定年物語第十一章 ......俺は猫の玩具(おもちゃ)か
正彦さんが定年になってから。大島家の家族の中で、多分、一番変化したのは、猫達ではないかと思う。
☆
大島家には、天元(てんげん)っていう名前のオス猫と、こすみっていう名前のメス猫がいる。
正彦さんと陽子さんの夫婦は、結婚してすぐ、ファージという名前の猫を飼っており......ファージは、何と二十三まで生きてくれた猫だった。猫の二十三って結構凄(すご)い年で、人間に換算すると、いつの間にかこの二人の年を超えてしまい......亡くなる前には、尊敬をこめて、この二人、ファージのことを〝お猫さま〟って呼んでいた。(また、ファージは、正彦さんや陽子さんが出かける時、お見送り、お出迎えをやってくれ、どこまで遠出をしても迷子にならず――間違いなく陽子さんの十倍は賢い――、十匹以上の鼠(ねずみ)をとり......最後のひとつはどうかと思うのだが、とにかく素晴らしい猫だったので、ほんとに心から〝お猫さま〟って呼べたのだった。)
そのお猫さまが亡くなったあと、しばらくしてから大島家にやってきたのが、天元とこすみ。勿論(もちろん)、正彦さんも陽子さんも、猫の比較なんてするつもりはないんだけれど、とにかくお猫さまが素晴らしすぎたから。この二人は、二匹の猫のことを、〝お猫さま〟に対して、〝猫ズ〟って呼んでいる。(まあ、ただ。飼ってみてこの二人は思った。猫って......ある意味、莫迦(ばか)だったり駄目な処があったりするる方がむしろ可愛いのでは? ......って、何のことはない、二人とも、親莫迦なのである。)
天元は、結構ひと懐(なつ)こいっていうか、甘え猫。生まれたばかりの頃、ちょっと足に問題があり、歩くのが上手でなかった分、正彦さんと陽子さんが甘やかしてしまったので、本当に甘え猫。(これはこれで凄く可愛い)。
それに対して、こすみは完全に独立独歩、誰が何をしても、ほんとに我関せずって態度を貫いている猫だったのだ。
すっくと座って、上を向くこすみ。陽子さんは、こういうこすみの状態を〝スフィンクス・キャット〟って呼んでいて......いや、スフィンクスが独立独歩なのかどうかは陽子さんだって知らないんだけれど、というか、あれは猫ではないんだけれど......それに大体、スフィンクスってひとに謎をかけてそれが解けないと殺すようなものだったと思うんだけれど......でも、すっくと座って、上を向いているこすみは、ほんとに陽子さんのイメージの中ではスフィンクスだったのだ。なんか、威厳があって、ちょっと、近寄りがたいような感じがする、そんな猫。
うん。天元が〝可愛い猫〟だとすると、こすみは〝かっこいい猫〟。――端的に言えば、陽子さん、単なる親莫迦である――。
(あと、〝すっくと座って〟っていう表現は、非常に妙だと陽子さんも思ってはいたのだけれど......猫の場合、〝すっくと立つ〟のが、ほぼ、不可能だから。まず、立てないし、絶対に猫背だし。けれど、こすみの座っている姿は、猫背の癖にすっきり背筋が伸びている雰囲気で、ちょっと孤高のイメージもあって、陽子さんの心の中では、〝すっくと座って〟としか言いようがないものだったので。)
それに対して天元の方は。陽子さん、〝地雷猫〟って呼んでいた。
これは何かっていうと、天元は普段、床にのへーっと寝っころがっていることが多く......普段は本当にのへーっとしているだけなのだが、場合によると、天元の気分によると、近所を陽子さんや正彦さんが通りかかった時、いきなりその足にじゃれつくことがあったのだ。「構ってー、構ってー、構えー、僕に構うのだあっ!」って。
これは、油断して歩いている場合、かなり危険で(とは言うものの、家の中で常に注意をして歩くって、これは無理でしょう)、だから、天元は、〝地雷猫〟。うっかり近所を歩いてしまうと、いきなり爆発して、足元にじゃれつくので――とはいうものの、じゃれつかない確率の方が高い――、これをされると、じゃれつかれた陽子さん、転んでしまったりする。
しかも。この地雷は、移動性地雷でもあるのだ。
天元が二階の廊下にいて、そこで「のへー」ってしているから、油断して陽子さんが階段を下りようとする。すると、この移動性地雷、いきなりむくっと起き上がって、階段を下りようとしている陽子さんの足元に、全力ですべりこみ、じゃれついてきたりするのだ。
陽子さんは心から言いたい。(と言うか、何度も何度も天元に言った。)
頼むから、お願いだから、これは、これだけは、やめて欲しい。
何故って、これやられると、陽子さん、階段から落ちてしまう可能性があり......実際に落ちかけたこともあり......今のね、陽子さんの年では、階段から落ちると結構酷(ひど)いことになってしまう可能性があるんだよ。(若い頃は。それこそ、高校生くらいの頃は、大変粗忽(そこつ)である陽子さん、月に数回は階段から転げ落ちていたのだが、だから、高校生の頃の陽子さんは、階段をとても落ち慣れており、落ちたってたいした怪我はしなかったのだが、四十を超すようになってからは。どう考えても、これは、危険。あまりにも危険すぎる。故に、今の家を建てた時、階段の勾配(こうばい)はできるかぎり緩(ゆる)いものにしたし、手すりも作ったし、踊り場も作ったんだけれど......移動性地雷猫に襲われると、緩い勾配も手すりもあんまり意味がなくって......。)
そして、それだけではなく。
地雷猫にこんなことをされると、陽子さんは、「絶対したくない」と思っている、とあることを、やってしまう羽目になる可能性があるのだ。
その、とあることって。
「猫、踏んじゃった」
陽子さん。自分の体重と、天元の体重を比較するに......自分が「猫踏んじゃった」をやるのはまずいって、これは絶対に思っている。自分がほんとに全体重をかけて猫を踏んでしまったら、猫、大怪我をするか......下手をすると、踏み処が悪ければ、死んでしまうかも知れない。(これは、どんなにダイエットしても、〝そう〟なるんだよね。体重三~六キロの猫を踏んでも大丈夫な処まで自分の体重を減らしたら......その場合、陽子さんは〝生きてはいない〟ってことになるんじゃないかと。)
けれど。地雷猫にこれをやられて、自分が階段から落ちないようにひたすら手すりにしがみついたのなら......なら、その時は。やる気がなくても、やる意思がまったくなくても......それでも、やってしまう可能性がある、「猫踏んじゃった」。
(今でも陽子さん、思い出す。天元がこの家に来てから一年がたっていなかった頃。階段で、移動性地雷猫に攻撃された陽子さん、ほんとに〝猫踏んじゃっ〟て。その時は、幸いなことに、天元の尻尾を踏んだだけで済んだので、天元は、「ふぎゃああああっ!」という凄い叫びをあげ、階段を駆け下りただけで済んだのだが......そのあと、何日か、天元は陽子さんに近寄らなかった。
あれは、陽子さんもほんとに悪かったと思い、また、何日も天元に無視されたのでへこんでもいたのだが、同時に、安心してもいた。
ああ、踏んだのが、尻尾でよかった。
だって、もし、胸とか頭とかお腹とかを思いっきり陽子さんが踏んでしまったら......多分、天元、「ふぎゃああああっ!」なんて叫ぶだけじゃ、済まなかったよね。
とは言うものの。天元が、移動性地雷猫である以上......この危険性は常にあるのだ。廊下を歩いているだけなら、まだ対処のしようもあるんだが、階段でこれをやられたら、これを避けること、陽子さんには、多分、無理。)
だから。
頼むよー、ほんとにお願いだから、地雷猫は止めてーって思っていた陽子さんなのだが......だが、こんな地雷猫になってしまう天元は。
可愛い。
ここまで足元に来てしまう猫は、可愛い。ここまで暴力的に、「僕に構ってー」って言ってくる猫は可愛い。
いや、止めて欲しいんだけれど。絶対に止めて欲しいんだけれど、これが可愛くないかって言えば、もう、絶対に、〝可愛い〟に一票。(......親莫迦である。)
で。
こんな、天元とこすみなのだが。
この二匹の態度が......正彦さんが定年になった時から、変わった。
驚く程変わってしまったのだ。
☆
最初に、その変化が際立(きわだ)ったのは、こすみ。
こすみは、そもそも、独立独歩っていうか、飼い主である陽子さんや正彦さんが何をしていても、それでも態度に変化がない猫だった。その筈(はず)だった。
ところが。
正彦さんが定年になり......いや、猫は、多分、"定年"っていう概念を理解していないだろうから......正彦さんが、常時家にいるようになってからは。
「何なんだよう、こすみ」
定年になってからは、正彦さん、家にいる時は、自分の部屋とリビングのアール部分を行ったり来たりしている。
正彦さんの部屋には、勿論、正彦さんの机があり、正彦さんはズーム句会をそこでやっている。
けれど、リビングにも、正彦さんのコーナーがあり、それが、リビングのアール部分。ここにも正彦さん、時々パソコンを持ってきて、いろんなことをしていた。(このアール部分は、ピクチャーウインドウになっており、実は大島家の中で一番景色がいい。しかも出窓になっているので、バソコンを置くことも可能。で、アール部分に椅子を置いて、そこに座ってパソコンを使っていると、アールの前にあるのは大島家の庭木の中で一番立派な石榴(ざくろ)の木。道を挟んで向こう側は、区の野鳥誘致林。このロケーションだと、作業をしながら、各種の鳥が舞い飛ぶのを見ることができる、大島家の窓の景色、特等地なのである。)
そして。
正彦さんがアール部分にいて、そこで何かをやっている時に限り......何故か、こすみが、こんな正彦さんにじゃれつくようになったのである。
じゃれつく......いや......違う、か?
正彦さんの膝に登る。正彦さんの肩に飛び乗る。ダッシュして正彦さんに体当たりをする。正彦さんに噛(か)みつく。
......これ......最初のひとつ、〝正彦さんの膝に登る〟だけなら......まあ......じゃれついているって言って言えないこともないような気もするが......残りの行動は......あんまり、〝じゃれついている〟とは言いにくいようなもので......。
「あのう......こすみ、何をしたい訳? 俺に何か言いたいことがあるの?」
こすみは何も言わない。ただ、とにかく正彦さんに攻撃をしかけてくる。
と、こんなことが続くと。
今度は正彦さん、陽子さんに聞いてみる。
「......あのさあ、陽子。こすみ......何が言いたいんだろうか......。なんか、俺に文句があるんだろうか......」
「い、いや、私は、猫の言いたいことは判(わか)らないから」
「でも、今まで、俺が会社に行っていた時、ずっとこすみと同じ家にいた訳なんだろ。なら、俺より判ることがあるんじゃないのか? こすみは何が言いたいんだ。俺に何をして欲しいんだ」
......いや......判らないんだけれど。
ただ、推測するとすれば。
「......あのさあ。これは、私が勝手に思っているだけのことで、本当かどうかはまったく判らないんだよ? それでいいのなら......」
「い、いいっ。言ってくれ」
なら。言うけれど。
このこすみの反応は......。
「あなたに甘えているんじゃ、ないの?」
「......って?」
「いや、あのね、私はね、あんまりちゃんと猫を構わない類の飼い主なの。少なくとも、こすみはそう思っていると思うの」
「......って?」
「私はね、猫と同居しているだけの飼い主なのよ。御飯はあげる、水も換えてあげる、トイレの掃除もする、でも、それだけ。あんまり遊んであげてない。むしろ、こすみや天元が子供の頃は、この二匹がやった部屋の破壊の片づけばっかりやってた。......猫飼っているなら、もっと積極的に遊んであげるべきかなあって思うこともあるんだけれど、こいつらが小さかった頃は、とてもそんなことやってる余裕がなかった。で、こすみも、いつの間にか私のことを、そんな〝飼い主〟だって思うようになったんだろうと思う」
「いや、おまえだってちゃんと天元やこすみのこと......」
「これは程度の問題だから。だって、あなたはこすみが何かやる度、必ず反応してあげるじゃない。毎回毎回、〝こすみー、なんだあ〟って言いながら、こすみ撫(な)で回したり何だりしてる。......ま、それに、今のこすみは大人になったから、植木鉢を倒したりテーブルからお皿払い落としたりパソコンのキーボードほじくり返したりしないしね」
言い替えれば子供の頃のこすみは、そんなことばっかりしていたって話なんだけれどね。だから陽子さんは、そんなこすみに構っている暇がなく、ひたすら〝部屋の破壊の片づけ〟だけをやっていたって話になるんだけどね。
「だからさあ......言葉は悪いんだけれど......んー、こすみは、今のあなたのこと......ずーっと家にいることになった、新しい〝玩具〟だと思っているんじゃないかと......」
「お......俺は......猫の玩具、か?」
「という扱いをされているような気がするなあ......私」
うん。肩に飛び乗る。体当たりをする。
これ、絶対、結構乱暴な扱いをしても壊れない、いきなり現れた素敵な玩具って扱いなんじゃないかと......。
また。
こすみの変化につれて、天元の方も変化してきた。
ここでまたちょっと話は変わってしまうのだが。
大島家は、夫婦二人の家にしては、結構多くの部屋がある。まず、一階にでかい書庫があり(とにかくでっかい〝本棚〟を作りたいっていうのが陽子さんの悲願だったので、まず、巨大な本棚を一階に作り、その上に生活部分を載せてしまった、そんな設計の家になっている)、二階は、リビングダイニング、台所、お風呂、トイレ、夫婦の寝室、正彦さんの部屋、陽子さんの部屋って構成。
このうち、リビングダイニングには、前の猫、ファージがいた時からついている廊下に面した猫ドアがある。だから、猫は、この家の中で、リビングダイニング、それにドアなしでくっついている台所、廊下、階段、一階の廊下、玄関を、好き勝手に移動することができる。逆に言えば、一応ドアで区切られている、二階の寝室、正彦さんの部屋、陽子さんの部屋、お風呂、トイレには、はいることができない......筈、だった。
ところが。この家のドアは、ノブで開けるものではなく、下へ押して下げる形式のバーで開け閉めをするようになっていて......驚くべきことに、こすみは、このバーに飛び乗って、バーを押し下げ、体重を前後移動することにより......内開きでも外開きでも、ドアを開けることができるようになってしまったのだ。
これがどんなに凄いことであるのか。
つまり、こすみを前にしたら、この家のすべてのドアは......(はいっているひとが内鍵をかけることができるトイレを除けば)ほぼ、開けられてしまうのだ。
この時、陽子さんが思ったのは、こんなこと。
おお! なんて賢いんだこすみ!
すっげー、すっごいわ、猫とは思えないくらい凄いいい。(親莫迦である。)
けれど。
こんなことを言っている場合ではない。
これらの部屋の中には、猫が勝手に開けてしまうととても困る部屋があるのである。その筆頭が、陽子さんの部屋。
陽子さんの部屋は、引っ越しして殆(ほとん)どすぐに物置になっていた。(陽子さんはリビングでしか仕事をしないので、すぐに使わないもの、邪魔なものを、陽子さんと正彦さんの二人は陽子さんの部屋に突っ込むことになり......あっという間に、物置確定。)んで、この〝物置〟には、キャットフードが置いてあるのである。
キャットフードが置いてある部屋。ここに、猫が勝手にはいることができたら......それは、まずい。誰がどう考えたって、まずいでしょう。まして、この後、ちょっと時間が進むと......体重的な問題で、獣医さんの健診に天元がひっかかり、天元はダイエットをしなきゃいけないことになる。しかも、ダイエットをするだけじゃない、特別なダイエットフードを食べなきゃいけなくなったのだ。――また、これは陽子さん、猫じゃないから判らないんだけれど、どうやらこのダイエットフード、ほんとにおいしくないらしく、天元も、こすみも、このフードを猫またぎしていた――。
こんな状況で。過去のキャットフードが無造作に置いてある部屋に、猫が勝手にはいることができるのなら......それは、問題だ。
いや、問題なんじゃない、これは、まずい。
(......いや......いやいや。この場合、過去使っていたキャットフードを捨てれば? っていうのが、一番建設的な意見だろうな。ただ......昭和生まれの陽子さん、傷んでもいない御飯を捨てるのが、感覚的にとっても嫌だったのだ。だから、天元がいない時に、こっそりこすみにこのフードを与えて消費することを企んでいたのだ。こすみにはまったくダイエット的な問題は発生していないので、こういう解決法はありだったのだ。)
いつの間にか、陽子さんの部屋のドアが開くようになったら......この部屋に置いてあるキャットフードは......食べられだしたのだ。
食べたのは、間違いなく天元。でも......この部屋のドアを開けたのは、間違いなくこすみ。
......まあ......なあ......。
兄妹だからなあ。
猫同士がどうやって意思疎通をしているのか、それは陽子さんには判らないんだけれど......天元がこすみに、「このドア開けて」って頼む。こすみがそれを開けてあげる。天元が陽子さんの部屋にはいる。そして天元は、好きなだけ昔食べてたおいしいフードをむさぼる。......こんなことになっていたんじゃないかなあ。(こうなったらしょうがない、陽子さん、過去のフードを全部捨てた。)
のち。
かなりおいしくない(んじゃないかと陽子さんは思っている)ダイエットフードに、天元とこすみが慣れた頃。
このフードに替えても、それでも食欲がおさまらなかった天元は、そもそもフードの量を獣医さんにより制限されることになる。
そうなったら。
また、絶対に閉めた筈の陽子さんの部屋のドアが、知らないうちに開いている、そんな状況になったのだ。
これはもう、間違いなく開けているのはこすみ。
そして、ダイエットフードの袋が破られ、量が減っている。
これはもう、間違いなく食べているのは天元。
......まあ......兄妹だから、なあ。
兄妹の仲がいいのは、いいこと、だよね。うん、仲よきことは、美しきかな。
とは言うものの。
陽子さんや正彦さんがやっているように、計量カップで計って猫御飯を袋から取り出すんじゃなく......勝手に猫御飯がはいっている袋を食い破って、適当に猫御飯を食べ散らかすと、どういうことになるのか。まず、天元のダイエットは失敗する。それに......あたりに、猫御飯が散らばるのである。そして、こうなると......。
この部屋には、ゴキブリさんが発生することになるのである。(いや、生き物は自然発生しないんだけれど。ただ、陽子さんがどんなに片づけても掃除機かけても、それでも目が届かない部屋のあっちこっちに猫御飯が散乱するようになると......これは、もう、もの凄いいきおいで、ゴキブリさんが登場してしまうのである。)
......こりゃ、もう、どうしようもないので。陽子さんは、大島家大掃除を敢行(かんこう)した。(別に掃除をしたかった訳ではない。この家を作った時、確か、建築会社のひとから、〝陽子さんの部屋〟〝正彦さんの部屋〟〝寝室〟の鍵を貰(もら)った筈だということを思い出したからだ。この三つの部屋だけは、〝私室〟なので鍵がついていたのだ。そして、掃除をしたら、この鍵を発見することができた。――逆に言うと、〝大掃除〟でもしなければ、建築時に建築会社のひとから貰った鍵、どこにあるんだか判らなかったっていう、とても情けない話になるんだが――。)
そして、掃除で発見できた鍵を、〝陽子さんの部屋〟〝正彦さんの部屋〟〝寝室〟に、挿(さ)した。挿して――鍵を、かける。
これにより、〝陽子さんの部屋〟〝正彦さんの部屋〟〝寝室〟は、猫、はいれない部屋になる。(さすがにこすみがどんなに賢い猫であっても、ドアノブがわりのバーに飛び乗り、バーに乗ったまま挿されている鍵を回し解錠し、しかるがのちに体重移動でバーを押す、なんて離れ業はできなかった。また、鍵穴に常に鍵が挿さっている状態なので、ひとであれば誰でもこの部屋を開けることができる。)
これでまあ、大島家の猫ズは、最初の予定どおり、リビング、台所、廊下、階段、玄関で生息する猫になったのだけれど......正彦さんが定年になったら、話が変わってしまったのだ。
夏、冷房をいれている時。冬、暖房をいれている時。陽子さんが毎日のように猫に言っていた台詞は「開けたドアは閉めろー!」である。ドアを開けた時、こすみは絶対にそのドアを閉めないし、自力ではドアを開けることができなくても、常にこすみの後をついて回っている天元は、こすみがちょっと開けたドアをより大きく開け放して......そして、絶対に、そのドアを閉めない。
そして。定年になってずっと家にいるようになったら初めて判った、正彦さんもまた、開けたドアをあんまりちゃんと閉めないひとだったのだ。
「ドアを開けたら必ず閉めろー」
正彦さんに言う方が、猫ズに言うよりは、確かに多少なりとも効果はある。正彦さん、人間語が判るし。ただ......言葉が判っている分、よりたちが悪いというか何というか......一応、正彦さん、言われた時にはドアを閉める。けど、言わないと......天元のように大きく開け放つ訳ではないんだけれど、あんまりきっちりと閉めない。なんとなく、猫がするってはいれるくらいの隙間が開いているような閉め方をする。そんで、こんな閉め方だと、常に誰かのうしろをついて歩いている天元が、より大きくドアを開け放ち......。
正彦さんが定年になってからは。陽子さん、冬場はなんか寒い風が吹き込んできて、夏はエアコンがあんまり効いていない感じがして......ふと気がつくと、リビングや台所のドアが大きく開けっ放しって状態になっているのを発見するのが、もう、ほんとにしばしば。その度に、パソコンの前から立ち上がって、ドアを閉めなきゃいけなくなった。(人間語が判らないって判っている分、猫に怒るのはストレスがたまるものだったのだが......人間語が判っている筈なのにかなりしばしばうっかりする正彦さんを怒るのは、より、ストレスがたまる。まあ、正彦さんの場合、エアコンをつけている時に、そんなに大きくドアを開け放っている訳じゃないんだけれど......大体、こすみや正彦さんのうしろを、もれなく天元が歩いていて、こちらは、開いているドアを見つけると、必ず大きく開け放つのだ。)
そして。
陽子さんは、寝ている時を除けば、ほぼ、リビングか台所のどちらかにいる。リビングで本を読んでいるか、台所で料理をしているか、あるいはリビングでゲームをしたり掃除をしたり、稀(まれ)に仕事をしたりしている。
だから。かなり長い間、気がつかなかったのだが。
実は、正彦さんの部屋も、ドア、正彦さんが定年になってから、だだ開きになっていたのだ。
せっかく家中の大掃除をやってまでして発見され、正彦さんの部屋のドアに挿されていた鍵。正彦さんがあんまりちゃんとドアを閉めないせいで、正彦さんが定年になってからは、ほぼ、挿している意味がなくなっている。
というのは。正彦さんが自室のドアを開け、それをきっちり閉めずにいると、すかさず天元がするっと正彦さんの部屋にはいってしまい、そしてドアを開け放つから。
「俺さあ、天元のこと、かなりトロい猫だって思ってたけど、家にいるようになったら判った。そんなこと、ないんだな」
正彦さんが、こんなこと言ったこともあった。これには陽子さん、いささか異論が。
「......いや......天元って......相当、トロい、よ......」
「そんなことないんだ。俺がほんのちょっと自分の部屋のドアを閉めずにいると、ほんと、いつの間にか、するって天元がはいりこんでいる。あの移動速度とあの反応のよさは、凄い。凄すぎる。あれはもう、トロいだなんて言ってはいけない反応速度だ」
......それは、違う。違うような気がする。
それはね、天元が素早いんじゃなくて、あなたが自分で思っているのよりずっと、ドアをちゃんと閉めないってだけの話なんじゃないかと......。(あと。ほんっとに、天元って、こすみとか正彦さんとか、誰かのうしろをついて歩く猫なんだなあってこと。考えてみれば、陽子さんも、ほんとにしょっちゅう階段で移動性地雷猫の被害にあっている訳で、これも、天元がひたすら陽子さんのうしろをついて歩いているんだと思えば、納得だ。)
まあ、でも、そんなことを言い争っても意味がないので。
そして、気がついたら。
正彦さんが定年になった後、天元の定位置は、いつの間にか正彦さんの部屋の中だっていうことになった。
正彦さんが会社に行っている間は、正彦さんの部屋、常に鍵がかかっていて、猫ズが侵入できない部屋だった。
(まあ、会社に行っている頃も、実は正彦さん、あんまりちゃんと自分の部屋のドアを閉めていなかったんじゃないかと思うんだけれど......その頃は。陽子さんが結構、正彦さんの部屋に出入りしていた。というのは、洗濯物を干す為のベランダは、正彦さんの部屋に面しており、洗濯物を干す時、取り込む時、陽子さんは正彦さんの部屋にはいることになる。そして、陽子さんは、正彦さんの部屋から出たら、必ずドアをちゃんと閉め、鍵をかける。また、その時、正彦さんの部屋の中に猫がいないかどうか、絶対に確認していた。部屋のどこかに猫が隠れていて、それに気がつかず、外から部屋の鍵をかけてしまうと、猫を正彦さんの部屋に閉じ込めることになってしまい......猫トイレが、廊下とリビングにある関係上、猫をこの部屋に閉じ込めてしまうのは可哀想だって思いがあったので、ほんとに厳重に確認していた。)
それが。今となっては、正彦さんの部屋が、ほぼ、天元の定位置。
猫っていうのは、何か定位置がある生き物なのである。家の中で、そこにいると自分が一番落ち着く、そんな場所を確保する生き物。
それが、何故か(いや、正彦さんがちゃんとドアを閉めないからだ)、正彦さんの部屋になってしまい......それも、なんか、場合によっては、凄い処に。
まあ。基本的には、正彦さんの机の脇、ぬいぐるみと並んで床にのへーっとしているのが定位置なんだが、時々は正彦さんの部屋に付属しているウォーキング・クローゼットの中に。(これをされると、正彦さんの服は猫の毛塗(まみ)れになるのだが、陽子さんと違ってかなりおしゃれな筈の正彦さん、不思議とこれを気にしなかった。)
そして......凄い処っていうのは。
正彦さんが、ズーム句会をやっている、パソコンが載っている机、その......最上段のひきだしの中に。
これは、どういう経緯でこうなってしまったのか、陽子さんには判らない。というか、そもそも、何か作業をしている時、自分の机のひきだしを開けているひとって......いる、のか? いるとしたら、それは何故?
......まあ......多分......陽子さんが推測するに、ドアと同じで、正彦さんは机のひきだしも、ちゃんと閉めないひと、なんだろう、なあ。
で、ある日、天元が、このひきだしにはいり込んでしまった。
猫っていうのは、土鍋の中で丸くなったり、段ボール箱にもぐり込んだり、ちょっと閉所恐怖症の気がある陽子さんからすると、信じられない処に納まってしまう生き物だから。だから、開けられたひきだしの中に、一回、納まってみたら、それが、とても具合がよかったんじゃないかと思う。
そして、そこから先は......開けられた、ひきだしの中が、天元の定位置のひとつ。
これ、さあ。
どうなの? って、陽子さんとしては思わない訳ではない。
そもそも、陽子さんにしてみれば、自分が使っている机のひきだしを常に開けっ放しにしているのって、それだけで気になってしょうがないっていうか、ストレスなんだけれど。正彦さんは、これが気にならないのか。
その上、そのひきだしの中には、猫がぎっちり詰まっている。
この状態、陽子さんはあんまり容認したくはないんだけれど......正彦さんは、平気なのか。
......いや。
平気、どころか。
この机で、正彦さんは、ズーム句会に参加している。
で、ひきだしの中にぎっちり詰まっている天元の様子は、ズームのカメラをちょっと動かすと、写せるのだ。
実際、正彦さん、どうも時々、自分の机のひきだしに詰まっている天元を、句友に紹介することがあったらしいのだ。そして、それが、とっても受けたらしいのだ。
......ま。
気持ちは判る。
それは、受けるだろう。
正彦さんの句友には、猫を飼っているひともいて、ズーム句会をやっていると、たまにひとの家の飼い猫がカメラに映る、そんなことはよくあるらしい。(これは、陽子さんの方も納得。複数のひと達でやっているズームの打ち合わせなんかでは、時々、ひと様が飼っている猫が画面を過(よぎ)ったり、打ち合わせの最中に「なー」とかいう、のんびりした猫の声がはいったりすることもあり、これはこれで、和(なご)むのだ。)
......ただ......けど......。
自分が只今使っているパソコン、それが載っている机、その一番上のひきだし。
ここに、猫が、ぎっちり詰まっているっていうのは......陽子さんにしてみれば、なんか、辛い気がする状況なんだけれど......正彦さんは、そういうの、あんまり気にしないのか。(そもそも、その前に、何故、机のひきだし開けっ放しで作業ができるのか、そこの処から陽子さんにはよく判らないのだが。)
☆
まあ、ただ、ともかく。
正彦さんが定年になって。
天元の、新たな定位置ができた。
天元は、その定位置に順応しているらしいし、正彦さんの方も、むしろ大手を振ってそれを諒解している。
この状況下で。
多分、こすみは、新たな自分の定位置を探したんじゃないかなって......陽子さんは、推測している。
天元が、正彦さんの部屋を自分の新たな定位置にしたのなら。
なら、こすみは、どこを自分の定位置にする?
そして、こすみが発見したのが......リビングの正彦さんの処。
こすみは......リビングのアールの処に座って、俳句の勉強をしたり選句をしたりスマホをチェックしたりしている正彦さん、人間の正彦さんそれ自体を、新しい自分の定位置にしたんじゃ......ないのかなあ。
うん。
膝に乗っかる。肩に乗っかる。遠くから走ってきて飛び乗る。
こんなことをやっても、まったく怒らない正彦さん。いや、怒らないどころか、毎回毎回、「どーしたこすみ、何やりたいんだおまえは」なんて言いながら、わしゃわしゃわしゃわしゃこすみのことを撫でまわしてくれる正彦さん。
これはもう、陽子さんの対応とは違いすぎる。
もし、陽子さんがこんなことをやられたのなら、間違いない、陽子さんは、こすみのことを撫でまわすなんて絶対やってくれない。かわりに。
「こすっ! 止めっ! 止めてっ!」
って言って、膝や肩に載っているこすみを床に下ろすに決まっている。
だから、こすみは。
遠くから走ってきて飛び蹴りしても壊れない、肩に載っても壊れない、噛みついても怒らない、こんな正彦さんのことを、新たな玩具だと思い......そして、新たな定位置にしたのではなかろうか。
☆
こすみや、天元が変わったのと同時に、正彦さんも、変わった。
一番判りやすい話だと。
獣医さんへ行く回数が増えた。
いや、これは、天元とこすみが病弱になったという話ではない。
もっと、正彦さん目線で、獣医さんへ行く必要が、発生しだしたのだ。
それ、何かって言えば......。
「こすみのっ! こすみの爪を切って欲しいっ!」
話は、ほぼ、これに尽きる。
新しい、壊れない玩具として認定された正彦さんは、ひたすらこすみに乗っかられ、体を押しつけられ、飛び掛かられて......そして。
「痛いんだよっ! いってー、痛い痛い、いってーってば」
ほぼ、毎日、悲鳴をあげることになってしまった。これは何かって言えば、こすみの爪がとても鋭いからであって......。
毎日。こすみにのしかかられる正彦さん、こすみの爪の被害が、本当に甚大である。
「ねえ、旦那、猫の爪って、素人でも切れるよ? その為にこの間、私達猫専用の爪切りを買ったじゃない」
「判ってる、それは判ってる! けど、こないだ俺がこすみの爪を切ろうとしたら、そもそもこすみ、暴れて暴れて、爪切るどころか、抱いていることすらできなくなったじゃないか」
「ん......それは......確かに......」
陽子さんがこすみの爪を切ろうとして抱いた時には、そんな反応にはならなかったんだけれどね。だから、より、「ああ、旦那って、ほんっとにこすみの玩具なんだ」って、陽子さんは思ったんだけれどね。
「だから、陽子がそれ使ってこすみの爪を切ってくれよっ!」
「......それは、嫌だ」
......それは、嫌だ。何故かっていうと......勿論、この、猫専用の爪切り、猫の爪に対応できるようになっている筈なんだけれど......人間と同じで、爪を切るだけなら、猫、そんなに痛くない筈なのに......なのに。一回、やってみたら、凄い反応があって......。
「あれは私が悪かったのかなあ、爪、切っただけなのに、ほんのちょっと出血しちゃったよね? 爪切って出血って、変だよね? 私......こすみの皮膚まで切っちゃったのか、なあ」
そう思うと。もう二度と陽子さんは、こすみの爪を切りたくない。
「けど、こすみの爪を切らないでいれば、俺の方が流血沙汰必至だ」
......それもまあ......本当に、そう。実際に正彦さん、流血している。
「獣医さんでは、一回千円で爪切りやってくれるじゃない。あれをお願いしよー。絶対にお願いしよー。もう、そうするしかないと思うんだよ」
「......まあ......でも......あ! そう言えば」
「そう言えば、何?」
「この間、獣医さんから葉書が来ていたじゃない。定期健康診断をやりましょうって奴。あれに、のっかってみよう。定期健康診断に行った時に、ついでにこすみの爪を切って貰う」
「あ! それは、いい。それ、やろう。定期健康診断は、やって悪いことじゃないと思うし、それと一緒に爪を切って貰えるのなら、そんなに素敵なことはない」
かくて、こうして。
大島家では、猫の健康診断をよくやるようになったのである。(ついでに爪を切って貰う。)
この頃には、コロナ騒動真っ盛りだったので、この二人が旅行をすることはあんまりなくなった。かわりに、正彦さんのお母さんの病院とか、どうしても行かなければいけない案件が発生し、その時には、猫ズを獣医さんに預けて。(ついでに爪を切って貰う。)
大島のお母さんのお葬式とか、いろんなことがあった。その時には、この二人、猫ズを獣医さんに預けて。(ついでに爪を切って貰う。)
とにかく。
〝爪を切って貰う〟為に、猫ズをひたすら獣医さんに連れてゆく。
そのせいで。
ファージは、晩年、本当に状態が悪くなり、最初は週に一回、のち、ほぼ毎日のように〝点滴〟に通うようになるまで、ほぼ、獣医さんとは縁がなかった猫だった。それに比べると、こすみと天元は(主にこすみの爪を切って貰う為に)、とても獣医さんに通う猫になってしまったのだった。
ファージはやらなかった予防接種なんかも、天元とこすみは万全。(とにかく爪を切って欲しかったから。)
これが、天元とこすみの健康に資してくれるといいな。
陽子さんは、そんなことを、思った。
(つづく)
Synopsisあらすじ
陽子さんは、夫・正彦さんの定年を心待ちにしていた。正彦さんが定年になって、家にいるようになったら……家事を手伝ってもらおう! 共働きにもかかわらず、激務で疲労困憊の夫には頼みづらかった家事。でも、これからは。トイレ掃除、お風呂掃除に、ご飯の後の洗い物、それから……。陽子さんの野望が膨らむ一方で、正彦さんもひそかに野望を抱いていた……。『銀婚式物語』に続く、陽子さんと正彦さんカップルの定年後の物語。
Profile著者紹介
新井素子
1960年東京生まれ。立教大学独文科卒業。高校時代に書いた『あたしの中の……』が第一回奇想天外SF新人賞佳作を受賞し、デビュー。81年『グリーン・レクイエム』、82年『ネプチューン』で連続して星雲賞を受賞、99年『チグリスとユーフラテス』で日本SF大賞を受賞した。他の作品に、『星へ行く船』『……絶句』『もいちどあなたにあいたいな』『イン・ザ・ヘブン』『銀婚式物語』『未来へ……』など多数。
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- 第十五章 落ち武者狩りのごと蝦蛄(しゃこ)の殻を剥ぐ2023.09.28
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- 第十二章......あれ? 何で私は立てないんだろう......2023.07.05
- 第十一章 ......俺は猫の玩具(おもちゃ)か2023.05.23
- 第十章 「二番目に好き」校庭の暮早し2023.04.28
- 第九章 れんげ畑に落っこちて2023.03.28
- 第八章 ............え、これ、普通においしい2023.02.24
- 第七章 そうか。家にいるひとは御飯を食べるのだった......2023.02.01
- 第六章 夏帽を 脱ぎて鮨(すし)屋の 客となる2022.12.27
- 第五章 あの謎の四角いものって、何?2022.11.25
- 第四章 男には、多分、プライドというものがあって......2022.10.30
- 第三章 くらげ出て 海水浴は お盆まで2022.09.29
- 第一章 いきなり死ぬのはあんまりだ2022.07.29
- OPENING2022.07.29