定年物語第四章 男には、多分、プライドというものがあって......

 話はちょっと戻って。
 正彦さんが定年になった直後。陽子さんが正彦さんに、洗い物をお願いした時。
 実は、陽子さん、正彦さんにそんなに過大な期待をしてはいなかった。
 ただ、絶対に洗って貰いたいものだけが、あったのだ。
 それは〝何か〟って言えば......鍋。

陽子さんは結構カレーを作るんだが、これが、大体、十何時間もかけての大作。
いや、家庭料理を〝大作〟って言ってしまうのはどうかなーって思いもするんだが......とにかく、たまねぎを十個くらい薄切りにして、それを炒めて炒めて炒める、二時間くらいかけて炒めたたまねぎをベースにして、ここに鶏をいれればチキンカレーだし、ここに牛肉をいれればビーフカレーだし、ここに豚バラをいれればポークカレーだ。
 で、ここから先も、結構大変。チキンの場合、これが多分、一番、出汁が出ておいしいと陽子さんは思っているから、手羽先のカレーをよく作るんだけれど、手羽先の場合、小骨が結構一杯ある。いや、手羽先って、そういうものでしょ?
 で、正彦さんは、小骨があると、それが嫌なのよ。嫌だって言うのよ。(嫌だって言うのは別にいいんだけれど、あんまり食が進まなかったりもする。そして、これが陽子さん、とても嫌だ。)
 だから、このカレーを作る場合、陽子さんは、たまねぎとは別鍋で手羽先を茹でて、茹であがった処で、ちょっと時間をおき、手羽先を冷ます。その後、冷めた手羽先を、一個一個手でほぐすんだ。そして、肉部分だけをカレーの鍋にいれて、骨は取り除く。そののち、残った骨部分を、また別鍋にいれ、ひたすら煮込み、骨から出たエキスをカレーの鍋にいれる。(これは無茶苦茶手間がかかる。何でこんなことやっているんだろうかって、時々陽子さんは思ったりする。けど......正彦さんは、カレーの中にはいっている鶏の手羽先を、絶対齧ったりすすったりはしてくれないひとなんだ。だって、それって、〝めんどくさい〟んだもん。でもって、〝めんどくさい〟ことを、絶対にやらないのが、正彦さん。だから、このひとにおいしいチキンカレーを食べさせたいと思ったら、この手間は、絶対に必要。――おそろしいことに、正彦さんは、陽子さんがほぐさない限り、鰺の開きを食べないのだ。めんどくさいから。みかんも食べない。皮剥くのがめんどくさいから。だから陽子さん、鰺(あじ)の開きを出す時は、全部ほぐして正彦さんの御飯の上に乗せるし、みかんは皮を剥(む)いた状態でしか供さない――)
 ポークの場合は、簡単だ。たまねぎが茶色に炒めあがった処で、豚バラを適当なサイズに切って、たまねぎと一緒に炒める。
 ビーフは、もっと、簡単。ビーフを軽く炒めて、そして、たまねぎにお湯を足して、あとは煮込めばいいだけ。
 ただ。
 ポークもビーフも、ここから無茶苦茶時間がかかる。
 たまねぎを炒めるだけで二時間強、そして、その後、"煮込む〟となったら、もっとずっと......。
 鍋を焦げつかせたくないから、できるだけ弱火で、とろとろ、とろとろ、十何時間も煮込む。(あ、じゃがいもとか人参とか、カレーによってはトマトとかマッシュルームとか、いろんな野菜をいれるんだけれど、これは、すべてを煮込んだ後で、時間を計って投入する。だって、十何時間も煮込んじゃったら、じゃがいもなんて、ほぼ消えてなくなっちゃうからね。)
 そう。つまり。
 〝陽子さんのカレー制作は、とにかく無茶苦茶時間がかかることが、前提条件なのだ。(平均一日強。さすがに陽子さん、いくらIHで料理をしているからって、自分が眠っている時や、家を留守にする時には、電源を切っていた。なんとなく、自分が寝ている家や留守の家で、鍋がぐつぐつしているのって、怖いような気もしたし。だから、一日強って表現になる。)
 また。
 チキンの場合は、鍋を、複数使ってもいる。
 こうなると。

〝御飯〟として、食べ終わった後に。(作るのにこれだけ手間がかかるのだ、大島家のカレーは、二日か三日、食べ続けられていた。また、こんだけ手間がかかるのだ、陽子さんは、カレーをいつも大量に作っていた。)
〝焦げついた鍋〟が発生すること......これは、判っていただけるのではないかと思う。
 いや、だって。
 制作時は、うんと気を遣って、焦げつかないようにしていた鍋。でも、食べる時になったのなら。とてもじゃないけれど、もう、そこまで、気を遣っているゆとりがない。食べる度に、温め直す。
 そして。
 二日も、三日も、同じ鍋使って、同じ鍋の中にあるカレーを食べているんだよ、一日二回、温め直しているんだよ(三食のうち一回は、さすがに、うどんとかパンとか、カレーじゃないものにする。飽きるから)、なら......。
 なら、当然のこととして。
 二日目には、この〝鍋〟、焦げついてしまうかも知れない。三日目には、間違いなく、〝焦げつく〟。(温め直す時には、さすがにそこまで気を遣わないから......。)
 月に二回くらい、カレーを作っていた陽子さん。
 当然のことながら、〝焦げついてしまった〟鍋を、いくつもいくつも見てきていた。
 だから。
 この時、陽子さんが、ほんとうに洗って欲しかったのは......その、〝鍋〟。
 ......ああ......本当に。
 この〝鍋〟、これを何とかして欲しかったんだ、最初に正彦さんに食器を洗うことを要請した陽子さんは。

       ☆

 大島家は、二人暮らしの家である。
 ま、陽子さんが非常にお客さん好きな主婦だったので、お客さまの数はとても多かったから、十何人前くらいの御飯を作ることはよくあるんだけれど、でも、平常運転としては、二人暮らしの家である。だから、鍋の数は限られている。(お客が非常に多い家なので、でっかい寸胴鍋(すんどうなべ)なんかが四つもあるのだが、日常使いができる鍋の数は、当然、限られている。――まさか寸胴鍋でお味噌汁作る訳にもいかないから、平生は、この〝寸胴〟、ほぼ、ないのと同じ扱いだった。――)
 こうなると。
 日常、使っている鍋が焦げつくのは、大問題だ。だって、そのお鍋が使えなくなっちゃうんだもん。
 その日の煮物を作る為に。その日のお味噌汁を作る為に。
 何が何でもこの鍋を使いたいんだが......その為には。
 この、焦げついた鍋を、何とか綺麗にしなければいけない。
 がしがしがしがし。
 と、いう訳で、しょっちゅう陽子さんは、焦げついた鍋を洗っていた。
 がしがしがしがし。
 でも、なかなか、落ちないんだよね、この〝焦げつき〟。
 スポンジで洗うのを諦めて、金だわしなんかでがしがしやっても、それでも、結構、落ちなかったりするんだ、この〝焦げつき〟。(それに、金だわしでごしごしやるのは、最後の手段にしたいとも、思っていたんだ、陽子さん。だって、これやると、テフロン加工がはげちゃったりするんだもん......。)
 ......。
 いや。
 実は、この〝焦げつき〟を落とす、簡単な方法を、陽子さんは知っている。
 うん。
 それは、〝時間〟だ。
 焦げついた鍋の、酷い焦げつきを落とし、その後、しばらくこの鍋に水を張って、そして一日か二日、おいておいたなら。
〝時間〟が、多分、ゆるゆると、この"焦げつき"に作用してくれる。
 二、三日、このまま、焦げついた鍋を水につけていたなら、この〝焦つき〟は、多分、スポンジで落ちるようになる。それは判っている。
 けれど、二、三日、この鍋を水につけて放っておけばって。そんなことを許してしまえば、今日の夕飯のおかず、どの鍋で作るの? うちには、鍋が、ないっ!

 だから。
 しょうがない、陽子さん、がしがし。がしがしがしがし。
 ひたすら鍋を擦っていたんだけれど......同時に、思ってもいた。
 これ......基本的に、力仕事、なのでは?力任せでやっていいことなんじゃ......ない、のか?
 うん。
 陽子さんより腕力があるひとが、がしがしやってくれれば、それで、この焦げつきは、金だわしじゃなくて、スポンジでも、何とかなるのでは?

 そう思って。

 一回、正彦さんにお願いしてみた処......ほんとに、この焦げつきは、何とかなったのだ。
 腕力の勝利。
 陽子さんがどうしても落とせなかった焦げつきが、正彦さんの前では、いとも簡単に落ちてしまったんだよね。
 この瞬間。
 陽子さんは思った。
 旦那が定年になったのなら、洗い物をすべて旦那に任せよう。
 いや、別に、食器はいいんだけれど。
 鍋が......焦げついた鍋が......旦那のおかげで綺麗になってくれるのなら、これをお願いしない選択はない。
 そう思って。
定年になった正彦さんに、陽子さんは、洗い物をお願いすることにした。(ほんとにお願いしたいことは、〝焦げついた鍋〟の始末なんだけれど、洗い物だってお願いしたいのだ、纏(まと)めてお願いすることにした。)

 で。

 基本的に、陽子さんが正彦さんにお願いしたいことは、〝焦げついた鍋の始末〟だ。
 だから。
 陽子さんは、正彦さんに、「使い終わった鍋と食器を洗ってね」としか、言わなかった。......まあ......この〝お願い〟で、何か問題が発生するとは、陽子さん、まったく思っていなかったし。
 ......けれど。
 問題が、発生して、しまったのだった......。

       ☆

 とても単純に言えば。
 正彦さんは、陽子さんが思っている"食器の洗い方"をまったく知らなかったのだった。
 陽子さんが思っている〝食器の洗い方〟。
 これはもう、とても単純で。
 まず、洗うべき食器を手元に集める。
 流しの中には水を張った洗面器を用意。
 洗うべき食器を洗剤をつけたスポンジで洗う。
 洗った食器を、水が張られている洗面器の中につける。
 これを繰り返しているうちに、洗うべき食器は終わる。
 そうしたら、改めて、洗面器の中にある、スポンジで洗った食器を取りだし、濯(すす)ぐ。
 濯いだ食器は、洗い終わったものとして、食洗器の中にいれる。(もう何年も前から、大島家の食洗器は壊れていたので、これは、大島家では、単なる洗った後の食器置き場になっていた。)
 そして、食器を全部洗い終わった処で、暫定的(ざんていてき)に食洗器にいれていた、洗った食器を拭(ふ)いて、食器棚の中に戻す。
 これで、陽子さんが思っている〝食器洗い〟は終わるのだが......だが。

       ☆

 正彦さんが定年になった後。
 他の用事をやっていたり、あるいは、ソファに寝っころがって本を読んでいたりした陽子さん、食器を洗っている正彦さんの姿を、その目の端で確認していた。
 そして、そうしたら。
 食器を洗っている正彦さんの動きが......どうも......なんかあきらかに......どう思っても、〝変〟だったのだ。
 もの凄い勢いで、台所とリビングを往復している。
 なんでこんな頻度(ひんど)で、台所とリビングを往復する必要があるのだ?
 それが本当に判らなかったので。
 陽子さんは、正彦さんがやっている〝こと〟を注視する。
 すると、判った。
 正彦さんは、何と、お箸を一本ずつ洗い、それを洗い終わった処で一本ずつ拭き、拭いたお箸を、リビングにあるお箸置き場まで、一本ずつ、持っていっている......みたい、なのだ。
 何やってんだこいつ!
 瞬時、陽子さんは呆れ果てた。
 お箸なんてねえ、二本一緒に洗って、それで、何の問題があるの。
 いや、そもそも、その前に、"洗うべき食器"は、全部纏めて洗ってしまって、それで何の問題があるの。
 これを全部纏めて洗ってしまって、流しの中の洗面器にいれて、その後で纏めて濯ぐ、これに何の問題があるの。
 んで、これをやっているのなら......こんな訳の判らない行動をとる必要はないんだし、これはあきらかに〝やらなくていい〟行動だとしか思えない。
 で。
 これ見て、呆れ果てた陽子さんが、これを指摘した瞬間......正彦さんが、〝切れた〟。

       ☆

「俺は、おまえに言われたから、鍋を洗っているんだし、食器を洗っているんだっ!」
 あ......あ、はい、それはそうですね。けど......何だって、怒っているんだ、正彦さん。
「俺がちゃんと食器を洗っている以上、そのやり方に文句をつけるなっ!」
 ......って、今、陽子さんは、別に正彦さんに文句をつけている訳ではなくて......えーと、お箸を、一本ずつ洗って、そして、一本ずつ箸置き場に返す、その工程が、あまりにも能率が悪いから、それを指摘しただけ、なんですけれど......。
「俺は自分で考えて、おまえに言われた作業を俺のやり方でやっている。俺がちゃんと言われたことをやっている以上、俺のやり方に文句をつけるなっ」
 いや。陽子さんにしてみれば、別に正彦さんがやっていることに〝文句をつけたい〟訳ではなくて......もっとずっと効率がいいやり方がある、それを提案したかっただけなんだけれど......。
 でも。
 あまりにも正彦さんが怒っているので、陽子さんは黙らざるを得ない。
 そして、この瞬間、陽子さんは思った。
 この、まったく逆の例に思い至ったので。
 その、逆の例っていうのは。

 トイレ掃除。

       ☆

 陽子さんは、正彦さんに、「お鍋を洗って、食器も洗って、洗濯もやって欲しい、あと、できればトイレの掃除とかお風呂の掃除とか......」って、最初に言った。確かに言った。正彦さんが定年になって、ずっと家にいるようになった時に。
 で、鍋の洗い方や洗濯のやり方なんかは一応教えたんだけれど、トイレ掃除やお風呂掃除のやり方は、まったく説明していなかった。(あんまり沢山のことを一度に言ったって、多分正彦さんは覚えていられないだろうと思ったから。)
 で、正彦さんは、この陽子さんの台詞を受けて、何とか鍋を洗い、食器を洗い、洗濯をし......そして、トイレ掃除をしてくれていたのだ。
 この、トイレ掃除が。
 陽子さんにしてみれば、驚きだったのだ。

       ☆

 何たって。
 ある日、トイレに行ってみたら、見事に綺麗になった便器の中に(陽子さんの掃除法では、多分、便器、ここまで綺麗にならない)、青い花模様の〝何か〟が張りついていたのだから。
 それを見た瞬間、陽子さん、トイレにはいることもできずに、リビングにとって返して、正彦さんに質問。
「あの、旦那、便器の中にはりついている、あの青いものは、何?」
「あ、それ、薬剤」
「......って、これがある時、私、このトイレ使っていいの?」
「ああ、大丈夫」
 この時、陽子さんがトイレに行ったのは、勿論(もちろん)トイレを使いたかったからなのであって、正彦さんのこの台詞を受けて、陽子さんはトイレを使ったのだが......。でも、これはほんとに陽子さんにとっては、〝驚き〟だったのだ。だから、陽子さん、用を済ませた後で、正彦さんに聞いてみる。
「で......結局、あれは、〝何〟?」
「いや、だから、トイレ洗剤だってば。トイレ掃除をどうしようかなって思った俺、トイレ用の洗剤を買ったんだよ。んで、そこに書いてあるようにトイレを掃除して、そこに書いてあるように、最後にその洗剤を使ってみた。......その洗剤の説明書によれば、これで結構、この先の便器の汚れが防げる筈で......」
 ああああ。
 陽子さんは、正彦さんに、トイレの掃除の仕方を教えなかった。そうしたら正彦さん、自分でそれを学んでくれたのか。トイレ掃除用の洗剤を買って、んで、そこに書いてあるように、トイレの掃除をして......。
 そして。
 これだけは認めない訳にはいかない。
 トイレ洗剤とそこに書いてある説明のみをもとにしてやった、正彦さんのトイレ掃除は......陽子さんがやっているトイレ掃除よりは、便器そのものを綺麗にしてくれたのだ。
(ただ。当たり前だけれど、トイレ洗剤は、便器の掃除しか指図してくれていなかった。だから、トイレの床は、まったく汚れ放題。大体、便器が掃除を必要とする状況になったのなら、床だって、同じくらい掃除を必要とする状況になっているんだよね。でも、床の掃除をすることを、トイレ洗剤は書いていてくれなかったから、だから正彦さんもまったく無視したんだよね。
 ......床に関しては、陽子さん、正彦さんのトイレ掃除が終わった処で、こっそり掃除をした。)

 ある意味、凄い。

 これだけは陽子さん、絶対に認める。
 いや、認めない訳にはいかない。
 単体。便器だけを問題にするのなら。
 正彦さんの方が、陽子さんより、ずっと掃除がうまい。
 自己流で勝手にやっている陽子さんより、トイレ洗剤に書いてあることをそのまま実施した正彦さんの方が、絶対に便器を綺麗にしている。
 これはもう、この先。
 トイレ掃除は、安心して旦那に任せることができる。(床の問題はおいといて。)

 そして、同時に。
 陽子さんには、判ったことがあった。

 多分、男には、プライドっていうものが、あるんだろうなあ......。

       ☆

 陽子さんは、食器の洗い方について、正彦さんに説明した。(と言っても、まず洗剤で洗って、濯(すす)いで、布巾で拭いてねってだけだったけど。)正彦さんも、これに諾(うべな)ってくれた筈だった。けれど、一回言われたことを繰り返して補強されたり、更にいろいろ言われたりすることは、多分、正彦さん、嫌。
 うん、きっと......これは、正彦さんのプライドに抵触(ていしょく)してしまうのかも知れない。
 けれど、市販されている薬剤に書いてあることは、正彦さん、素直に受け取れるのだ。こっちは、正彦さんのプライドに、抵触しない。だって、すべてのひとが読む、〝取り扱い説明書〟に書かれているんだもん、これ、プライドに抵触しようがない。
 と、なると。
 この先は陽子さん、そう思って正彦さんに対して言葉を選ぶ必要がある訳で......。
 って。
 そう思った瞬間、陽子さん、息を飲む。
 いや、だって。
 ちょっと困ったことを思いついてしまったので。
 と、いうのは、〝洗濯〟。
 これについては、この間から、いささか困ったことが......ずっとずっと発生していたのだ。
 これを。
 旦那のプライドに抵触しない形で、どう旦那に伝えたらいいんだろう......?

       ☆

 洗濯に関しては、陽子さん、正彦さんに何も言わなかった。洗剤の使い方を教えて、あとは、ただ、〝洗濯をして欲しい〟、と、だけ。
 だって、いや、洗濯なんて、基本的に洗いたいものを洗濯機に突っ込めばそれでいい、そういう話なんじゃないかと思っていたから。(いや、ネットにいれて洗って欲しい洗濯物なんかもあったんだけれど、まあ、これは、個別に言えばいいだけの話なんだよね。そして、個別にお願いすれば、正彦さんもこれはやってくれていた。)
 で、正彦さんは、洗濯を、やってくれた。
 これに陽子さんは、何の文句もない。
 ただ。
 ただ......正彦さんの、洗濯物の干し方には......陽子さん、もの凄く、文句があったのだった。
 その文句って......。

       ☆

 ぱんぱん!

 これに、尽きる。
 ぱんぱん!
 これを......これを、やれっ! というか、やってください。お願いだからこれだけはやって。
 ぱんぱん!
 これって何かって言えば、洗濯物を干す時に、絶対に陽子さんがやって欲しいこと。両手で、洗濯物の両端を持って、そして、振る。ぱんぱん。これやると、かなり水気が切れるし、これやった方が、絶対に〝乾き〟が早い。
ただ。
陽子さん、最初に正彦さんに洗濯をお願いした時、この〝ぱんぱん〟については、何も言わなかった。だから、正彦さんは、これを知らなかった。故に、やらなかった。
そして、「あ、旦那、ぱんぱんをやっていない」って、陽子さんが知った後、陽子さんがこんなことを言ったら......いきなり正彦さんは、怒ってしまったのだ。
「だって俺、そんなこと聞いていないし」
いや、それは確かにそうだ。陽子さん、言っていない。それは確かに言っていない。
「俺は自分の裁量で、洗い物と洗濯をやっているんだ、これに文句を言うな」
......いや......文句を言っている訳ではない。
ただ、どう考えても、これやった方が正彦さんが楽になると思っているから言っているだけなんだけれど......というか、まさか、洗濯物を干す時に、〝ぱんぱん〟をしないひとがいるだなんて、陽子さんにしてみれば、思いもかけないことだったのでわざわざ言わなかっただけなんだが......ああ、それまで、家事なんかまったくやったことがないひとは、こういうことになるんだよね。
そんでもってまあ。
確かに〝ぱんぱん〟をやらなくても、洗濯物は乾くのだ。(時間はかかるけど。変なふうに縒れて乾いてしまうこともあるけど。けど、これは、乾ききったあとなら、簡単に直せるって言えば直せるんだよね。)
〝男のプライド〟を慮(おもんぱか)るのなら......これはもう陽子さん、現時点では黙っているのが〝よし〟だよね。〝ぱんぱん〟については、ほとぼりがさめた頃、ゆっくり正彦さんに伝える、それが最上だっていう気が......しないでもない。
けれど。
それでは済まされない事態が......実は、ひとつ、あった。

       ☆

 それは、ハンカチの干し方。
 これは。
 これだけは、今の正彦さんのやり方を認めてしまったら......なんか、すっごく、困る。今でもすでに陽子さん、困っている。
 というのは。
 この頃、正彦さんは、ハンカチを干す時、一つの隅っこを洗濯ばさみで留めて......つまり、一つの隅っこだけでハンカチをつるし上げて、そして、干していたのだ。
 洗濯をしているひとならお判りでしょう、この干し方には問題がある。ま、そもそも、〝ぱんぱん〟をやらないだけで、それは問題山盛りなんだけれど、こと、ハンカチを問題にするのなら。
 これは、〝問題山盛り〟なんていう次元では話が済まない。
 これをやってしまうと、このハンカチは、変形してしまう。

 世の中には、〝バイアス〟という言葉がある。
 布地は、まっすぐにして干さないと......斜めにして干すと、そこには余計なバイアスがかかってしまって、バイアスがかかってしまうと、布地は、伸びるんだよ。
 うん。
 ハンカチを例にとるのなら。
 普通のハンカチは、両端を持って引っ張っても、それで伸びるということはない。
 ただ、例外があって、ハンカチの左上、右下を持って、それで引っ張ると......このハンカチは、伸びてしまう。そう、斜めの力をかけると、ハンカチは結構伸びてしまうのだ。これが、バイアスがかかるっていうこと。
 そして。
 ハンカチの、一点だけを留めて、それを干したら。
 洗濯物というのは、水を含んでいる。いくら脱水をちゃんとしても、洗ったものである以上、絶対にこれは水を含んでいる。ということは、自重がある。自重があるものを、一点だけで留めて、干したら......布地が含んでいる水の重さで、このハンカチには、自重がかかってしまう。(まして、正彦さんは、〝ぱんぱん〟をやってくれていない。)
 と、なると。どうなるか。
 このハンカチは、バイアスがかかって、伸びてしまうのである。
 これを避ける為に。
 洗濯物は、絶対に〝ぱんぱん〟をして欲しいのだし......長方形、ないしは正方形の洗濯物は、両端をちゃんと洗濯ばさみで留めて、斜めじゃなく干して欲しいのだが......えーと、〝男のプライド〟を傷つけない形で、これ、どうやって正彦さんに言えばいいのだ?
 これ。もの凄く陽子さんは悩んだのだが......これの解決は、ある意味で簡単だった。
 洗濯物をとりこんだ正彦さんに、斜めになったハンカチを示したら、それ一発でかたがついたのだ。

「......あ......確かに......変に斜めに伸びちゃってるな、このハンカチ」
「うん、そうなの。これは、まずい、でしょ? どう考えても、ハンカチが斜めに伸びてしまうのは、まずい。大体、こんなことになってしまえば、このハンカチ、まっとうに畳むことができない」
 実際に、陽子さん、正彦さんの目の前で、このハンカチを畳んでみようとした。でも、どうしたって、この変形しているハンカチは、まっとうに畳まれてくれようとはしなかった。だって、平行四辺形になってしまったものを、どうやったら正方形に畳めるというのだ。
「......ああ......これは......畳め、ない、か......」
「なのよっ! 変にバイアスかかっちゃうと、これはもう絶対に畳めなくなるのっ!」
「だよ......なあ......。じゃあ......」
 かくてこうして。
 正彦さんは、ハンカチの干し方、それ自体を改めてくれた。

       ☆

 この件で。
 陽子さんは、物凄く学習をした。

 これは、ほんとかどうかよく判らないんだけれど。
 多分。
 多分、〝夫〟というひとは、〝妻〟に何か言われるのが、本当に、どうしても、〝嫌〟なんだろうと思う。
 そうとしか思えない。
 いや。
 今の夫婦は違うのかな?
 でも。
 少なくとも、昭和時代に結婚した、正彦さんと陽子さんの夫婦は、〝そう〟。

 陽子さんが、正彦さんにとって〝楽〟である筈の、洗い物のやり方や洗濯のやり方を教えても、正彦さんは、これを素直に聞いてくれない。
 いや、一回目の説明は、さすがに聞くんだけれど、二回目は、右から左に聞き流す。
 三回目に説明をすると、いきなり、切れてしまったりもする。

 けれど。

 説明書に書いてあることは、話が違うのだ。
 だって。
〝説明書〟っていうのは、別に正彦さん相手に書かれたものではなくて、正彦さんの妻である陽子さんが書いているものでもなくて、まさに、万人に対して、その洗剤や何やを作っている企業が書いているもの。(実は、その分、個別の対応がまったくできてはいないのだが......。)
 そして、〝説明書〟に書かれていることには、正彦さん、素直に従うのだ。
 これ......男のプライド......なの......かな?

       ☆

 陽子さんだって、判っている。
 昭和のひとの正彦さんは、この年代の男性にしてみれば、とっても、妻に理解がある方だ。大体、定年になったからって、家事をやってくれようとしている、これは、これだけで、この年代の男にしてみればすぐれものだ。

 もうずいぶん前だけれど。とあるパーティで、定年になって仕事をやめた男性が、こんなスピーチをしていたことがあった。
「私は、定年になりまして、今では、妻に言われて週に一回、うちのお風呂の掃除をしております。これが本当に大変でして......」
 聞いていた陽子さん、このスピーチの意味が、本当に判らなかった。このひと......一体、何を言いたいんだ。
 定年になって、毎日家にいて、それでいて、やっているのが、〝週に一回のお風呂掃除〟。
 ......だけ?
 これ、自慢できることではまったくないと思う。だって、このひとがやっている家事は、お風呂を掃除すること、だけ、なんだよね。他の家事は、相変わらず奥さんがやっているんだよね。
 で、あの。
 そんなことをわざわざ言葉にして......このひとは、一体何が言いたいの。
 自分は、奥さんに言われるままに、ちゃんと家事をやっているよい夫です、そんなことが言いたいのか? まさか、お風呂の掃除をしているだけでそんなこと言う? その場合はこのひと、一体どんだけ家事を舐めているんだ。
 あるいは。
 自分は定年になったあとに、奥さんにこき使われている、情けない夫です、かな? でも、これも絶対に違う。たかがお風呂掃除をするだけで、〝奥さんにこき使われている〟だなんて思って欲しくはない。だってお風呂掃除って......別にたいして大変な家事じゃないんだもん。
 まあ。
 多分、これは、どっちも、ちょっと、違うよね。
 おそらくは、会社の中では偉かったであろうこのひと、こんな自分が、今、お風呂掃除をしている、それで笑いをとりたかったんだろうと思う。
 ただ。この感覚が......もの凄く、〝違う〟。主婦である陽子さんにしてみれば、違うとしか思えない。

 まあ。そんなひとに比べれば。
 正彦さんの反応は、とても素直だって言える。

      ☆

 あ。それから。只今の陽子さんは、とても期待をしている。わくわくしている。
 というのは。正彦さんが、その取り扱い説明書を見ながらやってくれている、トイレ掃除用洗剤のメーカーが、最近、トイレの床掃除の新商品を出したのだ。トイレの床掃除をする新たな商品。うわあ、これを正彦さん、知ったのなら......ひょっとして正彦さん、トイレ掃除をした後、床のことも掃除してくれる?
 だって、陽子さんじゃない、トイレ掃除用洗剤メーカーが、床掃除のこと言ってくれているんだもん。
 それに。
 その商品をまだ、正彦さんは買っていないのだが......でも、この商品のコマーシャルがTVで流れだしてからは、正彦さんのトイレ掃除が終わった後の、トイレの床、陽子さんが掃除しなくてもいいような状態になっている。いつの間にか正彦さん、床も掃除してくれるようになったのだ。(自分で気がついてくれたんだ。)
 これが、ほんとに、陽子さんには嬉しくって。

 あ、それから。
 ある日、ふっと陽子さんは気がついた。
 今では陽子さん、洗濯のことをまったく考えていない。洗濯物は、籠にいれておけばあとは全部正彦さんがやってくれる、とりこんで畳むのも、それを収納するのも、全部正彦さんがやってくれるに違いない、そう思って......洗濯のこと、いつの間にか、陽子さん、まったく考えなくなっていたんだよね。
 そうだよ。そう思ってみたら。
 私、もう一月以上、まったく洗濯のこと、考えていない!
 この時。
 こみあげてきた嬉しさを、どう表現したらいいんだろう。
 そうだよ、もう陽子さん、洗濯物のことを考えて天気予報を見てないもん。外干しするか、室内で干すか、これ、もう、陽子さん、考えなくていいんだ!

 ま、ただ。
 とは言うものの。

 未だに正彦さんは、お箸を一本ずつ、洗っている。そして洗ったお箸を、一本ずつ、リビングの箸置き場に戻している。
 正直。
 これだけは......本当に余計な手間だから......やらない方がいいんじゃないかって気が......とっても、とっても、するんだが。
 まあ、でも、この状態に慣れてしまえば、いつの日か、これが、気にならなくなる時が......来るのかも知れない。
 あと......正彦さんにとっては、これは運動の一種なのかも知れない。お茶いれながら、スクワットのようなこともやっているし。
 なら......これは続けてもらうしか......ないのか。

                 (つづく)

定年物語

Synopsisあらすじ

陽子さんは、夫・正彦さんの定年を心待ちにしていた。正彦さんが定年になって、家にいるようになったら……家事を手伝ってもらおう! 共働きにもかかわらず、激務で疲労困憊の夫には頼みづらかった家事。でも、これからは。トイレ掃除、お風呂掃除に、ご飯の後の洗い物、それから……。陽子さんの野望が膨らむ一方で、正彦さんもひそかに野望を抱いていた……。『銀婚式物語』に続く、陽子さんと正彦さんカップルの定年後の物語。

Profile著者紹介

新井素子

1960年東京生まれ。立教大学独文科卒業。高校時代に書いた『あたしの中の……』が第一回奇想天外SF新人賞佳作を受賞し、デビュー。81年『グリーン・レクイエム』、82年『ネプチューン』で連続して星雲賞を受賞、99年『チグリスとユーフラテス』で日本SF大賞を受賞した。他の作品に、『星へ行く船』『……絶句』『もいちどあなたにあいたいな』『イン・ザ・ヘブン』『銀婚式物語』『未来へ……』など多数。



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