影なき街角第8回

ハメットが、スペンサーを見た。
「わたしは、臆測でものを言っているわけじゃありませんよ、クリス。ものごとには、かならず裏表があって、正反対の見方がある。それを、一つの面からしか見ないでいると、本質を見誤る過ちを犯します。探偵の仕事についても、同じことが言えるんじゃありませんか」
 その指摘に、大きな間違いはなかった。
 スペンサーは首筋を掻き、何度目かの苦笑を漏らした。
「まだ、わが社にはいりもしないうちから、わたしに探偵の心得を教えようとは、たいした度胸をしているな」
 嫌みを言ったつもりだが、そこに称賛のニュアンスがこもっていることは、自分でも承知していた。
 少なくとも、この若者に探偵の素質があると見抜いた、自分の目に狂いはなかったようだ。
 ハメットは体を引き、自嘲めいた口調で応じた。
「まだ、入社と決まったわけでもないのに、生意気なことを言ってすみません」
「いや、もう決まったようなものだ。わたしがシカゴの本社に、新たな人材を確保したことを報告すれば、それで手続きは終わりになる。給料の話は、それからだ。あんたに異存がなければ、明日にでも本社に電信を送りたい」
「もちろん、異存はありませんよ。よろしくお願いします」
「では、さっそく明日から、出社したまえ。もっとも、これまでの仕事をやめるのに、いくらか時間がかかるなら、無理にとは言わないがね」
 スペンサーが言うと、ハメットは天井をにらんだ。
 すぐに、目をもどして言う。
「引っ掛かりのある仕事は、明日の午前中のうちに片付けます。午後一時には、出社できるでしょう。ピンカートンのオフィスは、どこですか」
「支局は、ヴァンネス大通りとターク街の交差点の、北西の角にある。ブライトン、という三階建のビルの、最上階だ」
「分かりました。よろしくお願いします」
 そう言って、ハメットは右手を差し出した。
 スペンサーがその手を握り返すと、カウンターの向かいでそれを見ていたアープが、声をかけてくる。
「さっそくだが、あんたたちに頼みがある。つまり、ピンカートン探偵社に、という意味だが」
 スペンサーは握手を解き、アープの方に向き直った。
「何を頼みたい、と」
「あんたたちの仕事は、人捜しや労働争議の切り崩しばかりじゃあるまい。リンカーン大統領の例にあるように、身辺警護も重要な仕事の一つだろう」
「そのとおりです」
「では一つ、わたしの身辺警護について、相談に乗ってもらいたい。ただし、わたしがこの町、つまりサンフランシスコに滞在しているあいだに限って、という条件だ。ロサンジェルスにいるときは、そういう心配をする必要がないからな。しかし、この町ではわたしの名前と顔が、知られすぎている。今夜の騒ぎもそうだったが、わたしの過去の名声をおとしめて、話題にしようとするやからが、まだ何人かいるのだ。そのほかに、トゥムストン時代の恨みをはらしたがっている連中も、いないではない。そういう連中から、身を守ってほしいのだよ」
 そう言って、アープは深くうなずいた。
 スペンサーも、長くは考えなかった。ワイアット・アープが依頼人に加われば、それだけで大きな宣伝になるだろう。
「分かりました。明日の午後一時に、今ダッシュに言ったわたしどもの支局へ、お越し願えますか」
 アープが、首を振る。
「いや。仕事は今夜から、始めてもらいたい」
 スペンサーは顎(あご)を引き、アープの顔を見直した。
「今夜から、といいますと」
「言葉どおりの意味さ。とりあえず、わたしの宿泊所までダッシュ・ハメット君に、送ってもらいたのだ」

影なき街角

Synopsisあらすじ

1911年、サンフランシスコ。ピンカートン探偵社支局長のクリストファ・スペンサーは捜査の途中、路地で不良少年たちに襲撃を受ける。窮地を救ったのは白い麻のスーツを着た長身の男。彼は名前を、ハメットと名乗った――。逢坂剛が敬愛する作家・ダシール・ハメットを題材に描く、新たな探偵小説、開幕!

Profile著者紹介

1943年東京生まれ。80年『暗殺者グラナダに死す』でオール讀物推理小説新人賞を受賞しデビュー。86年に刊行した『カディスの赤い星』で直木賞、日本推理作家協会賞、日本冒険小説協会大賞をトリプル受賞。2013年に日本ミステリー文学大賞、15年には『平蔵狩り』で吉川英治文学賞を受賞。「百舌」シリーズや「長谷川平蔵」シリーズなど著作多数。

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