定年物語第十四章 あの謎の四角には出現時期を選んで欲しいって心から思う

 
 陽子さんは。
 それでも、現実に生きているひとだったので......現実に対して、それなりの妥協をしていた。
 うん、例えば、あの謎の四角について。(正しい日本語ではQRコードって言います。)
 これはもう、ほんとに陽子さんには訳判(わか)らなかったんだし、アプリっていうのもまったく訳判らなかったんだけれど......でも、世の中のひとは、大体、これに、順応している......ん、だよ、ね。
 だとしたら。
 本当に順応したくはなかったんだけれど、陽子さんも、順応するしかなかった。
 正彦さんは、いつの間にか、あの謎の四角に対応できるようになっていたし、陽子さんはそんなことしたいだなんてまったく思ってもいなかったけれど、でも、「いつの日かひとはあの四角に順応すべきなんだろうなー」って思うようになっていた。(順応できていなかったけれど。というか、アプリを使うかどうかを〝いつの日か〟って言葉でくくってしまうあたり、もう駄目駄目だとしか言いようがないんだけれど。)
 けど、だからって。
 あの四角が、陽子さんの人生の中に登場する、その登場場面には、陽子さん、山のように意見があったのだ。
 それって......端的に言えば......この言葉に尽きる。

 いきなり現れるなよ、この謎の四角!

       ☆

 その日。
 正彦さんと陽子さんは、歩いていた。まあその......二時間近く。(家から吉祥寺くらいまで、適当に歩き続けていたのだ。)
 で、さすがにこれだけ歩いていると、疲れる。いや、その前に、午前中からここまで歩いてくると......お腹も、減る。おりよく場所は、そろそろ吉祥寺駅。あたりにちらほらとレストランや喫茶店なんかが見えてくる。
「ちょっと疲れたし、お腹も減ったし、この辺で、座って御飯、食べようか」
「ん、それいいと思う。どっか適当なお店って......あ、あそこ」
 そのお店は、店外に写真つきのメニューを提示してあり、その写真がなんかおいしそうだったので。
「このハンバーグセット、おいしそうだよね」
「俺もこれでいいと思う」
「じゃ、ここにはいって......」

 お店にはいると。
 すぐにウェイトレスさんが来てくれて、二人を空いている席に案内してくれて、その上、お水を持ってきてくれた。ずっと歩いていて、喉(のど)が渇(かわ)いていた二人、まず、何も言わずにごくごくごくってお水を呑(の)み......こんな二人に対して、ウェイトレスさん。
「ご注文は、こちらからお願い致します」
 って、なんかラミネートコーティングされている紙を寄越して、そのままテーブルから離れていってしまう。
 この時、二人は、まだ、ウェイトレスさんに頂いた水を飲んでいた。だから、反応が、遅れた。
 ごくごくごく。
 水を呑み終えた正彦さんと陽子さん、改めて、ウェイトレスさんに渡された紙を見て......そして、硬直する。
こ......こう、ちょく......する、しか、ない。
だって、それは、メニューなんかじゃなかったから。
 その紙に印刷されていたのは......陽子さんが大嫌いな、〝あの、謎の、四角〟だけ、なんだもの!

       ☆

「..................」
 ほぼ、しばらく。陽子さんは何も言えなかった。硬直していた。だって。
「........................これは......何をしろと......私達は、何を要求されているの?」
 陽子さんより少しは常識がある正彦さん、ぽつぽつと。
「これは......多分、このQRコードを読むと、メニューが出てきて、そこから注文をしろって意味だと思うんだけれど......」
「いや、それは、判る。私にも判る。けど、世の中にはこの謎の四角を読めないひとだって一杯いるんだよ?」
「......あ......いや......一杯は、いないと思う。そもそも、陽子だって、これ、読めないとは限らない。おまえのスマホを出してみろよ。QRコード、読めるようになるアプリだって、きっとすぐにダウンロードできるから。何なら今俺がやってやるから」
 おお。すっごい。いつの間に正彦さん、こんなスマホ上級者になったんだ。(......アプリがどうこう言える時点で、そのひとは陽子さんにとって、スマホ上級者である。けど......世間一般では、多分これは違うんだろうな、とは、陽子さんも判ってはいる。)でも。けど。
「私、今、スマホ持ってない。あの子は今、うちのリビングのちゃぶ台脇の岩波の国語辞典の上にいる」
「............」
 正彦さん。多分こうなるだろうなあとは思っていたものの、やっぱり、言われるとちょっとため息。
「あのさあ。スマホは、持って歩けよ。おまえだって、いろいろあって、スマホを持って歩くと便利だってことは実感している訳だろ? なら、スマホ、持って歩くべきだと思うだろ?」
「思わない。だって、あれって、待ち合わせをしているひとと逢えない時にあると便利なツールなんであって、今日は、私、あなたと一緒に家を出てきて、そのあとずっとあなたと一緒にいる訳なんだから、あれ持って歩く意味が、私には判らない」
「い、いや、待て。スマホには、多分、〝待ち合わせをしたひとと逢えない時に連絡がとれる〟以外の用途もある......よ? と......俺は思うんだが......検索とか、できると便利じゃない?」
「便利かも知れないけれど、私は、何かものを調べたい時、スマホなんか使わない」
 だよね。陽子さんは、何かものを調べたい時、百科事典とか、とにかく紙の本でそれを調べているよね。百科事典で間に合わなければ図書館へ行く。どんなに即時性がなくても、時間がかかろうとも、断固として。
「まあ、そりゃ確かにそうなんだけれど......あ! そうだ。一緒に家を出たとしても、あっちこっち歩いている間に、俺とおまえがはぐれてしまう可能性は、ある」
 あ、それは確かに。
 そこで陽子さんが諾(うべな)うと。
「その時、スマホがあってくれると、俺達は連絡がとれる。ほら、どっちかが迷子になった時、スマホがあってくれたら、それはどんなに便利なのか」
「......成程」
「大体、そもそも、〝スマホ〟って何かって話になるんだけれど、あれは、〝携帯電話〟だ」
「うん」
「で、〝携帯電話〟って何かって言えば、〝携帯ができる電話〟だ」
「......まあ......語源的に言えば......そう、だ、よ、ね」
「だから、〝携帯〟しろ。携帯電話は、携帯しなきゃ携帯電話じゃない」
「......んー......それは確かにそうなんだよね。......でも......下手にスマホを鞄(かばん)の中にいれちゃうと......」
 あああああ。正彦さん、この先の陽子さんの台詞(せりふ)が、ほぼ、〝読めて〟しまう。
「おまえ、自分の鞄の中にスマホがあることを忘れて、いや、それだけじゃなくて、スマホがどこにあるんだか全然判らなくなって、結果として、スマホが行方不明になってしまうん......だよ、な?」
 そうなのである。大体、月に二、三回、陽子さんは正彦さんに、「ねえ、旦那、あなたあたしのスマホがどこにあるか知らない? あれ、発見できないんだけれど。とっくに充電も切れているみたいで、家電で呼び出しても、も、全然呼び出し音が鳴らないんだけれど」って事態に立ち至っている。そして、それを防ぐ為に陽子さん、自分の家の仕事用のパソコンが乗っているちゃぶ台の脇、国語辞典の上にスマホを置いている。ここが、スマホの定位置だって決めれば、そしてそれを守ってさえいれば、陽子さんはスマホを発見できるのである。ただ......この原則は、スマホを持って歩いてしまった瞬間、崩壊してしまう。だから、陽子さんは是非ともスマホを持って歩きたくないんだが......これ言っちゃうと、そもそもスマホって何なのかって処から、訳判らなくなってしまう。
「だからねー、私のスマホは、岩波の国語辞典の上にあって欲しいんだけれど......」
「それを許してしまった瞬間、それはすでに、〝携帯電話〟ではないわっ! 家のちゃぶ台の脇の岩波の国語辞典の上にしかないスマホって、それ、子機がある家電より、ずっと居場所に不自由じゃねーかっ!」
 ......なん、だ、よ、ねえ。
 それに。
 今、問題になっているのは、そんなことではない。
 それは、陽子さんも正彦さんも、判っていたので。二人、目と目を見交わして。
「今問題になっているのは、只今の注文を何とかしなきゃいけないってことなんだ......よ......ね?」
「うん。それは俺も判ってる。とにかく俺達は、注文をしなきゃいけない」
「注文をするのは、別に全然嫌じゃないのよ。っていうか、むしろ、ハンバーグとか注文したくて、あたし達はこのお店にはいったのよ、御飯、食べたいのよ。お金もあるんだし、無銭飲食するつもりなんてまったくないっ」
「......なのに......現時点では、注文の仕方がよく判らない......」
 どうしよう。本当にどうしよう。(陽子さんが思う処の〝スマホ上級者〟の正彦さんだって......実は、QRコードを読み込んで何とかする、だなんて、えいやって覚悟を決めて、やっと何とかできるかも知れないっていうレベルなのである。ということは......積極的には、絶対に、やりたくないのである。)
 二人共泣きそうになったんだけれど、泣いたって現状が改善されるとは思えない。
「このまま、あたし達が黙ってこのお店を出てしまったとしても......まあ......まだ、何も注文してないし......というか、注文それ自体ができないから困っている訳だから......無銭飲食にはならないとは思うんだけれど......」
「でも、ウェイトレスさんに席に案内してもらって、そこで座って、ほっと一息ついちゃった。お水まで供してもらって、ごくごくごくって呑んじゃって......この状態で、このままこのお店を出てしまうのって、あんまり酷(ひど)くないか?」
「あんまりどころじゃない、すっごく酷いと思う」
「だから、ともかく、俺達は注文をしなきゃいけないんだ」
 ここで、正彦さん、覚悟を決める。
「この......QRコード、とにかく俺が読めばいいんだな? 俺がこれ読んで、ここから注文さえできれば、それでこの場合は何とかなるんだな?」

 で。
 正彦さんは、頑張った。
 いや。一応、正彦さんはQRコードを読める。陽子さん言う処の、〝あの謎の四角〟に対応できる技術は、あるんだ。
 けれど。
 普段の正彦さんは、あんまりこんなこと、やりたくはない。というか......陽子さんが絶対的にできないから、だからやっているんだけれど、「何とかかんとかのアプリがどうのこうの」って言われた瞬間、正彦さん、それ、やりたくはないのだ。できるんだけれど、やりたくはないのだ。
 ただ。
 一緒にいる陽子さんが、絶対にこれをやらないことが判っているので......で、しょうがない。
 とにかくQRコードを読み込んだ。
 なんとか読み込んでみたら、メニューが出てきた。こうなるともう。
「も、何でもいい、最初に出てきたこれ注文しよう」
 陽子さんの意見に、正彦さんも賛成。
「だよな。下手に悩んでいるうちに、この画面が消えてしまったら大変だ」(いや......普通、注文終えるまでそういうことは起こらないとは思うのだが......なんせ、QRコードから何かを注文するだなんて、この二人、初体験なのだ。怖くてしょうがない。)
 で、まあ、ぱたぱたと、最初の画面に出てきたものを注文して、したら、無事にそのお料理が来た(多分ランチセットだったのだろうと思われる)。食べる。もう、味なんてほぼ判らない。お料理が来るのと同時に、伝票も来て、それを持ってレジへ行ったら、会計もできた。
 無事に御飯を食べ終え、会計も終り、店を出た瞬間、陽子さんと正彦さん、ふたり揃って、ほおって大きなため息。
「......結局......お店の外の写真にあったハンバーグセット、食べられなかったね」
「それどころじゃなかったから......」
「おいしいのかどうか、味だってろくすっぽ、判らなかったね」
「それどころじゃなかったから......」
「これはもう、楽しいお昼御飯じゃなかったよ......ね」
「それどころじゃなかったから......」
 この時。
 正彦さんは、「もうちょっとQRコードに慣れて、安心してそれを使えるようになろう」って建設的なことを考えたのだが......陽子さんは、ちょっと違う。
 この時、陽子さんが考えていたのは、正彦さんに知られたらきっと怒られるような、こんなこと。
「......もう私......外食って、そのうちひとりではできなくなるかも知れない。外食する度に、あの謎の四角が出てきたら、私ひとりならどうしようもない。無銭飲食をしたくないのなら......この先、私、外食なんて全部やめて、御飯は全部自分で作るようにしないと......」
 〝御飯を作る〟関係においては、陽子さん、いくらでも自分でやるつもりだ。その能力もあるつもり。
 でも。
 同時に陽子さん、心から憤慨(ふんがい)して、思ってもいた。
 だって、私は他人とコミュニケーションすることができるし、お店には、コミュニケーションできるウェイトレスさんがいたんだよ?(実際、「すみません、食後の薬を呑みたいので、お水、もう一杯いただけますか?」って陽子さんが言ったら、すぐにウェイトレスさん、笑顔で陽子さんのコップに水を注いでくれた。)この状況で、何で注文するのに、謎の四角が必要なのよ? ITって......ITって、〝言いたかないが〟〝とにかく不便〟の、〝い〟と〝と〟を略している言葉なんだとしか、陽子さんには思えない。

       ☆

 まあ、でも。
 最初のうち、陽子さん、この謎の四角のことを舐(な)めていた。
 とにかく、外に出なきゃいいんでしょ、あるいは何かのチケットを取りたいとか、予約を取りたいとか、そういう、自分から打って出ることさえしなければ、私の日常には、この謎の四角は、はいってこないよね? そりゃ、西武線の時刻表が判らないとか、いろんな不便はあるけれど、家にこもっている限り、この謎の四角は、追いかけてこない。
 ..................甘かった。
 家にこもっている陽子さんの処にも、じわじわと、この謎の四角は迫っていたのだ。

       ☆

 そもそも、陽子さん、その頃、頭を抱えていた。それは何故かって言えば......結構話題になっているインボイス制度である。
 これが税務上どういうものであるのか、そんなこと陽子さんは知らないんだけれど......でも、判っていることは、ひとつある。そして、そのひとつが、とても大変。
 この制度は、個人事業主に、かなりの負担をかけるものなのだ。(そして、小説家っていうのは、大体、個人事業主なのだ。まあ、町の八百屋さんや酒屋さんなんかとおんなじ括りだと思っていただいてそんなに間違いはない。)
 会社ならね、普通、〝経理部〟とか、そういうものに特化した部署がある。けれど、個人商店の八百屋さんや魚屋さんに、経理部がある訳、ないでしょ? けれど、どんなお肉屋さんや花屋さんも、みんな、これに対応しなきゃいけなくなる。すっげえめんどくさい、経理上のあれこれを、経理部なんて専門部署がない、お肉屋さんや八百屋さんや......小説家が。
 経理に特化しているひとが誰もいないのに、これに対応......って、それがどんなに大変なことなのか、「こりゃもう、何が何だかよく判らない」に尽きる。
 まあ、でも。
 似たようなことは、過去にもあったよね。
 マイナンバーである。
 この制度が導入された時、ほんとに陽子さんは迷惑した。
 というのは、これ、〝取引先に自分のマイナンバーを申告しなきゃいけない〟制度であって(事実は微妙に話が違うのかも知れないけれど、陽子さんにしてみれば、こうとしか思えなかった)、会社員である正彦さんの場合は、取引先っていうか、お金をもらっているのは自分の会社だけ、だから、一回、会社にマイナンバーを申告すれば済んだ話だったんだけれど......陽子さんは。個人事業主は。仕事する度、仕事先が増えるのだ。勿論(もちろん)、メインになっている出版社はある、けれど、仕事をすればする程、新たな取引先が増える訳で(増えなきゃ困る)、その度に、会社毎(ごと)に、マイナンバーを申告しなきゃいけなくなったのだ。それも、ただ、マイナンバーの数字をメールか何かで教えればいいっていうものではない。
 毎回、マイナンバーのコピーと、住民票、保険証なんかのコピーを、添付しなければいけないのだ。これを郵便で送り続ける。(しかも書き留めで送らなきゃいけないこともある。その場合は一々郵便局に行かなきゃいけない。)
 これが、さみだれ式に何年も続いたのだが......ここで、仰天の事実。
 住民票のコピーには、賞味期限があったのだ。(いや、別に、住民票を食べる訳ではないのだから、〝賞味期限〟は、ちょっと違うか。とにかく、半年以上前の住民票は、書類に添付する訳にはいかなかったのだ。)
 こうなると。マイナンバーが大騒ぎだった時代には、とにかく陽子さん、マイナンバーの手続きをする為だけに、半年毎に区役所に行かなきゃいけなくなった。そして、結構な頻度で郵便局に行かなきゃいけなくなった。
 個人で仕事をやっていて。締め切りが忙しくなると家事が滞る。
 こんな人間に、こんな負担を強いるって、それは、あり、なのか? でも、粛々(しゅくしゅく)と、マイナンバーはありで。
 そこに加えて。
 インボイス制度である。
 これまた、取引先の出版社毎に、全部申告をしなきゃいけないのである。その手続きが、大変、面倒である。経理担当部署があるのなら、それはその部署の仕事なんだが、勿論、個人事業主には、そんな部署がない。と、いうことは、原稿書いている合間に、家事やっている合間に、とにかくこれをやらなきゃいけないのである。
 どう考えても迷惑だ。
 どうしてこんな〝迷惑〟に私が付き合わなきゃいけないのか、そう思いながらも、粛々として陽子さんはインボイスの手続きをする。付き合いがある出版社全部に......ということは、何回も何回も何回も。もう、さみだれ式に、いくつもいくつも、やってもやってもインボイスについてのお手紙が来る。
 で、そうしていたら。

「......は......はい?」
 とある出版社から、インボイスの手続きの手紙が来た。
 開けた瞬間......陽子さん、固まる。
 だって......そこにあったのは......あの、謎の、四角。
 そして、それに添えられたお手紙には。
『このQRコードから手続きをしてください』みたいな文章が続いている。
「え......」
 聞いているひとは誰もいない、陽子さん、そんなこと、百も知りながら......それでも、「え......」って、言ってみる。
 こ......こ......これは。これは、どうしろ、と?
 いや、どうしろって相手が言っているのかは、とてもよく判る。
 とにかく、このQRコードから何とかしないと、この〝インボイス〟の手続きはできないって、そういうことを、この手紙は言っているんだよね。
 怒り......沸騰(ふっとう)。
「何考えてるんだよ、この出版社はよっ!」
 ぜいぜいぜい。
 ほんっとおに怒り狂っているので、陽子さん、呼吸まで荒くなる。
「あの謎の四角をできるだけ避けて、私は日常生活を営んでいるっていうのに。外に出ると、あの謎の四角があっちこっちからやってくる。それが判っているから、外に出たあとも、できるだけ、あの謎の四角が追っかけてこないような人生をおくっているっていうのに。美術展や何かの予約だって、あの四角にお目にかかりたくないから、できるだけ取らないように不自由しているのにっ!」
 ......まあ......そう、だよね。まさか、家まで、この謎の四角が追っかけてくることは......想定していなかった。
 でも。
 言っているんだよなあ、この出版社は。
 いや。
 この出版社だけの話ならまだいいわ。

 おそらくは。
 日本全国が、この謎の四角を何とかしろって言っているんだろうなあ......。

(ま。この問題は......何とかなった。
 この陽子さんの状態を見ていた正彦さんが、「俺がそのQRコード、読みこんでやろうか?」って言ってくれたんだけれど......大島正彦のスマホでこれ読んで、原陽子のインボイス対応をやるって、何かとても変だと思ったので、陽子さん、いろんな感情を飲み込んで、何とかこう断言。
「い、いや、大丈夫......じゃないかと......思う。これ、この謎の四角以外に、なんかパソコン上の住所みたいなものも書いてあるから。それで何とかやってみる」
「え? その手紙寄越したのって......○○○社、だろ? なら、神保町の」
「じゃなくて、パソコン上の......なんか、エイチ、ティ、ティ......なんとかかんとかっていう奴」
「あ、アドレスな。......本当に、できるのかおまえ」
 って、正彦さんの台詞は、大概失礼なんだが......この〝失礼〟が〝失礼〟にならないのが、陽子さん。
 実際、このアドレスを打とうとする際に、何回陽子さん、パソコン相手に怒鳴ったことか。
「スラッシュ! スラッシュって、何、なにそれ、どこにあるのっ! そんなキー、そもそもパソコンにあるのっ!(あります)」
「何だこれ、何だこの記号、こんなもん、なんて呼んだらいいのっ! こんなキー、パソコンにあるのっ!(あります)」
 陽子さん、何度泣きそうになったことか。
 そもそもこのひとは、ただ日本語の文章を打つ為だけにパソコンを使っている。だから、日本語なら、ほぼブラインドタッチで打てる。その速さは、それなりである。――日本語を打つだけなら、このひと、一日に原稿用紙にして百枚や二百枚は打てる――。けれど......普通の日本語を書いている時には、スラッシュとかハイフンとかアンダーバーとかセミコロンなんかは、絶対に出てこないのだ。――こういうものが出てくる日本語があったら教えて欲しい――。
 故に。パソコンのアドレスを打つ為には......陽子さん、目を皿のようにして自分のキーボードを一文字ずつ確認して......「ええっと......これは違う、これも違う、これは棒線なんだけど、ハイフンなんだかアンダーバーなんだか区別がつかない、区別をつける為には、一回打ってみないと......あああ、違った!」なんてことを、とにかく延々とやらないといけないのだ。アドレスって、長い奴はそれなりに長いし、こういうやり方で一文字一文字確認している陽子さんが、〝たかがアドレス〟を打つ為にかかった時間は......なんか、その......お疲れ様でした、としか言いようがないものだった。
 これをして、「この問題は何とかなった」って言っていいのかどうか、ちょっと、謎だって言えば謎なんだけれど。)

       ☆

 そして。
 この謎の四角なんてまだ甘い、と、言いたげに。
 IT社会は......というか、〝世界〟は、どんどん、陽子さんに迫ってきていたのだ。
 そうだ。
 なんか、まるでディストピアのSFみたいなんだけれど。(いや、陽子さん以外のひとは、あんまりそんなこと思ってはいないのかも知れないけれど。)

       ☆

 ある日。
 スポーツクラブへ行った陽子さんと正彦さんは、その受け付けの処にある表示に......硬直する。
 何故って、そこには、とんでもないことが書いてあったから。
『2023年7月から当クラブでは現金のお支払いを停止します』
 いや。正確な文面は、もう、あまりにショックでよく覚えていないんだけれど......でも、意味としては、そんなこと。
 って!
 って、え?
 現金のお支払いができなくなったら......えーとあの......どうやってお支払い、したらいいの? まさか、お支払い無しで、只でサービスを致しますって意味じゃ......こりゃ、絶対に、ない、よね?
「これ......旦那......どういう意味だと思う?」
「今、まさに陽子が思っているであろう、そういう意味だ」
「......って......って」
 その表示を見て、陽子さんと正彦さんがあわあわしているのを見て、スポーツクラブの受け付けのひと、気をきかせてか(あるいは、問い合わせるひとがある程度の数いるのか)、ボードを見せてくれる。そこには、『現金のお支払いがなくなったあとで使えるもの』として、いくつもの〝モノ〟が書いてあった。......ただ......問題なのは......その大半が、陽子さんにも正彦さんにも判らないものだったので。
「PayPayって......何」
「俺に聞くな」
「他の奴に至っては、聞いたことすらないようなモノだよ?......これ、何」
「俺に聞くな」
「あ、Suicaがある! これは知ってる。これは、電車に乗る時に使っている奴だよね、あれのことでいいの?」
「俺に聞くな」
「クレジットカードは......これは、旦那、持っているよね?」
「一応、あることはある。会社やめてから使っていないけど。......つーか、クレジットカードは、陽子だって、持ってたんじゃないか? いや、過去形で聞いているのは、それ、今では絶対にないだろうって確信しているからなんだけど」
「うん、そのとおり。四十年以上前にね、初めての海外旅行をする時、ひとに勧められてクレジットカード、作ったの。海外で何かあって、現金やトラベラーズチェックがなくなった時、絶対あった方がいいからって。......でも、考えてみれば、クレジットカード盗られてしまったら......つーか、現金やトラベラーズチェックやクレジットカードがはいっているお財布盗られてしまったら、それって意味がないとは思うんだけれどね」
「......今は、そんな話をしていない」
「うん。ま、それで、二十代で一回作ったクレジットカードだったんだけれど、結局使わなかったんだよね。そのあと、何年か、クレジットカード会社だか銀行だか、どっちかは知らないけど、クレジットカードが書き留めで送られてきて、使わないの判っているし、使わないクレジットカードが生きているのはまずいと思ったから、来た瞬間に叩き割っていたんだけれど」
 ......使わないカードなら、停止手続きをとればいいんじゃないのか。来た瞬間に叩き割るのはいかがなものかと正彦さんは思ったんだが......陽子さん相手に、こんなこと言ってもしょうがないっていうのも、同時に判っていたので。
「したら、いつの間にか、送ってこなくなった。......いや、勝手に送ってくるのやめるっていうことはないのか、としたら、どこかの時点で、〝クレジットカード送るのやめましょうか〟って聞かれたのかも知れない。もう覚えていないけれど」
 ......まあ......陽子さんの場合......〝そうだろうね〟としか、言いようがない。
「で、つまり、纏(まと)めると」
 あんまり纏めたくはないのだが。
「俺のクレジットカードは、今でも生きている。もう三年以上使っていないけれど、何十年も使っていない訳じゃないから、多分、生きている。俺とおまえが持っているSuicaは生きている。今でも二人共電車に乗るから、これ、使っているんで。......けど......それ以外のものは......」
「そもそも、PayPayとかあとのものも何だか判らないし」
「......これは......まずい、わな。俺達、このスポーツクラブで現金を使う必要があった時......その瞬間に、硬直してしまうんでは?」
 そうなのである。そういう話になってしまうのである。ただ、まあ、普通スポーツクラブでは、現金を使う必要性はない。会費は銀行引き落としだし、ウェアやタオルを借りる時、現金は必要になるんだけど、正彦さんも陽子さんも、そういうものを借りられる特約をクラブと結んでいる。あとは、お水やスポーツドリンクを買う為の自動販売機があるっちゃあるんだが、さすがにこれは、現金対応ができるって説明もして貰ったし。
 けれど......。
 この二人、スポーツクラブで現金を使うことがあったのだ。二カ月に一回くらいなんだけれど、それでも、あったのだ。そして、これだけは、止(や)める訳にはいかない。
「整体がね......」
 そうなんである。このスポーツクラブに属する整体。これ、正彦さんは心から愛していて、経済事情が許すのなら毎日でも通いたいくらいで、でも、さすがにそれはできかねるので、二カ月に一回くらい通っている整体。また、陽子さんの方は、気を抜くと足が攣(つ)ってしまったりこむら返りを起こしてしまうのだ、できるだけ積極的に通いたい整体。(......もっとも......整体の先生に言われて、どうやるのか毎回教えてもらっているストレッチを、実は全然できていないので、ちょっと整体に行く敷居は高いのだが。)
 そして。
 この整体のお支払いが、それまでは、現金だったのだ。
 けれど、この表示によれば。
 これが、現金ではできなくなるっていうことらしいのだ。
「......ど......どーすんの、これ。これはもう、私達、二度とここの整体には行けないっていう話になるの?」
「......いや、Suicaがある。これ、俺もおまえも持っているだろ? 整体の料金、これで支払えばいいんだ」
 ......確かに。これはそう思って、何の問題もないような気はする。気はするんだけれど......でも、陽子さん、〝これには絶対にどこかに問題がある〟って、心のどこかで思っていた。
 そして実際に......〝そう、なった〟。

 その日。
 正彦さんと陽子さんは、ふたりそろって、整体の施術を受けた。
 二人共結構凄(すご)いいきおいで体が疲れていたし、陽子さんに至っては、前日に左足のふくらはぎが攣ってしまって眠れなくなってしまったので、この施術で体が楽になったのは、本当によかった。
 で、この整体の料金なのだが。一時間、六千円である。正彦さんは、「俺、ほんとに体が辛(つら)いから一時間半にして」って言って、九千円になった。合わせて一万五千円。消費税含めて、一万六千五百円。
 この二人にとって、Suicaって、交通費を払う為のものである。だから、一万円を超すお金を、ここにチャージすることは今までに一回もなくて......スポーツクラブへの支出の為に、初めてSuicaに二万円をチャージしようとして......そこで、初めて判ったこと。
「おいっ、陽子っ!」
「はい、何?」
「Suicaって......これって......西武線の切符売り場では二万円以上のチャージができない」
「はいい?」
「二万円以上いれようとしても、はいらない」
 ..................。
 ま。
 スポーツクラブの整体で、二万を超すことはあんまりなさそうだったから。だから、これは、これでもいいのかも知れないんだけれど。(実際、その時の支払いは、これで何とかなった。)
 とは言うものの。さすがに、二万円以上使えないカードのみを支払いに当てるのは......怖い。
 陽子さんも正彦さんも、一回で二万円以上の支払いを要求されるものは、あまり買わないようにしているんだけれど......でも......時と場合によっては、二万円を超える支払いが発生してしまう可能性はあるでしょ? でもって、そういう時に備えて、陽子さんは余計なお金を、お財布じゃなくて、いつも携帯しているぬいぐるみの中なんかにこっそり忍ばせているんだけれど――昔のお話なんかにあるじゃない。「いざという時にはお守りの中を見てごらん」ってお母さんに言われていて、そして、ほんとに困った子供が見てみたら、お守りの中に一万円札がはいっている、とか、そういう奴。それを、陽子さんは、ぬいぐるみでやっているのである。このひとは、スマホは携帯しない癖に、ぬいぐるみはいっつも何匹か携帯しているので――、でも、それは、現金だ。ぬいが持っていてくれるのは、現金のみ、だ。そして......問題が、〝現金が使えないこと〟にあるのだとしたら......いくら、携帯ぬいの中に三万円くらいが忍ばせてあっても、それ、意味がないっていう話になってしまう。つまり、これでは、駄目だ。
 ということは。
 この状況を放置すると......やりたくもないのに無銭飲食になってしまう可能性がある。 それは、本当に、本当に嫌だったので......。

「結局、私ももう一回クレジットカードを作るしかないのか」
 陽子さん、こんな結論に至る。
「ま......だ、な」
 勿論、正彦さんもクレジットカードは持っている。けれど、それとは別に、陽子さんもクレジットカードを作らないと、現状には対応できないような気がする。陽子さんと正彦さんが別行動をとっている時には、特に。
「うちがクレジットカード使っていないのって......あれ、そもそも、いくら遣っているのか、まったく判らなくなるのが嫌だから......だから、だよな?」
「なの。結婚した当初から、私はあれを使いたくなかった。あれさえ使わなければ、一万円を遣ったら、お財布の中から一万円札が一枚なくなるのよ? そういう状況なら私、〝今、いくら遣っていて、うちの家計にあといくら残っているのか〟、よく判るじゃない。なのに、クレジットカードは、それをまったく判らなくするのよっ」
 ......とは、言うものの。
 最早(もはや)、事態は、クレジットカードを容認するしかないようなものになっていて......。

 ここで。
 陽子さんは、ため息をつきつつ、思うのだ。

 ITって......一体全体、何なんだろう。

 IT。

 頭文字だけ読んでいけば。

〝一体どうして〟
 の、〝I〟。

 そしてそれから
 
〝とてつもないこんな世界になってしまったのだ〟
 の、〝T〟。

 最早(もはや)、陽子さんは、こうだとしか思えなかった。

 IT社会。
 これはもう......。
〝一体どうして、とてつもないこんな世界になってしまったのだ〟の、略。
 ディストピア、だ、な。

 まあ。
 陽子さん以外のひとには、まったく違う解釈もあるのかも知れないんだけれど......陽子さんにしてみれば、こう思うしかなかった。

                         (つづく)

定年物語

Synopsisあらすじ

陽子さんは、夫・正彦さんの定年を心待ちにしていた。正彦さんが定年になって、家にいるようになったら……家事を手伝ってもらおう! 共働きにもかかわらず、激務で疲労困憊の夫には頼みづらかった家事。でも、これからは。トイレ掃除、お風呂掃除に、ご飯の後の洗い物、それから……。陽子さんの野望が膨らむ一方で、正彦さんもひそかに野望を抱いていた……。『銀婚式物語』に続く、陽子さんと正彦さんカップルの定年後の物語。

Profile著者紹介

新井素子

1960年東京生まれ。立教大学独文科卒業。高校時代に書いた『あたしの中の……』が第一回奇想天外SF新人賞佳作を受賞し、デビュー。81年『グリーン・レクイエム』、82年『ネプチューン』で連続して星雲賞を受賞、99年『チグリスとユーフラテス』で日本SF大賞を受賞した。他の作品に、『星へ行く船』『……絶句』『もいちどあなたにあいたいな』『イン・ザ・ヘブン』『銀婚式物語』『未来へ……』など多数。



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