定年物語第一章 いきなり死ぬのはあんまりだ

「......うこ......」
 翌朝。
 陽子さんは、なんか、声が聞こえた気がして、目が覚めた。
 とは言うものの......最初のうちは、何が何だかよく判らなかった。
「......ようこ。ようこ」
 どうも、自分が呼ばれているような気がするんだが、よく聞こえない。
「えと、あの?」
 ぶるんって頭を振ってみる。すると、聞こえた。
「ようこ......ようこ......」
 あ。何か言っているのは、正彦さんだ。小声で、ほんとに聞こえない程度の音量で。だから、陽子さん、隣のベッドにいる筈の正彦さんの方に、視線を送ってみる。
「あの、旦那? なんか、言ってる?」
「言ってる。......俺、もう、駄目だ。もう死ぬかも知れない」
 って。
 って、それは、何だ?
「気分が悪くて、吐きそうで......」
 え。それは、何なんだ。
 えっと、昨日、陽子さんと正彦さんは、夕飯を食べたあと、二人して仲良くワインを楽しんだんだよね? んで、そんな正彦さんが、いきなり今、ベッドの中で陽子さんのことを呼んでいる。
「何があったの、旦那」
 二日酔いにしては、言ってる台詞(せりふ)が酷すぎる。正彦さんだって結構な年だ(何たって定年になっている)、今まで最悪の二日酔いを経験したことだってある、だから二日い酔いではありえない。十代で、初めてお酒を呑んで初めて二日酔いを経験した高校生ならともかく、二日酔いになった程度で〝いきなり死んでしまう宣言をする〟六十男はないだろう。(それに、昨日は正彦さん、二日酔いになる程飲んでいなかったことを、陽子さんは知っている。......あと......陽子さんや正彦さんが高校生だった時代は、こういう高校生はよくいたんだけれど......現在ではこれ、いたらまずい......よ......ね......。)
「俺はもう、気分が悪くて目眩(めまい)がして、死にそうなんだっ!」
 って......えええ?
「駄目だ。俺は、もう、死ぬ」
「い、いや、死なないで旦那! と言うか、昨日までまったく元気だったのにいきなり死にそうにならないで旦那」
「駄目だ。もう死にそうだ。そのうち死ぬ」
 ......考えようによっては、非常に困ったことになるかも知れないこの事態......実は、陽子さんには、既視感があった。
 数年前。
 殆(ほとん)ど同じような内容の電話を......陽子さんは、受けたことがあったので。

       ☆

 数年前のその日。
 昼頃、陽子さんは、家の電話が鳴っているのを聞き、受話器をとった。電話の相手は、正彦さん。
「はい、もしもし」
 陽子さんがこう言った途端、相手の声がそれを遮(さえぎ)る。
「陽子か? 俺だ」
「あ、旦那。どーした?」
「俺は死ぬ」
 ......え?
 ......え、へ、えっとあの......。
 瞬時、陽子さんは、硬直した。いや、だってそれはそうでしょう。いきなり自分の夫から電話が掛かってきて、第一声が「俺は死ぬ」だったら、これは硬直しない方がおかしい。
「何があったの」
 交通事故に遇(あ)ったのか? あるいは、いきなりその辺を歩いているひとに刺されでもしたのか? いきなりの、『俺は死ぬ』って言葉には、陽子さん、このくらいのことしか想像ができなくて......でも、そういう状況なら、そもそも電話なんて掛けてこられないよね。電話してきている段階で、それは違うよね。
「気分が悪い。すっげえ悪い。目眩がして目眩がしてたまらない。あんまり目眩がするんで、吐いた。もの凄く吐いた。救急車呼んだ」
 あ。病気関係なんだ。
「このまま、おまえに連絡ができずに、俺が死んでしまったらまずいと思ったから、電話した」
「い、いやいや、いやいやいやいや、私に連絡ができたって、それで死んでしまったらまずいって。死なないで」
 ......って言いながらも。陽子さんは、悩む。......一体全体、旦那、今、どんな状況に陥(おちい)っているんだ。救急車を呼んだってことは、単に旦那の気分ではなく、ほんとに旦那の状況が悪いんだよね。けど......それまで持病はあっても一応健康体だった旦那が、いきなり病気で危篤になってしまう状況って、何?
 いや、これは。よく考えてみたら、沢山ある。いきなり心筋梗塞の発作を起こしたとか、いきなり脳卒中の発作を起こしたとか、何とか。
 でも、そんな場合は、そもそも電話なんかできる訳がない......ような、気がする。なのに、旦那は電話をしている。
 とは言うものの、〝救急車を呼んだ〟ってことは、客観的にも旦那、救急車を呼ぶべき状況に陥っている訳で、いや、でも、そんな状況に陥っているひとは、普通、家族に電話なんかできない訳で......。
 それに。
 電話を受けたその時から思っていたんだけれど、正彦さんの台詞(せりふ)はとても明瞭で、言葉も全部、はきはきと判った。(普段の正彦さんは、結構〝もごもごさん〟であり、言葉がよく聞こえないことは割とありがち。それに比べると、今日の正彦さんの台詞は、とっても明瞭であり......いや、これが最期の言葉だから、意図的に明瞭に発音しているって可能性はあるんだけれど......それよりも、むしろ、正彦さん、普段よりは元気なのではないかと、陽子さんは思った。)
 あの、こりゃ。
 確かに正彦さんは病院に行くことになったんだろうけれど......救急車で搬送されることになったんだろうけれど......でも、『もう死ぬ』だの何だのは正彦さんの誤解で、実際にはそんなこと、ないんではないのか?
 とは言うものの。
 勝手に陽子さんがそんなことを思ってしまって、実際に正彦さんが死んでしまったらどうしよう。
 と、まあ。そんなことをぐちゃぐちゃに陽子さんが悩んでいるうちに。
「あ、救急車が来た。俺は乗るから電話切るね」
 で、電話は切れた。
 この状況。なんか......すっごい......変。
 そもそも、救急搬送されるひとって、「あ、救急車が来た、俺は乗る」って......言えるもの、なのか?
 でも、とにかく救急車は来ているらしくて、つまり正彦さんは〝そんな〟状況ではあるらしくて......結果として、今の状況って、一体全体、どんなものなの。
 慌てて、陽子さんがまた電話をしようとしたら、今度は、大島家の家の電話ではなくて、陽子さんの携帯電話に着信があった。正彦さんの会社のひとから。
「只今救急車が来まして、大島部長は救急搬送されました。搬送先は、○○病院です。私も、今からすぐに病院へ行きます。御家族の方も、その病院へ行ってくださればと......」
 え......あ......は?
「あ、はい、判りました」
 とにかく、正彦さんが搬送されたのは、○○病院なんだよね。とにかく、私はそこへ行けばいんだよね。
 そう思った陽子さんが、その病院へ行ってみたら......。

 病院の入り口には、正彦さんの部下である、電話をくださった方がいた。
 陽子さんは、できるだけ急いでこの病院へ駆けつけたんだけれど、練馬在住の陽子さんが、山手線の内側にあるこの病院へたどり着くまで、どうやっても一時間半はかかる。(普通に電車を乗り継ぐと、絶対このくらいかかるのだ。タクシーなんて拾ってしまった場合は、道路状況によるんだけれど、もっと時間がかかる可能性が高い。だから、これは、多分最短の時間。そして、正彦さんの会社と、この病院の位置関係はかなり近く......だから、電話をくださった方、かなり長い間、病院の入り口前で、陽子さんのことを待っていてくれたんだなあって思って、陽子さんとしては恐縮した。)
「あ、大島部長の奥様ですね。大島部長が搬送されたのは」
 って。この方の案内で、病院の中にはいり、脳外科とか、なんか恐ろしい名前がついている〝科〟の前へゆき......。
 そこにいた旦那が、まったくいつもの普通の旦那だったので、陽子さん、ほんとに脱力する。
 だって。
「ああ、陽子、悪い」
 とか何とか言いながら、正彦さん、にこにこ笑いながら、手を左右に振っているんだもん。これは、多分、今から死ぬひとじゃ、ないよね。
「俺、着替えが欲しいんだけど......着替えなんて、持ってきてくれてない......よね?」
 って! って、着替えって、何なんだ! あんたは、「今、死ぬ」筈だったんだよね、〝今、死ぬ〟ひとが欲しい着替えって、それは何なんだ。死に装束なのか。
 あまりにも安心したので、その瞬間、陽子さん、こういうことを言い募りそうになってしまい、今、自分がいるのは病院だってことを認識して、慌ててこの台詞を飲み込む。
 すると。今度は脇の方から。
「あ、大島さんの奥様、ですか?」
 お医者さまと思えるひとが、陽子さんにこう声を掛けてきてくれる。
「すみません、大島さんの着替えの服があるといいんですが......」
 え。
 お医者さまからも、着替えの服を要求されるのか。ということは、とにかく陽子さん、正彦さんの着替えを持ってこなきゃいけない訳? でも、何で。
「大島さん、ほんとに吐き続けたので、着ていらっしゃったスーツやワイシャツが、みんな、もう、どろどろなんです。......これはもう、着られる感じではないんですので」
 え。何なんだ、それ。
「あ。大島さんの病気は、〝良性発作性頭位目眩〟です」
 いきなり先生に、病気のことを言われても、陽子さん、これが何だか判らない。ただ、頭に〝良性〟って言葉がついている以上、そんなに悪い病気ではないのかなって思って、それで陽子さん、ちょっとほっとする。
 こんな陽子さんの状態を見て、お医者さま、本当に優しいことを言ってくださる。
「この病気、〝良性〟って言葉がついていることでお判りのように、生死にかかわるものではありませんので御安心ください。ただ、とにかくただごとではない感じで、目眩がする病気なんです」
「あ......ありがとうございます」
「これ、基本的には、耳鼻科の病気であって、脳外科に来るものではないんですけれどね。まあ、救急搬送されてしまったので、症状から言って、最悪脳の病気という可能性もあったんですから、これはしょうがないんですが。ただ、最初から脳外科に来てくださったので、検査は全部やりました。今までの検査で、大島さんの脳に異常はありません」
 ......あああ、よかった。いや、そもそも、正彦さんの脳に何か異常があるとは、陽子さん、思っていなかったんだけれど。
 けど......こうなってしまうと、何故、そもそも正彦さんは、救急搬送されてしまったのだ?
「この病気、基本的には耳石が動いてしまっただけ、っていうものなんですね。耳鼻科の領域です。ただ、症状は、場合によっては激烈です。とにかく、目眩が酷くて、大島さんの場合、ひたすら吐きまくったようですね。ですので、救急車を呼んでしまったのもしょうがないかと」
「......はあ」
「耳鼻科では、これを治す為の積極的な治療法があると思うのですが、うちでは、自然に耳石が落ち着くのを待つだけ、もとに戻るのを待つだけという方法をとります」
「......と......いいます、と?」
「放っておきます」
 はい?
「放っておけば、そのうち治りますから」
 はいい? 救急搬送されて......で......その治療が、放っておきます?
「いや、もう、すでに、治っている感じでもありますけれど。ただ、救急搬送された患者さんですから、念の為、経過観察をする為にも、今日は入院していただきますが」
 ほ。
 ほ、ほ、ほう。
 今度こそ陽子さんは本当に安心して......すると、なんだか、今度は申し訳なくなってきてしまって。
「すみません、うちの夫が下手に騒ぎ立てしまして......」
 そうしたら。お医者さまは、本当に優しいことに、こう言ってくださった。
「あ、大島さんが必要以上に騒ぎ立てた、そういう話ではないんですよ、これ」
「え......と、言いますのは......?」
「ご本人は、本当に辛かったと思うんですよ。何たってこの病気、ひとによっては本当に目眩が酷いですから。そのせいで、吐きます。この状況だと、脳の異常を疑う方も多いと思います」
 まあ、そういうことだったんだろうな。
 そう思って、改めて陽子さん、正彦さんが脱いだスーツやワイシャツを手にとってみた。そして、驚いた。
 正彦さんが吐きまくっていた。そういう話は聞いていた。だから、スーツやワイシャツには、吐き跡があるんだろうなあって思っていたのだが......ここにあったのは、そういうものとはまったく違う。
 吐き跡があるんじゃない。吐き跡まみれ。スーツもワイシャツも、もう、嘔吐物に塗(まみ)れている。というか......手にもった感じだけで判る、びしょびしょ。
 ひとが、吐いた時。それは確かに吐瀉物(としゃぶつ)があるんだ、吐いた時に着ていた衣服は濡れるだろう。けれど、それは、あくまで、〝濡れる〟だけ。そして、今、陽子さんの手の中にある衣服は、まったく違う。濡れているんじゃなくて、吐かれた量があまりにも多いから、水を吸って、びしょびしょになっている。有体(ありてい)に言って、重いのだ。
 ......確かに。
 確かにここまで吐瀉物に塗れていたのなら、これはもう、着替えを持って来るしかない。
 というか、これだけスーツがびしょびしょになるって......それは、どんなに、吐いたのだ。吐きまくるって言葉だけでは、きっと、足らない。
 これは。これは......旦那、本当に辛かったんじゃないのか? これはもう、〝吐いた〟っていうレベルではない。吐き続けて、信じられない程吐いて......そして、今の状況になっているのだ。
 うん。これはもう、救急車呼んだってしょうがないレベルかも知れない。
 と、この時は、陽子さん、思ったのだが......。
 だから、慌てて陽子さんは家に帰り、正彦さんの着替えを持ってきて(パジャマと、あとは楽な服と下着をいくつか。それから、念の為に、新たなワイシャツとスーツも)、そして、正彦さんを労(ねぎら)おうと思い......。
 けれど。
 着替えを持って、入院することになった正彦さんの病室を訪れた瞬間、陽子さんのこんな思いは粉砕された。
 だって。
「あ、陽子、悪い。......俺......喉が渇いているから、水が欲しいんだけど」
 すっごい、軽々と、正彦さんがこんなことを言ったから。
 ああ、はいはい、水、ね、水。じゃあすぐに......って思った陽子さん、ここで硬直。えっと......入院患者に......勝手に水って、あげていいのか? いや、普通だったらいいような気がするんだけれど......病状として、とにかく吐いた、吐いたあまり水分があんまりなくなっている、そんなひとに、水って、素人判断で、勝手にあげていいのか?
「病院の一階にコンビニがあったと思うから。そこでペットボトルの水を買ってきてくれれば」
 するすると旦那は言うんだけれど。
「ああ、はい、了解」
 するすると自分も言うんだけれど。けれど。いいんだろうか、ほんとにこれでいいんだろうか。私は、旦那に、水買ってあげていいんだろうか。ひっかかるって言えば......微妙に、ひっかかる。
「で、そん時にね、一緒になんか食べるものを買ってきてくれたら嬉しいんだけれど。病院のコンビニにあるかどうか判らないけど、カレーパンとか、いいな」
「ああ、はい、食べるもの......って......って......えええ?」
 はい。ここで、陽子さんは、やっと。微妙じゃなくて......おおいに、ひっかかる。
 そもそも。
 目眩が酷くてひたすら吐きまくって吐き続けて入院した筈なのだ、このひとは。だとすると......。
 正彦さんは、只今、勝手に水を飲んでいい状況なのか?
 まず、それが陽子さんには判らない。
 それに、食べ物って......。
「あの、さあ。あなたは入院している訳で、そろそろ夕飯の時間なんだけど、あなたの夕飯は、どうなってるの。そろそろ配膳される時間なんじゃないの? んで、その時に、水とかお茶とかがついてくるんじゃないかと思うんだけれど......」
「今日は夕飯はなしなんだって。だから、夕飯は来ないし、水も来ない」
 ......じゃ、駄目じゃん!
 陽子さん、怒鳴りそうになった。
「あんた、すぐ死ぬって言って私のこと呼んだんだよね? すぐ死ぬ人間がカレーパンなんか欲しがるなっ!」
 いや。すぐ死ぬ筈のひとが、カレーパンを欲しがっている段階で、陽子さんにしては嬉しくて嬉しくてしょうがなくなったんだけれど。でも、だからって、これを許してはいけないような気がする。
「水のことは、ナースステーションに行って、ナースさんに聞いてみます。カレーパンも同じく聞いてみます」
「い、いや、そんなことされたら、まず許可されないんじゃないかと」
「ナースさんが許可してくれないことは、私も許可しません」
「い、いや、陽子、もうちょっと柔軟に考えを......」
「どんなに柔軟に考えたって、駄目なものは駄目!」
 こう言い切ったものの。
 陽子さんは、一応、ナースステーションへ行って、正彦さんの要求を伝えてはみた。結果、水はOKという話になった。だが、カレーパンは、当たり前だが拒否されて......。
「あれだけ吐きまくったのに、カレーパンですか」
「凄いなー、大島さん。あの状況で、もう、すでに何か食べたくなるっていうのが凄い。まして、それがカレーパンだっていうのが、凄すぎる」
 ナースさんに感心されたんだけれど......これは、〝感心されて嬉しい〟とはとても言えない状況だとしか言いようがない。
(あと。一件落着したのち、正彦さんが言うことには。
「だって俺、昼前にいきなり目眩がして......結局、昼御飯、食べていないんだよ。この状況で吐きまくったら、もう胃は空っぽで。......したら、腹減るだろう」
 ......まあ......それはそうだと、陽子さんも思いはするが。思いはするが、とは言うものの。しかしまあカレーパンはないだろう。)

 と、まあ。
 こんなことがあったので。
(結果として。勿論、正彦さんは、翌日に無事退院した。これまで何の問題も後遺症も無かった。)

 正彦さんの声で起こされた瞬間、陽子さんは思った。
 思い出した。
 これは......あの時の再現か? 
 そうとしか思いようがない。

       ☆

「えーと。只今午前七時七分。......ま、早朝、だ、よ、ねえ」
「おまえにしては早朝かも知らんが、世間では普通に朝だ」
「......ま......それはいいとして。この場合、選択肢が二つ。ひとつは、すぐに救急車呼ぶ」
「呼んでくれ。俺は死ぬ」
 ここで陽子さん、念の為、正彦さんの額に手を当ててみて、体温を何となく計り、ついでに脈もとってみる。......あー......その......どっちも......普通だ。
「で......えーと......今、救急車呼ぶのって、119番になっちゃうんですけど」
「呼んでくれ。俺は死ぬ」
「......あの。できれば、それは止めて欲しいと。元気なひとが119番するのって、すっごいはた迷惑だと思うんだけれど」
「いや、だって、俺は死にそうなんだよ?」
「だから、ぜひとも、死ぬのを止めて欲しいって言ってる」
「誰が死にたくて死ぬかよっ! 死ぬのを止めて欲しいって、そもそもおまえは何言ってるんだ」
「......いや......その......私が思うに......あなた、自分で思えば、死ぬの止めることができるんじゃないかと」
「......おい?」
「はい」
 ここで陽子さん、とにかく大声で。
「大きく息を吸って......はい、ラジオ体操第一。やってみましょう」
「できるかよっ!」
 正彦さん。無茶苦茶大声。そして、元気。これを確認した処で、陽子さん。
「あのね、良性発作性頭位目眩。この病気のこと、覚えてる? 二、三年前にあなたが救急搬送された奴」
「......あ......」
 どうやら、正彦さんも、思い出したらしい。
「今の処、どうもあなたの今の状態って、そんなもののような気が、私はするんだよね......」
「......いや......ま......そんな気が......俺も、しないでも......ない......か、な?」
「なら、救急車止めて耳鼻科に行かない? 御近所に、私も行ったことがある、ちゃんとした耳鼻科のお医者さまがいるから。救急車、呼ぶのを止めて、まず、その耳鼻科へ行ってみない?」
「いや、だって、死にそうなのに耳鼻科へ行ったって......耳鼻科って死にそうな人間を診る処じゃないって気が......」
 気がつくと正彦さんの声、なんだかとても普通になっている。その上、段々、小声になってきている。
 だから、陽子さん。
「......えーと、有体に言って、あなた、私に声を掛けた時より、元気になっていない? 少なくとも私はそんな気がするんだけれど」
「......なってる。どうしたんだろう、もう、目眩もしなくなってる」
「おおお、よかったじゃない」
「でも、気分は悪いんだ!」
「判った、だから、お医者さまには、行こ。耳鼻科に。で、御近所の耳鼻科がやっているのは、午前十時からだと思うから、えーと、後、三時間。我慢できそう?」
「..................」
 ぶつぶつぶつ。
 正彦さんは文句を言っていたんだけれど、文句を言いながらも、何たって時間が朝で、正彦さんがいるのはベッドの中だ。気がつくと正彦さん、また眠ってしまったようで......。
 隣のベッドで。陽子さんは、ひたすら正彦さんの寝息を窺(うかが)う。
 こんなこと言っちゃったけれど、実の処陽子さんはお医者さまでも何でもない訳で......ただ、今までの経験から言って、正彦さんの現在の状況は、〝死にそう〟なものではないって確信しているだけで......ほんとの処はまったく判らない訳で。
 これでもし。これでもし、本当に正彦さんが死んでしまったらどうしよう。
 そう思うと、ぐうぐう寝ている正彦さんよりも、むしろ、陽子さんの方が心配で心配で、まさか眠ることもできずに。(それに。まあ、絶対ないとは思ったんだけれど......万一。この、ぐうぐう眠っている正彦さん......眠っているんじゃなくて、昏倒(こんとう)しているんならどうしようって、思わない訳でもなかった。)
 時間がたって、朝、九時になった処で。
 まだ、正彦さんは気持ちよさげに眠っていたんだけれど、陽子さんはそんな正彦さんをたたき起こす。自分も起きて(それまでは、隣のベッドでずっと正彦さんの寝息を確認していた)、顔を洗って着替えると、ただちにタクシー会社へ電話。家にタクシーを呼んで、そのまま、近所の耳鼻科へ正彦さんを連れてゆく。
 そして、耳鼻科にて。
 いろんな検査をされた正彦さんは、お医者さまに聞かれる。
「......どこも......問題はありません、ね。でも、あなたには吐き気があった......んですね?と、言うか、気分が悪くて死にそう? そんな感じになったんですね。で、吐き気は、今?」
「はい。......いや、気分が悪くなった覚えはあるんですが......今にして思ってみれば、吐き気はあんまりなかったと思います。ただ、目眩がしてました。そんな気がします」
「それは、今もしていますか?」
「あ......ああ、そう言われれば、今はまったくしていません。......というか......あの時は寝てたんで......そう言えば、何で横になっているのに目眩がした気がしたんだろう。もはやよく判らないです」
 この旦那の台詞を受けて。耳鼻科の先生。
「検査の結果。できるだけの検査をしてみたのですが......器質的な問題は何もないと思われます。もし、あなたが目眩を覚えたり、気分が悪くなったりしたのなら......それは......」
 お医者さま。なんか、すっごく、言いたくなさそう。でも、しょうがないから、言う。言ってしまう。
「えー......老化、でしょうか、ね」
 え。良性発作性頭位目眩でも、なくて? 単なる老化? 
「多分、病気的なものではないと思われます。少なくともどこにも異常はありません。これで問題があるとすれば......お年を召したこと、としか、言いようがありません」
「あの、前に良性発作性頭位目眩って......」
「そういうものでもないです。これは、病気ではなくて、ほんとに単に、お年を召したからとしか言いようがないんであって......。えーと、年をとると、結構、目眩がすることがあったりします。朝、くらくらしたり、気分が悪くなったりすることもあるでしょう。けれど、それは病気ではありません。単に、お年を召してしまったから、としか言いようがありません」
 ......。
「これはねえ。そういうことなんじゃないかと思いますよ。......えーと......だから......まあ、これは病気ではない訳で」
 よかったですね。
 先生。
 まさに、そう言おうとしたらしいんだけれど......正彦さんの表情を見て、この台詞を飲み込む。
 けれど。
 場の空気というものをまったく読まない陽子さんが、いきなり明るく。
「旦那、それ、オールOKってことじゃん」
 ......って? 
 それでいいのか?
 いや。
 これでいいと、思うしかないんだよね。

 まあ。実際の処、正彦さんの病状は、これで落ち着いた。(そして、その後。少なくとも二年以上。まったく正彦さんには症状がなかったので、ずっと元気に生活を続けられたので......。まあ、〝これで落ち着いた〟と言って、いいのではないかと思う。――というか、それより前に、〝そもそも病気ではなかった〟と、言ってもいいのではないかと思われる――。)
 まあ。
 病気であるのよりは、病気でない方が、いいに決まっている。
 だから、これで、オールOK。
 正彦さんも陽子さんも、瞬時、そう思いそうになり、これでこのエピソードは閉じてしまってもいいって思ったんだけれど......話は、そう簡単には、いかなかった。
 というのは。

 このエピソードの反動。
 これは、まったくこの二人が想定していなかった角度から、きた。
 それは、何かって言えば。
 はい、正彦さんの、〝健康保険証〟である。

 耳鼻科の診察が終わって。
 会計という話になり。
 正彦さんが、自分の健康保険証を会計に出した処で、この問題が顕在化した。というのは。
「あ、すみません、大島さん......この健康保険証ですが......あの......失効しています」
 ......え? 
 あ、いや。
 考えてみれば、確かにそれはそうなのだ。
 昨日正彦さんは、「今日でうちの会社でやっている健康保険が切れるから、とにかく国民健康保険に変えなければ」って話を、した筈だ。
「ということは......あの、全額、お金をいただくことになってしまうのですが......」
 これはもう。肯(うべな)うしか、ない。
 ......耳鼻科で、よかった。
 この時、正彦さんが思ったのは、こんなこと。
 ああ、耳鼻科で、よかったよなあ。
 耳鼻科なら。
 もともとの治療単価が、他の科に比べれば、ある程度安いから、ちょっと、〝ほっ〟。(あ、これは、耳鼻科を莫迦(ばか)にしている訳でも、耳鼻科を低く見ている訳でもなくて......他の処と比べた場合、絶対に単価が安いと思われるからだった。
 うん。これが、正彦さんがいつも基礎疾患の治療で通っている病院の内科だったら......十割負担したら、単位は確実に〝万〟になる。――保険がある状態で、数千円になっていたのだ。それも、とても〝万〟に近い、そんな、数〝千〟円。だから......これが全額自費になってしまったら......あの病院で全額自費負担で会計をしたら......単位は万になり、しかも、最初に来る数字は、絶対に〝一〟ではない。〝二〟でもないような気がする。これをやらなくて済んで......本当に、ありがたいとしか、言いようがない。まあ、こちらの病院の場合は、薬を処方して貰っているので、その金額もはいってはいるのだが。――)
 そしてその上。
 救急車を呼ばなくて......よかった。
 いや、多分。
 救急車自体は、呼んだって特別にお金がかかる訳ではないと思うのだが。
 救急搬送されてしまったERか何かの治療費は、どのくらいのものになるんだろう。そしてこれが、健康保険がないから全額自費だってことになったのなら......それは、いくらくらいになるんだろう。
 判らない。
 いや、ものはERだ。
 基本、救急搬送されるのが前提だから、特別な料金はかからないっていう可能性も、ある?
 けど、これは本当に判らない。
 結局、何もかも、よく判らないので......。


 で。
 こうなると。
 とにかく、一日でも早く、国民健康保険の手続きをするしかない。
 だって、今の正彦さんは、二つの病院に定期的に通っているのだ。もし、これが全額自費負担になったのなら......毎月の医療費、凄いことになってしまう。
(あ、とは言うものの。健康保険が利かない状態で診療を受けた場合も、のち、その病院へ、新たに発行された健康保険証を持ってゆけば、それはちゃんと精算して貰える。だから、これは、〝その時に大変〟なだけであって、長い目でみれば、何の問題もないとも言えるんだが。)

 で。
 当たり前だけれど、とにかくすぐに、正彦さんは国民健康保険の手続きをした。受理された。
 で......。
 で!
 ここから先が、本当に驚き!

       ☆

 手続きをしたら、結構すぐに、国民健康保険の保険証が来た。同時に、これから毎月、正彦さんが振り込まなきゃいけない国民健康保険料の振込票が来た。(それまではお給料から天引きされていたので、こういう通知はなかったのだ。)
 それを見た瞬間、陽子さんは、あまりにも驚きすぎたので、何だか硬直してしまう。
 何なんだ、この金額。
 高い。
 もはや、高いとしか言いようがない。
 高い、高すぎる!
 何でこんなに高いんだ!
 そこで、陽子さんは、思い出す。
 
 そうだ。国民健康保険は、かなり高いのだ(......そうだ。)
 今、陽子さんは、日本推理作家協会に所属している。陽子さんは、自分の意識の中ではSF作家であり、推理作家ではないにもかかわらず、この協会に所属している。それは、何故か。ある程度の収入がある人間が、国民健康保険にはいると、その金額がかなり高くなってしまうからだ。そして、日本推理作家協会の会員は、〝文芸美術国民健康保険組合〟という団体に所属することができ、こういう団体に所属していると、健康保険の額が安くなるのだ。(陽子さんの世代では、その為だけに、日本推理作家協会に所属することを希望する作家は、かなりの数、いた。そのくらい、個人ではいる国民健康保険は高額だったのだ。また、逆に言えば......会社を含め、何らかの〝団体〟に所属しているひとは、まったく個人で営業をしているひとに比べて、かなり社会的に優遇されている、という話でもある。うん、サラリーマンのひとって――こんなこと言うと文句がきちゃいそうな気もするんだけれど――でも、いろんな意味で、個人事業主である〝小説家〟なんかに比べると、本当に優遇されているのである。)
 だから。
 この、国民健康保険の高さは、納得した。納得さぜるを得なかった。
 けれど、これは、〝ある程度の収入があるひと〟に対しての話ではないのか?
 んでもって、正彦さんは、今、正に、定年になった処。これから先、正彦さんの年収は、ほぼ、ゼロであることが予測できる。年収がゼロであるひとに対して、この保険料って、この金額って、何?
 ......。
 ま。これも、陽子さん、判ってしまった。
 この保険料は、あくまで、去年の納税額で算定されているんだよね、きっと。
 去年までは正彦さん、嘱託とはいえ普通の会社員だったし、それなりの収入があった。その収入に対して、掛けられているのが、この、保険料。けれど、年収がゼロである予定の正彦さんにとってみては、もう、貯金を崩して払うしかない金額。毎月何万も、とにかく払い続けるしかない金額。
 ま。
 来年になったら。
 正彦さんの年収がほぼゼロであるってことが税務署やその他の機関にもきっと判ってもらえて、だから、こんな額にはならなくなるんだろうと思うんだけれど。でも、それまでは。
 毎月、何万も。
 とにかく、貯金を切り崩して、払うしかないのか。

 これはほんとに予想外だったので......陽子さんは、大きく、ため息を、ついた。


 それから。

 なんか、「あああ......」って思ってしまったのだ、陽子さん。
 これ、変な話なんだけれど......「あああ、なんか、また、だよ」って。

 以前、陽子さんは、『結婚物語』というお話を書いた。これはまあ......陽子さんと正彦さんが、結婚をするだけのお話。どう考えても小説になるような内容はまったくなかったんだけれど、それまで、社会経験が殆どなかった二十代の陽子さんが、実際に〝結婚〟という社会経験をしてみて、そして初めて知ったこと、驚いたことをそのまま書いてみたら......これが、何故か、〝お話〟になってしまったのだ。
 ただ、これが〝お話〟になってしまったのには、絶対に正彦さんの関与があった。
正彦さんが、要所要所で〝なんか変なこと〟をやってくれるから......だから、〝ただ、結婚をする〟だけのエピソードが、〝お話〟になってしまったのだ。
 そして。
 そういう意味では。

 定年になった翌日。最初の日。まさに、正彦さんの健康保険が失効した、その日に。
 正彦さんが救急車を要求するのって......絶対に、これは、〝変なこと〟だよね。
 もし、これをそのまま〝お話〟にしたら、これは〝作りすぎ〟って言われるだろうなあって、陽子さんは思う。というか、もしこれが新人賞応募作だったら、「このエピソードのせいでむしろリアリティがなくなっている」とか言われそう。いや、その前に、「もうちょっと真面目に作者は作品に取り組むように」って言われたって文句言えない。(だって、この〝作りすぎ〟による効果がまったく望めないんだもの。なのに、マイナスの効果だけはあるんだもの。――読んでるひとが〝作りすぎ〟って思ってしまったら、それにはマイナスの効果しかない――。)
 けれど......現実が、こうだったのなら。これはもう、どうしたらいいのだ。

 現実がこうだったんだもの、もし、陽子さんが将来、『定年物語』ってお話を書くことになったのなら。
 ファーストエピソードは、これでゆくしかないよね。
 でも、そういうお話の作り方をしたのなら。
 言われる......だろう......なあ......。
 作りすぎだって。いくら何でもこれはないだろうって。
 でも、現実なのだ。事実、なのだ。
 ......どうしよう。

 つまり、ここでいう陽子さんの「あああ......」は、そういう意味での「あああ」。
 あああ。なんか、また、こういうことになってしまったっていう。

 なんだって正彦さんというひとは、要所要所で、〝まさに作りすぎ〟としか思えないようなエピソードを起こすんだ。これはこのひとの特殊能力なのか?
 でも、これが現実なんだから、しょうがない。
 と、いう訳で。
(何が〝という訳〟なのかよく判らないのだが。)

 これは、大島正彦さんと陽子さんという夫婦の物語である。
 六十一で、会社をやめ、無職になった大島正彦さん。
 その妻であり、小説家である、陽子さん。
 
 この二人の、〝あーだこーだ〟に、おつきあい頂ければと思っております......。

                                  (つづく)

定年物語

Synopsisあらすじ

陽子さんは、夫・正彦さんの定年を心待ちにしていた。正彦さんが定年になって、家にいるようになったら……家事を手伝ってもらおう! 共働きにもかかわらず、激務で疲労困憊の夫には頼みづらかった家事。でも、これからは。トイレ掃除、お風呂掃除に、ご飯の後の洗い物、それから……。陽子さんの野望が膨らむ一方で、正彦さんもひそかに野望を抱いていた……。『銀婚式物語』に続く、陽子さんと正彦さんカップルの定年後の物語。

Profile著者紹介

新井素子

1960年東京生まれ。立教大学独文科卒業。高校時代に書いた『あたしの中の……』が第一回奇想天外SF新人賞佳作を受賞し、デビュー。81年『グリーン・レクイエム』、82年『ネプチューン』で連続して星雲賞を受賞、99年『チグリスとユーフラテス』で日本SF大賞を受賞した。他の作品に、『星へ行く船』『……絶句』『もいちどあなたにあいたいな』『イン・ザ・ヘブン』『銀婚式物語』『未来へ……』など多数。



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