尾行し続けるとかは、日常茶飯事だ。二、三カ月家に帰れない、なんてこともよくある。相手と殴り合ったり、撃ち合いになったりすることも、珍しくない。むろん怪我をしたら、特別手当てが出るから、心配はいらないが」
 少しおおげさに言ったが、ハメットはたじろぐ様子を見せない。
「だったら、けっこうおもしろそうじゃないですか。これまでに、ピンカートンがやった大仕事を、何か聞かせてもらえませんか。あなた自身の、手柄話でもいいですけど」

影なき街角

Synopsisあらすじ

1911年、サンフランシスコ。ピンカートン探偵社支局長のクリストファ・スペンサーは捜査の途中、路地で不良少年たちに襲撃を受ける。窮地を救ったのは白い麻のスーツを着た長身の男。彼は名前を、ハメットと名乗った――。逢坂剛が敬愛する作家・ダシール・ハメットを題材に描く、新たな探偵小説、開幕!

Profile著者紹介

1943年東京生まれ。80年『暗殺者グラナダに死す』でオール讀物推理小説新人賞を受賞しデビュー。86年に刊行した『カディスの赤い星』で直木賞、日本推理作家協会賞、日本冒険小説協会大賞をトリプル受賞。2013年に日本ミステリー文学大賞、15年には『平蔵狩り』で吉川英治文学賞を受賞。「百舌」シリーズや「長谷川平蔵」シリーズなど著作多数。

Newest issue最新話

Backnumberバックナンバー