定年物語第五章 あの謎の四角いものって、何?

 さて。
 ここまで、正彦さんのエピソードが並んでいるので、今度は陽子さんのエピソード、いってみましょうか。

       ☆

 正彦さんが定年になり、ずっと家にいるようになった時。ほぼ、同時にコロナが凄(すご)いことになり、陽子さんの外出回数は減った。(打ち合わせが、ほぼ、リモートかメールになってしまったのである。)
 そして、パソコンで陽子さんがいろんな打ち合わせをしだした処で。大島家では、とっても謎の事態が発生してしまったのだ......。

       ☆

 最初は、陽子さんの疑問だったのだ。
「ねえ、旦那、あなた、スマホって使っているよね? でもって、私が使っているのも、スマホっていう奴だよね?」
 陽子さんがこう言うのは。最初、陽子さんが携帯電話を持った時、それは、今でいうガラケーだったからだ(陽子さんには、この二つの区別が、あんまりちゃんとついているとは言い難い。)
「で......あの......今、なんか、アプリがどーこーとか、みんなして言っているんだけれど......その、〝アプリ〟って、何? パソコンに対する〝ソフトウェア〟みたいな理解でいいの? んで......みんなして、これをいれろ、あれをいれろ、どれをいれろって言ってくるんだけれど......それ、やらなきゃいけないこと......なの?」
「え......それは......」
 実は正彦さん、この疑問に答えられる自信がない。正彦さんは、その程度のスマホユーザーである。
 けれど。陽子さんが聞きたいのは、実はそんなことではなくて......。
「アプリがどーのこーのって台詞のあとにでてくる奴なんだけど......あの、謎の四角いものって......何、なの?」
 ......って?
「それが私にはほんとに判らなくて、でも、あの謎の四角いものは、今、なんかすっごく必要になっているみたいじゃない? で、あの、謎の四角は、何なの」

       ☆

 この陽子さんの疑問を、普通のひとに判る〝疑問〟として説明する為には。
 とても多くの補助線が必要になる。(そもそも、陽子さんの疑問は、あまりにもプリミティヴに過ぎるので......このままだと、陽子さんが何を疑問に思っているのか、大体のひとには判らないのではないかと......。)
 だからまあ......一個ずつ、順番に説明してみましょうか。

       ☆

 まず。
 ガラケーとスマホの違いについて。
 何でわざわざ陽子さんがこんなことを聞くのか。
 最初に陽子さんがガラケーを持った時、ガラケーは、大島家には、絶対必要な電化製品だった。(逆に言えば。ガラケーが流通しだしてかなり時間がたっても、陽子さんにとっては、これ、必要がないものだった。だから、ほぼすべてのひとがガラケーを使用するようになったあとも、もうずっと長いこと、長い、長いこと、陽子さんはこれを使用していなかった。ほんとに......ずっと、ずーっと、陽子さんは携帯電話というものを持っていなかったのだ。だってほんとに必要がなかったから。)
 だから。いろいろあって、陽子さんがガラケーを持つことになった時は、これ、大島家にとっては大変革だったのだ。そんな事件があったのだ。
 そして。時間がたち、正彦さんはガラケーからスマホに機種変更を強いられることになり(いや、〝強いられている〟訳では、多分、ない。ただ、「こっちの方がお得です、こっちの方がお薦(すす)めです」って言われているうちに、何となくそんなことになってしまったのだ)、同時に、陽子さんのガラケーも、スマホに変えることになっちゃって。けれど、この時には、スマホでもガラケーでもいいや、そういうものが、陽子さんにとっては、まったく必要ではないものになってしまっていたのだ。(ここの間に、また、大島家にとっての大変革があった。)
 で。何か、訳判らないうちに、いきなりガラケーを持つことになり、そしてその後、まったく使わなくなったガラケーからスマホに機種変更した陽子さん、この二つの区別が......ついていない。
 いや、言い換えよう。陽子さんは、そもそも、ガラケーでもスマホでも、実生活において〝携帯電話〟を使う意味がまったく判らず......ということは、使っておらず......だから、この二つの区別が、つかない。
 ただ。
 とある特定の時期だけ、陽子さんは、これを絶対に使わなければいけない状況に陥(おちい)ってしまって、だから、その〝時期〟だけ、陽子さんはこれを使っていた。

       ☆

 陽子さんが、最初に携帯電話を必要とした時。(この時、流通していたのがガラケーなのだった。だから、陽子さんが最初に手にしたのは、ガラケー。)
 この時、東京在住の正彦さんと陽子さんは、週に数回、正彦さんの両親の介護の為に大阪に通っていて、正彦さんが父親を病院へ連れていっている時、陽子さんは母親を別の病院へ連れて行かなきゃいけない、とか、地域包括支援センターの方にお話を聞きにいかなきゃいけない、とか、二人にとってまったく土地勘がない大阪で、夫婦別行動をとらなきゃいけない事態が、週に何回も発生していたからだ。
(何で夫婦で別行動って......この時会社員正彦さんは、まさか週に何回も会社を休めない、だから、土日と半休を使いまくり、また、陽子さんの方も、大阪では仕事ができなかった。――陽子さんが原稿を書いているパソコンは、オアシスという特別な仕様のものであり、持ち運びが辛いサイズだったので、原稿を書く為には東京の家にいなきゃいけなかった――。
 ただ、この時、お父さんが硬膜外(こうまくがい)血腫で倒れ、入院を余儀なくされ、その結果、お父さんがそれまでひた隠しに隠していた、お母さんがすでに認知症になって久しいって事実が判明、大阪の家がゴミ屋敷になっているという事実も判明。
 とにかくお父さんは入院しなきゃいけない、でも、お母さんを家にひとりにする訳にはいかない、その上ここは、ゴミ屋敷になっている。かといって、お母さんは、この時すでに、新幹線に三時間も乗って東京に来るのは不可能な感じになっていて......とにかく、かわりばんこや一緒に、この二人、ひたすら大阪に通わなければいけない、そんな事態に陥ってしまったのである。で、携帯電話というツールは、ほんとにこの時、必要不可欠だったのである。)

 それまで、陽子さんは、携帯電話というものを持ったことがなかった。なくてまったく不自由を感じていなかったし、だから、「これは別にないままでいても悪くないのでは......」って思っていたのだが、夫婦揃って土地勘がない大阪で、いろいろ動き回るとしたら......確かにこれは、必需だったのだ。
(「陽子、今おまえ、どこにいる? 俺は今、○○病院に父の入院に必要な書類を提出し終えたとこ。親父はこのあと、まんま、手術まで病院にいることになる」「あ、私は地域包括支援センターで、お義母さんの介護認定の申請終えて、今、大阪の家に向かってる」「じゃあ、家で集合な」みたいな連絡は......確かに、携帯電話があると、すっごく楽なんである。というか、もし携帯電話がなければ、こういう連絡はできないってことになり......それは、とても大変なことになるだろうなあって、陽子さんは思った。)
 それで、陽子さんも携帯電話を持つことになり、それが今で言うガラケーで......そして、数年、時間が、たった。
 時間がたち、正彦さんと陽子さんは、道中いろんなことがあったものの、最終的に、無事、正彦さんの父親を看取ることができた。(陽子さんの両親は、その前に亡くなっている。)
 こうなると、陽子さんにしてみれば、もう携帯電話って必要なものだとは思えなくなった。
 だって、今は、介護の対象になっているのは、お義母さんだけ。なら、正彦さんと陽子さん、この二人がわざわざ別行動をとる必然性は低くて......じゃあ、携帯電話なんて、別にいらないんじゃないの?
 けれど。
 一回、編集との打ち合わせですれ違いがあった為、陽子さんの認識は変わる。

       ☆

 その日。
 これはもう、陽子さんのミスなんだが、待ち合わせの喫茶店が......陽子さんにはよく判らなくなった。
 駅前の喫茶店で待ち合わせた筈なんだけれど......それって、Aっていうお店だったっけか、それとも、Bだったのかな? この二つの喫茶店、陽子さんは同じ程度の頻度で利用していて......さて、今日、待ち合わせをしたのが、AだかBだかが......陽子さんには判らなかった。
(と、いうことに気がついたのは、駅前まで歩いてきてから。家に帰れば、カレンダーにメモとってあるから、AかBかはすぐ判るんだけれど、駅から家までは歩いて二十分はかかる。往復すると、四十分。まさか、ひとを四十分待たせる訳にもいかないから......陽子さんは、まず、Aに行ってみる。......相手は、いない。相手が遅刻してくる可能性だってあるから、十分くらい、そこで待ってみて......でも、相手は、来ない。ということは、待ち合わせの場所は、実はBなのか? 慌ててBへ行ってみる。でも......いない。Aにとって返す。そこにも、待ち合わせの相手はいない。)
 これはもう。携帯電話を持っているひとなら、すぐに解決できる話だよね。待ち合わせ相手に電話をすればいい、それだけなのだ。
 けれど、陽子さんは、携帯電話を持っていない。(いや、家にはあるんだけれど、この時の陽子さんには、そんなもん、持って歩く習慣がなかった。)
 これはもう、相手に電話をしてみるしかないのか? でも、相手の携帯の番号なんて、陽子さんは知らない。(携帯には、登録してあるんだけれど、携帯は今、家にある。)
 じゃあ......出版社、そのもの、に? 出版社の大代表に電話して、○○編集部の××さんをって言えば、相手の携帯電話の番号、教えて貰える?
 そう思って、電話をしようとしたんだけれど......陽子さんは、携帯電話を持っていないから。だから、掛けることができる電話が、そもそも、ない。
 そこでしょうがない、公衆電話を使おうと思って......そうしたら。
 何ということなんだろう、昔の喫茶店は、大体、公衆電話を常備していた。ピンク色の電話機があったりしたんである。けれど、今の喫茶店には......そんなものは、ない。
 えーと、と、なると、これは......。
 陽子さん、喫茶店を出て、公衆電話を探す。それも、できれば電話ボックス。電話帳がある奴がベストだよね。
 現時点では。陽子さん、問題の出版社の電話番号を判っていない。ということは、まず、そこから調べなければいけないのだ。
 幸いなことに、場所が駅前だったから、電話ボックスは結構すぐにみつかった。そこで陽子さん、まず、104。
 確か、これは、電話番号案内だよなーって思って、当該出版社の名前を言ってみる。
 でも。おそろしいことに、その返事は。
「登録がありません」
 え......ほんとかよっ!
 いや、NTTの人を疑ったってしょうがないから、疑わないけれど。けど、これは、ほんと、なのかよ!
 だって、あんたの処は、結構大きな出版社だろうがよっ! ベストセラーだって何冊も出しているだろうがよ、そんな出版社なのに、何でNTTに登録してないんだよっ!
 その出版社の名前を、漢字で説明しながら、二回繰り返した処で、陽子さんは諦めた。
 多分、これは、本当に登録されていないのだ。(これは、今でも謎である。何でだ。有名な出版社なんだから、NTTに登録くらいしろよ。......あー......今では、電話帳に登録しないのが、むしろ、普通、なのか?)
 と、なると......。
 104では、この出版社の番号が判らない。これは、もう、確定事項だと思うしかない。
 この状況で、この出版社の連絡先を知りたいのなら......。
 次に向かうべきは、本屋さんだ。
 何故なら。
 本屋さんには、この出版社が出している本が、ある筈。
 そして。
 すべての本の最終ページには、著者、発行者、発行所が絶対に書いてある筈なのだ。んでもって、著者と発行者は、ただ名前が書いてあるだけなんだけれど(要するに、作家名とその出版社の社長の名前が書いてあるのね)、発行所だけは、絶対に違う。ここに書いてあるのは、出版社の情報であって、ここには間違いなく、その出版社の住所と電話番号が書いてある筈。
 そう思って、本屋さんに行ってみたら......うおお、この出版社が版元の本がないっ!(今の町の本屋さんは、売り場面積が限られているので、発売から時間がたつと、かなりのベストセラーでも、本そのものが売り場になかったりするのである。)
 この段階で、ほぼ、力つきそうになった陽子さんだったのだが、いや、これで諦める訳にはいかない。思いっきりいろんなことを考える。
 そうだ。
 ある程度大きな出版社なら、新刊がなくても文庫があるから、それで何とかなる。......と、思ったんだが、この出版社が出している文庫は、まだあんまりメジャーじゃないから、小さな本屋さんには置いていない可能性もあるよね。
 ......実際......なかった。
 なら、次は......。
 あ、えっと、この出版社が出している新刊で、結構売れている奴があった、それ......探してみたけど、この本屋さんにはないや、けど、隣駅の本屋さんにはあったのでは?
 (これはもう。陽子さんが〝もの凄く変〟だとしか言いようがないんだが......陽子さんは、もの凄い勢いで本屋さんを巡っているひとなんである。最寄り駅、隣駅、その隣駅くらいまで、ひたすら本屋さんを廻り歩く日常をやっているひとなんである。だから、知っていた。隣駅の本屋さんには、多分、この出版社が出している本、おいてあった筈だよね。一昨日かそこら、それ、見たような記憶がある。)
 そこで。電車に乗って、そこまで行ってみた。行ってみたら、実際に、本があった。これでやっと、その出版社の大代表の番号が判る!
 ふうう。そう思った陽子さんが、その電話番号に電話しようとしてみたら......あああああっ! 今度は、公衆電話が、みつからないっ! 隣駅にはすぐ判る処に電話ボックスがあったんだけど、この駅には......電話ボックスそのものが見当たらないっ! 今度は、公衆電話を探すのが、大騒ぎだっ!
 ......結果として。
 この出版社の大代表に連絡がつき、編集部に連絡がつき、該当編集者の携帯電話の番号が判るまでに費やした時間は......二時間、弱?(......まあ......これは......最初に素直に陽子さん、家に帰ればよかっただけの話のような気はする。家に帰れば、自分の携帯電話も、カレンダーにあるメモも、判るんだから。けど、これは、〝後だから言える話〟なんだよね......。)
 で、やっと、連絡がついた編集者は、Bの喫茶店にいた。いや、こんなに長い時間、連絡もなく遅れてしまった陽子さんのことを、この編集者は待っていてくれた訳で、これは本当にありがとうございました、申し訳ありませんでした、としか言いようがない。(最初に陽子さんがBに行った時、彼女に気がつかなかったのは、陽子さんも焦っていたし、また、彼女の方も、ずーっと陽子さんが来ないので、下を向いて本を読んでいたからだってことが、のち、判った。)
 この時。
 陽子さんは、思ったのだ。
 別に、親の介護をしていなくても。
 携帯電話って、確かに、必要なのかも知れない。
 と、言うよりは。
 便利だよね、携帯電話。

 成程。
 このツールは、確かに待ち合わせをする時に、とてもよいかも知れない。
 一回、そう思った陽子さんなのだが......これは、言い換えると。
 待ち合わせをしなきゃ、別にこれ、いらないツールなんでは?

 と。
 陽子さんが、そんなことを思った時に、まるでそれをみすましていたかのように、コロナが発生する。

       ☆

 で。
 この時以来、陽子さんは、リアルでひとと待ち合わせをすることが、ほぼ、なくなったのだ。
 こうなると、携帯電話を〝携帯〟する意味はほぼなくなって。
 と、いうことは、当然、陽子さん、携帯電話を〝携帯〟なんかしなくなる。(いや、もともとこのひとは携帯電話を携帯なんかしていない。)
 結果、どうなったのか。
 陽子さんのスマホは、大島家の中で、ほぼいつも、行方不明になってしまったのである。(なんせ、滅多に使わないから。)
 明日、正彦さんはゴルフへ行き、陽子さんは自分が通っている病院へ行く。こんな予定がある前日。正彦さんはこんなことを言う。
「明日、俺、ゴルフが終わったらおまえに連絡するからさあ、夕飯どうするかはその時に相談しよう」
「って、ちょっと待った旦那! あんた、私の携帯に連絡をするって?」
「いや、他の何に連絡をするの」
「だから、ちょっと待った! あんたが連絡する予定の私の携帯なんだけれど......それ、どこにあるの」
「って、それの意味は何だ」
「えーっと......まず......その......携帯を、発見、しないと、ね」
「って、その意味は何だ」
「......すみません、ごめんなさい、私、自分の携帯が今どこにあるのか、判らないです」
「......って、その意味は、何だ」
「......えーっと......そもそも、私にとって〝携帯〟って、どこにあるんだかよく判らないものなんだからして......えーっと......その......今、どこにあるの?」
「っ! え? 判らないのか、おまえ、ほんとに」
「判らないの。......だから、ごめん。お願い」
「って、何だ」
「あなた、私の携帯に電話掛けてくれない? 電話が掛かってくれば、音が鳴るから、音さえ鳴ってくれれば、私だって自分の携帯がどこにあるのか、判るんじゃないのかって気持ちが......」
 で、正彦さんが陽子さんのスマホに電話してみる。けど、リビングでも、玄関でも、陽子さんの鞄の中からも......音は、まったく、しない。
 かくして、夫婦揃って、陽子さんの携帯、大捜索。そして、みつかった携帯は......。
「おまえ、これ、いつから充電してないんだっ!」
「......え......前使った時から充電していないから......えーと......一週間? 十日? ......もっと......かも......」
 まったく電源がはいらない。充電器に繋いで、しばらくして、やっと、真っ赤な電源表示が出て来るていたらく。
「おまえ......充電くらい、してやれよ。あんまり可哀想だろうが、スマホが」
「あ......あー、ごめん。次からはできるだけそうする。けど......まず使わないものは......えーと、色々、忘れてて......」
 そして勿論、このあとも陽子さんは、スマホに充電することを忘れ続けることになるのである。(というか、月に二回くらいしか使わないスマホは、ほぼ、陽子さんにとって、忘れられた家電なんである。)

 こんな陽子さんなので。
 アプリがどうのこうの言われたって......そりゃまあ、〝何が何だか〟、だよね。

       ☆

 この時点で。
 陽子さんは、実は、正彦さんのことをとっても尊敬していた。
 何故ならば、正彦さんは、(陽子さんにとっては)謎のスマホを、(陽子さん視点から見れば)活用していたからだ。
 だって、正彦さんったら、何か判らないことがあった時、スマホでそれを検索している! しかも、それだけじゃなくて。
 電車に乗っている時、陽子さんは大体本を読んでいるんだが、正彦さんは、スマホを見ていることもある。その様子を眇(すがめ)で確認するに......どうも正彦さん、ツイッターとか、やっている、らしい。
 ほええ、すっごいなーって思った陽子さんなんだが、もっと驚くべきことに。
 正彦さん、フェイスブックとかも......やっているのかも、知れないのだ。それにより、昔の同級生とか、そんなひと達と連絡もついたりしているみたい。
 おおおおおっ。
 ことここに至ると。もう、陽子さんには、訳判らない。なんか、うちの夫は凄いことをしている、そんな理解しかできない。
 うん、だから。陽子さんは、正彦さんのこと凄いなーって思うんだが......実の処、客観的に言ってしまえば、正彦さんだってそんなにスマホを使いこなしている訳ではない。ただ、陽子さんのレベルが低すぎるので、なんか、正彦さん凄いって陽子さんが思っているだけ。(これは、単純に言えばこうなる。陽子さんは、数が数えられるレベル。正彦さんは、足し算ができる。だから、陽子さんは、「正彦さん凄いー」ってほんとに心から思っているんだが、世の中の普通のひとは、数を数え、足し算ができるだけじゃなく、引き算も掛け算もできる。場合によっては、連立方程式が解けるひとだっている。正彦さんにはそこまでのスキルは、実はないのだが、そんなこと、やっと数が数えられるレベルの陽子さんには判らない。)
 ところで。
 一応小説家をやっている陽子さんが、スマホで検索ができないっていうのは......なんか、問題があるって思ってしまうひともいるかも知れない。けれど、問題なんて、実は全然ないのである。(スマホは無理でもパソコンで検索をすることは、陽子さんにもできる。滅多にしないけど。)
 昔の小説家は、〝検索〟だなんてものがまったくできないのが普通だったから。それで問題はなかったから。うん、その為に、辞書というものがあり、辞典というものがあり、図書館がある。陽子さん、未だに、何か疑問や調べたいものがあったら、まず、図書館に行くことにしている。
 また。これは、検索をしない陽子さんの〝ごまめの歯ぎしり〟にすぎないのかも知れないのだが......ネットの情報って、陽子さんにしてみれば、その信頼性がどの程度あるのかが、まったく判らない。だが、本の情報は、それが判る――と、陽子さんは思っている。勿論、本の情報にだって、まったく信頼性がないものはある。多々、ある。けれど、今まで何十年も本を読んできたのだ、陽子さんには、それを判別できる自信がある。版元と、それがどんなカテゴリーになっているのかさえ判れば、何十年も本を読み続けていたのだ、その本の信頼性を判別できる......と、陽子さんは、思っている。(まあ、そのかわり。書籍というのは、書かれてから出版されるまでに半年以上のタイムラグがあるのが普通である。ということは、リアルタイムの情報は、確かに書籍では入手しにくいのだが、陽子さん、リアルタイムの情報を必要としているようなお話は書いていないからね、だから、これは、いいということにしている。)

       ☆

 あの、何が何だかよく判らないツイッターってものを駆使している旦那。(......いや......多分......正彦さんは、〝駆使している〟って言える程、ツイッターに通暁している訳ではないとは思うのだが......陽子さんにしてみれば、これ、やっているだけで尊敬するしかない。だって。実は、陽子さんも、その、謎の〝ツイッター〟ってものを、目にしたことは、あったのだ。陽子さんの本を出してくれている出版社が、その宣伝で、謎の〝ツイッター〟を使い、それを陽子さんに転送してくれて......。正直言って、陽子さんは、このずらずら並んでいるものの、どこを、どう、読めばいいのか......これがまったく判らなかった。つらつら読んでも、その脈絡が、よく、判らなかった。半ばで、陽子さん、もう、諦めた。だから、あの〝謎〟の、〝訳判らない〟ツイッターってものをやっているだけで、正彦さんは、陽子さんにしてみれば、尊敬するしかない人間。まして、もっと謎の〝フェイスブック〟とかいうものをやっているとしたら、これはもう、尊敬以外の何ができると言うのだ。)
 で。
 こんな旦那を目の前にしたら。

 陽子さんが、聞きたいことは、たったのひとつ。
 と、言うか。
 最初から、陽子さんが、聞きたいことは、たったのひとつ。
「あの謎の四角は、何なの!」

       ☆

「あの謎の四角は、何なの!」
 謎の四角。なんか、いろんな処にあるんだよね。
 ここの処。
 世界には、あっちこっちに、あの謎の四角がちりばめられていて、「これを読み込め」だの何だの、変なことを言っている。この四角をダウンロードしてアプリにいれろとか、いろいろ言っているひともいる。
 けど......この、謎の四角って、つまるところ、根本的に、何だ。
「あ......ああ、陽子は判らないのか、これはQRコードって言って......」
「あー、すみません旦那、私もそれは判っているから。何かよく判らないけれど、いろんな情報を秘めている奴なんだよね。なんでも、そもそも、開発者は碁盤からこれを発想したらしくて、とても沢山の情報が書ける。その理由は、バーコードみたいに横方向にだけ情報が並んでいるんじゃなくて、縦横が読めるからであって」
「......何だってそんな余計なことだけ知っているんだ......。って、いや、そんな余計な情報を知っているのなら、判らないのは、何だ」
「いや、だから、これを......どうしろ、と?」
「......って?」
「いや、謎の四角いものがあることは判った。それがとてもいろんな情報を持っていることも判った、だからって、私に何をしろ、と?」
「......って......へ?」
「いや、世の中には、よく判らない〝謎の四角いもの〟があって、そこには多くの情報がある。はい、それは、判りました。で......私に、何をしろ、と?」
 え。
 あ。
 いや、その。
 今度は、正彦さんの方が硬直してしまう。
「いや......だから......いろんな情報が、QRコードには入っている訳なんだから、だから、それを、読めば?」
「だから、どうやって」
「......あ......」
 ここで。
 ここで、やっと。最初の処に戻る訳だ。
 ようやっと、正彦さん、理解した。
 アプリが何だか判らず、アプリをダウンロードしたことがない陽子さんは......QRコードをどうしたらいいのかが、本当にまったく判らないんだ。これのダウンロードなんか、絶対にできないのだ。しかも陽子さん、未だにスマホを扱いかねている。今はQRコード、カメラで読めるなんて話も聞くけれど、実は陽子さん、スマホのカメラがほぼあつかえない。その上......どうもスマホと相性が悪いらしくて、未だに、スマホが鳴ると、その瞬間陽子さん、スマホを放り投げてしまう。(「うわ、スマホ、鳴った、どうしようどうしようどうしよう」って思った結果、通話ボタンを押すんじゃなくて、スマホそのものを反射として放り投げてしまうのだ。
 ......結果として、通話ができなかった相手に、陽子さんの方から改めて電話をすることになり、何やっているんだろうかなあって、正彦さんは思っていた。だから、正彦さんが陽子さんのスマホに連絡をした場合、一旦切れて、陽子さんの方から電話がかかってくるのは、デフォルトである。)

       ☆

「あのね」
 ここまで来ると。陽子さんは、落ち着いて話をしてくれる。
「私、ほんっとに、あの四角い謎のものが何だか判らなくて、それが本当に嫌で」
 うん。......いや、肯定していいのかどうか判らないんだけれど......陽子さんが、ほんとにこれを〝嫌〟だと思っていることだけは、正彦さんにも判った。
「だって、西武線は、酷いんだよ」
 けれど。いきなりここで、西武線が出てきてしまう理由が、正彦さんにはまったく判らない。
「西武線はね、ちょっと前までは、駅に時刻表があったの。プラットホームの、路線図なんかがある処の裏に、時刻表が絶対にあったの」
 あ......ああ、それは、大抵あるだろうなって、正彦さんも思った。でも、この言い方だと......今は、時刻表、駅には、ないのか?
「駅に行って、今が何時だか判っていて、それで、じゃあ、次の電車はいつ来るのかなって思った場合、時刻表は必需じゃない? これ、絶対、欲しいと思うの、私」
「あ......ああ、そういう状況なら、それは絶対に欲しいと思うんだが......まさかと思うが、今、それは、ない、の、か?」
「ないのっ!」
 え?
 いくら何でも、西武線が時刻表を表示するのを止めてしまったとは思えない。そんなこと、絶対にないと思う。そう思って正彦さんが陽子さんのことを見ると。陽子さん。
「前に、時刻表があった処には、何かよく判らない、駅長さんの帽子みたいなものをかぶった、ラッコか何かのイラストがあってね」
 はあ。
「その、イラストの脇にね、あの、謎の四角いものがあるんだ。で、そこに、〝西武線アプリが何とかかんとか〟って具合に、変なことが書いてあるの」
 ......あ......ああ。
 そうか。
 正彦さん、納得。
 西武線は、それまでにあった、前から決められていた、「何時何分にどの電車が......」って時刻表を表示するのを止めて、西武線専用のアプリを作ったのか。その方が、利用者にとっては便利だと思われるから。そして、それを教えてくれるのが、以前時刻表があった処にある、QRコード、ね。
「でもさあ、私はね、あの謎の四角いものがあったって、それでなんにもできないんだよっ! 私には何にも判らないんだよっ!」
 ......まあ......陽子の場合......こうなるか。......胸はって言うようなことじゃないとは思うんだが、こうなるか。
「それにっ!」
 正彦さんが、何か、陽子さんの言っていることに諾(うべな)った感じになったせいか、陽子さんの台詞、ターボがかかる。
「私には、もっとずっと言いたいことがあって!」
「......って?」
「最近の、張り紙にも、もの凄く違和感があるのっ!」
「......って?」
 実は。
 陽子さんというひとは、掲示板も含め、すべての張り紙をちゃんと読んでしまうひとなのだ。(というか、このひとは、字が書いてあれば、その殆どを読んでしまう。)
「お祭りの連絡とか、いろんな張り紙が、町内会の掲示板にはあるでしょう?」
 いや、あるんだが。そんなもの、全部読んでいるのは、陽子以外誰かいるのかって、実の処正彦さんは思ってもいる。
「あれが、ここの処、変なの! お祭りは、大きな催しだから、日時が書いてある。けど、小さな催しは、何も書いてないことがあるのよ。イベントがあるってことだけ書いてあって、それがどんなイベントかは書いてあって......でも、その他のことは、何も書いていない奴が、最近、結構、あるのよ! これ、張り紙の用をなしていないって、私は思う。で、その場合、必ず、あの、謎の四角いものがある」
 ......ああ......まあ......そういうことも、あるんだろうな。
「あれ、私、訳判らない。イベントの表示だけがあって、あとは、あんな訳の判らない四角があって......それで、"張り紙"の用は足りているの? なんで、みんな、あんな、訳判らない四角のものがあったからって、それで納得しちゃうの?」
 ..................。
 んー..................。

 これはもう。
 正彦さんには、どう返事をしていいのかよく判らない。

        ☆

「私はね、もう、思っちゃうの」
 陽子さんに対して。
 アプリって何なのか、〝あの謎の四角いものをどうすればいいのか〟、ちゃんと説明ができなかった正彦さんは......この陽子さんの台詞を聞いて、ほぼ、どうしようもない、ため息をつく。そして。次の陽子さんの台詞を、認めるしかなくなってしまうのだ。
「世の中には、私が知らない、〝謎の四角いもの〟がある」
 いや。その理解はどうなんだろうって、ほんっとに正彦さんは思うのだが。
「これはもう、あるんだから、〝ある〟としか言いようがない。他に、どうしようもない」 ま、それはそうなんだろうと思うんだが。
「だから、これは、〝ある〟として、流す」
 ......まあ......そう、なるよね。
「そして。〝流した〟以上、〝無視〟する」
 って! そう......なる、のか? 〝無視〟? 無視するんで、本当にいいのか、それ。いや、いい訳はないような気もするんだが......陽子にしてみれば......他にどうしようもないのではないかと......。
 けれど。陽子さんは、さくさくと言葉を続ける。
「無視するって決めたらね。私は絶対にそれを無視する。そう決めた」
 ......って......決められても困るような気も、しないでもないんだが。

 陽子さんは、すべてのQRコードを無視することにした。
 そう決めた。
 無視しているんだから、それを読み取ることはできない。
 というか......無視しなくたって、陽子さんにはこれを読み込むスキルがない。(いや、スキルがある、とか、スキルがない、とか、そんなことを言う程のものではないと、正彦さんは思うんだが......だが、絶対に、陽子さんには、これは読めないだろうということは......それだけは、正彦さんにも、判っていた。)

 結果として。

 とても哀しい事実だけが、残った。

 今の西武線の駅に行っても、陽子さんは時刻表が読めない。
 他にも、いろんな店舗で買い物をする度に、「アプリをお持ちでしたら」って言われるんだけれど、陽子さん、これ、にっこり笑って、全無視。だって、アプリって何だか、未だに陽子さんにはよく判っていない。

 これは。
 陽子の日常生活、もの凄く不便ではないかなって正彦さんは思うのだが......思うのだが......はああ。

 ここで、正彦さんは思う。

 ま、こいつは、こういう奴だった。結婚した時から、いや、つきあいだした頃から、こうだった。
 だから......これはもう、どうしようもないことだって、納得するしかないんだろうなあ。

       ☆

 かくて、こうして。
 陽子さんは、あの、〝謎の四角〟を無視することになったのだ。無視していいって、お墨付きを貰えたのだ。無視して困ることだってあるような気もするんだが、正彦さんのお墨付きを貰えたのだ、これはもう絶対に、無視、する!

 だって、他にどうしようもないんだもん。
                                                             (つづく)

定年物語

Synopsisあらすじ

陽子さんは、夫・正彦さんの定年を心待ちにしていた。正彦さんが定年になって、家にいるようになったら……家事を手伝ってもらおう! 共働きにもかかわらず、激務で疲労困憊の夫には頼みづらかった家事。でも、これからは。トイレ掃除、お風呂掃除に、ご飯の後の洗い物、それから……。陽子さんの野望が膨らむ一方で、正彦さんもひそかに野望を抱いていた……。『銀婚式物語』に続く、陽子さんと正彦さんカップルの定年後の物語。

Profile著者紹介

新井素子

1960年東京生まれ。立教大学独文科卒業。高校時代に書いた『あたしの中の……』が第一回奇想天外SF新人賞佳作を受賞し、デビュー。81年『グリーン・レクイエム』、82年『ネプチューン』で連続して星雲賞を受賞、99年『チグリスとユーフラテス』で日本SF大賞を受賞した。他の作品に、『星へ行く船』『……絶句』『もいちどあなたにあいたいな』『イン・ザ・ヘブン』『銀婚式物語』『未来へ……』など多数。



Newest issue最新話

Backnumberバックナンバー