2019 08/19
著者に聞く

『食の実験場アメリカ』/鈴木透インタビュー

レイ・クロックのマクドナルド第一号店。マクドナルド兄弟からフランチャイズ権を買い取った直後の1955年、シカゴ郊外にレイ・クロックは第一号店を構えた。その場所にはレプリカが建てられ、博物館になっている。

 コーラにハンバーガー、フライドチキン。アメリカ食に抱くイメージはそんなところではないでしょうか。しかし、そのルーツを辿れば、移民大国ならではのエピソードがあり、社会の選択が詰まったものだとわかります。先住インディアンや黒人奴隷など、文字を持たなかった人たちの歴史を知るカギであり、いま起きているヘルシーブームからは、人々の求めているものを知ることも出来るのです。「食」を切り口に超大国・アメリカの謎解きをしてくださった鈴木透さんにお話をうかがいました。

――前作『スポーツ国家アメリカ』では、スポーツからアメリカの文化・社会を論じていますが、今回のテーマは食。前作との間には、どのような関連性があるのですか?

鈴木:僕の研究の核心にあるのは、「アメリカ的想像力/創造力とは何か」という問いです。ですから、極端に言えば、アメリカで独特な形に発展したものなら、なんでも興味の対象です。

 スポーツや食は、一般の人が外国に対して興味を持つ際の重要なチャンネルでしょう。でも、スポーツや食という切り口から本格的な外国研究へと導いてくれる本は、あまりありません。こうした、一見すると外国研究のテーマとしては軽く見られがちな観点からもアメリカを論じられる、むしろ、そこからアメリカ的想像力/創造力の実態がより鮮明に見えてくるのではないかという問題意識を、より多くの人に伝えたかった。

 僕の頭の中では、野球やアメフトなどのアメリカ型競技も、クロスカルチュラルなフュージョン料理も、「人為的集団統合」という途方もない目標を自らに課してしまったアメリカという国が、その過程で何を生み出したのかを物語る重要な生き証人のような存在なのです。なので、これらを新書の形で刊行できたことはうれしいです。

 でも、正直に言うと、食を研究対象にしたのは、明らかにスポーツよりも後。アメリカのスポーツに関しては学生時代から親しんでいましたし、大学の講義でも比較的早い段階から取り入れてきました。

 食に対する関心の増大は、非WASP多数派時代に向けたアメリカ社会の変革の可能性という現代アメリカ論的な視点を僕自身が次第に強く意識するようになり、それを観測する材料として、公共空間における過去の見せ方・語り方の変化という、いわば記憶表現の分析に多く関わるようになったことが転換点になっています。

 食べ物には、その集団がどのように食糧を確保し、誰と出会ってどのように食習慣を変えたのか、食に関していかなる社会的選択を行ったのかなど、その集団の軌跡を伝える記憶媒体としての側面がある。そのことに気がついた時、記憶の再構築からアメリカの変革の可能性を読み取るという作業は、食にも応用できるのではないかと思い始めました。食に秘められた記憶と向き合うことでアメリカ社会はどう変わりうるのか、それはアメリカという文脈を超えたどのような射程を備えているのか、考えてみたいと思ったのです。

 スポーツも食も、アメリカ的想像力/創造力とは何かという問いと、現代アメリカの変革の可能性を考えるという、僕の関心を満たしてくれるテーマ。だから、僕の中では、アメリカという対象に対して同じ問いを異なる方向からぶつけているような感覚がありますね。

――刊行から3ヵ月あまり。反響はいかがでしょうか?

鈴木:『朝日新聞』、『日本経済新聞』、『読売新聞』の書評欄に取り上げられたほか、『週刊現代』のような週刊誌から、東京メトロの駅構内で配布されているグルメ系のフリーペーパー『メトロミニッツ』、『聖教新聞』、『しんぶん赤旗』、ネット上の書評サイトに至るまで、実に様々なメディアが本書について紹介してくれました。

 第四章でポストファーストフード社会を見据えたアメリカの地域支援型農業の重要なヒントの一つが、日本の生活クラブにあると言及しましたが、生活クラブからは研修の講師を依頼されました。食というテーマは、党派や学歴、年齢などに関係なく、経済界もグルメ好きも幅広く興味を持ってもらえるテーマなのだなと改めて感じました。

 友人からは、「アメリカに行って食べたくなった」とか「食文化といえるものなどアメリカにはないと思っていたのに、こんなドラマがあったのか」という反応が多かったですね。また、ファーストフードや清涼飲料がたどってきた皮肉な歴史を再認識して、自分の外食スタイルを考え直し始めた人もいます。

 海外旅行の重要な楽しみの一つは、何を食べるかでしょう。アメリカに行く時は、ぜひその前に読んでいただいて、予備知識を持った上で味わってもらえるといいかなと思います。

――来年は大統領選です。前著『スポーツ国家アメリカ』では、トランプ大統領とプロレスの関係性について指摘されていました。本書にも、トランプ時代を読み解くヒントが含まれているのでしょうか?

鈴木:移民への敵視や社会的分断を煽るトランプ大統領の政治姿勢が日本で報道されるたびに、アメリカ社会の寛容さは失われたという印象が強まっているかもしれません。でも、そのアメリカでは、現在、ラーメンが大人気で、トルティーヤに様々な具を巻いた「ラップ」がフィンガーフードの新たな主力商品になりつつあるなど、国境の外の食の存在感が増しています。政治と食とで明らかに異なるように見える、外の世界に対する寛容度。実は、ここにトランプ路線の限界が透けて見える気がします。

 本書でたどっているように、アメリカ食文化史は、この国がいかに外の世界の恩恵を自在に組み合わせた存在であるかを雄弁に物語っています。しかし、実際にはこの国は、トランプ政権にも流れているような差別意識や不寛容を断ち切れずにいます。

 でもそれは、アメリカが自らに課した「人為的集団統合」や「理念先行国家」としての宿命をまっとうしようとするなら、いずれは克服しなければならないものです。アメリカ食文化には、多様な背景の人々の知恵を組み合わせて共有財産化するという、いわばこの国のあるべき姿を先行して提示しているモデルを見出すことができます。差別の歴史が積み重ねられていった中でも、食をめぐる異種混交的な実験は途絶えることはありませんでした。そして、それは、ファーストフード隆盛の最中にも、息を吹き返しているといえるでしょう。そうした食文化に依存している限り、それに逆行する思考様式は、説得力を持ちえません。

 私から見れば、トランプ大統領は、アメリカという国が自らに課した運命に対して、無謀な戦いを仕掛けています。少なくとも食という分野には片鱗が見られる、アメリカが掲げた理想を自ら否定するように振る舞っているように見えます。

 外部の恩恵を象徴する食べ物によって形作られた身体と、国際協調を無視しアメリカ第一主義にのめり込む思考様式、いわば体と頭の中が分裂しているいような状況は、この国を混乱させこそすれ、理想に近づく手段とはなりえません。そして食べ物は、外部の恩恵を消化した体と自分たちの頭の中がチグハグだという異常さに人々を気づかせる上で、最も身近なアイテムの一つでしょう。

 食を起点とする人々の問題意識の変化は、トランプ時代の閉塞状況を打開する可能性を秘めているのであり、それがどのようにポストトランプ時代を切り開けるのか、注目に値すると思います。ある意味では、ポストファーストフード時代とポストトランプ時代とは、実質的には同じものを指すことになるのではないかと予感しています。

――アメリカに行く人にオススメする、鈴木さんのお気に入りメニュー、もしくはレストランを教えてください。

鈴木:北東部ニューイングランド地方へ行った時は、フライドクラムと呼ばれる料理を探します。日本風に言えば、アサリのから揚げというか天ぷらというか。クラムチャウダーは日本でも食べられるけど、フライドクラムは知らない人が多いかもしれません。

 これを最初に食べたのは、小学校1年でアメリカに最初に住んだ時。マサチューセッツ州のプリマスの波止場の屋台で父が買ったのを食べた時です。僕にとっては懐かしい味だから、ボストン辺りに行った時には食べて帰りたくなる。

 でも、最近は前ほど見かけなくなりました。シーフード店に行けばあるのですが、どこでも簡単に食べられるわけではなくて、値段も時価ということも。レモンを絞ってかけて、タルタルソースやケチャップでいただくのが一般的。これを食べると、どれほど長いことアメリカという国と自分は付き合ってきたんだろうとあらためて感慨深い気持ちになります。

フライドクラム。

 南部に用がある場合は、南部料理の中でも、、ローカントリーと呼ばれるサウスカロライナからジョージアにかけての大西洋岸の郷土料理を食べて帰りたいですね。ニューオーリンズのクレオール料理と似ているのですが、必ずしもスパイシーなわけではありません。

 僕のお気に入りは、、フロッグモアシチューという、魚介や野菜、肉などをトマトベースのスープで煮込んだ料理で、サウスカロライナ州チャールストンの82クイーンズやワシントンDCのジョージア・ブラウンズ(ワシントンは地域的にはアメリカの南部に入ります)のものが美味しかった。でも、このメニュー、最近はあまり見かけません。どこかで見つけたら、ぜひトライしてみてください。

 ニューヨークやシカゴのような大都市では、エスニック系のレストランが面白いですね。日本ではなかなか見かけない世界各地の料理が味わえるのは移民大国の魅力。

 僕はラム肉が好きなので、こうした都会では日本にいるとあまり食べる機会のないラムを食べに行きます。オススメは、トルコ料理店やギリシア料理店。ステーキ屋さんに比べて手頃な値段でラムを味わえるし、両方とも米を食べる人たちなので、付け合わせも日本人の口に合う。

 それから、僕の好物はビーツなので、それをボルシチやサラダに使うウクライナ料理も、おなかがすいた時にはいいですね。ニューヨークやシカゴにはウクライナ人街もあります。

ギリシア料理店のラム料理。

 また、距離的に近い中南米の料理が味わえるのも魅力です。マイアミに行くと必ず寄るのが、ロスランチョスというニカラグア料理のステーキ屋さん。ステーキを三種類のソースで味わうことができ、プランティンという小さなバナナを揚げたものとピーアンドライスの付け合わせも美味しい。

マイアミのロスランチョスの付け合わせ(プランティンとピーアンドライス)。

 西部では、アジア料理やメキシコ料理がアメリカ料理の中にどう浸透しているかを体感してほしいですね。つまり、元の純粋な形ではなく、どうアメリカ的な料理に変化しているのかという点です。その中には美味しいものも少なくない。

 例えば、アメリカ系のメキシコ料理店に行くと、ファヒータサラダというメニューがある。ファヒータとは、細切りのステーキ肉や野菜を一緒にグリルしたものをトルティーヤに挟んで食べる料理なのですが、ファヒータの具をサラダのトッピングにしたのがファヒータサラダ。本格的に肉を食べるほどおなかはすいていないが、サラダだけだと物足りない、といった時に最適です。僕が好きなのは、カリフォルニアを中心に展開しているおしゃれなメキシコ料理のチェーン店、チェビーズやエルトリートのものです。

――日本で本場の味やボリュームが楽しめる、アメリカ料理のお店を教えてください!

鈴木:アメリカのお店やチェーン店が日本に進出している例はありますが、メニューは日本人向けにアレンジされている場合も少なくありません。第四章のフードビジネスのパラダイムシフトを取り上げた部分で、クラフトビールの興隆とブリューパブの増加について言及していますが、アメリカのブリューパブを明らかに意識しているなと思うのは、東京の天王洲アイルにある、TYハーバーです。

 実際、ここは外国人客がとても多い。数種類の自家製ビールの他、アメリカで流行りのフュージョン系のメニューが豊富です。デザートも凝っていて、日本にいながらにしてアメリカ料理の可能性を体感してもらうには、最適な場所の一つだと思います。

 ゼミの学生たちを連れて行ったら、学生たちが気に入ってしまい、学生たちの懐具合では厳しいので、よく散財させられています(笑)。一皿が大きいものが多いので、大人数で行くのがオススメです。

――読者へのメッセージをお願いします。

鈴木:本書では、ファーストフードの陰に隠れがちなアメリカの食文化を紹介しながら、異種混交的な実験精神がこの国に様々な食べ物を生み出してきたことを取り上げました。

 そして、実はファーストフ-ドもそうした文脈から生み出されたものであり、エスニックフードビジネスや清涼飲料が健康食品として開発されていた経緯とも関係していたという、恐らく多くの人にとっては驚きの歴史にも言及しました。ハンバーガーが数々の創作エスニックサンドイッチの一種として登場してきた歴史からは、むしろアメリカ食文化の創造性を感じてもらえるかと思います。

 と同時に、効率優先のあまり画一化されてしまったファーストフードを乗り越えようとする動きが、ヒッピーたちのカウンターカルチャー以降盛んとなり、それが現代では食べ物を起点とした農業や地域社会の変革へと波及しつつある点にも触れました。アメリカの食に対する世間一般のイメージを塗り替えながら、食という対象からアメリカの歩みをどう論じることができるのか、その可能性を本書で示したつもりです。

 このように本書は、食からアメリカという国の正体がより鮮明に見えてくることを提起しているわけですが、加えて、食べ物という、あまりに日常的過ぎて普段はあまり深く考えないかもしれない対象が、実は私たちの問題意識や生き方を大きく変えるヒントに満ちていることに気づいてほしいですね。食から社会を変革するというアイデアは、もっと注目されていいと思う。

 様々な読者層が本書に対して関心を寄せてくれていることが象徴的に物語っているように、食は普段はあまり接点のないかもしれない人々が共通の問題意識を育んでいく起点になりうるし、そこで起こる変化は、政治、経済、法律、文化、環境、健康など、様々な領域に伝染して、大きなパラダイムシフトを呼び込むきっかけになりうるからです。

 また、外国研究に関心のある人たちには、こういう一見すると学問的対象にはなりにくいようなテーマからのアプローチの可能性を感じてほしい。政治や経済といった切り口から見えてくる外国の姿は、実は一部にすぎません。総合的にその国を捉えたいのなら、政治や経済といった特定の学問分野に閉じこもるのではなく、むしろ様々な分野を横断的に貫いているような現象に着目すべきです。

 『食の実験場アメリカ』と、僕がこれまで中公新書で発表してきた『性と暴力のアメリカ』『スポーツ国家アメリカ』とで一貫しているのは、政治や経済といった特定の分野ではなく、社会・文化の様々な領域に横断的に広がっているテーマに着目するという発想。

 性や暴力、スポーツや食といったテーマだけ並べると、「この人、いったい何者?」と思われやすいのですが、それは「アメリカ的想像力/創造力とは何か」という問いに対する答えを、政治や経済といった伝統的な学問分野には収まりきらないような領域横断的事象からあぶり出す作業と格闘しているがゆえのことなんです。でも、外国文化研究とは、本来このようなスタイルであるべきなのではないかと僕は考えています。

 最後に、僕がこの本を書いて最も期待していることの一つは、この視点を日本という文脈に誰か応用してくれないかなあ、ということです。『スポーツ国家アメリカ』の重要な出発点は、中村敏雄さんの『オフサイドはなぜ反則か』という著作でした。中村さんは、イギリスのサッカーやラグビーのオフサイドのルールがどのように形成され、そこにはどのような文化的意味があるのかを論じたのですが、僕は、この着想を、「ではなぜアメリカ型競技ではオフサイドのルールが簡素化、ないし撤廃されているのか」という疑問に接続して、野球、アメリカンフットボール、バスケットボールなどのアメリカ型競技の競技理念を起点にアメリカのスポーツ文化を分析しました。

 今回、アメリカの食文化がいかに異種混交的に形成され、その記憶と向き合うことで人々の意識や行動がどう変わりうるのかを取り上げたのですが、この発想を日本の食文化にも応用してみると、どんなことが言えるのか、誰か考えてくれないかなと思っています。つまり、日本の食文化にも実は異種混交的な部分や社会的選択の帰結があって、その埋もれた記憶と向き合うことで日本人の問題意識や行動はどう変わりうるのか、という研究が進むことを期待しているのです。

 僕は日本人ですが、日本の食文化の専門家ではありません。でも、こうして誰かの発想が別の文脈に応用されてそこに新たな可能性が開けるなら、それこそ学問の醍醐味ですよね。

鈴木透(すずき・とおる)

1964年東京都生まれ。87年慶應義塾大学文学部卒業。92年同大学院文学研究科博士課程修了。現在慶應義塾大学法学部教授。専攻は、アメリカ文化研究、現代アメリカ論。
著書『現代アメリカを観る』(丸善ライブラリー、1998)、『性と暴力のアメリカ』(中公新書、2006)、『実験国家アメリカの履歴書』(慶應義塾大学出版会、2016、第2版)、『スポーツ国家アメリカ』(中公新書、2018)ほか。