影なき街角第9回


7

 クリス・スペンサーは、もう一度顎(あご)を引いた。
「それはつまり、この町におけるアープさんの宿泊所、という意味ですね」
 ワイアット・アープは、耳たぶを引っ張って笑った。
「当然だろう。まさかこんな時間に、汽車でロサンジェルスへもどる、というわけにもいくまい」
 スペンサーは、ほっと肩を緩めた。
「いや、まったく。つまり、ダッシュにこのフリスコでの、あなたの宿泊所まで送ってほしいと、そうおっしゃるんですね」
 アープは身じろぎもせず、スペンサーの顔を見つめた。
「そのとおりだ。そうは聞こえなかったかね」
 スペンサーは、ちらりと隣のダッシュ・ハメットに、目をくれた。
 すぐにアープに、視線をもどして言う。
「しかし、ダッシュはまだ十七歳の少年ですし、ピンカートンの正社員でもないんです。送ってほしいとおっしゃるなら、わたしが送ってさしあげますよ」
 アープは、そっけなく首を振った。
「いや、ハメット君でいい。というか、ハメット君がいい。彼は背丈もあるし、身のこなしも機敏そうだ。正直に言わせてもらえば、あんたは護衛としてはいささか太りすぎで、敏捷(びんしょう)さに欠けるきらいがあるように見える」
 容赦ないその物言いに、スペンサーはさすがにむっとした。
「お言葉ですが、わたしは見かけよりもずっと、敏捷なんです。それより何より、護衛の仕事には長年の経験があります。ご心配には、及びませんよ」
 アープが、小さく肩をすくめる。
「別にあんたの腕を、疑っているわけではないよ。むしろわたしは、ハメット君に探偵の素質を見出した、あんたの眼力に感心しているくらいだ。わたしとしては、その目に狂いがないかどうか、実地に確かめてみたいのさ。これまでの経験から、わたしもその方面にはいささか、目が利く方だと思う。もしハメット君が、わたしの意にかなう若者だと分かったら、明日の午後にでもピンカートンのオフィスへ出向いて、正式に護衛契約を結ぼうじゃないか」
 スペンサーは、少しのあいだ考えた。
 ありがたい話ではあるが、すぐに折れるわけにはいかない。
「しかし、ダッシュが、というかハメット君が、あなたをお送りする途中で、何か異変が起きたらどうしますか。それこそ、契約どころの騒ぎではなくなるでしょう。わが社の評判に傷がつくばかりか、今後の仕事にも差し支(つか)えが出ます。それでもぜひに、とおっしゃるならわたしも、ハメット君と一緒にあなたに、同行させていただくことにします」
 しぶとくねばると、アープは首を振った。
「それはどうかな。三人連れでは、辻強盗は襲ってくるまい。二人連れでも、向こうがそれ以上の数でないかぎり、襲わないだろう。万が一にも、連中が襲ってくることがあれば、この目でダッシュの腕を見ることができる。わたしが今後、ピンカートンと正式に護衛契約を結ぶかどうかは、それにかかっているよ」
 それまで、黙って聞いていたダッシュ・ハメットが、乾いた笑い声を漏らして言う。
「おやおや。なんともとんだ任務を、おおせつかったものですね。どうやら、それがわたしのピンカートンへの、入社試験になりそうな気がしますよ」
 そのおとなびた口調に、スペンサーは少したじろいだ。
 アープが、ハメットに目を向ける。
「自信がなければ、わたしの護衛を断わってもかまわんぞ、ハメット君。どうやら、支局長自身がきみの代わりを、務めたがっているようだからな」

影なき街角

Synopsisあらすじ

1911年、サンフランシスコ。ピンカートン探偵社支局長のクリストファ・スペンサーは捜査の途中、路地で不良少年たちに襲撃を受ける。窮地を救ったのは白い麻のスーツを着た長身の男。彼は名前を、ハメットと名乗った――。逢坂剛が敬愛する作家・ダシール・ハメットを題材に描く、新たな探偵小説、開幕!

Profile著者紹介

1943年東京生まれ。80年『暗殺者グラナダに死す』でオール讀物推理小説新人賞を受賞しデビュー。86年に刊行した『カディスの赤い星』で直木賞、日本推理作家協会賞、日本冒険小説協会大賞をトリプル受賞。2013年に日本ミステリー文学大賞、15年には『平蔵狩り』で吉川英治文学賞を受賞。「百舌」シリーズや「長谷川平蔵」シリーズなど著作多数。

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