定年物語OPENING
OPENING
二〇二〇年、六月三十日。
この日、このお話の主人公である大島正彦さんと陽子さん夫妻は、夕御飯を食べた後、ほぼ家中の花瓶を並べたてた、花まみれの食卓の上に、二つ、ワイングラスを置き、ゆっくりワイングラスに白ワインを注ぎ込む。それから、二人共にグラスを掲げて、かちんと二つのグラスを打ち合わせる。どちらからともなく、「乾杯」って言いながら。
こくん、と、ひとくち、グラスの中身を口にして。まず、陽子さんの方が。
「うん、おいしい......。あなたが選んだ白ワインって、ほんとになんでこんなに当たりが多いんだろう」
「任せなさい」
えっへん。なんか、そんなこと言いそうな感じで正彦さんはこう胸をはり......でも。
「でも、これを酒屋さんで選んだ時には、理由も何もなかったんでしょ? 産地がどうの、葡萄(ぶどう)の品種がどうのなんて見もしなくて、ただ、カンで選んだだけ」
「いや。エチケットが可愛かった」
エチケットっていうのは、ワインについているラベルである。
「その選び方をカンって言う」
それ以外の何だって言うんだ、って、陽子さんは思う。
「けど、俺が選んだ白ワインがおいしくなかったことって、まず、ないだろう?」
「それが不思議なんだよね......まさか、エチケットの可愛さとワインの味に関連があるとは思えないし......大体、あなたが可愛いと思うエチケットと、世間一般で言う〝可愛さ〟が同じとは思えないし......」
ある意味、正彦さんの趣味って、どっか変、というか変わっているって、陽子さんは思っている。
「けど、俺が選んだワインはおいしい」
「本当にそのとおりなんで、何て言葉を返していいのか、今、私は悩んでる」
陽子さん、こう言うと眉をひそめ......でも、今はこんなことを言っている場合ではないって、ふいに思い当たって。
そして、慌(あわ)てて。
「とにかく......えっと、今まで、本当にお疲れさまでした」
まず、こう言うと、軽くぺこってお辞儀をする。
「はい」
正彦さんの方は、ゆっくりとこの陽子さんの言葉を受けて、頷いて。
「明日っからは、ゆっくりしてください。......その......ある、程度」
「うん」
正彦さんは、こう言うと、ひとくちワインを飲んで......そしてそれから。ちょっと慌てて、気がついたように。
「〝ある程度〟っていうのは、何なんだ」
「いや、その......前にも言ったよね、これからあなたにやって欲しいことが沢山ある訳で......だから......その......ある程度」
この陽子さんの台詞には、文句がもう山のようにある。正彦さんはそう思ったのだが、この局面でそれを口にするのはいささか無粋だって憚られて......だから、自分の台詞を飲み込む。
そして、それと一緒に、もうひとくち、ワインを飲んで。
「まあ、本当にこれは、〝当たり〟だったな。このワインはおいしい」
陽子さんのこの台詞を追求しないあたり、正彦さんは、結構、大人である。
☆
さて。
ここで、登場人物紹介をしよう。
今、話しているこの二人は、大島正彦さん、陽子さん夫妻である。昭和の終わり頃に結婚して、すでに銀婚式も過ぎた夫婦。正彦さんは広告代理店勤務であり、陽子さんの方は小説家。残念ながら子供はできなかったのだが、まあ、今の処、夫婦二人、仲むつまじく結婚生活を営んでいる、そんな夫婦である。
そして、今日。夫である正彦さんが、定年を迎えたのだ。
そう。つまり、今日は、正彦さんの退職の日なのだ。
この状況ならば。普通だったら、この二人、こんなにゆっくりワインを楽しめていない。定年まで勤めあげたのだ、いつもの社会だったら正彦さん、今日は会社のみなさまに送別会を催してもらっていた筈。(そして、帰宅するのは間違いなく翌日になる筈だった。)でも、只今の社会にはコロナウイルスっていうものがはびこっていて、それができなかった。だから、今、この二人が囲む食卓は花だらけになっている。今日、正彦さんが会社で貰ってきた花束、昨日、お得意先で正彦さんが貰ってきた花束、一昨日、正彦さんがお得意先で貰ってきた花束、今日、お得意先で貰ってきた花籠。
いや、正確に言うならば、一九五九年生まれの正彦さんは、実は、去年、六十歳になっていた。正彦さんの会社の規定では、六十になった人間は定年になる筈で、実は去年、正彦さんは定年になったのである。
けれど、会社の方から慰留(いりゅう)して貰えて。正彦さんは、一年間、嘱託(しょくたく)として勤務を続けていた。今年だって、そのまま、嘱託としての勤務を続けることができたかも知れない。会社の方からはそういう打診も受けていた。だが......
実は、去年一年、嘱託として正彦さんが仕事を続けた結果、陽子さんがこれを嫌がったのだ。
というのは。二〇一九年末から、日本には(というか、これは世界全体なんだけれど)コロナウイルスというものが蔓延(まんえん)しだしていて、これが陽子さん、本当に嫌だったのだ。
日本の企業のある程度のものは、このコロナ問題に対処する為に、テレワークやら何やら、ひとが出社しなくて済むような勤務形態を選択した。だが、正彦さんの会社は、あまりそういうことが得意ではなかったらしくて......正彦さん、嘱託になった後も、週に四、五日、出社していたのだ。時差出勤もなし。(これは、のち、正彦さんが退職した後、改善されることになる。というか、コロナが流行(はや)りだした当初は、どの企業も、なかなか即座にこれに対応ができなかったのだ。だが、時がたつにつれ、大体の企業はこれに対応しだした。)
そして、何より問題なのは、正彦さんには、コロナに感染した場合、問題になる基礎疾患(しっかん)が、二つもあるという事実だ。(もともと、正彦さんには、コロナが問題になる基礎疾患があって、もう何年も定期的に病院に通っている。ここで、毎月定期的に血液検査をして、薬を飲み続ける、という対応をとっている。これが〝問題になっている基礎疾患〟その一なんだが、去年からは、もうひとつ別の病気を患い、基礎疾患が増えた為、そしてその専門病院が違う為、二つの病院に、定期的に通って検査を受けている。只今現在では、その病気って、〝ただ、そこにあるだけ〟なんだけれど、毎月検査を受けて、これが悪くなったらただちに闘病に走るんだけれど、悪くなっていない以上は、検査でおしまい、という状態を繰り返している......まあ、これが、基礎疾患その二。)そしてその上、定年になったのだ、六十越してる。
つまり正彦さんって......基礎疾患が二つもある、老人なんである。
これはもう。絶対に、正彦さんに満員電車になんか乗って欲しくない。陽子さんはそう思ったのだが、通勤している社員に満員電車を避ける自由は、ない。
(それに、実は、陽子さんのほうにも正彦さんとは違う基礎疾患がある。陽子さんも定期的に病院へ通って、血液検査をして、薬を飲んでいるのだ。正彦さんと違って、病院通いは、二、三か月に一回なんだけれど。とは言うものの、正彦さんとひとつしか年が違わない陽子さんも、今年、六十になる。つまりは、こちらも、基礎疾患があって、今度の誕生日を迎えれば老人になるひとなのだ。)
つまり。
今の大島夫妻って、双方ともに基礎疾患がある、コロナに感染してはいけない......老人世帯、なのだ。
この状況で、正彦さんが通常の勤務を続けて出社するって......なんか、怖い。(陽子さんの方は、仕事が仕事なんで、忙しくなればなる程、家にこもり、ひとがいる処には出ていかないんだが。)
また。
もうひとつ、ずっと前から、陽子さんが思っていることがあった。
陽子さんと正彦さんは、共稼ぎである。
〝共稼ぎ〟。つまり、二人共が働いて稼いでいる状態。
にもかかわらず。
結婚してから今まで、家事は、ほぼすべて、陽子さんがひとりでやっていたのだ。(というか、朝、ゴミ箱を出す以外の家事を、正彦さんはやっていなかった。言い換えれば、正彦さんがやっていたのは、朝、ゴミ箱をゴミの集積所に出すだけの家事。これは、正彦さんが眠った後から仕事をしている陽子さんが、朝、ゴミ出しの時間に起きられないからだ。ちなみに、ゴミ箱にゴミをいれるまでのゴミの分別とリサイクルゴミの洗浄は、陽子さんの分担。)
いや、これはしょうがないと、陽子さんも納得していた。だって、正彦さんのお仕事は広告代理店の営業。嘱託になる前の正彦さんの勤務状況は、朝、七時に家を出て、帰ってくるのが夜の七時ならめっけもの、普通は九時や十時や十一時や翌日が正彦さんの帰宅時間。これでは正彦さん、家事の殆(ほとん)どを、やりようがない。(昭和、そして平成の最初の頃には、ブラック企業っていう概念、それ自体がなかったのだ。だから、当たり前に、こういう勤務形態になってしまった。そして、入社した時からこういう勤務形態をとっていた正彦さんは、自分の勤務形態に問題をまったく感じていなかった。)
で。
正彦さんがこんな勤務形態をとっていると。
個別の家事を問題にするのなら。
洗濯は......こりゃ、何時だってできるんだが。(アパートなんかで、夜中に洗濯機を回すのがご近所に対してはばかられる場合を除く。)洗濯物を干すということを考慮するのなら、どうあっても、日があるうちに洗濯すべてを済ませなきゃいけない。朝、洗濯機を回したひとが夜中に帰ってきて洗濯物を干すって、これはもう、効率が悪いにも程がある。(というか、これ、乾かないんじゃないのか? 夜、寝てる間に雨降ったらどうするんだよ。)
庭仕事なんかできる訳がない。家の前の道の落ち葉を掃くんだって、草むしりだって、どうしたって日があるうちにやらなければならない。夜中に家の庭の草をむしっているひとがいたのなら、そのひとは、〝怪しい〟。これに尽きる。日が暮れた後、家の前の道を掃くって......そもそも、日が落ちていたら、落ち葉が見えない。(まあ、夜、七時や八時なら、落ち葉が見えなくても何とかなるかも知れない。街灯ってものがあるからね。けれど、夜中一時や二時に落ち葉を掃いているひとがいたら......これは、〝怪しい〟どころの話じゃないよね。下手したら110番に通報されてしまうような事態である。)
御飯作りは、御飯を食べる時間の前にやらなきゃ意味がないでしょう。そして、正彦さんの帰宅時間から夕飯を作り出したら、夕飯が翌日になってしまう(ことが多い。)
つまり。
朝早く家をでて、夜遅くまで帰ってこないひとは、普通の家事の大半が、どうやったってできないのである。
これは、陽子さんも、納得した。というか......納得せざるを得ない。
ただ、どうしても納得できなかったのが......。
うちは、共稼ぎなのに。
二人共、仕事をしている筈なのに。
なのに、何故。何故、家事の殆どを陽子さんがやらなきゃいけないの?
これは、とんでもなくどうしようもない、しかも絶対的な......でも、許せない、事実だった。
いや。
ここまでずっと会社に拘束されているひとに、家事の分担をして欲しいだなんて、これはひととして言ってはいけないことのような気がする。そもそも、家には帰ってきて寝るだけ、そんな生活を送っているひとに、家事をやって欲しいだなんて、言ってはいけないことなんじゃないのか?
だから陽子さん、言わなかったんだれど......とはいうものの、陽子さんだって仕事しているのに。締め切りが近くなれば、徹夜になったりしているのに。なのに、昼間家にいるのが陽子さんだけだからって、陽子さんしか昼間に家にいないからって、「今日二時間しか寝てないのに......」って思いながら、それでも、洗濯物を干している陽子さんって、何?
いや、まあ、御飯は。陽子さんがほんとに辛くなると、正彦さんの方から、「作らなくていいよ、お弁当でも買ってこよう」って言ってくれるんだが......洗濯は、やらないとほんとに家が滞る。けど、正彦さんは、これに気がついていない。このひと、多分、すべての洗濯物はクリーニングに出せばいいと思っているふしがある。
日常の買い物は、正彦さん、その必要性に気がついていない可能性がある。「ほんとに忙しいなら御飯なんて作らなくてお弁当を買ってくればいい」って思っている正彦さんには......食材の他に、洗剤だのゴミ袋だのトイレットペーパーだの、日常生活を送っている以上、絶対に買わなければいけないものが、日々、家庭では発生しているってこと、理解できていない可能性が高い。
一回。
本当に忙しくて、買い物にでる暇がなかった陽子さん、会社から帰ってくる正彦さんから電話があって、「何か買って帰るもの、ない?」って聞かれた時。こう言ったことがあったのだ。
「あ、トイレットペーパー、買って帰ってきてくれると嬉しいな」
で、これに対する正彦さんの返事が。
「おいっ! 俺は仕事から帰ってくるんだぞ」
はい、それは判っているんですけどね。けど、仕事帰りに何か買って帰るものないかって、そもそもあなたが聞いてくれたんですけど......で、何で私が、怒られるの。
と、こんなことを陽子さんが思ったら。これに対する、正彦さんの返事は、こんなものだったのだ。
「仕事帰りのスーツ着た男が、トイレットペーパーなんて、買えるかっ!」
......え......そうなの?
「そんな、スーツ着た男がトイレットペーパーを持って歩くだなんて、そんなみっともないこと......」
......。
............。
..................。
この瞬間、陽子さんは思ってしまった。
ふーん、そうなの。
仕事帰りのスーツ着た男は、みっともなくてトイレットペーパー、買えないのか。でも、仕事帰りのスーツ着た女は、トイレットペーパーを買うんだよね。じゃないと、家のトイレが使えなくなるんだもん。じゃあ、あんたは、二度とうちのトイレで大便をするなよ。みっともないからトイレットペーパーが買えないんだ、あんたにはうちのトイレで大便をする資格がない。(ほんとは、うちのトイレを使うなって思ったんだけれど、男性の場合、小さい方で用を足す時、トイレットペーパー、使わないのかなって思ったので、こういう思いになった。)
この陽子さんの思いは。かなり長いこと、思い出すだに頭にくるっていう形で、続いた。だが。
正彦さんが嘱託になり、ある程度家事を手伝ってくれるようになったある日、正彦さんの方からこう言って貰えたので、解消された。
「......あー、陽子。だいぶん前だけど、俺、みっともなくてトイレットペーパー、買って帰れないって言ったこと、あった、だろ?」
あ。陽子さんはもう忘れようがなく、死ぬまでこれを覚えていようって思っていたんだけれど......正彦さんの方も、こんなこと、覚えていてくれたのか。
「あれは......申し訳、なかった」
おやまあ。
「長時間、家にいるようになって判った。トイレットペーパーは、絶対に必要だ」
そうだよ。
「あれを買って帰ることをみっともないって思っちまったのは、俺の不見識だった。あの言葉は、悪かった」
「ん」
ここで、陽子さん、にっこり。
こういうことを言ってくれるから、陽子さんは、正彦さんのことが好きなのだ。
ただ。
まあ。
そういうことは、おいておいて。
家事、というものは、やらないと家庭生活が回らない。そして、すべての家事は、これをやるひとがいないと、滞る。そして、家事が滞ってしまうと、いきなり家庭生活も滞ってしまうのだ。
だから、陽子さんはそれまで、しょうがないからずっと、黙って家事をやっていた。やるしかなかった。
(いや。これは、どっちかが悪いという話ではなくて、とにかく家事というものは、昼間家にいるひとにしかできないものが多い、そういう話なんだが。そして、広告代理店の営業職はまず昼間家にいないし、小説家という業種は、ほぼずっと家にいる、忙しくなればなる程、むしろずっと家にいる、家にい続けることになる、そういう職業特性の話なんだが。)
だから。
陽子さんには野望があった。
正彦さんが定年になったなら。
家事の殆どを正彦さんに押しつけようっていう。
いや、ね。これは、正しい言葉でいうならば、陽子さん、家事の殆どを正彦さんに分担して貰おうと思ったっていうのが、正しいよね。押しつけようっていうのは、ちょっと、言葉として問題があるよね。でも、今までずっと、なんだか家事を押しつけられていたような気分でいる陽子さんにしてみれば......これはもう、〝押しつけよう〟としか、言いようがない。
とは言うものの。
ひとにはできることとできないことがある。
今度は、能力の問題として。
御飯作りは......正彦さんに押しつけてしまったら、なんかあんまりおいしくないものが食卓に並びそうな気がするので、これは、陽子さん、自分でやろうと思った。(......いや、だって、おいしくない御飯を食べるのは嫌だ。)
庭仕事も......あんまり、このひと、得意ではないような気がするし、そもそも、どの草をむしっていいのか判らないだろうし......(栽培している植物と雑草の区別が、絶対にこのひとにはできないって、陽子さんは確信していた)、それを説明する手間を考えたら......えーと、落ち葉を掃く以外のことは、自分でやろう。
お買い物は、やって貰えたら嬉しいんだけれど、何を買っていいのかまったく判らないこのひとに、いちいち指示することを考えたら......自分でやった方が楽なような気がする。
ということは、押しつけられる家事は、御飯の後の洗い物と、洗濯......くらい、かな。いや、これじゃ、家事の大半は、まだ陽子さんがやることになる。あと、押しつけられる家事って言えば......えーと、トイレ掃除とか、お風呂掃除とか......。
あ、掃除、だっ!
そうだ。掃除。
これは大島家の一番の弱点である。
御飯作りとその前提である買い物、洗濯、それを干すこと、そしてそれを取り込んで畳むこと。これらは、滞ったりやらなかったりしたら、いきなり家庭生活が崩壊してしまうんだけれど、掃除だけは。やらなくたって、家が汚くなるだけなんである。だから、陽子さん、今までそれの手をできるだけ抜いてきていた。(というか、忙しい時は、しょうがない御飯作りと洗濯はするけど、掃除をやるのはほんとに暇になった時だけ、だったのだ。お客さまが来る時だけ、大島家では掃除をする、それ以外の時はほんとに掃除の手を抜いている。そんな状況が続いていたのだった。)
という訳で、大島家は常に掃除が行き届いていない、なんか散らかっている家だったのだけれど、これに対して正彦さんには絶対に文句を言わせない、自信を持って陽子さんはこう思っていた。
この、掃除を。正彦さんに、やって貰おう。
......でも。
落ち着いて考えてみたら......「掃除して」って正彦さんに言ったとして......正彦さんがどんなに掃除をしてくれるつもりになったとして......それで、どの程度の効果が期待できるんだろうか。
大体。
正彦さんの〝掃除〟の期待値って、どの程度のものなんだろうか。
そもそも、このひとは〝掃除〟をどんなものだと思っているのだろうか。
まず、ここの処が陽子さんには謎だった。
というのは。
これは、この二人が結婚する前の話なんだけれど。
正彦さんの大学時代、正彦さんのお母さんが、上京して正彦さんの下宿に来たことがあった。その、三日前に正彦さんからこの話を聞いた陽子さんは、パニックに陥りそうになった。というのは、この時正彦さん、お母さんに、「俺にはつきあっている彼女がいる」って話をしていたそうで......で......その時の正彦さんのアパートは、まさに魔窟。汚いというレベルを超えていた。
ま、今にして思えば、これは陽子さんが焦る事態ではないような気がするんだが、「つきあっている彼女がいる」ってお母さんに宣言した上で、あの、汚いというレベルを超えた正彦さんのアパートをお母さんに見られたら......。彼女がいるって断言しているのに、この部屋。
自分が正彦さんの〝彼女〟であるって思っていたから、プライドの問題として、陽子さんはこれが許せないと思ってしまった。だから、この部屋を掃除しようと思った。そうしたら......。
幸いなことに正彦さんは調理の類を一切しない。(できない。能力がない。)だから、生ゴミだけはない。けれど......床が......ほぼ、見えない。雑誌とかコンビニ弁当の容器とか......洗濯物で、覆い尽くされている。
......え......洗濯物? そうだ、これ何? 下着とか靴下とかが、やたら部屋中に散らばっている。
ゴミが散らばっているのならともかく。洗濯物が散らばっているって......これは、何でだ? こいつには洗濯をするという文化がないのか?(いや、独身の時の正彦さんには、どうやらほんとにそれが殆どなかったらしい。稀には洗濯することもあったらしいんだけれど、基本的に、脱いだ下着は、全部その辺にほっぽっておくひとだったのだ。ちなみに、就職してしばらくは、新たに穿く靴下や下着が必要になった時は、それ、買ってきてしのいでいたみたい。あ、ただ、正彦さんはそれでも結構おしゃれなひとだったので。下着以外の服は、全部クリーニングに出して、ちゃんと管理をしていた。)
そこで、まず、陽子さんはすべての洗濯物を集めてコインランドリーに走った。正彦さんに対して、「私が洗濯やるから、とにかくあなたは、ゴミを拾ってゴミ袋にいれて! こっちの袋が空き缶や空き瓶をいれる奴、こっちはその他のゴミ!」
で、コインランドリーで一回目の洗濯機をまわし、それが終わった処で洗濯物を乾燥機に突っ込み、二回目の洗濯機をまわし、ちょっと缶コーヒーなんか飲んでほっとして、一回目の乾燥が終わった処でそれを紙袋に突っ込み、その頃、二回目の洗濯が終わったのでそれを乾燥機にまわし、三回目の洗濯機をまわしながら、回収した洗濯物を持って正彦さんのアパートに帰った陽子さんが見たのは......陽子さんが渡したゴミ袋に、三つ程、空き缶がはいっている奴だった。
と言うか......陽子さんが渡したゴミ袋に、三つしか、空き缶がはいっていない、そういう奴だったのだ。
「何! 何やってたのあんた! どうして何も部屋の掃除が進んでいないっ!」
「あ......いや......空き缶を......捨てた、よ」
三つ、ね。私はもう三回目の洗濯機を回しているのに。この洗い物を置いたら、そろそろコインランドリーに戻らないとまずいのに。あんたは、三つ、空き缶を捨てていただけかよっ!
そう怒鳴りそうになった陽子さんなんだけれど、事情は、正彦さんの手元を見た瞬間に判った。古い雑誌が正彦さんの手の中にある。ああ、掃除中に、古い雑誌を発見しちゃって、ついついそれを読んじゃったのね。それは判る。いや、陽子さんだって、掃除中にそんなことしてしまうことは結構ある。けど、それって、彼女を呼びつけて家の掃除をさせといて、それでやることなのか?
いや。多分、正彦さんには、〝彼女呼びつけて家の掃除をさせていた〟っていう認識はないんだろうと思う。正彦さんにしてみれば、この程度の汚い家は普通なのであって、陽子さんが焦って掃除を始めた理由が、そもそも、判っていない。と、そんなことが、この時の陽子さんには判らなかった。
本当に。
この程度の正彦さんの〝汚さ〟って、正彦さんのお母さんには織り込み済みのことで、お母さんはこれを何の問題にもしなかった。〝彼女〟がいるのにこの汚さって何?って、お母さんはまったく思いもしなかったようだ。
むしろ、正彦さんの家で、まな板と包丁が出ていることに驚いたみたい。(たまに陽子さんが料理をしていたので。)
うん。正彦さんのアパートには、包丁とまな板があったんだけれど、何故か、これは、厳重に新聞紙に包まれて、天袋に押し込まれていたのだ。これが、陽子さんにはほんとに謎だったんだけれど、後になって判った。この二つを解禁したら、生ゴミが出てしまう可能性がある。そして、生ゴミが出てしまったら、家の中のいろんな処で腐ってしまうものが発生する可能性がある。お母さんは、それをさせないように、こういうことをしたみたい。......なら、そもそも、上京してゆく正彦さんに、まな板と包丁を持たせるなよって後で陽子さんは思ったんだが......確かに、この二つがまったくないアパート住まいの人間っていうのは......謎だって言えば、謎だ。
ちなみに。
この日、陽子さんは、四回洗濯機を回して、四回、洗濯が終わった洗濯物を乾燥機にいれた。そして、それが終わったあと、陽子さんがやったのは......〝悪夢の靴下あわせ〟。今でも陽子さん、たまにあの時の夢をみる。
そうなんだ、パンツや下シャツやTシャツは、洗濯が終わればそのまま畳んで収納ボックスにいれればいい。けれど、靴下は......。
そもそも、この日の正彦さんのアパートには、もの凄い数の洗濯物が散らばっていて、それが層になっていたものだから、どの靴下とどの靴下が組み合わさるのか、洗濯前の陽子さんにはまったく判らなかった。だから、適当に洗濯してしまった。そして、それが乾燥されてあがってきた。これらの靴下を、靴下として収納ボックスにいれる為には、ペアの靴下を揃えなければいけない。また、正彦さんの靴下って、同じものばっかりだったらまだよかったんだけれど、適当に買ったせいか、ワンポイントの模様が違ったり長さが微妙に違ったり、本当に色々とあったんだよね。だから、〝悪夢の靴下あわせ〟。
......まあ。この経験があったから、陽子さん、掃除の手だけは抜いていたんだよね。うん、こんな男に掃除の不備を指摘されるのだけは許せない、そんな思いが抜き差しがたくあったから。
でも。逆に言うのなら。
これから先。
〝掃除〟を。
この〝男〟に任せたとして。
どれだけのことが、期待できるんだろうか......。
いや、期待できない。期待できる訳がない。
(いや。この状況が成り立つ為には、もうひとつ、条件があるよね。その条件って......つまりは、陽子さんの方も、あんまり綺麗好きではないっていう。
陽子さん自身、「御飯を食べないとひとは死ぬ、おしゃれなんてどうでもいいけれど、清潔な服を着ていないのはまずいし嫌だ、でも、部屋は.......ま......汚れていても別にそれで死ぬ訳じゃないし、それはまあ、どうでもいいかなあ」っていうのが、基本的なスタンスだった。だから、家が汚くても陽子さんはあんまり気にしないし、正彦さんがそれに文句を言ったら、その瞬間、陽子さんは、正彦さんを殴り倒す気満々だった。故に、まったく掃除が行き届かない家で、この二人は、仲良く暮らしてくることができたのだった。
うん。これにはまったく笑えない傍証もある。
以前、陽子さんは、とある女流作家と対談をしたことがあった。その方は、『掃除が行き届かないのは嫌だけれど、食事はまあ、食べられれば何でもいい』ってスタンスの方で、陽子さんはそのま逆。で、結果としてこの二人は、ほんとに訳判らない対談をしてしまった。小説の話なんか放っといて、「食事なんてほんとに忙しくなったらりんごを齧ってればいいじゃない」「りんごは完全栄養食じゃないってば! もっと御飯に気を遣って。その前に、おいしくなきゃ、御飯食べるの嫌じゃない?」「でも、その前に家に埃があったらそれだけで嫌じゃない。御飯がおいしいかおいしくないかは主観的な問題であって、埃があるのは客観的な問題なんだよ」「埃で人間は死にません! でも、御飯食べないと人間は死ぬんだよ」「埃だってある程度あったら、呼吸器に障害がでたりするでしょうが。呼吸器に障害がでれば、死ぬひとだっている筈」......って......女流作家の対談って......小説についての対談って......多分、こういうものではない。これでいい訳がないんだけれど......双方共に、自分の主張はまったく譲らなかったので......対談は、こういうものになってしまった。)
と、言う訳で。
考えてみればみる程。
陽子さんの野望はしゅるしゅる小さくなってゆく。
とはいうものの。もし、できるのなら。
食事の後の食器を洗うこと、洗濯をすること、トイレの掃除をすること、お風呂の掃除をすること......これを正彦さんに全部押しつけることができるのなら。
陽子さんの家事負担、ある程度は少なくなる!(半減......まで、していないのが、問題なんだが。でも、随分楽にはなるんだ。)
......もはや、野望とは言えない規模の話になってしまってはいるんだが。
陽子さんはこう思い、これが陽子さんの新たな〝野望〟になったのだ。
そして。
コロナ問題が発生し、これ以上正彦さんに会社に行ってほしくなく、そして、しゅるしゅる縮小した野望を抱いていた陽子さんは、正彦さんに言う。
「もし、できれば......あなたがそれでいいと思ってくれるのなら......嘱託......やめて、うちにずっといて、家事、やって欲しい」
って。
そして、正彦さんは、これに肯(うべな)ってくれた。
また。
正彦さんの方にも、〝野望〟というか......思うことがあった。
正彦さんだって莫迦(ばか)じゃないのである、結婚してから今までずっと、家事を殆ど陽子さんに任せていること、これに忸怩(じくじ)たるものがなかった訳じゃない。ただ、物理的にどうやっても家事をやってる時間がなかっただけなのだ。だから、「自分が定年になったら、少しは家事をやらないと......」って思ってはいた。
それにまた。会社勤めを続けるっていうのは、それなりにストレスがたまったり苦労が多かったりもしたので......定年になって、会社に行かなくていい毎日が過ごせれば、それはそれで楽かなって思いも、あった。それから勿論......この状況で通勤を続けていて、コロナに感染してしまう恐怖も。
また。
実は、正彦さんは、非常に多趣味なひとだったので......この時、正彦さんには、新たに始めた〝俳句〟という趣味があった。(他にも沢山趣味がある。)
仕事を辞めて。趣味に没頭できる時間が持てたのなら、それはちょっといいかも知れない。
こんな二人の〝野望〟が重なり合って。
結果として、この日、正彦さんは退職。
かちんと、二人で、ワイングラスをぶつけあう、こんな日に至ったのだ。
ただ。
正彦さんの誕生日は、五月五日。
会社の方に、どういう基準があるんだか判らないけれど、会社が認めている正彦さんの退社日は、六月三十日。(六月末で前半期が終わるらしい。だから、誕生日がいつであっても、退職はこの日、というのが、正彦さんの会社の希望。これは、会社によって結構違うらしいのだが。)
と、言う訳で。
二〇二〇年、六月三十日。
正彦さんと陽子さんは、二人で乾杯をした訳である。
今日で正彦さんの、会社員人生が終わる。
うん。
正彦さん。
本当に長いこと、お疲れ様でした。
「で......会社を辞めた場合、その関係で何かやらなきゃいけないことって、ある?」
陽子さんがこんなことを聞いてみる。
「あ......ああ、健康保険が。うちの会社ではいってる奴が、今日で切れるんだな」
「で、それはどうするの? そもそもあなた、定期的に毎月病院へ行くじゃない、しかも二つも。万一これで健康保険利(き)かなくなると......」
「ああ、それは大丈夫。うちの会社の経理やってる奴に聞いといたから。国民健康保険に切り換えればいいみたいなんだよ。その手続きもちゃんと聞いといた。で、それは、ま、次の病院の予約前にはやっとくから」
「ん......そうか。じゃ、その手続きは、よろしくね」
こんなことを言うと、陽子さんは、また、手にしたワイングラスをそのまま正彦さんのワイングラスにぶつける。
かちん。
ちょっと、音がする。
二人は、お互いにお互いのことを見やる。
そして、そのまま。
何となく、二人は笑いあい......そして、その日は、終わった。
(つづく)
Synopsisあらすじ
陽子さんは、夫・正彦さんの定年を心待ちにしていた。正彦さんが定年になって、家にいるようになったら……家事を手伝ってもらおう! 共働きにもかかわらず、激務で疲労困憊の夫には頼みづらかった家事。でも、これからは。トイレ掃除、お風呂掃除に、ご飯の後の洗い物、それから……。陽子さんの野望が膨らむ一方で、正彦さんもひそかに野望を抱いていた……。『銀婚式物語』に続く、陽子さんと正彦さんカップルの定年後の物語。
Profile著者紹介
新井素子
1960年東京生まれ。立教大学独文科卒業。高校時代に書いた『あたしの中の……』が第一回奇想天外SF新人賞佳作を受賞し、デビュー。81年『グリーン・レクイエム』、82年『ネプチューン』で連続して星雲賞を受賞、99年『チグリスとユーフラテス』で日本SF大賞を受賞した。他の作品に、『星へ行く船』『……絶句』『もいちどあなたにあいたいな』『イン・ザ・ヘブン』『銀婚式物語』『未来へ……』など多数。
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