定年物語第十五章 落ち武者狩りのごと蝦蛄(しゃこ)の殻を剥ぐ

 2023年。
 この年は、陽子さんにとっても正彦さんにとっても(というか、ほぼすべての日本国民にとって)、特別な年になった。
 実の処(ところ)、相変わらずコロナはそれなりに流行していたんだけれど、コロナの分類が変わった。インフルエンザと同じ扱いになったのである。また、同時に、マスク着用は個人の裁量に任されることになった。
 ......これには、陽子さん、思うことがない訳ではない。
 というか......そもそも、ここに至る前のコロナの扱いが、なんかおかしかったんじゃないのかなあって、陽子さんはずっと思っている。(勿論(もちろん)、陽子さんは感染症や疫学(えきがく)の専門家ではないので、これは素人の勝手な思いなんだが。)
 そもそもコロナって、死亡率がそんなに高い病気じゃ、ないよね? 感染率だって、際立って高いっていう訳でもない。
 それが......感染症の2類に分類されていたのが、変じゃない?
 感染症は、1類が一番酷(ひど)い奴で、そのあと、2類、3類って続くのだが、1類の感染症のトップにくるのは、エボラ出血熱である。
 これは。勿論、陽子さんはエボラを実際には知らないのだが(というか、それを実際に知っている日本在住の日本人は、感染症専門医以外滅多にいないと思う)、凄(すご)い病気だ。(だから、逆にそれを題材にした小説が沢山あって、ひたすら本を読んでいる陽子さん、エボラを題材にした小説を何冊も読んでいて、それで妙にこれに詳しかったのだ。)発生場所にもよるんだが、致死率が九十パーセント超えなんて奴もある。こりゃもう、罹(かか)ったが最後、運がいいと生き残れる、そんな凄い病気だ。(要するに、大体のひとは、エボラ出血熱に感染してしまったら、大体、お亡くなりになってしまうんだよね。いや、勿論、もっと致死率が低いエボラの株だってあるんだけれどね。)
 で、その後に、クリミア・コンゴ出血熱なんかが続き、やがて、ペストが来る。(こちらもまた、やたら小説になっている。)
 全部、凄い病気だ。
 罹ったが最後、生き残れるのかどうかは、患者本人の体力によってしまう部分がかなり大きい。

 そして、コロナは、2類ね。(勿論、他にもいろいろあるんだけれど。)

 3類には、コレラなんかが来る。(勿論、他にもいろいろあるんだけれど。)

 この分類によれば。
 コロナって、エボラ出血熱よりはましな病気で、でも、コレラより酷い病気だって分類に......なっているような感じが......する、よ、ね。
 これ。
 実情に本当にあっているんだろうか?

 また。
 1類、2類の病気を患っているひとは、行動制限と隔離をされてしまう。
 これはもう、そりゃそうだ、としか言いようがない。エボラの場合、このひと達が普通に出歩くと、最悪致死率九十パーセントのウイルスが、一般のひとの間に広まってしまう可能性がある。(......ま......エボラの患者さんが、〝普通に出歩く〟ことは、体力的に無理だとは思うんだけれど。)
 だから。
 コロナが、2類になってしまった瞬間......コロナの患者さんは、行動制限と隔離をされることになった。けど、これ......本当に必要なことだったんだろうか。
 ......まあ......これはある程度状況が落ち着いてきたから言える台詞(せりふ)なんだろうけれど。当時はしょうがなかったとも思うんだけれど......。
 しかもまた。
 このコロナ期間中、実際に陽子さんの友達がコロナになってしまったことがあった。ただ、彼女はそんなに病態が重くなかったし、その頃にはすでにコロナ病棟が一杯だったので、家での自主隔離になった。――要するに、外出をしないで家で寝ているだけにしろって話ね――。そんで、回復したあとの彼女から聞いた話では......彼女の処には、都から〝コロナセット〟みたいな段ボール箱が送られてきたらしくて、それにはいっていたのは、飲料水とレトルトお粥(かゆ)、その他もろもろインスタント食品。
 聞いた瞬間、陽子さん、思った。
 嫌だ。
 風邪で寝ている時(インフルエンザを風邪の重い奴だと考え、コロナはそのインフルの更に重い奴だと思った場合......コロナって、〝とても重い風邪〟だよねって、当時の陽子さんは思っていた)、水、は、いい。水、は、欲しい。その他水分を補給するのに必要な〝水関係、および水以外の飲料水に当たるもの〟、これは全部、ありがたい。けど、それ以外のものは......。
〝風邪〟で寝込んでいる時、レトルトのお粥は......嫌、かなあ。聞いた瞬間、陽子さんはこう思ったのだった。(いや、他に食べるものがなかったらしょうがないんだろうけれど。一人暮らしで寝込んでいたなら、これは本当にありがたいんだろうけれど。でも、もし、正彦さんが風邪で寝込んだら、陽子さんは間違いなくレトルトのお粥なんか使わない。そもそも、風邪で寝込んでいるんである、食欲なんてないに決まってる。なら、白粥よりも出汁(だし)で炊いたお粥の方が絶対いいよね。で、その場合、お粥を炊く為の出汁を何でとるのか、そこから考えるべきではないのか?)
 まして。インスタント食品に至っては。
 絶対に使わない。
 それだけは陽子さん、断言できる。
 ......けど......。
 とは、いうものの。
 お義母さんのお葬式の時の経験から、陽子さん、学んでもいる。
 レトルトとかインスタント食品とか......実は、私が思っているのより、おいしいものなのかも......知れない?(この辺の処、今の処陽子さんは断固としてインスタント食品を使っていないので、実はよく判(わか)らない。)
 なら、このラインナップも、あり......なの......か?
 ただ。
 もし、自分がコロナになって、隔離をされて、自宅から出ることができなくなって、買い物にも行けなくなって、それで、送られて来たのが、飲料水とレトルト食品とインスタント食品だったのなら。
 ちょっと、嫌だ。
 そして、その場合、何が欲しいのか。
 生鮮食料品、主に新鮮な野菜と果物、だよなあ。
 とはいえ、このどっちも、「冷蔵庫では長期保存が不可能」って結論が出てきてしまう。まして、冷凍なんて、無理。
 一旦は、そう思いかけた陽子さんなのだが。ここで、ちょっと、考える。
 ......冷凍なんて......無理......?
 あ。ちょっと違うかも。
 ぶどうのデラウェアなんて、冷凍しておいて、氷菓みたいに食べることが可能って話を、陽子さん、聞いたことがある。それに、お義母さんのお葬式からあと、陽子さんは冷凍食品コーナーをかなり綿密にチェックするようになっていて、その中には、〝ブロッコリー〟とか〝ベリー類〟とか、〝枝豆〟とか、単体の〝モノ〟を、冷凍していて、「解凍すれば普通に使えます」って言っているものもある。それが本当なら......。
 陽子さん。
 ここから先、冷凍庫の中に、そういう商品をストックするようになった。

 ..................。
 おっと。
 話が何か変な方に行ってしまった。
 とにかく。
 2023年から......日本国民の生活は、変わったのである。

       ☆

「陽子! 句会が......それも、ズームとかじゃない、リアル句会ができるようになった!」
 ある日。正彦さんが、本当に興奮して、叫ぶようにしてこんな台詞(せりふ)を言った時の......陽子さんの反応は。
「......ああ......それは......おめでとう......ございます」
 何故か微妙におざなり。というか......なげやり。
 だって、この頃正彦さんは、すでに月に五、六回くらいはズームの句会に参加しており、これ以上句会が増えてどうするんだよって陽子さんは思っていたから。
「俺がはいっている結社の句会は、まだ、できないんだよね。でも、有志参加のリアル句会が、今度、できるんだ!」
「......え? 結社の句会ができないっていうのは......?」
「主宰の先生が、まだ微妙にコロナ大丈夫なのかどうかって心配しているんじゃないかなって話もあるし、もっと言っちゃうと、ズーム句会が、やってみたら思っていたのよりずっとよかったって話もあって......」
「やってみたら、よかった?」
「そう。例えば市ヶ谷やどこかで句会やってれば、当然、参加者は東京在住のひとばっかりになるだろ? 埼玉や千葉在住のひとは、がんばれば句会に出席できるけれど、それより遠いとなると、出席はかなり困難だ」
「そりゃまあ......」
「ところが、ズーム句会では、京都や青森のひとだって参加できる。それどころか、外国に住んでいる、今までは句会に出てくることなんて絶対にできなかったひとが、参加できるんだよね、あれ」
 ......ま......そりゃ、そうだ。
「実際、ズームになってからは、仕事で海外に転勤になってしまって、ずっと句会に参加できなかった、会誌を読んでそれに投稿するしかできなかったひとが、何人も参加してくれるようになったし、同じく仕事で地方に転勤しているひとも何人も参加してくれるようになったし」
 おおお。確かに。ズームには、そういう利点があるわな。
「だから、まあ、ズーム句会は、そのまま残す、と。でも、それとは別に、参加者が実際に会うことができる、リアル句会をやろうっていう動きが出てきたんだよっ!」
 そ......そ......それは。
 まあまず、陽子さんにしてみたら、「おめでとうございます」って言わなきゃいけない話かも知れないけれど......実際、言ったけれど......これ......ただ......単に......正彦さんが参加する句会の数が、どんどん増えてゆくだけだって話に......なるんじゃないのか......なあ?
「ただ。コロナの問題もあるし、主宰の先生が、まだ、リアル句会にそんなに積極的じゃないんだよ。だから、それは、将来を見越した話だってことになって。でも、有志が、今度、リアル句会をやることになったんだっ!」
 ......あ、ああ......そう。そして、正彦さんは間違いなく、その〝有志の句会〟に参加希望なんだよね?
「で、俺はそれに出る」
 はい、判ってます。そうでしょう。
「んで、陽子もそれに招待されてる」
 って......?
 って、え? 何、で?
「だっておまえ、一応小説家じゃん」
 ......いや......一応じゃなくて、ちゃんとした小説家のつもり......なんだ、けど、ね。
「しかも、俺がズーム句会に参加した時、おまえだって参加したじゃん」
 あ! あ、あ、あ、確かに。
 ズーム句会は、最初の頃、句会が終わった後でズーム飲み会になってしまうことが結構あったのだ。(もともと、この結社の本来の句会では、終了後に二次会をやって、そこでお酒呑みながら、主宰の先生から色々なアドバイスを受けるのが恒例だったので。)そして、このズーム飲み会には、陽子さん、結構参加していた。というか、飲み会にはおつまみが絶対に必要でしょう。そう思ったので陽子さん、正彦さんが参加している句会が終わる頃を目指して、ひたすらおつまみを作り――いや、それ以前に。句会が終わってお酒が始まるのなら、その前に絶対に御飯だ、御飯を食べずにお酒だけ呑むだなんて、陽子さんは許さない――、飲み会に参加っていうよりは、「はい、これ作った、これ食べて」「今度はこんな料理ですよー、これ食べて」って、割り込んでいたのだ。勿論これは、ズームのカメラには全部映ってしまう。結果として、陽子さん、ズーム飲み会に参加していたって言えば......していたのかな、という状況に、なってしまっていた。――というか......ほぼ、割り込んでいたんだよね――)
「この間のクリスマスの時のズーム句会なんて、あれはもう、もろに〝参加〟としか言いようがないものだったんじゃないかと」
 ......た......確かに。
 あの時は、結構うまくローストチキンが焼けたので、陽子さん、見せびらかしたい気持ちがちょっとあり、ズームに参加して、「はい、ローストチキン、作ってみました」なんて、画面上でローストチキン見せびらかして、自慢してしまったのだった......。
「その前におまえ、〝あの、あなたはひょっとして作家の原陽子さん?〟って聞かれたら、いつも〝はい、原陽子です〟って名乗ってた、だろ?」
 ......あ......あ......はい。いやだって、そんな処で嘘ついたってしょうがないっていうか......。
「その時、〝あ、私は原さんの本読んでます〟〝原さんの作品好きです〟とかっていうひとがいたら、全部、にこにこ対応していた、だろ?」
 あ......あ......はい。
「という訳で。おまえは、うちの結社では、俺の妻じゃなくて、いや、俺の妻なんだけれど、それより比重として、作家の〝原陽子〟になっているんだよ」
「あ......なんかごめん」
「いや、それはいいんだよ。もともと俺、小説家であるおまえの紹介で、おまえの担当編集のひとを介して、それでこの結社にはいったんだから。......ただ、〝そういう理由で〟おまえも今回の句会に招待されている......んじゃないかと、俺は思っている」
 ......え?
 え?......あっ!
〝そういう理由〟?
 成程。下手に私が小説家だって言ってしまったせいで、しかも、私のお話を好きでいてくれる方が何人かいるおかげで、それで私は、なんかよく判らない〝ゲスト〟として、この句会に招待されてしまった訳ね。それは判ったんだけれど、同時に、陽子さんには、もう絶対に譲れないこともあって。
「でも......あの......私......句は絶対に詠(よ)めない、よ......」
 そう。ここだけは、譲れない。

 正彦さんにつられて。俳句という文学形態が判るにつれ。陽子さんにも判ったことがあた。

 俳句。

 多分......私とは......絶対に、相いれない。相性が悪いにも程がある。

 自分が作っている〝お話〟がどういうものであるのか。陽子さんは、こんなことを思っていた。
 私は、多分、〝構成〟がとても好きな作家なのだ。というか、〝構成が命である〟っていうお話を書きたい、そんなタイプの作家なのだ。
 うん。
 それまで陽子さんが作ったお話は、読者には違う意見があるかも知れないけれど、少なくとも作っている陽子さんにとっては、そういうもの。結果としてまったく違うものができてしまった可能性はあっても、少なくとも作っている陽子さんは、そう思って作っている。〝詩情〟なんてもの、あってくれたら確かにそっちの方がいいんだけれど、別になくてもまったく構わない。構成がちゃんとしているものを、構成がきれいなものを、とにかく陽子さんは作りたいのだ。読者には、基本的に〝構成〟を楽しんで欲しいのだ。そして、〝構成〟がすべてなのならば、私のお話にとっては、〝説明〟は、必須。(いや、説明をしなくても〝構成〟を理解して貰(もら)えるのなら、それはそれでいいんだけれど。......大体の場合、そんな幸運はないよな。どうしても、どこかで〝説明〟をしたくなるよな。)
 ところが。
〝俳句〟というのは、〝説明してはいけない〟っていう文学形態なのだ。

 あり得ない。
 いや、俳句っていう文学形態があるっていうことは、判る。
 正彦さんに付き合って、いろいろ俳句を鑑賞してみて、これがとても面白いものだっていうことも判っている。
 そうだ。読むだけなら、いいのだ。好きな俳句とか、「あ、この句って素晴らしいんじゃない?」って思う俳句も、多々、ある。
 けれど。

 陽子さんは、作家としてのあり方から言って、説明を絶対にしたいひとなのだ。いや、勿論、エンターテインメントである以上、説明が表だって出てきちゃったら興を削(そ)ぐ、故に説明は説明だって判らないようにしたい、そういう理解は、陽子さんにだってある。とはいうものの、〝説明をしてはいけない〟という選択肢は、陽子さんにしてみれば、〝あり得ない〟。
 だから、できるだけ、「これが説明だ」って判らないようにして、本文の中に説明を施す。会話に紛れて説明を施す。
 陽子さんはこんな努力を日々しているっていうのに......〝俳句〟は、助詞の使い方、「てにをは」までを、「これは説明的だから駄目」って言ってしまう文学形態なのだ。
 その上。
 俳句を脇から見ていて、陽子さんには判った。
 陽子さんというのは、ひたすら饒舌(じょうぜつ)に、いろんなことを描きたいタイプの書き手だったのだ。
「これは、××である」、煎(せん)じ詰めれば、たったこれだけで済む筈(はず)の事象を、手を変え品を変え、ひたすら描写し尽くす。こんな作業が、とても好きなタイプの書き手だったのだ。「これは××である」、そんなことを、十七音どころじゃないや、四百字詰め原稿用紙で十枚くらい書きたくなる、そんなタイプの作家だったのだ。......いや......エンターテインメントって、そんな傾向、あるんじゃない? 余計なことをひたすら書いているケース、多いよね? しかも、お話によっては、そこが読み処になっていたりもする。
(勿論。エンターテインメントを書いている作家の方で、俳句を詠む方はいらっしゃる。それは当然だと陽子さんも思う。実際に、俳句っていうのは素敵な文学形態なのだ。ただ......これはもう、指向が違うというか、資質が違うというか......。)

 うん。これはもう。
 どっちがいいとか悪いとか、どっちが優れているとかいないとか、そういう話ではない。 相性が悪い。
 ひたすら、そうとしか、言いようがない。
 だから。
 これだけは陽子さん、譲れない。
「あの......私、絶対に俳句は、詠めないからね。だから、句会に招待されても、出席できないと思うの」
 そうしたら。正彦さんは、こんな風に言葉を継いだのだ。

「あ、多分、おまえをゲストにって招待してくれた有志のひとも、それは判っていると思う。だから、句会に参加しても、おまえは句を詠まなくてもいいって言ってくれている」 ......って? え?
「......あの......句会に参加して、句を詠まないって......それじゃ、私、何をすればいいの?というか、句を詠む為に参加するのが〝句会〟でしょ? 最初っから句を詠まないって決まっているひとが参加して、それじゃそのひと、何やるの」
「選句して欲しいって。......句を読んで、この句が好き、とか、この句が素晴らしい、とか、そういうことを言って欲しいみたいなんだけれど......」
 ......まあ......確かに。それは、できる。そもそも陽子さん、正彦さんの縁で主宰の先生にお会いして、その方がやっている〝猫俳句〟コンテストの審査員を、「俳人ではない、小説家で、猫好きとして」務めた経験だってある。選評だって、書いてしまった。
 それに。
 ここまで言われてしまえば、陽子さんにも欲が出てくる。
 そもそも、旦那がここまでいれこんでいるのだ、句会に興味はあった。
 その上、おつまみ及び御飯作り要員としてだが、ズーム句会の二次会には何回も出席していたのだ。そこで知り合った方々と、実際に会ってお話しできるっていうのは、かなり魅力的だった。
「......本当に......句を詠まなくても......私、参加して、いいの......かな?」
「あ、ただ。句は詠まなくてもいいんだけれど、選句だけはして、そして、〝原陽子賞〟みたいなものをやるから、本にサインしてくれって」
「え! ちょっと待って、それは余計できない。だって私、俳句のことなんてまったく判らないんだよ? 賞なんて、出していいものじゃないでしょう」
「だから、本当の賞じゃなくて。しゃれみたいなもので。〝今回の句会で原陽子が一番好きな俳句です〟ってな賞ってことで」
「......そ......そんなもん......〝賞〟って言っていいの?」
「まあ、賞品がおまえのサイン本だってことになっているから......その程度のことなら、いいんじゃないの?」
 ......いいのかな。
 本当にそんなこと、やってもいいのかな。

 でも。
 実は陽子さん、ずっとずっと、句会に参加してみたかった。(勿論、自分では句を詠めないから、参加できないと思っていた。)旦那がここまでいれこんでいるのだ、それに、ズームでしゃべったりしているのだ、旦那の句友の方にも実際にお目にかかっておしゃべりしてみたかった、このリアル句会が終わった後には、二次会があるそうだから、そんな方々とお食事なんて一緒にしてみたかった。
 で。
 で、つい。
「ほんとに、私が参加してもいいのかなあ」
 この台詞を言った瞬間。これはもう、ほぼ、「私も参加したいんです」って言っているのと同義なので。
 陽子さん、正彦さんにとってもほんとに久しぶりのリアル句会に、お邪魔してしまうことになったのだ......。

       ☆

「うわあ。前に、あなたが結社に参加する時のお試し句会に、私もお邪魔したじゃない、その時以来の、リアル句会だあ......」
 この日。
 陽子さんは、正彦さんより二時間くらい遅れて、この句会に参加した。(これは、陽子さんが〝遅れて〟来たんじゃなくて、〝正彦さんが早く来てしまった〟という話である。この句会、開始前に、別の俳句イベントがあって、勿論正彦さんは、それに参加したのだ――どんだけ俳句ばっかりやっているんだよ正彦さん――。でも、さすがに陽子さんはそれに参加する訳にはいかず、正彦さんよりは二時間くらい遅れて家を出たのだ。)
 そして、それまで、ズームでお目にかかっていたひと達に挨拶をしたり、そもそも正彦さんをこの結社に招待してくれた担当編集の方と久しぶりに会ったり、色々社交をこなして。で、そんなことをしていたら。
「原さんにも、句会気分を味わっていただこうと思いまして......清書、お願いします」
 って?
 陽子さんに渡されたのは、ちょっと大きな短冊(たんざく)みたいなもの三枚。
 これ、何かって言えば......参加者が詠んだ俳句は、集められてアトランダムに、どの句を詠んだのが誰だか判らない形で並べれらるんだけれど(だから、みなさま、三枚の短冊に自分の句を書いて提出するのね。全部集まった処で、短冊をごちゃごちゃに混ぜてしまえば、それが誰の句だか、ほぼ確実に判らなくなる)......ずっと同じ結社に属していれば、結構、筆跡って覚えられてしまうんだよね。だから、句会によっては、集められた句を、アトランダムに他のひとが清書して、それをコピーして選句用紙を作っている句会もあるのだ。今回の句会は、そんなもの。ということは、三句、句を提出した参加者は、同じく三句、他人の句を清書することになる。これを、陽子さんもやることになって。
「え......」
 え、え、え。いいのか、そんなこと、私がやっていいのか?
 陽子さんがこう思ったのは、〝俳句〟的なことではなくて......〝字〟的なこと。
 これから、私が、自分に渡されたアトランダム三句を清書する。そして、みんなが清書したものを繋(つな)ぎあわせてコピーして、みなさまに配る。それを基にして、選句をする。......けど......私......そんなに字、うまくないよ? (いや、これは、謙遜にもなっていない。もっと正直に言うのなら「私......字、とても下手だよ?」になる。)
 陽子さん、横目で、隣にいる正彦さんのことを見る。
 この瞬間......正彦さんが、只今三冊目のペン習字の練習帳にとりかかっている理由が......嫌っていう程、陽子さんには、判った。
 こういう作業が必須なら......そりゃ......正彦さん、絶対にペン習字をやる、よね。やらざるを得ない、よね。やらない訳にはいかないよね。
 で、横目で陽子さんが自分のことを見ているのが判った処で、正彦さん。
「大丈夫だ。みんな、慣れているから、字のうまい下手で句を選ばないから」
 ......そう......心から、願う......しか、ないよね。
 それに。
 客観的に言ってみれば、三冊目のペン習字をやっている正彦さんに比べて......陽子さんの字は、うまい訳でも何でもないけど......とにかく、ちゃんと読める、よ、ね? なら......なら、これでいいと思っていただくしかない。
 とにかく、陽子さんは、自分に与えられた三枚の短冊に俳句を清書する。
 ちょっと......祈り、ながら。
 神様。
 私はできるだけ綺麗に、これらの句を清書するつもりなんですけれど......もし、私の字が下手なせいで、この句を詠んだひとが、不当に低い評価をされませんように。もし、そんなことになってしまったら、私、そのひとに対して、申し訳ないとか、そんな言葉では言い表せない程、酷いことをしてしまうって話になってしまうと思います。
 で。
 こんなことを思いながら。
 陽子さんは、誰だか判らないひとの俳句を清書する。
 しばらく時間がたった処で、みんなが清書した俳句が並んでいる、コピーされた紙が配られる。

 そして。
 これを見た瞬間。

 陽子さんは、二つの意味で、息を呑んでしまう。

       ☆

 と、言うのは。
 まず、その一。

 この結社って......すっごい、字がうまい方が多いんだな。
 見ただけで判る。
 二人程、抜きんでている字を書いているひとがいる。
 確か、この結社には、プロの書家の方がいらっしゃるって聞いたような覚えがあるんだが......そのプロの書家の方、今回の句会には参加していない筈で......ということは、素人さんで、この字、か。
 これはなあ。
 俳句がどうのこうのの前に......この〝字〟だけで素晴らしいわ。こんな〝字〟で書かれてしまえば、どんな俳句だって二割増しで素晴らしく思えてしまう。
 しかし。とは言うものの。
 陽子さんは、絶対に、この俳句を、字が素晴らしいからって選ぶ訳にはいかない。(だって、陽子さん、他人様の句を、清書したんだもん。自分が清書した句は、間違いなく陽子さんのせいで、情けない字になっている筈。それを思えば、〝字〟で選句をする訳には絶対にいかない。)
 とはいうものの、〝字〟が素晴らしいっていう理由で、不当にこの俳句を低く評価する訳にもいかない。それはもう、逆の意味で、不公平だ。
 と、いうことは......。
「印刷した字。印刷した字」
 もう、陽子さんにしてみれば、こう、唱えるしか、ない。
「いいかあ、私。私、思うのよ。ここにあるのは、素晴らしい字ではなく、駄目な字でもなく、〝印刷した〟字。パソコンの画面に浮かんでいる、あの、〝字〟なんだ。そう思って、すべての評価を......」
 陽子さん。必死になって、そこに書いてあるすべての俳句を、自分のパソコンの画面上にある、印刷した字として、評価しようとする。
 で、まあ。
 なんか、やっと、できたような気が、した。
 とにかく。
 〝字〟の素晴らしさとはまったく別に、そこにある俳句、そのすべてを鑑賞して......。

 陽子さんが、今回の句会で、一番好きな句。

 これを選んでみた。
 これでオールOKだと思った。
 でも。
 そうしたら、二番目の問題が、いきなり陽子さんに襲いかかってきたのだ。

「......うん、いろいろ考えた結果、今回の句会で、私が一番好きなのは、この句だよね」 と、いう句を、陽子さんはやっと選びおえた。でも。
「原陽子賞って、しゃれだから。とは言うものの......私が選んだ句は、ほんとにいい句だから、これが今回の句会の第一席や二席を取っている可能性は......あるよなあ。ということは、私、念の為に、二番目や三番目の句も、視野にいれておいた方がいい......の......か......なあ」
 これは本当にそのとおりで。陽子さんが最初に選んだ句は、無事にこの句会での賞をとってしまった。
 と、なると。
 しゃれの賞である陽子さん、他の候補を考えざるを得ない訳で......いや、その前に。
 もっと、凄い問題が、発生したのだ。

 その、問題。
 これはとても簡単なことで。

 この句会には、当たり前だけれど、正彦さんも参加している。
 つまり、陽子さん、正彦さんが参加している句会で、自分の名前がついている賞を選ばなければいけなくなった訳だ。
 参加前には。
 陽子さんはこの事態を舐(な)めていた。
 いや、正彦さんの俳句は、絶対、自分には判る、そんな気持ちになっていたのだ。そんないわれのない確信があった。
 だから。
 自分が、『原陽子賞』を選ぶに際して、正彦さんの句は、間違いなくその候補からはずせる筈。そう思っていたから、正彦さんが参加している句会で、『原陽子賞』なんてものをやってもいいと思ったのだ。
 いや、だって、そりゃ、そうでしょう?
 さすがに。
 原陽子賞って名前の賞で、正彦さんがそれを取ってしまったら......〝まずい〟のとはちょっと違うよね、〝変だ〟もちょっと違う、〝ずるい〟はもう絶対に違うんだがどう違うのか説明が難しい。
 このあたり......本当に説明が難しいのだが......。
 とにかく。

 あ。
 正しい言葉が判った。

 みっともない。

 私が、しゃれで参加させていただいた句会で、しゃれで選んでいる賞を、私の夫が取ってしまったら。
 これはもう......〝みっともない〟としか、言いようがない。
 だから、絶対にそんな事態には陥りたくはなかったし、この句会に参加するまでは、自信を持ってそんな事態は起こり得ないって思っていたのだが......今。
 今、句会に参加しているみなさまの句を全部読んでみて、それも、一回ではなく、二回も三回も読んでみて......この〝自信〟が、揺らいだ。
 ど、ど、どうしよう。
 私、旦那の句がどれだか、判らない。

 このひと。うちの旦那。
 本当に、俳句に関しては、精進しているのだ。

 最初の頃はほんとに下手だったのに。
 だって、一番最初の、旦那の一番の自信句って、〝くらげ来て 海水浴は お盆まで〟なんだもん。この〝句〟を弾(はじ)くことなんて、どんな選者だってできる。
 けれど。
 いつの間にか、旦那、同人のひと達と比べて、「どの句が旦那の句だか判別ができない」くらいには、うまくなっていたのだ。

 で。
 で、どうしよう?

 まさか。まさか、いくらしゃれだって、原陽子賞に、うちの旦那を選ぶ訳にはいかない。 けれど。
 どの句が、正彦さんの句であるのか......陽子さんには、判らないのだ。
 ということは......確率的には相当低いのだが......偶然、陽子さんが、正彦さんの句を、選んでしまう可能性は......皆無では、ない。
 うわあああああっ。
 どうしよう。
 そんなみっともないこと、絶対にやりたくはない。
 かといって、どうやったらそれを回避できるのか、それがまったく陽子さんには判らない。
 ..................。
 どうしよう。
 本当に......どうしよう......。

                                    (つづく)

定年物語

Synopsisあらすじ

陽子さんは、夫・正彦さんの定年を心待ちにしていた。正彦さんが定年になって、家にいるようになったら……家事を手伝ってもらおう! 共働きにもかかわらず、激務で疲労困憊の夫には頼みづらかった家事。でも、これからは。トイレ掃除、お風呂掃除に、ご飯の後の洗い物、それから……。陽子さんの野望が膨らむ一方で、正彦さんもひそかに野望を抱いていた……。『銀婚式物語』に続く、陽子さんと正彦さんカップルの定年後の物語。

Profile著者紹介

新井素子

1960年東京生まれ。立教大学独文科卒業。高校時代に書いた『あたしの中の……』が第一回奇想天外SF新人賞佳作を受賞し、デビュー。81年『グリーン・レクイエム』、82年『ネプチューン』で連続して星雲賞を受賞、99年『チグリスとユーフラテス』で日本SF大賞を受賞した。他の作品に、『星へ行く船』『……絶句』『もいちどあなたにあいたいな』『イン・ザ・ヘブン』『銀婚式物語』『未来へ……』など多数。



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