定年物語第七章 そうか。家にいるひとは御飯を食べるのだった......
正彦さんがずっと家にいるようになって、しばらくたって。
陽子さんは、驚いた。
うん、その......「買い物ってこんなに大変なことなんだっけか?」って意味で。
☆
いや。
最初はちょっと違ったのね。
正彦さんがずっと家にいるようになった、最初の頃は、陽子さん、正彦さんと一緒にお散歩なんかしていて、そして、お散歩帰りにスーパーへ寄り、そこで買い物をしていた。
この時陽子さんが思ったのは、「ああ、ありがとう! 旦那がいてくれると、お買い物がとても楽!」。
うん、そうなのだ。この時は、そうだったのだ。
正彦さんさえいれば、陽子さん、今までと違う買い物ができる。
何たって、持って帰れる量が違う。
この頃、陽子さんはとても安く野菜を売ってくれるお店をとっても贔屓(ひいき)していて......でも、このお店は、なんか、普通のスーパーとは基本理念が違っていたのね。
沢山買えば買う程、安くなる!
このお店の基本理念は、これに尽きた。(なんか、気持ちとして、業務用スーパーに近いのかも知れない。)
だから、売っているものの単位が......普通のスーパーとは、ちょっと違う。基本、野菜が主なのだが......キャベツを丸一個、とか、白菜がまるまる一個、とか。
これ、料理をしないひとには判らない感覚なのかも知れないけれど。二人暮らしの家で、白菜を丸一個っていうのは......買っていい量ではない。いや、買ったっていいんだけれど、二人暮らしで、白菜を丸一個食べきるのは......かなり大変。(......いや......無理、だろう......。)
白菜と豚肉のミルフィーユとか、あとはひたすら鍋料理とか、もう「とにかく白菜を使う! ひたすら白菜を使う料理をするぞ私は!」って意気込まないと、そしてそれを何日も続けないと、二人で白菜を丸一個食べきるのは、ほんとに大変。(んでもって、まさか何日も白菜メインの料理ばっかり作る訳にもいかないし、大体が、会社勤めをしている頃の正彦さんは、毎日家で夕飯を食べてくれる訳ではない。そもそも、その日正彦さんが家で夕飯をとってくれるのかどうか、出社しなければ判らないような状態が常だったのだ。)
ということは......白菜丸一個だなんて、間違いなく陽子さんは買ってはいけない。
(だから、普通のスーパーでは、白菜一個なんて滅多に売っていない。白菜八分の一カット、とか、四分の一カットなんかを売っているのである。うん、普通の家庭で普通に使う白菜の量って、ま、そんなもんだから。いや、「あ、今日は豚汁だから白菜ちょっと欲しいな」、なんて場合は、八分の一カットでも多すぎる。その場合、陽子さん、残った白菜をひたすら浅漬けなんかにしたんだけれど――三日もたつと、切り口からどんどん白菜が傷んできてしまうのである、だから、できるだけすぐに白菜の残りを何とかしなきゃいけない――、でも、これやっちゃうと、今度は、「白菜の浅漬けばっかり、どうしたもんか......」って事態になる。)
ただ。
もう、くらくら、くらくら、陽子さんが誘惑されたのは......丸々一個の白菜の、このお店での価格が......も、すっばらしく、安い! 季節と時間によるんだけれど、その辺のスーパーの八分の一カットの白菜と、このお店の丸々一個の白菜って......丸々一個の白菜の方が、倍以上に安い。(いや、安い、に、倍以上って言葉をつけると、何か矛盾を感じるな。これは、普通のスーパーの八分の一カットの白菜を八つ買うと――つまり、普通のスーパーで一個分の白菜を買うと――、そのお値段で、このお店では、丸々一個の白菜が、二個以上買えてしまう、ということだ。しかも、状況によっては、これがもっと安くなるんだな。)
お値段だけで考えるのなら、これはもう絶対、買うべきはこのお店の白菜だ。
ただ、間違いなく、このお店で白菜を買ってしまった場合......白菜の、かなりの部分が、傷んでしまう可能性が否定できない。そして、それが判っているのに、このお店で白菜を買うこと、これは陽子さんにはできかねた。
いや、食品ロスを止めようなんて大上段に構えた理屈ではない。もっと単純に、〝食べられる食材を傷ませてしまうのは調理をする人間の恥である〟って陽子さんが思っていたからだし、また、〝食べられる食品を傷ませてしまうのは白菜を作ってくれた農家のひとに対する、最大級の侮辱だ〟って陽子さんが思っていたからである。
それに。
もっと大きな理由として......丸々一個の白菜。もし、これを買ってしまったのなら。
この日、陽子さんは、他のものが殆(ほとん)ど買えなくなる。
それは何故かって......丸々一個の白菜みたいに、大きくて重いものを買ってしまったら、そしてそれを自分の鞄(かばん)の中にいれてしまったら......鞄の容積的にも、陽子さんが持って歩ける重量的にも、その他のものなんて、買える余地がなくなるからだ。
また。
このお店は、陽子さんにとって魅惑的であり、破滅的でもあることを、他にも沢山やっていた。
一番「あああ......」って思ったのは、夕方サービス。
夕方になると、ただでさえ安かったこのお店の野菜、もっとずっと安くなるのである。
例えば、それまで、一把(わ)百円だった小松菜が、夕方サービスになると、いきなり割安になる。けれど、その、〝安くなり方〟が......陽子さんが「こうして欲しい」って思っているものと、ちょっと違う。
陽子さんにしてみれば、それまで一把百円だった小松菜が、一把八十円になってくれれば、これはすっごく嬉しい。けれど、このお店は、そういう値引きの仕方を、まず、しない。
じゃ、どんな値引きの仕方をするかっていうと......。
「夕方サービス! 今まで一把百円だった小松菜が、二把でも百円!」
......安くなっている。半額になっている。けれど、それは、価格が半額になったっていう訳じゃなくて(いや、実質的には半額にはなっているんだが)、量が倍になっているんである! そう、このお店のサービスって......確かに結果からみれば価格は安くなってはいるんだが......価格自体は変わらず......量がひたすら増えてゆくのである。
そして。この値引きの仕方だと......二人暮らしの陽子さんにとっては......いや、確かに安くはなっているんだよ、安くはなっているんだけれど......あの......小松菜二把って......これを二人暮らしで、しかも旦那がいつうちで夕飯を食べてくれるのか判らない状況で......消費するのって、無理、でしょ? って話になってしまうのだ。
もっと凄(すご)いのは、ザルによるサービス。
このお店では、もともと、ザル一つ百円ってものが、店頭にずらっと並んでいて、これはこれだけでかなり安かった。そして、これが夕方サービスになると。
「はい、夕方サービス! 今まで一ザル百円だったんだけれど、これからは、二ザルで百円!」
はい、半額になっている。けれど、ザルにはいっているものは、結構同じものが多く......あの、これ、量が二倍になってるって話だよね? 勿論、違う野菜がはいっているザルもある。けれど、陽子さんが欲しい野菜がうまい具合にザルに配分されている可能性はまずなく......確かに半額にはなるんだけれどさ、私は今日、この野菜とあの野菜が欲しいんだけれどさ、百円で二ザル買っちゃうと、まったく使う予定がない、他の野菜がついてきちゃうんだよね。しかも、野菜によっては、傷みやすいものもある。今日の夕飯では使う予定がない、傷みやすい野菜買っちゃって、明日旦那が夕飯食べてくれなかったら、これ、買ったはいいけど傷んじゃう。こ......こ......これは、やっぱり、嫌、だよね?
また。
もっともっと衝撃的だったのは......箱によるサービス。
このお店に最初に来た時、陽子さんが息を飲んだのは、トマトだった。
「このトマト、半箱○○円!」
その時、陽子さんの視界にはいったのは、見事なトマトが、十数個はいっているダンボール箱で......この、トマトが、半分で、○○円?
......嘘、だろ? あるいは、何かの、間違い?
で、おずおずと、陽子さんは、聞いてみた。
「あの......半箱○○円って......このトマトが」
「あ、半分で、○○円ね」
って、お店のひと、箱の中のトマトの半分を、分割してザルに載せてしまった。だから、ダンボール箱の中に残っているのは、まさに、半箱のトマト。んでもって、お店のひと、それを指で示して。
「この、半箱のトマトが、○○円ね」
や......や......安いっ! しかも、このトマトが、素晴らしいっ! ぴんと張っていて、ほんとにみずみずしくて、これが、○○円? これが、○○円!
その日は陽子さん、トマトを使う料理を作る予定なんかまったくなかったにもかかわらず、でも、このトマトを、ついつい勢いで買ってしまった。だって、こんなに素敵なトマトがこんなに安いだなんてありかよ? って思ったから。(そして案の定、このトマトを生のままで使いきることができず、最終的にこのトマトの半分くらいは、トマトソースになってしまったのである......。)
で......この時以降陽子さんはひたすらこのお店を贔屓するようになったのだが......この後も。
「はい、夕方サービス、半箱○○円の野菜が、一箱になります。一箱××円!」
や......安い。すっごく、安い。さすがに箱では、半箱○○円が、一箱○○円にはならなかったんだけれど、でも、それでも信じられないくらい安い。この値段なら〝買い〟に決まっている。けど......量が、ただごとではない。夫婦二人の家族が、野菜を箱買いなんて、していい訳がないだろうがよっ!
このお店では。
もう、とにかく、〝量〟なのだ。
確かに、とても、〝安い〟。
けど、それは、量が凄いから安くなっているっていう傾向があって......。
この傾向は、果物でもっと顕著になった。
みかんなんか、一キロいくらなんだけれど、夕方になれば、それはどんどん安くなる。けど、それは、一キロのみかんが安くなるんじゃなくて、ただただみかんの量が増えてゆくのである。
二キロ、三キロ......あの、ねえ。
確かに。
もの凄く、安くなっている。それは確かだ。ただ......けど......どう考えても、夫婦二人の世帯で、みかんを三キロ買ってしまうと......それは、みかんが傷む前にちゃんと食べきれる量なのか? この辺の処がとっても謎で......。
いや。その前に。二キロのみかん。んなもん、普通の主婦が普通に買い物をしている時、持って帰れる量とは思えん。
だから。
正彦さんが定年になって、陽子さんとお散歩がてら一緒に買い物をするようになって、最初に陽子さんが思った、「ああ、旦那がいてくれると、お買い物がとても楽!」って感想は、ここの処に由来する。
旦那がいてくれれば。旦那さえいれば。
重いものはみんな旦那に任せればいいんだよ。
この場合、殆ど正彦さん、〝自動重いもの持って歩き器械〟である。
でも、本当に陽子さんは、〝自動重いもの持って歩き器械〟の正彦さんに、感謝していたのだった。
ああ。
(勿論買わないけれど)買う気になれば、白菜を一個、買うことができる。〝自動重いもの持って歩き器械〟って、何て素敵なの! この器械があるのなら、キャベツ一個とか、お米だって二キロじゃない、五キロが買える!
(......あと。陽子さんはあんまり意識しないようにしているんだけれど......実は、陽子さんが重い物や容積が大きいものをあんまり買えないのには、他の事情もあった。
まず、前提条件として。
とにかく、このひとは本を読むのである。正彦さんが定年になる前までは、年間、三、四百冊くらいしか本を読んでいなかった陽子さんなのだが――......書いていて思った。これ、〝しか〟って言っていいのか? 〝しか〟って表現が許される量なのか?――、正彦さんが定年になって、自分の好きな俳句なんかに時間を割(さ)くようになった瞬間、陽子さんの、箍(たが)がはずれた。正彦さんが趣味の俳句をやっているのだ、それに思いっきり浸りこんでいるのだ。なら、自分だってもっと趣味の本を読んだっていいだろうって思ってしまい......結果として、只今の陽子さんは、年間......六、七百冊くらいの本を読むようになっていて......あー、実情は、もっと、かな。となると......その......毎日買っている本の重さと容積が結構凄い。こんだけ読んでいるのだ、日々携帯している本の重量と容積もある。一日二冊平均くらい本を読んでいるんだもの、陽子さんの鞄の中には、バス待ちの時間の為や、バスや電車に乗っている時間の為に、本が常備されている。そして、勿論この状況下でも、陽子さんは、本屋さんへ行ったら本を買う。うん、こんな状況下では。鞄の中に、常時本が複数はいっているんだもの、〝買い物〟にあまり重量と容積を割くことは、重量、および容積的に、不可能。)
☆
とはいうものの。
実は、この〝陽子さんの思い〟って......正彦さんが定年になってすぐの時の話である。
うん、その〝思い〟って、「ああ、旦那がいてくれるとお買い物が本当に楽」っていう奴ね。
けれど。
旦那が定年になってから時間がたつと、やがて。
まったく違う思いが、陽子さんの心の中に発生しだしたのだ。
それが、一番最初に書いた奴。
「買い物ってこんなに大変なことなんだっけか?」
☆
と、いうのは。
定年になった後。
正彦さんは、毎日家にいるようになった。
まさに、陽子さんにとって、〝夢〟のような展開である。
けれど。
夢には、〝素晴らしいもの〟っていうのと同時に、〝悪夢〟って奴もあるのであって......。
はい、ここからは、〝悪夢〟の発生。
定年になった正彦さんは、毎日家で夕飯を食べるようになった。今まで、週の半分、うちで御飯食べてくれたら嬉しかった旦那が、ほぼ毎日、同窓会の集まりとか、何か特殊な事情がない限り、うちで夕飯を食べてくれる。
あ、嬉しい。正に夢のようだ。
それから、毎日朝御飯も、家で食べる。いや、これは、今までだって、そうだったよね。うん、そこはいい。
でも......この辺で陽子さん、あれ? って思う。
旦那......毎日、お昼御飯も、うちで食べるんだよ......ね?
いや、そりゃそうでしょう。
人間は、朝御飯を食べて、昼御飯を食べて、そして、夕飯を食べる。
それが普通なんだから、毎日うちで朝御飯と夕飯を食べてくれるんだ、そりゃ......昼御飯だって、うちで食べてくれるでしょうよ。
けれど。
それまでは陽子さん、会社勤めの旦那のお昼のことなんか、考えたことがなかった。これは、旦那が自分で勝手に食べてくれるものだと思っていた。
けど......考えてみたら、ずっと家にいる旦那は......そりゃ、うちで、お昼御飯を食べるんだよ......なあ......。
☆
最初に陽子さんが「......あれ?」って思ったのは、お米の減り方だった。
正彦さんが定年になる前の大島家では、二キロのお米を買って、それを、順次、大きめのタッパーにいれていた。
いや、最初は米びつにいれていたんだけれど、結構これって、虫がはいってきてしまう可能性があって。(一回、虫が湧き、米びつに唐がらしだのいろんなものを陽子さんはいれてみたんだが、それでも、二回目に虫が湧いた瞬間、陽子さん、米びつより密閉性があるタッパーに、お米の保存容器を変えたのだ。)
それに、正彦さんが会社員をやっていた頃の大島家では、お米なんて、そうそう使うものではなかった。(正彦さんは、あんまり家でお米を食べてくれない。会社員時代の正彦さんの朝御飯は、基本的に陽子さんが作っている野菜スティックと果物だった。とにかく会社員時代の正彦さんの朝は忙しかったので、片手で摘(つま)める野菜スティック以外の、例えば白い御飯と納豆なんかは、不可だったのだ。――ただ、これではどうも足りなかったらしく、正彦さん、会社でおにぎりを食べたりしていたようなのだが――。また、夕飯も、白い御飯とおかずに副菜とお味噌汁ってものがスタンダードではあったのだが、お好み焼きやパスタなんかの場合も結構あり、陽子さん、あんまり家では白いお米を炊かなかったのだ。)
だから、大きめのタッパーにお米をいれて、使う分だけ、そこから出す。これで何の不自由もなかったのだ。
で、いつの間にか、大島家では、お米は大きめのタッパーにいれる、そして、そこから必要な分だけを出す、米びつを使わない、こういう使い方がデフォルトになったのだが......。
旦那が定年になった瞬間から。
この〝お米の使い方〟がデフォルトではなくなった。
と、いうのは。
とにかく、やたらとお米が減るのである。
毎日、もう、ひたすらお米が減るのである。
タッパーになんていれている場合じゃない。
本当にお米が、毎日毎日、どんどん、どんどん、減るんである。
これは......何だ?
いや、答は最初っから判っている。
旦那が、家で毎日御飯を食べるようになったからだ。
今まで、週に二、三回しかうちで御飯を食べなかった旦那が、毎日うちで御飯を食べる。それも、一日、三回、食べる。
こりゃ、減るでしょう。お米、減るでしょう。どんどん、どんどん、減り続けるでしょう。
実は陽子さんは、あんまりお米の御飯を食べない。
これは、ひとりで御飯を食べる時、お米を炊くのは面倒だなって陽子さんが思っていたせいもあるし、また、陽子さんが結構パン好きであったせいもあって、正彦さんがあんまりうちでは御飯を食べない時代には、陽子さん、正彦さんが食べない夕飯を、パンやパスタで済ませていたのだ。
けれど、正彦さんが毎日家にいるのなら。
大島家での〝御飯〟としての米の比率はあっという間に上がり、ふと気がついたら、もう、お米の減り方が凄い、凄い。
また、同時に。
お肉の使用率とお魚の使用率が、驚く程に増えた。
まあ、これは納得である。
パンやパスタがメインなら、お肉やお魚を使わないものも結構あるけれど、メインが御飯なら、そりゃ、主菜はお肉やお魚になる。
で。
野菜は、ちょっと買いすぎても翌日に回したり何だりできるんだけれど......お肉とお魚は、これがやりにくい。なんか、傷んでしまう気持ちになるのである。
で、その日に使うお肉はできるだけその日に買う、その日に使うお魚もできるだけその日に買う......そんなことをやってみたら。
まず。
お買い物は、毎日。
そんなことになってしまった。
いや、だって、主菜がお魚かお肉なんだもん。これは、毎日買い物をやるしか、ない。
と、こうなると......。
☆
〝自動重いもの持って歩き器械〟の旦那!
このひと......私にとって、都合がいいだけのひとでは、ない!
大変遅ればせながら。
やっと陽子さんは、これに気がついたのだ。
いや、だって、このひと。
〝自動重いもの持って歩き器械〟の癖に......このひとがいると、そもそも、買い物の量が、もの凄い勢いで増えてしまうではないかっ! (......いや......ごめん。自分の旦那のことを、〝自動重いもの持って歩き器械〟だって思ってしまうことが、そもそも、妻としてまずいよね。まして、毎日御飯を食べることを問題にするだなんて、これは、妻としてどころじゃなくて、人間として、まずいよね。)
これに思い至った瞬間、陽子さんは、なんかもう、くらくらした。
確かに。
毎日のお買い物は、旦那がいてくれると楽である。
重いものを持ってくれる旦那がいてくれたら、ほんとにこれはありがたい。
けれど。
〝自動重いもの持って歩き器械〟の旦那がいるせいで......旦那の、朝御飯や昼御飯や夕飯を作る為に、買い物、その総量が、もの凄い勢いで増えてしまうんだよ!
ああ、何かもう、くらくら、くらくら。
同時に陽子さんは、疑問を感じてもいた。
......他のひとは......どうしているんだろう......?
☆
陽子さんが思うに。
うちの旦那は、すでに六十を超している。これはもう、成長期では、間違いなく、ない。(どう考えても老年期である。)
でも、この旦那がいるだけで、うちのお米の消費量は、ただごとではない勢いで増えてしまっているのである。同じく、老年期である、女の陽子さんと......食べる量が、それでも違う。違いすぎる。
それを考えると......本当に、おそろしい。
もし。
ああ、考えるだけで怖いな、でも。
もし。
只今の旦那が、十代だったらどうしよう。
もし、旦那が今、十代だったら。
御飯......すんごい勢いで、食べる、よ、ね?
六十代の旦那が、今の陽子さんからみて〝驚くよう〟な量のお米を食べるんなら......十代の旦那は、もっと凄い量を食べていた筈だ。これはもう、〝陽子さんが驚くような量〟ではない筈。そんなものとは桁が違うお米を、十代の正彦さんは消費していた筈。
うん。
陽子さんは、子供の頃、お祖母ちゃんに育てられていた。両親が共稼ぎだったので、陽子さんと妹の粒子さんを育ててくれたのは、父方のお祖母ちゃん。で、お祖母ちゃんは、陽子さんと妹の粒子さんの為に、毎日御飯を作ってくれていたんだけれど......その時に炊いていた御飯の量は、多分、そんなにもの凄いものではなかった筈。当時会社員だったお父さんとお母さんは、家で夕飯を食べられるような時間にそもそも帰ってきていなかったから、お祖父ちゃんとお祖母ちゃん、そして、自分と妹の為だけの御飯を、お祖母ちゃんは作ってくれていた筈。んでもって、これは、一家四人の世帯としては、そんなに多い量ではなかった筈だ。
というのは。お祖母ちゃん、陽子さんのいとこ達が遊びに来ると(つまり、お祖母ちゃんにとっての外孫、特に男の子が遊びに来ると)、ちょっと信じられないくらいの量の御飯を、作っていたよね? でもって、いとこのうち、男の子達は、そんな信じられないような量の御飯を......確かに食べて、いた、んだ。え、どうしてこんなに御飯を炊くのって思っていた量の御飯を......いとこの男の子達は、あっという間に食べきってしまっていたのだ。
それを考えてみたら。
成長期の旦那は、老人と女ばかりの世帯で育ってきた陽子さんにしてみればほんとに信じられないような、そんな量のお米を、日々、消費し続けていた可能性がある。と、いうか、おそらくは間違いなく、〝そんな量〟を消費し続けていた筈なのだ。
と、いうことは、その頃の旦那にとって、お米、どれ程必要だったんだ?
お米、多分、二キロで買っている場合じゃないよね? 二キロで買ったお米をタッパーに詰めて、ちびちび、ちびちび、使っている場合じゃ、ないよね? 十キロだってあっという間だよね?
でも、十キロのお米なんて、そもそも陽子さんは買ったことがないし......いや、その前に。そんな〝重い〟もの、どうやって家まで持って帰ることができるのか、その辺の処からして、陽子さんにはよく判らない。(陽子さんは、十キロもお米を買ってしまったのなら、その段階でスーパーで硬直してしまい、動けなくなる自信がある。と、いうか、十キロもの重さのものを、自分の鞄にいれること......これが多分、不可能だろうなあ......。)
と、なると。
と、これは。
ど、ど、どうしたらいいのか。
これが本当に判らなかったので、陽子さんちょっと唖然(あぜん)としてしまった。
ここで、〝答〟を示してくれたのは、妹夫婦だった。
妹――粒子さんの処。
あそこは、多分粒子さんも免許持っているし、その旦那も免許持っている。車もある。甥と姪も、免許持っている。
まあ。妹の粒子さんは、多分、安全上の理由から、車を運転したりしないだろうけれど(自分のことがあるから、何故か陽子さん、これだけは確信していた)、義弟と甥と姪は、そういう規制がないんだから......まあ、妹一家は、多分、〝車〟でこういう問題を解決している......ん、だろう、なあ。
そりゃまあ......本当に、答としては簡単で。
〝車〟さえあれば、この話は、すべて、終わるのだ。
☆
けれど。
考えてみれば、〝車〟がないひとだって、いるのである。
子供がいて。
それも複数で。
場合によってはそれが男の子で。
しかも男の子複数の可能性もある。
そうしたら、その子供達は、もの凄く御飯を食べる。食べるに決まっている。
そして。
こんな家族を擁(よう)するひとが......免許を持っていない可能性は、ある。あるいは、免許を持っていても、駐車場関係の理由エトセトラで、自家用車を持っていない可能性は、ある。
..................。
そうしたら。
このひとは、一体全体、どうしたら、子供が必要としている食材を、家に持って帰ることができるんだろうか。
まして、御本人が女性で、仕事をしていたのなら。
そのひとの鞄の中には、仕事で必要なものが詰まっている(筈だ)。ただ、本を買っているだけの陽子さんより、このひとの鞄の中身の方が、多いに決まっている。
んで......この状況で......食べ盛りの男の子を何とかする食材を......会社帰りにこのひとは調達していたのか?
......これ......どう考えても、無理、でしょ?
どうやったらそんなことができるのか......考えれば考える程、答は一つだ。
これ、無理、でしょ。
んで、これが判った段階で。
本気で、陽子さんは悩んでしまったのだ。
しかも。
いくら悩んでも、この答は判らない。
そして、実際に。
まったく局面は違うのだが、この疑問を、実際に男の子がいて、免許を持っていなくて、旦那さんがずっと単身赴任だった女性編集者に聞いてみた。(旦那さんがずっと単身赴任っていうことは、たとえ旦那さんが免許を持っていたとしても、現実の生活で、旦那さんの免許をあてにする訳にはいかないということだ。)
と。
彼女。
軽々と。のびのびと。
こう言い放った。
「生協の宅配です」
......え?
え、あ、そう、なのか。
この瞬間、陽子さんは初めて気がついたのだ。
ああ、そうか、生協の宅配。
これには、そういう意味も、あったのか。
☆
車がないひとの家にも、宅配をしてくれる。
そのひとの家まで、食材を届けてくれる。
それをやってくれるのが、〝生協の宅配〟。
それまでは陽子さん、宅配のことをちょっと軽んじていた。
いや、だって、陽子さんにしてみたら、〝買い物〟っていうのは、毎日やるべきこと。毎日やらないと、「ほんとにその日に必要な食材は手にはいらないでしょ」って思っていた。だから、食材を宅配で手にいれているひとのこと、ちょっと軽んじていた風情が、あった。(宅配で手にいれるっていうことは、そのちょっと前に注文を出しているっていう話になるんだから。)うん、本当にその食材が欲しいのなら、ちゃんと自分で買いに行けばいいのにって。
それに。やっぱり、お肉やお魚は、野菜だって、自分の目で実際に見て買いたいな、とは思っていたのだ。
その日に実際にスーパーへ行って、一番気にいった食材でその日のメニューを考える。これがいいなって思ったいたのだ。
けれど。
ちょっと立場が変わってみたら......こんなことがあったから......やっと、判った。というか......初めて、判った。
〝とにかく毎日の食材が重くて、とてもじゃないけれど持って帰れない可能性があるのなら〟。
これ、宅配してくれる組織が、どんなに有り難いのか。
......どうしよう。
只今、陽子さんはお悩み中である。
生協の宅配......うちも、頼もうかなあ。
けれど、それを頼むとなると。今度は別の問題が、陽子さんの心の中で発生する。
実は、陽子さん、クレジットカードの類を一つも持っていないのだ。カードで決済することになったら、自分が今月いくら使ったのかが、おそらくは判らなくなってしまう。そんなことになる予感が、ひしひしとするので。
......どうしよう。
この生活が続くのなら、やっぱり生協......。
それに。
今、社会はどんどんキャッシュレスに向かっているじゃない。
このままずっと、現金のみを使い続けるのって、無理な気がしないでもない。
......ああ。
......どうしよう......。
この年になって、こんなことでこんなに悩むだなんて......。
ああ、本当にどうしたらいいんだ!
(つづく)
Synopsisあらすじ
陽子さんは、夫・正彦さんの定年を心待ちにしていた。正彦さんが定年になって、家にいるようになったら……家事を手伝ってもらおう! 共働きにもかかわらず、激務で疲労困憊の夫には頼みづらかった家事。でも、これからは。トイレ掃除、お風呂掃除に、ご飯の後の洗い物、それから……。陽子さんの野望が膨らむ一方で、正彦さんもひそかに野望を抱いていた……。『銀婚式物語』に続く、陽子さんと正彦さんカップルの定年後の物語。
Profile著者紹介
新井素子
1960年東京生まれ。立教大学独文科卒業。高校時代に書いた『あたしの中の……』が第一回奇想天外SF新人賞佳作を受賞し、デビュー。81年『グリーン・レクイエム』、82年『ネプチューン』で連続して星雲賞を受賞、99年『チグリスとユーフラテス』で日本SF大賞を受賞した。他の作品に、『星へ行く船』『……絶句』『もいちどあなたにあいたいな』『イン・ザ・ヘブン』『銀婚式物語』『未来へ……』など多数。
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