影なき街角第13回
9
そのとき、店の表に通じるらしい別のドアに、ノックの音がした。
ワイアット・アープが、グラスを持ったまま首を振り向け、返事をする。
「だれだ」
ドアの向こうで、声の主が咳払いをして応じた。
「クリント・ボナーです、アープさん。まだ、いらしたのですか。とうに、ホテルへもどられたと思いましたが、話し声が聞こえたものですから」
アープが、何ごともなかったように、言葉を返す。
「ああ、クリントか。一度は店を出たんだが、ちょっとわけがあってね。途中から、引き返して来たのだ。何か、変わったことはないかね」
すると、ほっとしたような声が、もどってきた。
「別にありません。おじゃまをして、すみませんでした」
そのまま、引き下がろうとする気配だ。
それをアープが、引き止める。
「待ちたまえ、クリント。あんたに、紹介したい御仁がいるのだ。はいってくれ」
そう言ってドアに近づき、内鍵をはずした。
ドアを押しあけ、痩せた背の高い男がのっそりと、はいって来る。
クリント・ボナーと名乗った男は、銀色に近い白髪を肩先まで伸ばし、同じ色のりっぱな口髭(くちひげ)をたくわえた、端正な顔の老人だった。年のころは七十過ぎか、半ばくらいと思われる。
身のこなしは、なんとなくゆったりしているが、体の動きにはまったく緩みがない。そのせいか、見た目からくる老いの気配は、ほとんど感じられなかった。
クリストファ・スペンサーは、その男から本能的にある種の、危険のにおいを嗅ぎ取った。それは、もしかすると自分が発するにおいと、同じ種類のものかもしれなかった。
その鋭い、みじんも油断のない目配りからして、ただの年寄りでないことは確かだ、と直感する。
アープが親指を立てて、スペンサーたちを示した。
「ずんぐりした方の御仁が、ピンカートン探偵社のサンフランシスコ支局長、クリストファ・スペンサー氏。のっぽの青年は、同社の見習い支局員のハメット、ダシール・ハメット君だ」
スペンサーは、ダシール・ハメットに目配せし、クリントと呼ばれた男に軽く頭を下げて、挨拶した。
ハメットも、それにならう。
男は、靴の踵(かかと)を小さく鳴らして、上体をわずかに傾けた。
「クリント・ボナーです。〈アルハンブラ・サルーン〉の、警備の責任者を務めています。どうぞ、お見知りおきを」
年寄りらしくない、めりはりのきいた若わかしい口調だった。その点は、アープと共通するものがある。
警備の責任者にしては、年をとりすぎているようにも思えるが、それなりのキャリアがあるのだろう。
スペンサーは、迷わずクリント・ボナーに近づいて、握手を交わした。骨張ってはいるが、予想した以上に力強い手だった。
ハメットも、同じようにボナーと、握手する。
アープがグラスを追加して、それぞれにブランデーを注ぎ足した。
四人は、低めの四角いテーブルに移動し、向かい合ってすわった。
「クリントは若いころ、中西部でバウンティ・ハンター(賞金稼ぎ)をやっていたんだ。バウンティ・ハンターの仕事は、もちろん知っているだろうね、クリス」
アープに呼びかけられて、スペンサーは苦笑しながら、うなずいた。
「もちろん、承知していますよ。わが社のベテラン支局員の中にも、そういうキャリアを持つ者が、何人かいますからね」
保安官や警察官、賞金稼ぎをしていた者は、当然ながらその経験によって、探偵や捜査の仕事に、長じているのだ。
アープは、片方の眉をくいと動かして、ボナーに言った。
「実は今夜、わたしはジョーンズ街で何者かに、闇討ちにされかかったんだ。いきなり、拳銃を撃ちかけられてね。さいわい、怪我はなかったが」
ボナーは顎(あご)を動かし、唇を一度ぐいと引き結んで、低く応じた。
「深夜の一人歩きは、絶対にお控えになるようにと、いつも警告しているはずですよ、アープさん」
アープは、肩をすくめた。
「もちろん、それは承知しているとも。ただ、ときどき気晴らしに夜歩きして、一杯やりたくなるのだ。今後はせいぜい、気をつけることにしよう」
ボナーは、不満を隠そうとしない顔つきで、問いかけた。
「それで、お怪我はなかったのですか」
アープが指で、こめかみを掻く。
「実は撃たれたとき、このスペンサー氏とハメット君も、一緒だったのだ。途中で立ち寄ったバーで、知り合いになったものだから、ホテルまで送ってくれるように、護衛を頼んだのさ。その途上で、前方から何者かに狙撃されたわけだが、さいわい三人とも無事だった。霧で視界が悪い上に、街灯の明かりも暗かったからな」
ほっとしたように、ボナーが肩の力を緩める。
「それはよかった。しかし狙撃した連中も、ずいぶん条件の悪い時と場所を、選んだものですね。そいつらは、例のスティルウェルの一味でしょうか」
「おそらくは、そうだろう。しかし連中にも、今夜かならずわたしを仕留めよう、という意図はなかったとみえる。単に、復讐をあきらめるつもりはない、との決意を伝えたかっただけ、ということかもしれん。まったくもって、あきらめの悪い連中さ」
Synopsisあらすじ
1911年、サンフランシスコ。ピンカートン探偵社支局長のクリストファ・スペンサーは捜査の途中、路地で不良少年たちに襲撃を受ける。窮地を救ったのは白い麻のスーツを着た長身の男。彼は名前を、ハメットと名乗った――。逢坂剛が敬愛する作家・ダシール・ハメットを題材に描く、新たな探偵小説、開幕!
Profile著者紹介
1943年東京生まれ。80年『暗殺者グラナダに死す』でオール讀物推理小説新人賞を受賞しデビュー。86年に刊行した『カディスの赤い星』で直木賞、日本推理作家協会賞、日本冒険小説協会大賞をトリプル受賞。2013年に日本ミステリー文学大賞、15年には『平蔵狩り』で吉川英治文学賞を受賞。「百舌」シリーズや「長谷川平蔵」シリーズなど著作多数。
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