2019 01/08
著者に聞く

『宣教のヨーロッパ』/佐藤彰一インタビュー

スペイン・ザビエル城下にあったレストラン「Yamaguchi」

大航海時代のキリスト教、とくにイエズス会の誕生と海外布教に光を当てた『宣教のヨーロッパ』を刊行した佐藤彰一さんにお話を伺いました。

――キリスト教の修道会がヨーロッパの精神・文化・経済に果たした役割について、古代から通観する本シリーズ(『禁欲のヨーロッパ』『贖罪のヨーロッパ』『剣と清貧のヨーロッパ』)は、本書では大航海時代にさしかかり、キリスト教はヨーロッパの境界を越えていきます。この時期に生まれたイエズス会について、先生はどのようにお考えでしょうか。

佐藤:本書の本論部分をルターの宗教改革から書き出していますが、その中でカトリック側からの対応を「対抗宗教改革」ではなく、カトリック側の主体的で内発的な改革の動きとして捉えるという視点を前面に出しています。
「宗教改革」という世界史上の大トピックを見る際の、カトリック側の動向を理解する上での私の基本的立場はそれです。

本書で縷々説明したように、ルターの時代にヨーロッパ社会は様々な意味で転換点に立っていました。前面に出てくるのは、日常の精神生活の核とも言える信仰の問題と、戦争、疫病などがもたらす社会不安です。
信仰の支えとなる教会の機能不全は、末端に至るまで及んでいて、人々は「宗教」というものの意味を、日々自らに問いかけざるを得ない状況に置かれていました。
マルティン・ルターもそうした一人であったわけです。

ここで大事なのは、私が書物の中で「信仰の個人化」という言葉で表現したものの内実です。それは言うまでもなくカトリック世界では、信仰の内実を決めるのは教会であるという伝統からの離反というと、少し言い過ぎかもしれませんが、少なくとも信徒の心の在りようとしては正統的なものではなかったと評することはできるでしょう。
14世紀末にオランダのフローテが唱えた「新しい信心」や、エラスムスの「半ペラギウス」的救済論などはその一端ですし、注目すべきことにこの傾向は、カトリック側にも顕著であったということです。

プロテスタントとの戦いの尖兵であったイエズス会の創始者イグナティウス・デ・ロヨラにあっても、こうした時代の趨勢に染まっていたという印象を持っています。彼が創案し、イエズス会士となるためには、その実践を義務づけられた「霊操」という修行は、誓願者がキリストをそれぞれが思い思いに内面化し、その生涯を想起することが求められるわけですが、それは紛れもない信仰の内面化、個人化なのではないでしょうか。
先行する時代の修道院では、信仰の内実は「教え」によって一律に教授されました。無論キリストの生涯に関わる個別の問題が議論の対象、あるいは論争の種になることはあっても、それは最終的な回答が与えられ、基準化され、各人がその内面で思い思いに捉えるという作法はありませんでした。
その意味でこの時代には、新旧いずれの信徒のもとでも、信仰における指向性の基盤が共有されていたと言えるのではないでしょうか。

それにもかかわらず新旧二つの勢力が決定的に別れた理由は何か。これは難問ですが、典礼のやり方やその意味づけの違いという、狭い意味での宗教問題を別にすれば、神聖ローマ帝国問題が大きく影を落としているように思います。つまりローマ教皇庁が体現しているイタリアとドイツとの抜き差しならない歴史的な対抗関係が根底にあり、この要素が「ドイツの離反」に弾みを与えたように思うのです。

今年の日本学士院賞を受賞した三佐川亮宏さんの著書『ドイツ史の始まり』は、「ドイツ」、「ドイツ人」という概念がいかなる歴史的過程を経て結晶化し、国民意識として醸成されていったかを、「神聖ローマ帝国」という歴史的・政治的枠組との対抗関係のなかで明らかにした優れた作品ですが、ここで「神聖ローマ帝国」の重心であったローマ=イタリアからの離脱が一つの重要なポイントになっていて、そのイデオロギー的な具体化が、12世紀中頃のフライジング司教オットーの『年代記』であるとしています。
おそらくこうしたイタリアからの離反、独立への指向はその後も生き続け、ルターが教皇庁を敵手とした背景に、ドイツの土地で脈々と続いてきた教皇(庁)の呪縛から逃れようとする歴史的血脈のような意識が働いてはいないだろうかと思ってしまいます。ドイツ騎士団の大総長アルベルト・フォン・ブランデンブルクが意外にあっさりとルターを支持して、騎士団領国をプロテスタント勢力に繰り込んだのも、本来教皇には忠誠を尽くすべき騎士団でありながら、結局ドイツ人の自己意識が勝ったことによるのではなかったか、と思ってしまうのです。
プロテスタント勢力のシュマールカルデン同盟がテューリンゲン、ザクセン地方が母体であり、これにプロイセン地方を加えたドイツ北部、東部が勢力範囲であったのは、歴史的にローマとの関係が希薄なこの地方であったればこそという印象が否めません。
トレント公会議を含めて、ヨーロッパ・キリスト教の分裂が、現在見られるような新旧の決定的な分裂に至らないで修復される可能性はあったと思いますが、本書で解説したようにそのチャンスは様々な事情で実を結ぶことなく終わったわけです。

海外宣教、とりわけイエズス会の宣教活動は、こうしてカトリック世界から失われたキリスト教カトリック勢力を、未知の海外で取り戻すという目的があったのです。
ですからイエズス会の海外宣教にかける情熱は半端なものではありませんでした。何しろインドだけでヨーロッパ全体に匹敵する人口を抱えており、その成功のあかつきには、プロテスタントの誕生で失われたカトリック信徒を優に埋め合わせることができたわけですから。奇妙のことにプロテスタントの宣教活動は影が薄く、ドイツ敬虔主義が起こって以降で、ヨーロッパ外の宣教は19世紀になってからです。このあたりの問題は、まだこれから考えていかなければと思っています。
一方托鉢修道会の海外宣教は「宗教改革」以前から行われていたことは、本書の第4章で述べている通りです。こちらの流れは、むしろ反イスラームが深い動機付けになっていると見てよいでしょう。

――それでは、海外布教の対象となった当時の日本、あるいはその後現代に至るまでの日本に、イエズス会をはじめとする各修道会があたえた影響とはどんなものでしょうか。

パリ外国宣教会

佐藤:本書第7章の最後の部分で書いたように、1614年に徳川幕府が出した「キリスト教禁教令」によって、外国人宣教師や一部の日本人キリスト教徒は日本を離れざるを得なかったわけです。
それでも41人の宣教師が死を賭して、密かに日本に潜伏し、今や非合法となった日本人キリスト教徒の「魂の世話」を続けたわけですが、本腰を入れてキリスト教徒の追及を始めた幕府と、その本気度に押されて、当初は比較的寛容に目こぼしをしていた各藩も厳しく詮索にあたるようになり、結局徳川幕藩体制下では「潜伏キリシタン」のような存在として命脈を保つしかない状態で、明治6年(1873年)の新政府によるキリスト教を事実上黙認する措置を経て、公式には明治32年(1899年)にその信仰と宣教活動が認められました。

したがって、明治に入ってからが、キリスト教の宣教活動の本格的な復活が起こったのです。もっとも新政府が発足する以前から、ヨーロッパ諸国、とりわけフランスの宣教活動が開始されていて、有名なのは長崎に大浦天主堂を建てたベルナール・プティジャン神父が、1865年に潜伏キリシタンの存在を発見し、世に知らしめ、世界のキリスト教世界に衝撃と感銘を与えたことです。
明治以降の日本の宣教活動の特徴は、教育機関の設立と社会救済事業への貢献を通じて行われたことでしょう。最初期に主力となったのはパリ外国宣教会でした。その本部はパリの左岸、有名なパリ最初のデパート「ボン・マルシェ」に近いバック街128番地にあります。

少し脱線しますが、本書の「あとがき」で、宣教師として来日し、2011年に91歳で亡くなられたジョルジュ・ネラン神父が開いた「ネラン塾」のことを書きましたが、これに関連してネラン神父がフランスの著名な文化史家ミシェル・ド・セルトーらと共に、1950年イエズス会系のリヨン・セミナリオ大学を卒業した事実が、フランソワ・ドッス著『傷ついた旅人ミシェル・ド・セルトー』(2002)と題する伝記の注記にあることを書きましたが、本書出版後にある方から、ネラン神父はパリの外国宣教会から派遣されたはずであるとの指摘を受けました。他方で、日本で知られているネラン神父の経歴には、1951年に宣教支援協会(Société des Auxiliaires des Missions)に入会し、翌52年に来日したと記すものもあります。いずれにしても、ネラン神父がイエズス会の高等教育を受け、神学士の学位を取得したことは確かだと思います。

話は戻りますが、キリスト教的教育によって、感化する方針の最初の具体化は「幼きイエス会」の修道女が建てた「高等仏和女学校」で、これは後に雙葉学園になります。また同じくフランスから派遣されたマリア会士たちは、後の暁星学園を創設しています。
プロテスタントの活動は米国聖公会のチャニング・ウィリアムズが1874年に、築地に立教学校を開設し、後の立教大学の基礎を置きました。戦国期に日本宣教の口火を切ったイエズス会の明治期日本の教育界への進出は遅く、1913年に上智大学の創設が嚆矢でした。
また社会救済事業も職業訓練学校、児童福祉施設、ハンセン病者療養所など多岐にわたり、近代日本社会生成に寄与するところ大きかったと言えましょう。
こうした努力にもかかわらず、日本のキリスト教徒の数は、カトリック、プロテスタント、ギリシア正教を含め、100万人をなかなか超えられないのが現状で、その理由は何かを多くの宗教学者が論じていますが、何か単一の答えを見つけるのが困難な問いのような気がします。

――世界宗教となったキリスト教との関連で、修道制はこのあとどうなるのでしょうか。

佐藤:次作、つまり私の西洋修道制の一連の歴史叙述の最後になる作品ですが、そこでは舞台が再び西ヨーロッパに戻ります。最初の『禁欲のヨーロッパ』を執筆した当初から、最後はサン・モール会を主題にした1冊でシリーズを締めくくる積もりでいました。題はまだ未定ですが「サン・モール会と近代歴史科学の誕生」を内容とする1冊です。
『剣と清貧のヨーロッパ』の「おわりに」で、中世後期の修道制の衰退、弛緩に対処すべく、教会や修道院が様々な改革の努力を試み、その結果誕生した組織にフランス語で「コングレガシオンcongrégation」と称される団体があることを記しました。辞書を引くと「修族」という日本語があてられていますが、私は「修道院会」という訳語をあてました。実体はどういうものかというと、それ以前の「修道会」は、クリュニーにしろ、シトーにしろ、会則を同じくする修道院が集まり母修道院を頂点に系列化された組織として存在しました。これに対して「修族」または「修道院会」は、戒律ごとに、あるいは国、地方単位で各修道院長の上に、団体全部を統括する総院長をすえて、「修道院会」の傘下にある修道院の改革を指導する体制です。
このように言うと「修道会」と「修道院会」との違いはあまりピンと来ないかもしれませんが、修道会が超地域的な団体であったのに、修道院会は国、地域単位での組織化であった点が表面上の大きな違いですね。むろん例外もあってスペイン所在の修道院が、イタリアの修道院会に所属するとこともありました。また改革修道院では、院長職が終身ではなく、任期制にされたことも非常に重要な点です。

フランスの改革修道院は1618年に、パリのサンジェルマン・デ・プレ修道院を拠点にしてサン・モール会という名前で発足したのです。サン・モールの名前は聖ベネディクトゥスの弟子であった「マウルス」に因んでの命名です。ベネディクト戒律を基本とするフランスの改革修道院は、この修道院会に加わったが、クリュニー修道院だけが、大革命にいたるまで、参画を拒否しました。最初の重要な総院長はグレゴール・タリス(1630-1648)で、彼は修道士に各人の能力に見合った知的な活動に専心するよう督励したのです。
こうして、後に近代歴史研究の基礎的な学問の礎が置かれました。ラテン語古書体学や、文書形式学の体系を築いたジャン・マビヨン(1634-1707)や、ギリシア語古書体学の創始者ベルナール・ド・モンフォコン(1655-1741)、リュック・ダシュリ(1609-1685)など錚々たる人材を輩出したのです。マビヨンは当時のドイツやイタリアの修道院を経めぐり、数多くの埋もれたままの重要な文書を発見し、またイタリアではスキピオーネ・マッフェィやムラトーリなどの歴史研究、文書研究で卓越した人士と交わったのです。

一方、イエズス会ではアントウェウペンでベルギー人ジャン・ボランドが聖人伝(アクタ・ザンクトルム)の校訂版の出版を開始し、1634年に最初の2巻が刊行されました。その後主にイエズス会士の研究者で構成された一団が、ボランディスト(ボランドの衣鉢を継ぐ者の意味)の名前で事業を継続し、後に拠点をブリュッセルに移して、サン・モール会士とヨーロッパ規模で競い合いました。

こうした動きを修道士学者の群像として描き出せればと思っています。テーマとして、やや学術的色合いが濃いものを、一般の読者に手に取ってもらい、興味を持ってもらえるか、工夫が必要で、叙述のスタイルも含めて頭をひねっているところです。

――最後に、本書で叙述される内容について先生の個人的な経験がありましたらお教えください。

佐藤:フランシスコ・ザビエルが生まれ育ったザビエル城(スペイン語ではハビエル城)を訪ねたのは、2度目のフランス留学(在外研究)で長期滞在していた1985年夏のことでした。妻と当時それぞれ8歳と12歳になる二人の娘を加えての、スペイン旅行の折のことです。当時住んでいたのは、パリをグルリと取り巻く環状線の外にあるパリ南郊のフレーヌという土地で、刑務所の存在で有名な場所ですが、治安はむしろ良好で不安を感じることが一度もなかったのは幸いでした。
中古のアウディを駆っての旅でした。朝にフレーヌを出発し、高速道路10号をひたすら南下し、トゥール、ポワティエ、ニオール、サントを経て、ボルドーに到着し、翌日は途中までは高速仕様で、あとは一般国道になる10号線がランド地方特有のえんえんと続く松林を縫って、ピレネー山脈の近くまで続きます。
その後は県道933号線という田舎道(と言っても実は有名な聖ヤコブ巡礼のルート)を進んで、サン・ジャン・ピエ・ド・ポール(Saint Jean-Pied-de-Port)で国境を越えました。この国境警備所は日本人が来ることが稀であったようで、我々のパスポートをしげしげと眺め、「日本のパスポートを見るのは初めてだ」などと言います。
私がこの辺鄙なルートを選択したのには理由がありました。それはこの道が12世紀の武勲詩『ローランの歌』で名高いロンセスバレス峠の戦闘地点を通っているからです。この地点には高さ2メートルを越える石碑が立ち、表面には赤錆が浮いた鉄製の抜身の剣が垂直に取り付けられ、それを囲むようにフレイルと呼ばれる、鉄球にトゲが埋め込まれた中世の武器二棹がX状に交差して配置されています。ここで暫く昼食どきを過ごし小休止をした後、2日目の宿泊地でナバラ地方の中心都市パンプローナに着きました。

ロンセスバレス峠
『ローランの歌』を記念する石碑

3日目、パンプローナの東50キロに位置するザビエル城に向かいました。ヨーロッパ中世の城を見慣れた者には、やや小振りのしかし堅固な趣の城塞で、城の各所に日本宣教及び山口との関係を説いた銘板が張り付けられ、日本との所縁が強調されている印象です。それらを眺めながら、あなたはここから遥々日本という極東のちっぽけな島国にやって来たのですね、と心の中で呟かずにはいられませんでした。
帰路ザビエル城の麓の町の通りすがりに、レストラン「Yamaguchi」を目にして、思わず車を止めて写真を撮りました。今から33年前の旅の記憶です。

佐藤彰一(さとう・しょういち)

1945年山形県生まれ。1968年、中央大学法学部卒、1976年、早稲田大学大学院博士課程満期退学。名古屋大学教授などを歴任。同大学名誉教授。日本学士院会員。専攻・西洋中世史.博士(文学)。著書『禁欲のヨーロッパ』『贖罪のヨーロッパ』『剣と清貧のヨーロッパ』『宣教のヨーロッパ』(いずれも中公新書)、『西ヨーロッパ世界の形成』(中公文庫[世界の歴史])、『カール大帝』(山川出版社[世界史リブレット人])、『中世世界とは何か』(岩波書店[ヨーロッパの中世])、『歴史書を読む』(山川出版社)、『中世初期フランス地域史の研究』『ポスト・ローマ期フランク史の研究』(ともに岩波書店)、『修道院と農民』(名古屋大学出版会、日本学士院賞)。訳書にベルンハルト・ビショッフ『西洋写本学』(瀬戸直彦と共訳、岩波書店)ほかがある。2018年、瑞宝重光章受章。