影なき街角 第18回

 

 そのときボナーは、ハヤトがさりげなく左手を口元へ運び、軽く咳払いをするのを目にした。
 それに気づいたプルマンが、あらためて左手で掴んだハヤトの襟首を、もう一度つかみ直す。
「動くんじゃないぞ、ハヤト。じっとしていろ」
 そう口走った一瞬の隙をつき、うつむいていたハヤトが、そのままぐるりと体を一回転させる。
 すると、襟にかかったプルマンの左手が、あっけなくはずれた。
 ハヤトはすばやく、体を沈めながら真後ろに向き直り、プルマンの顔に何かを吹きかけた。
 プルマンが、声を上げて後ろへのけぞりながら、反射的に引き金を引き絞る。
 室内に、こもった銃声が鳴り響いた。
 しかし肝腎(かんじん)の銃口は、そっぽを向いたままだった。
 ほとんど同時に、スペンサーの背後の板壁の一部から、ぱっと木屑(きくず)が舞い飛んだ。
 ハヤトがすばやく、右の肩口に突き出たカタナの柄(つか)に、右手を伸ばす。
 プルマンはあわてて、ハヤトに銃口を向け直そうとした。
 しかしハヤトの吹き針で、右目をやられたらしいプルマンは、撃鉄を起こすのがわずかに遅れた。
 ボナーには、それがはっきりと見て取れた。
 次の瞬間、早くも抜き放たれたハヤトのカタナが、鋭く一閃(いっせん)する。
 拳銃を構えた、プルマンの右腕がもののみごとに、肘(ひじ)の下から斬り飛ばされた。
 驚くべし、その腕はくるりと宙を舞いながら、握ったままの拳銃からさらに一発、弾丸を撃ち放った。アープのデスクに載った、ブランデーのボトルが砕けて、酒があたりに飛び散る。
 と見る間に、主を失った腕はその反動で、勢いよく後方に吹き飛んだ。
 床の上に転げ落ちた腕には、まだ拳銃が握られたままだった。
 悲鳴を上げたプルマンが、左手で血の噴き出す右の肘を押さえて、どっと床に倒れ込んだ。歯を食いしばって、苦痛のあまり唸(うな)り声を漏らす。
 ボナーもアープも、そのありさまに毒気を抜かれたかたちで、のたうちまわるプルマンを見下ろした。
 すると、すぐ近くにいたダシール・ハメットが、手近のテーブルに飛びついた。
 躊躇なく、薄手のテーブルクロスを手元に引き寄せ、倒れたプルマンのそばに行く。
 床に膝(ひざ)をつくなり、右肘の下を失ったプルマンの上腕部を、きつく縛って血止めをした。まるで、日常それをやりつけているような、慣れた手つきだった。
 そのきびきびした処置に、スペンサーもボナーも、さらにアープまでもがあっけにとられたまま、立ちすくんでいた。
 ハヤトもまた、黙ってハメットの様子を見下ろしていたが、やおら別のテーブルクロスに手をかけ、引き寄せた。
 刃に残った血を、落ち着いた手つきで慎重にぬぐい落とし、カタナをゆっくりと鞘(さや)に収める。
 その顔は、人の腕を斬り飛ばしたばかりとは思えぬほど、無表情のままだった。
 ハメットが、これまた何ごともなかったように、苦痛に唸るプルマンに声をかける。
「あなたは殺し屋だそうですが、これからは左手で拳銃を扱う練習を、しなけりゃなりませんね」
 それは、慰(なぐさ)めとも冗談ともつかぬ、場違いなほどのんびりした口調だった。
 プルマンは苦痛に耐えながら、床に崩れ落ちたまま恨めしげに、ハメットの顔を見返した。
 その目には、怒りのほかに驚愕と感嘆の色が、はっきりと表れていた。
 わずかな静寂をついて、アープがボナーに声をかける。
「さて、この始末をどうつけるかね」
 ボナーは右手を顎(あご)にやり、少し考えてから言った。
「この店全体に、厳重な防音処置が施されていますから、銃声も含めて騒ぎが外に漏れる心配は、まずありません。とりあえず、この場の始末をどうつけるか、考えなければならない。店の者が、ほかに何人か寝泊まりしていますから、あとの処置をやらせましょう。死体は今夜のうちに、太平洋へ流すようにします」

影なき街角

Synopsisあらすじ

1911年、サンフランシスコ。ピンカートン探偵社支局長のクリストファ・スペンサーは捜査の途中、路地で不良少年たちに襲撃を受ける。窮地を救ったのは白い麻のスーツを着た長身の男。彼は名前を、ハメットと名乗った――。逢坂剛が敬愛する作家・ダシール・ハメットを題材に描く、新たな探偵小説、開幕!

Profile著者紹介

1943年東京生まれ。80年『暗殺者グラナダに死す』でオール讀物推理小説新人賞を受賞しデビュー。86年に刊行した『カディスの赤い星』で直木賞、日本推理作家協会賞、日本冒険小説協会大賞をトリプル受賞。2013年に日本ミステリー文学大賞、15年には『平蔵狩り』で吉川英治文学賞を受賞。「百舌」シリーズや「長谷川平蔵」シリーズなど著作多数。

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