影なき街角第6回
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面長の顔に、りっぱな口髭(くちひげ)をたくわえた、初老の男だった。
クリス・スペンサーは、その男の顔を穴のあくほど、じっと見つめた。髪も髭も、ほとんど白くなった、目つきの鋭い男だ。五十代後半か六十代前半、というところか。
バーテンダーは、すぐにドアを閉じてロックし直した。
次いで。カウンターにすわろうとするその男に、手を貸した。
腰を落ち着けるなり、男は馬蹄形のカウンターの、反対側にいるスペンサーたち二人に、警戒心のこもった目を向けてきた。
スペンサーはそれを無視して、バーテンダーに軽い口調で話しかけた。
「すると、あんたの名前はマノロ・マルティネス、正しくはマヌエルというわけだな」
軽くいなされた、という様子でバーテンダーはわざとらしく、肩をすくめた。
「マノロ、と呼んでもらって、かまいませんよ」
マノロは、マヌエルの愛称だ。
「それじゃ、そうさせてもらうよ、マノロ」
スペンサーが応じると、マノロ・マルティネスはすばやい動きで、カウンターの中にもどった。
ひどく泡の多い、赤い飲み物をグラスについで、はいって来た男の前に置く。
男はそれを、一息に半分ほど飲んで、ふうと息をついた。口髭の先が、薄赤く染まる。 スペンサーは、横目でダッシュ・ハメットを見た。
その視線に気づいたらしく、ハメットは軽く肩をすくめる。
酒を口に含んで、スペンサーはさりげなく向かいの男に、目をもどした。
男はそれを無視して、バーテンダーに話しかけた。
「いつもすまないな、マノロ。フリスコに来ると、ここよりほかに逃げ込む場所がないんだ。うるさい連中が、何かとあとを追いかけて来るんで、かなわんよ」
それはマルティネスに、というよりスペンサーたち二人に対する、言い訳のように聞こえた。
スペンサーは、そっと息をついた。
ドアの外で、みずからワイアットと名乗ったからには、この男こそワイアット・アープ本人に、相違あるまい。顔も、新聞に出た写真と、一致している。
それにしても、その男の話をしている真っ最中に、まさか当人が姿を現わすとは、思わなかった。虫の知らせにしては、できすぎている。
しかし、このせっかくの機会を、見逃す手はない。
スペンサーは、ことさら愛想のよい笑みを浮かべ、男にグラスを上げて見せた。
「有名人は、何かとたいへんですね」
それとなく水を向けると、アープの頬がわずかにこわばる。
「わたしは別に、有名人じゃないよ」
無愛想な口調だった。
スペンサーはなおも、笑みを消さずに続けた。
「いわゆる知る人ぞ知る、というやつでしょう。実を言えば、わたしは一八八一年の十月二十六日に、トゥムストンのOKコラルの前で、あなたたち兄弟がクラントン一味に、法を執行したのを承知してるんです。わたしは一八六二年生まれで、まだ十九歳になったばかりでしたが、当時ピンカートン探偵社の見習いを、していましてね」
わざと穏当な表現で説明すると、アープは何も言わず、身じろぎもせずに、スペンサーを見返した。鋭い目が、こちらのねらいを探ろうとするように、揺るぎなく迫ってくる。
めったに物怖じしないスペンサーも、その目に縛られたように動きが取れず、背筋がこわばるのを感じた。
おそらく、この目でまっこうから見据えられた悪党どもは、それだけで自分の敗北を予見したに違いない。かりに、アープより早く拳銃を抜いたところで、まともには撃てなかっただろう。
かつて、アープが言ったと伝えられる言葉が、ふっと頭によみがえる。
《撃ち合いで大切なのは、相手より早く抜くことではない。正確に撃つことだ》
確かにこの男なら、それができたはずだ。
アープと対峙したガンマンは、どれほどいい腕をしていたにせよ、勝機があるとすればなんとしても、相手より先に拳銃を抜くしかない、と感じたに違いない。
アープには、そう感じさせるオーラのようなものが、備わっている。
OKコラルの銃撃戦でも、クラントン一味のだれしもが最大の強敵、ワイアットを真っ先に倒さなければならない、と考えていたはずだ。
しかし、最初に発砲したビリー・クラントンも、たとえワイアットを目がけて撃ったにせよ、数メートルの至近距離にもかかわらず、狙いをはずしてしまった。
そのあとの乱射戦で、三十発の弾丸が飛び交ったといわれながら、ワイアットには一発も当たらなかった。
ハメットが言ったとおり、すべての弾丸がアープを避けて飛んだ、としか考えられない。スペンサーは、初めてアープを目の当たりにして、その言葉がほんとうだと実感した。
ラバーソールを履いた足の指先から、しだいに感覚が失われるのを意識する。
そのとき、隣にすわるハメットが、まるで助け舟を出すように、口を開いた。
「どんなに腕のいいガンマンでも、さすがに年には勝てないんじゃありませんか。毎日毎日、早抜きと正確な射撃の練習を続けても、せいぜい四十五歳が限度でしょう。ぼくは、まだ二十歳にもなっていませんが、それくらいは見当がつきますよ」
スペンサーは、少なからず焦った。
ハメットのような小僧っ子が、希代のガンマンに初対面で言ってのけるには、あまりに大胆すぎるせりふではないか。
そっと横目で、アープの様子をうかがう。
アープは、虚をつかれたように軽く顎を引いたが、次の瞬間大きく相好を崩して、笑い始めた。
ほんの数秒の短い笑いにすぎないが、スペンサーには十分ほどにも長く、感じられた。
笑うのをやめたアープが、口元に皮肉っぽい笑みを残しながら、ハメットに言う。
「きみの言うとおりだよ、若いの。あんたが気に入ったよ、わたしは」
Synopsisあらすじ
1911年、サンフランシスコ。ピンカートン探偵社支局長のクリストファ・スペンサーは捜査の途中、路地で不良少年たちに襲撃を受ける。窮地を救ったのは白い麻のスーツを着た長身の男。彼は名前を、ハメットと名乗った――。逢坂剛が敬愛する作家・ダシール・ハメットを題材に描く、新たな探偵小説、開幕!
Profile著者紹介
1943年東京生まれ。80年『暗殺者グラナダに死す』でオール讀物推理小説新人賞を受賞しデビュー。86年に刊行した『カディスの赤い星』で直木賞、日本推理作家協会賞、日本冒険小説協会大賞をトリプル受賞。2013年に日本ミステリー文学大賞、15年には『平蔵狩り』で吉川英治文学賞を受賞。「百舌」シリーズや「長谷川平蔵」シリーズなど著作多数。
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- 第18回2024.12.27