影なき街角第11回
広い通りを二本越えて、ゲアリ通りまで三十ヤードほどに、迫ったとき。
突然、十数ヤード先の建物の陰から、黒い人影がぬっと現れた。
ほとんど同時に、ハメットが身をかがめて向き直り、アープに飛びついた。二人はもつれ合ったまま、石畳の上に転がった。
前方の、人影の胴のあたりで火花が散り、銃声が無人の歩道に鳴り響いた。
スペンサーは、その場に伏せたアープとハメットの上に、身を投げかけた。同時に、脇の下から引き抜いた、コルト・ビズリーの自動拳銃を黒い人影に向け、立て続けに三発撃ち込む。
人影は、くるりと一回転して、歩道に倒れた。
しかしすぐに起き上がり、拳銃を乱射しながらよろよろと逃げ出す。スペンサーは、その背中に二発銃弾を浴びせたが、今度は狙いをはずした。念のため、シリンダー(回転弾倉)に一発だけは、残しておく。
人影は、姿を現した建物の陰に、身を隠した。
「ダッシュ、アープさんを頼む」
体を起こしたスペンサーは、人影が消えた建物を目がけて、突進した。肥満型の体のわりに、足の速さには自信がある。
建物の角に到達するなり、スペンサーはしゃがみ込んだ姿勢で、路地の奥に一発打ち込んだ。
だれも撃ち返してこなかった。
人影はどこにもなく、無人の路地が続いているだけだった。
8
背後で、ダシール・ハメットのささやき声がする。
「クリス。その路地の奥に、だれかいますか」
クリス・スペンサーは、ゆっくりと立ち上がった。
「いや、人っ子一人いない。逃げ足の早いやつだ」
後ろを向くと、ハメットの背後にワイアット・アープの姿が、ぼんやりと見えた。
少し離れた街灯の、光の中に浮かんだアープの顔は、ほとんど無表情だった。中折れ帽の下にのぞく、鋭い目に恐怖や不安の色は、毛ほどもない。白くなった眉と口髭(くちひげ)が、妙に目立つくらいだ。
たとえ年齢を重ねても、アープには人前で取り乱したりしない、並はずれた胆力があること、それだけは間違いなかった。
スペンサーは拳銃の装填口(そうてんぐち)を開き、シリンダーから空薬莢(からやっきょう)を弾き出して、新しい弾を装填した。空になった薬莢を、下水溝に蹴り込む。空薬莢は、新たに弾丸を作るときに使えるが、既製の弾丸が高かった開拓時代とは、わけが違う。
この拳銃は、十年前の二十世紀初頭に、開発された。
シリンダー(回転弾倉)式としては、初めてのオートマチック(自動)の拳銃だ。ただし初弾だけは、手動で撃鉄を起こさなければならない。しかし、そのあとは引き金を引くたびに、自動的にシリンダーが回転して、連射することができる。それだけでも、画期的な進歩といってよい。
それまで、なぜか無言のままでいたアープが、思い出したように口を開いた。
「ベルヴェディア・ホテルにもどるのは、やめることにするよ」
唐突なその言葉に、ハメットはちらりとスペンサーに目をくれてから、聞き返した。「なぜですか、アープさん」
アープが、おもむろに応じる。
「この分では、ホテルへもどるまでに連中から、繰り返し狙撃される恐れがある。どうやら、わたしの滞在先がベルヴェディアだ、ということを連中に知られたようだ」
その返事に、またハメットが質問する。
「このフリスコで、どこかほかにねぐらがあるんですか」
わずかな間をおいて、アープはそれに応じた。
「マーケット通りに、〈アルハンブラ・サルーン〉という社交場がある。知っているかね」
モンゴメリーは、市街地の南側を東西へ斜めに走る大通りで、いわゆるビジネス街だ。
ハメットより先に、スペンサーはうなずいた。
「ええ、知っています。西部の、古いサルーンに似せて作った、賭博場(とばくじょう)つきの酒場でしょう」
「さよう。わたしが経営する店だ」
アープの返事に、思わず顎(あご)を引く。
「ご冗談でしょう。あの店のマネージャー、ジェリー・ホーンはよく知っていますが、あなたの話が出たことは、一度もありませんよ」
「そうだろう。開店当時から、店のことは何から何まで、ホーンに任せてきた。わたしはいっさい、おもてに出ないようにしている」
アープはそっけなく言って、ジョーンズ街を南の方へもどり始めた。
スペンサーもハメットも、あわててそのあとを追う。
歩きながらスペンサーは、さりげなく周囲を見回した。
車道を挟んだ、広い通りの反対側からは、かなり距離がある。たとえ、拳銃で狙い撃ちされたとしても、当たる可能性はきわめて低いだろう。まして、この霧と薄暗い街灯のもとでは、確率は限りなくゼロに近い。無理やり撃っても、むしろこちらに警戒を促すだけの、逆効果になる。
したがって、まず狙撃される心配はない、と判断していい。
このまま、まっすぐ南へくだって行けば、例のバー〈ノバ・フリスコ〉の前を通り過ぎて、市街地の南部を斜めに走るマーケット通りに、ぶつかるはずだ。
〈アルハンブラ・サルーン〉は、そのマーケット通りを西へ曲がり、五分ほどくだった右側に、位置している。
すでに、午前二時を回ってしまった。
Synopsisあらすじ
1911年、サンフランシスコ。ピンカートン探偵社支局長のクリストファ・スペンサーは捜査の途中、路地で不良少年たちに襲撃を受ける。窮地を救ったのは白い麻のスーツを着た長身の男。彼は名前を、ハメットと名乗った――。逢坂剛が敬愛する作家・ダシール・ハメットを題材に描く、新たな探偵小説、開幕!
Profile著者紹介
1943年東京生まれ。80年『暗殺者グラナダに死す』でオール讀物推理小説新人賞を受賞しデビュー。86年に刊行した『カディスの赤い星』で直木賞、日本推理作家協会賞、日本冒険小説協会大賞をトリプル受賞。2013年に日本ミステリー文学大賞、15年には『平蔵狩り』で吉川英治文学賞を受賞。「百舌」シリーズや「長谷川平蔵」シリーズなど著作多数。
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- 第18回2024.12.27