定年物語ENDING 霾や明和九年の庚申塔

 句会に出席して。
 とにかく自分が一推しの句を選ばなきゃいけなくなった陽子さん、その一句だけは、素直に選べた。まあ、全部読んで、「私はこれが一番好き」って句は、すぐに選べたから。また、その句のテイストから言って、「これは正彦さんが詠んだ句ではない」ってことも、確信できたから。
 でも。その句が、この会で最優秀として選ばれてしまう可能性はかなり高く(実際にそうなった)、ということは、念の為(ため)に他の句も選んでおかないといけないよね? なのに......この句会に出されている句で、「これは正彦さんの句だな」って思えたのは、ひとつだけだったのだ。(正彦さんは、時々、「こんな句を詠んでみたんだけれど、表現として、こっちとあっちとどっちがいい?」って、二つ並べたものを陽子さんに聞くことがあって、その句は、偶然にも過去に陽子さんが聞かれた句であったので、「ああ、これが旦那の句」って確信できたのだ。)
 今回の句会。正彦さんが提出している句は、三つある筈(はず)。
 ということは......あと二つ、この句の山の中には正彦さんの句が混じっている筈で......そして、それがどれだか、陽子さんにはまったく判(わか)らない。判らないのは怖い。下手すると、私は、自分の旦那の句を、『原陽子賞』として選んでしまう可能性がある。そしてそれは......嫌だあっ! というか、やめてー! というか、みっともないいいー!
 かといって。ここまできて、「選句やめます」って言う訳にはいかないし(そんな迷惑な)、でも、まさか旦那の句を自分の名前のついた賞として選ぶのは絶対に嫌で、どうしたらいいのか判らなくなった陽子さんだったのだが......。
 もう、これは。
 しょうがない、誠心誠意、自分の好きな句を選ぶしかないのかな。
 陽子さんが、あまりにもどうしようもなくなって、硬直してしまった処で至った境地がこれだったのだが(いや、最初からその境地に達しろよ)、陽子さんがこんな境地に達した処で。
 今度は、また、別な問題が立ち上がってきてしまったのだ。
(どんだけ問題が立ち上がるんだよ句会!)

 霾や明和九年の庚申(こうしん)塔

 ......もの凄く達筆な字である。この字だけで素晴らしい句に思える。いや、でも、句としての評価は字でやってはいけない訳で......って、問題は、そんな処に、ない。

 これ。
 この句。
 ......陽子さん、読めなかったのである。

       ☆

 霾や。

 問題は、この言葉に尽きる。
 これ、どう読めばいいんだろう。

 まず、判ることは、この「霾や」は、季語だよねってことだ。
 だって、明和は年号だし、九年はその年代だし、庚申は、後に〝塔〟がついているんだ、要するに庚申信仰の塔だよね。この辺のものは、多分、季語にならないと思う。(でも、絶対に季語にならない筈の〝季節に関係がないもの〟を、なんか勝手に〝季語〟にしてしまうものが俳句だっていう理解が、只今の陽子さんにはあるので......この辺、ちょっと、微妙なのだが。だって、〝夜食〟が秋の季語だって言われた瞬間......陽子さん、俳句関係者に殴りかかりたくなったんだもん。何故? 何故、〝夜食〟が、秋の季語? 夜食なんて、オールシーズン絶対にあるものであって、これが秋の季語である必然性がまったく判らない。いや、どうしても季節が欲しいのなら、「夜食食べてるのって、受験生かな?」って理解があるじゃない、それなら、受験直前の冬の季語であって当然でしょうがよって、陽子さんは思っている。これが〝秋〟の季語である必然性を、どうか陽子さんにも判るように、俳句関係者には説明して欲しいものだ。――まあ、秋の夜長で、小腹が空いて、夜食をとっているのかも知れないのだが――。)
 そして、この「霾」は、声にだして読んだ場合、多分四文字。〝霾や〟で、五文字になる。そうじゃないと、俳句の音律的に、変。
 でも......これ、どう読めばいいんだろうか?
 雨冠がついているんだよね、ということは、天候に関係があることだ、きっと。
 で......下の部首は......んー......無理して読めば、音読みで、〝り〟?
 けど、どうも季語らしいし、音として四文字になるらしいし......なら、これは、訓読みされている筈。
 天候に関係があって、〝り〟って読めるような漢字の訓読み、それで四文字になるものって......何? 
 雨降るや。
 ......違うだろうな。〝雨〟の音読みは、〝う〟だ。その前に、〝雨〟はさすがに季語にならないのでは? だって絶対、オールシーズン降っている。――まあ、〝夕立〟とか〝春雨〟とか、季節が限定できる〝雨〟もない訳じゃないけどね――。
 星照るや。
 ......違うだろうな。その場合、雨冠はきっとつかない。(雨が降っていれば星は見えない。)
 雪降るや。
 ......違うだろうな。その場合、雨冠はつきそうなんだけれど、〝雪〟っていう漢字が厳然としてあって、しかもその音読みは〝せつ〟だ。それに、どう考えても、〝雪〟は只今の季節にそぐわない。
 と......こうなると。
 判らない。
 これはほんとに、どうやっても判らなかったので、陽子さん、この字については、「もう読めない」って思うことにした。だから、必然的に、この句についても無視。作者の方には誠に申し訳ない話なんだけれど、今回の句会で好きな句を上から考えてみた時、この句は、上位には入っていなかったので、ま、これはこれでしょうがないって思うことにした。(いや、そもそも読めないんだから、上位にはいっているもいないもないのだが、他に好きだなって思った句がいくつかあったので、これを無視することにしたのだった、陽子さん。)

 で。
 この瞬間、なんか、陽子さん、天啓のようなものに〝打たれて〟しまったのだ。
 あ。
 あ、ああああああ......。

       ☆

 陽子さんが家を出る時。旦那は、他の俳句関係のイベントに出席する為、ずっと早くに家を出てきてしまっていて......そして、陽子さんのパソコンの上には、何故か、本が積んであったのだ。
 正彦さん所有の漢和辞典と歳時記。
 何でこんなもんが自分のパソコンの上に積んであるのかなあって、これがほんとに陽子さんには謎で、だから陽子さん、この本を無視して、その本に手を触れず、今回の句会に参加したのだが。(陽子さんのパソコンの上に何かを載せる。これって、外出する正彦さんが、陽子さんに何かを伝えたい時、よくやっている手法なのだ。一番ありがちなのは、買い物メモなんかがおいてある奴。これは、「このメモに書いてあるものを買っといてね」って意味。または、時々、陽子さんの眼鏡がパソコンの上に置いてあったりもする。――仕事が終わって、晩酌をした後、陽子さん、眼鏡をはずして、そしてそれがどこにあるんだか判らなくなることが時々あるのだ。そういう時、眼鏡を発見した正彦さんは、それを陽子さんのパソコンの上に置いておいてくれる。――)
 今になって、やっと、判った。
 旦那は、私の為に、これらの本を私のパソコンの上に積んでくれていたのだ。
 うん、だって、そう。
 今、ここに、漢和辞典があれば。
 この〝謎〟の〝霾〟って字は、きっと、読める。雨冠だってことまで判っているんだ、この字、漢和辞典さえあれば、絶対に特定できる。特定できれば、意味だって判るし、その前に、読み方が判る。
 そして。〝読み方〟さえ判れば、その上、そこに歳時記があるのなら、今度は、それがどんな季語なのか、歳時記で調べることができる。
 あああ!
 旦那。
 瞬時、陽子さん、思ってしまった。
 旦那!
 私は今、あなたの〝愛〟を感じているよ。
 あなたは、私の為に、漢和辞典と歳時記を私のパソコンの上に積んでくれたんだよね。
 けど。
 迂遠(うえん)にも、程っていうものが、あるだろー!
 せめて。せめて、説明を。
 〝句会〟には、漢和辞典と歳時記が絶対に必要だから、これ、もってゆけっていう、説明を。それさえして貰えていれば、私だってこれらの本、今回の句会に持ってきていたのに。そうしたら、この〝読めない〟字だって、〝読めた〟筈なのに。
 ......ああ。
 でも。
 俳句って、「説明しちゃいけない文学形態」なんだっけか。
 あああああ。
 やめろ。
 これは、やめろ。
 俳句に問題があるとは思わないけれど、日常生活で、〝説明しちゃいけない形態〟があったら、それは〝問題〟だ。
 日常生活で、何か言いたいことがあるのなら、それは、絶対に、説明、しろっ!

       ☆

 と、まあ。
 陽子さんが悩んでいる間にも、粛々として、句会は進む。
 句会参加者の全員が、選句をした後で(一番良いと思われる句を特選として選び、それ以外に、並選を二つ選び、特選を二点、並選を一点とする)、主催者がこれを集計して、この句会での優秀句が選ばれた。(陽子さんが最初に選んだ〝原陽子賞〟候補の句は、まさにこのトップであったので、陽子さん、「他に候補になる句を選んでおいてほんとによかった......」って、心から安堵したものだった。)
 で、特選に選ばれた句を、点数の多い順番にスタッフが読み上げて。
「今回特選として複数の方に選ばれたのは、○○番の句です。これを特選に選んだのは、何とかさん、かんとかさん......」
 で、この句を特選に選んだ方々が、かわりばんこにこの〝句〟のいい処を説明する。(鑑賞、と言うらしい。俳句は、勿論、作るのも大切なんだけれど、ちゃんと鑑賞することも大切らしい。)
 これが全部終わった処で、「それではこの句の作者は誰ですか?」って話になり、ここで、作者が名乗りをあげる。作者による、その句の説明が行われる。

 そんなことを繰り返しているうちに。
 やがて、「次の得点は、○○番の句です。これを特選に選んだのは......」
 って話になり、この瞬間、陽子さんは、緊張した。
 というのは、○○番の句。
 まさに、これこそが、陽子さんが読めなかった句だったので......。

 霾や

 これ、何て読むんだろう。
 ほんとにこれが疑問だったし、心からこの答を知りたかったので、陽子さんは、このひとの〝鑑賞〟に注目する。
「つちふるや」
 あ。
 そう読むのか、この〝霾(つちふるや)(つちふる)〟っていう漢字は。けど、それは、どういう意味だ?
「明和九年の庚申塔」

       ☆

「霾や明和九年の庚申塔。霾というのは、春の季語で、大陸から黄砂が西風に乗って日本列島にやってくることです」
 あ、ああ、黄砂、なのね。あれなら〝降ってくるもの〟だから、成程、雨冠かあ。
「また、明和九年というのは、〝明和の大火〟が起こった年です」
 と、言われても。陽子さんは、〝明和の大火〟ってものを、知らない。(いや、普通、知らないだろう。)
「ですので、ここで詠まれている〝庚申塔〟は......」
 って、陽子さん、もう、このひとの鑑賞を聞いちゃいない。もっとずっと、驚いていることがある。
 明和九年というのは、明和の大火が起こった年です。
 何故。何故、これを、今、この俳句を鑑賞している、この〝ひと〟が、知っている、のだ?
 このひと、明和......オタク? オタクである以上、明和のことはみんな知っている、そんなひと?
 ......な、訳はないのであって。
(いや。ひょっとしてひょっとしたら、明和オタクというひとは、いるのかも知れない。......けど......ほぼ、間違いなく......このひとは、そういう〝ひと〟ではない、と、陽子さんは思う。歴史オタクはいるだろうし、江戸オタクだっているだろうけれど、限定・明和オタクっていうひとは......さすがにごく少数ではないかって、陽子さんは思っているし、そんなひとが偶然にもこの句会に参加している可能性は......低いとしか言いようがない......。)
 ということは。
 うん。
 この句を読んだあと。
 調べたんだろうなあ......このひと。
 ここで初めて。
 自分以外の人々が、常時スマホを携帯している理由が......やっと、判ったのである、陽子さん。
 あああ! そうかあっ! スマホがあると、そういうこと、その場でただちに調べられるのかあ。
 みなさん、句会に歳時記を持ってくるように、漢和辞典を持ってくるように、スマホやタブレットを持ってきているのかあっ。(いや、多分、陽子さん以外のひとは、句会じゃなくてもスマホを持って歩いているんじゃないかとは思うんだが......。)
 んで、明和九年をスマホで検索すると、大火があったことが判って、それが判ると、するすると他のことも類推できる(ん、じゃないかなあ、と、陽子さん思う。)
(多分。庚申塔とか庚申信仰なんかも、スマホで調べれば判る。だから、このひとはそれについても色々と説明をしてくれる。陽子さんは、ざっくりと、〝庚申信仰〟ってものがあったってことを知っていただけだったから、これもまた、ふむふむふむって思いながら聞いていた。)
 そう思うと。
 おお。
 凄いじゃん、スマホ。
 成程、みなさんが携帯する訳だ。
(で。ここで、スマホについて感動はするものの、それでも絶対に自分はスマホを携帯したいと思わない、それが陽子さんなのである。)

 で。

 で、で、でっ!でっ。

       ☆

 この句を特選に選んだひとの鑑賞が終わった処で。句会の当然の流れとして。
「この句を詠んだひとは誰ですか」って話になる。
 そして、そうなった瞬間、当然、この句を詠んだひとが、名乗りをあげる。
「はい。風成です」
 で!
 で! その、手を挙げたひとを見て、陽子さん、卒倒しそうになる。
 だって。
 手を挙げたのは......正彦さん、だったから。(ちなみに、風成は正彦さんの俳号。まず何でも形からはいる正彦さん、俳句を始めた時に、勝手に俳号なんかつけちゃったのだ。)

       ☆

 え、え、えええっ?
 この句って、旦那が詠んだの? うちの旦那が、詠んだの? 本当に?
「えーと、うちの近所の公園には、庚申塔がありまして、それがいい感じだったので、これを詠んでみたいなって思いまして。でも、それは、実は、明和は明和でも九年のものではなかったんです。ですが、明和について調べてみたら、九年に大火があったことが判って。なら、これ、明和九年の庚申塔ってやった方がいいかなって思って」
 うわあああ。
 これは......〝お話を作るひと〟としては、とても正しい。勿論、史実をもとにしている〝実話〟としては絶対に正しくないんだけれど、〝史実〟をもとにしていない、〝お話を作るひと〟にとってみたら、絶対に正しい感覚なのだ。もし、陽子さんが、こんな状況に立ち至ってしまったら......間違いなく陽子さんも書いてしまうよね、〝明和九年の庚申塔〟。だって、その方が、他の年の庚申塔より、絶対にお話が面白くなりそうな予感がするもん。というか、伏線として、面白くなりそうなものを、沢山ちりばめるのが、序盤の〝お話〟の作法だもん。(それに。陽子さんの家の近所の庚申塔は明和九年のものではなかったにしろ、明和九年の庚申塔が、どこかにあるかもしれないって、これは絶対に、誰にも否定できないんじゃないかと思う。ということは、〝創作〟として、これは、言ってしまって〝あり〟だ。)
「それで、〝明和九年の庚申塔〟って書いてみました。その方が、なんか、俳句としての広がりがあるんじゃないかと思えたので......」
 まあ。
 実際に、広がりが、あったよね。本当に広がった。明和の大火についての鑑賞を述べてくれた句友のひとがいた。そこにはきっと、現実とは違う〝俳句〟としての広がりがあった。

 この瞬間。
 陽子さんは思った。
 正彦さん。
 こと〝俳句〟に関しては、すでに陽子さんの手が届かない処にいる。
 と、いうか......まったくの素人で、俳句のことなんて判らず、ただ、俳句のことを横目で見ているだけの陽子さんとは、すでに違う地平にいる。
 どっちが上でも下でもない。
 でも、多分、陽子さんと正彦さんは、こと〝俳句〟に関する限り、まったく違う処に存在しているのだ。
 だって。
 陽子さんが知らない(どころじゃない、〝読めない〟)季語を実際に使いこなしていて、それで俳句を作っているんだもの、正彦さん。
 しかも、それは〝広がり〟がある俳句だ。
 それまでは。
 まあ、俳句と小説では、ものが全然違うんだけれど、同じ文芸をやるものとして、陽子さんは正彦さんのことを、微妙に〝生あたたかい〟気持ちで見ていたのだ。だって、陽子さんは、もう四十年以上も、この世界でプロとして生きてきたんだし、それに対して正彦さんは、まさにこの数年、俳句を始めたばかりの新人。だから、もう、「ああ、なんか、うちの旦那も頑張っているよなー」っていうような......なんか、〝生あたたかい〟気持ちで。微妙に、上から目線で。
 でも。
 この見方はもう違うんだなって、この時、陽子さん、心から実感した。

 下手、上手って区別はあるけれど。
 長年やってきた、ちょっと前から始めたばかり、そんな区別はあるけれど。
 これで正彦さんのことを、「ああ、このひとは〝俳人〟なんだな」だなんて思ってしまったら、おそらくは俳句界のひと達から文句の山がきてしまうかも知れない、それを判っていても、陽子さんは、思ってしまった。
 もう私には、多分、正彦さんの句を、良い、悪いっていうことは、できないんだな。
 これは――この感覚は、とても、単純なこと。
 陽子さんは、別に正彦さんではなくても、他の誰にも。
 自分の書くお話を、〝良い〟〝悪い〟って言って欲しくない。これはもう、先輩のプロ作家の誰にも、言って欲しくはない。〝好きだ〟〝嫌いだ〟、〝面白い〟〝面白くない〟は、勿論、誰だって言っていい。でも、〝良い〟〝悪い〟は、違う。
 だって、お話の〝良い〟〝悪い〟を判断するのは......どんな先輩であってもどんなに尊敬する作家であっても......違う......んじゃないかなって......陽子さんは、思っている。うん、陽子さんにとって、本当に尊重するべき、自分のお話を読んでくださる、自分の作品を評価してくださる、読者の方ですら、ない。
 本当の意味で。お話の〝良い〟〝悪い〟を判断できるのは、お話の神様だけだ。つまり、人間には、できない。陽子さんは、そう思っている。
〝お話〟というのは......もう存在するだけで、超絶的な治外特権なのだ。作られたその瞬間から、〝お話〟は、人間社会には属していない。だってあれ、ひとに対して書かれていないじゃない、本質的に。
 あれは、お話の神様に対して、「もうお話を書きたくてしょうがない」変な人間である陽子さんが、あるいは他の作家のみなさまが、書きつらねているものなのだ。(少なくとも陽子さんにとっては。......ただ......こういうスタンスをとっているひとは、あんまりいないのかなあって、陽子さんも判ってはいるのだが。)
 勿論。
 当たり前なんだが、それとは別に〝評価〟っていうものはあるし、それは当然だ。
 プロの評論家や作家や編集者や、賞の選考委員なんかのひとは、特定のお話を評価する。陽子さんだって新人賞の選考なんていうのをやったことがある、その場合は、「このお話はよい」「あんまりよくない」って評価をしてしまう。
 けれど、陽子さんにとって、それは〝本質的〟なお話の評価ではない。
 日本語が下手、とか、このひとはほんとに文章がうまい、とか、作者の言いたいことがよく判る、とか、作者が何を言いたいのかまったく判らない、とか、あまりにも誤字脱字が多い、とか、こりゃうっとりする程綺麗な文章、とか、どう読んでいても先が判ってしまうお話だ、とか、まさかこんな展開になるとは想像もしていなかった素晴らしい展開だ、とか。陽子さんが......そして、多分、すべてのひとが評価しているのは、そういうものだ。

 そして、これは、多分、〝お話〟の評価のあり方として正しいんだろうけれど......けれど、それでも。これは〝お話〟の、絶対評価では、ないって、陽子さんは思っている。
 ......相対評価?
 っていうか、文章力や構成力や登場人物造形なんかについて、優劣をつけているだけ?そしてそれは、陽子さんの心の中では、〝お話〟の絶対評価ではない。

 ......うん。
 ちょっと言い方、変なんだけれど。
〝お話至上主義〟。
 陽子さんがとっているのは、おそらくはこんな立場だ。
 だから、〝お話〟に、優劣をつけることは、陽子さんにはできない。それができるのは〝お話の神様〟だけだ。陽子さんにできるのは、自分の好みに則って、読んでいるお話に、相対評価として優劣をつけるだけ。(それに別に陽子さん、賞の選考でもしていない限り、読んだお話に優劣をつけたい気分は、まったくない。読んで、自分が「好きだな」って思ったお話はずっと覚えていて、次にその作者の新刊が出たら買うし、読んで、自分が「好きじゃないな」って思ったお話もずっと覚えていて、その場合、そのひとの新刊は買わない。......って、ああ、これが普通の読者だよね。普通の読者は、普通にこういうことをやっているよね。)
 で。
 多分。
 俳句には〝俳句の神様〟がいるんだろうと陽子さんは思っている。
 どんな句がいい句であるのか、それを決めることができるのは、〝俳句の神様〟だけだ。
 だから、正彦さんの句がいいのかどうか、ここから先は......陽子さん、絶対に、口にしないだろう。

 だって。陽子さんは、思ってしまったのだから。

 私が、〝お話の神様〟に対してお話を書いているように、旦那は、自分自身が〝俳句の神様〟だって思っているのかどうかは判らない、でも、そういう〝存在〟に対して、俳句を詠んでいるんだから。そこまでの覚悟が旦那にあるのかどうかは判らないんだけれど......でも、そういう処まで、旦那は、行っているんだろうなあって、思ったから。
 これは。
 勿論、俳句をやっている方々には、認められない意見かも知れない。
 この程度の俳句を詠んでみて、それでいっぱしの顔するなよって言われたら、多分、正彦さんは一も二もなく頷くだろうし、陽子さんも「そーだろーなー」って思う。この、俳句をやっている方々の意見は、間違いなく正しいと思う。
 でも。
 でも、陽子さんは、こう思ってしまったのだ。

 句会。
 とっても楽しかったし、その後の食事会もとっても楽しかったんだけれど......これが終わった時、陽子さん、一抹の寂しさを感じてもいた。
 だって、旦那が成長しているんだもん。
 このひとは、いつの間にか、私が何だかんだ言うことができない、〝俳句の世界のひと〟になっちゃったんだなあって、実感して。

       ☆

 さて。
 こうして、正彦さんの定年生活は続く。
 コロナは、まだまったく終息してはいないんだけれど、一応分類が変わり、人々の生活はコロナ前のものに戻りつつある。(けど、今度はインフルエンザがはやりだしたみたいだ。)
 正彦さんは、いつの間にか洗濯と洗い物にどんどん長けてゆき、コロナのせいでずっとやめていたホームパーティも再開した。しかも、お客様を家に呼ぶようになった時、陽子さん、心から感動したのだ。お客様を呼ぶ前日になると、陽子さんが何も言わなくても、正彦さん、玄関とトイレを自主的に掃除してくれる! お客様が好きでひとに料理を食べさせるのが心から好きだけど、お客様を呼ぶ前の、家中の大掃除はほんとに辛いよなーって思っていた陽子さん......もう、これが嬉しくて嬉しくて。しかも、この二年くらい、陽子さん、焦げついたお鍋を洗っていない!(全部正彦さんがいつの間にか洗ってくれている。)
 今では、週に二回、スポーツクラブに、週に一回、映画か美術展に、夫婦二人で行く、こんな生活が定着している。(......週に一回は、どっちかが病院へ行かなきゃいけないんだけれどね。)
 コロナのせいでもうずっと行っていないんだけれど、今年の冬は、久しぶりの旅行もしたいな。只今、大島家では、新潟に行くか青森に行くか、夫婦二人でガイドブック見ながら検討中である。(冬はきっと日本海のお魚がおいしい! そう思っての、お魚とお酒の旅企画である。)
 陽子さんは、相変わらず、基本的に本を読むか文章を書く毎日であり、正彦さんは......なんと......只今、ZOOMを含めると、月に十回以上句会か俳句イベントに行くって毎日だ。
 この後も。
 こういう、幸せな日々が、一日でも長く、続いてくれますように。

 陽子さん。
 スポーツクラブに行かない日も、できれば一万歩以上歩くことを日課にしている。
 そうなると、いきおい、家の近所を歩き回ることになり、陽子さんの家の近所には、結構あちこちにお地蔵様がおわす。
 で、お地蔵様を見る度、手をあわせて。
 あんまり大層なことは祈らない。
 ただ。
 どうか。
 どうか、一日でも長く、私と旦那が、そろって、健康で元気でいられますように。
 うん。
 不老長寿とか、無病息災とか、そこまで大きなことは祈らないから。
 どうか。
 一日でも長く。
 私と旦那が、そろって、健康で元気でいられますように。

 いられますように。


                                                                 〈FIN〉

定年物語

Synopsisあらすじ

陽子さんは、夫・正彦さんの定年を心待ちにしていた。正彦さんが定年になって、家にいるようになったら……家事を手伝ってもらおう! 共働きにもかかわらず、激務で疲労困憊の夫には頼みづらかった家事。でも、これからは。トイレ掃除、お風呂掃除に、ご飯の後の洗い物、それから……。陽子さんの野望が膨らむ一方で、正彦さんもひそかに野望を抱いていた……。『銀婚式物語』に続く、陽子さんと正彦さんカップルの定年後の物語。

Profile著者紹介

新井素子

1960年東京生まれ。立教大学独文科卒業。高校時代に書いた『あたしの中の……』が第一回奇想天外SF新人賞佳作を受賞し、デビュー。81年『グリーン・レクイエム』、82年『ネプチューン』で連続して星雲賞を受賞、99年『チグリスとユーフラテス』で日本SF大賞を受賞した。他の作品に、『星へ行く船』『……絶句』『もいちどあなたにあいたいな』『イン・ザ・ヘブン』『銀婚式物語』『未来へ……』など多数。



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