夢燈籠 狼を野に放て 第13回
十四
その日は、横田が役員たちを引き連れて銀座に繰り出したので、留吉は岩井と二人で有楽町の居酒屋に行った。
岩井は複雑な心境かと思いきや、何か吹っ切れたような顔をしていた。
「岩井が横田の下で働くことになるとは思わなかった」
厳密には、岩井は正社員ではないが、留吉と同じように固定給の上に歩合給が載ってくる。
「坂田、人生はどこかで勝負せねばならない。それに勝ち抜いていかないと、日の目を見ることはない」
「しかしお前には、弁護士という資格があるじゃないか。食べていけないことはない」
「お前は、若い弁護士たちの苦しさが分かっていないから、そう言えるんだ」
「苦しさだと。安定的な収入のある仕事ではないのか」
岩井の言葉は留吉にとって意外だった。
「安定的といえば安定的だ。だが、俺たちの世界でも徒弟制度はある」
「そんな古臭いものがあるのか」
「そうさ。俺たちは政財界とつながりのある先生方の下働きから叩き上げていかねばならない」
「だが、お前の場合、その先生が亡くなることで顧客をもらい、徒弟制度から解放されたのではなかったのか」
岩井がため息をつく。
「俺に分け与えられた顧客は、中小企業が二社と商店が五店ほどだ。そこから上がる顧問料は、お前の給料よりも少ない」
――そういうことだったのか。
亡くなった金井啓二は太客ばかり抱えていたと聞いていた留吉は意外だった。
「だってお前の師匠は――」
「何もかも戦争が悪いんだ。しかも師匠は病気になった。それを期に、上客は次々と別の事務所に乗り換えていった。それまではパーティなどで、うちの師匠と歓談していた弁護士仲間も、師匠が病気になれば待ってましたとばかりに、上客を根こそぎ持っていった。まさにハイエナさ」
戦後十年ほどは、弁護士の世界も生き残るのが厳しかったのだ。
「そういうことだったのか。本当のことを話してくれてありがとう」
「お前に本当のことが話せなくなったら、俺もしまいだ」
岩井は自嘲すると、胸ポケットから「いこい」を取り出して火をつけた。
「あの戦争は、皆の人生を狂わせてしまったんだな」
その中には自分もいた。
「だからチャンスだけは、逃してはならないと思ったんだ」
「横田と組むことがチャンスなのか」
「そうさ。俺たちは早稲田を出たものの、社会では雑魚(ざこ)にすぎない。だから奴らの仲間に入れてはもらえない。だが、横田は天井をぶち破ろうとしている。それに賭けてみるのも面白いと思ってね」
「しかし、横田と一緒に汚名が広がれば、俺たちには二度と上がり目がなくなる」
それが旧態依然とした日本社会の掟なのだ。
「分かっている。だが、今回のチャンスを見逃せば、次のチャンスがいつめぐってくるかは分からない。もう俺たちも若くはないんだ」
二人はこの年、四十二歳になっていた。
「それもそうだが――」
「留吉よ、俺も若かったら、こんな危険な賭けなどしていない。だが、今回はお前がいる」
「俺が、か」
「そうだ。これほど信頼できる味方はいない。そいつと一蓮托生(いちれんたくしょう)で勝負ができるんだ。これほどのチャンスはない」
「そう言ってくれるのか」
留吉は感無量だった。これまでどちらかと言うと、留吉が岩井を頼ることが多かったが、満州で厳しい経験をしてきたことで、岩井も留吉に一目置くようになったのだ。
「いよいよ、勝負の時だ」
「そうか。俺たちが手伝い、横田に風穴を開けさせるのだな」
岩井が意を決したようにビールを飲み干す。
「そうだ。上流階級の奴らに吠え面かかせてやる」
岩井は金井の鞄持ちのような立場で、政財界のパーティに顔を出していたのだろう。その時、誰にも相手にされなかったに違いない。
「その後はどうする」
「一流企業と顧問契約を結び、個人事務所を開設する」
「そうか。お前には、その手があったな」
「お前はどうする。まさか一生、横田とつるんでいるつもりはなかろう」
「ああ、どこかのタイミングで横田と手を切り、自分で事業でも起こすさ」
「それがいい。その時は一緒に離脱しよう」
岩井がビールグラスを掲げたので、留吉も自分のビールグラスを掲げた。
「俺たちの将来に乾杯」
「ああ、乾杯だ」
岩井の言うことは尤もだった。戦争という魔物に働き盛りの年齢を食い潰された二人にとって、残されたチャンスは、そう多くはないだろう。だが横田というレバレッジを生かせば、大きな成功を手にすることができるかもしれない。
留吉も、このチャンスにしがみ付かねばならないと思った。
――もう俺たちも若くはないんだ。
岩井の言葉が幾度となく脳裏に反響した。
Synopsisあらすじ
戦争が終わり、命からがら大陸からの引揚船に乗船した坂田留吉。しかし、焦土と化した日本に戻ってみると、戦後の混乱で親しい人々の安否もわからない。ひとり途方に暮れる留吉の前に現れたのは、あの男だった――。明治から平成へと駆け抜けた男の一代記「夢燈籠」。戦後復興、そして高度成長の日本を舞台に第2部スタート!
Profile著者紹介
1960年、神奈川県横浜市生まれ。早稲田大学卒業。『黒南風の海――加藤清正「文禄・慶長の役」異聞』で第1回本屋が選ぶ時代小説大賞を、『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞と第1回高校生直木賞を、『峠越え』で第20回中山義秀文学賞を、『義烈千秋 天狗党西へ』で第2回歴史時代作家クラブ賞(作品賞)を受賞。
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