- 2019 08/02
- 著者に聞く

戦国時代から江戸の泰平へ。16世紀から17世紀にかけて激変した日本社会。その背景にあったのが「藩」の誕生だった――。刺激的な議論を提示するのが藤田達生・三重大学教授だ。『秀吉と海賊大名』『天下統一』という中公新書もある藤田さんに、新著『藩とは何か』について聞いた。
――藤田先生といえば、「本能寺の変」をはじめ、戦国、織豊期について多くの専門書、一般書を書いてこられた印象を持っている読者も多いと思います。「藩」という江戸時代を象徴するシステムに挑まれた理由は何でしょうか。
藤田:確かに、書名を見ていささか驚かれた方もいらっしゃると思います。
しかし、前作『天下統一』のあとがきで、「それでは、なぜ江戸幕府は二百年以上に及ぶ泰平の世を実現できたのだろうか。信長・秀吉という英雄たちの改革思想と政策を、江戸時代初期の先人たちはどのように咀嚼したのだろうか。平和国家建設のための営為について学ぶこと、これが次の課題となりそうだ」と結んでおり、「予告」していたのです。
天下統一事業は、結果として国家を決定的に蝕みました。藩の創出こそ、信長・秀吉の軍拡路線で荒廃していた地域社会の復興のための、国家再建プロジェクトだったことを主張したかったのです。
――本書は、『秀吉と海賊大名』『天下統一』に続く三部作の完結編とのことですが、3作品の位置づけはどのようなものでしょうか。
藤田:1980年代以降、豊臣から徳川への移行については、それまでの断絶論とは正反対の見方が大勢を占めるようになりました。なかには、豊臣大名に藩の成立を求める研究者さえ現れたのです。
これに対して私は、対外戦争がもたらした国家的危機を認識しない中・近世移行期論に疑問をもちました。慶長年間から寛永年間の約半世紀もの期間を要して、将軍から領知権を預けられた「官僚」である藩主のもと、人工都市・近世城下町を拠点とする藩が誕生することに注目したのです。
つまり、秀吉による海陸両世界の軍事統一について『秀吉と海賊大名』『天下統一』で明らかにし、本書においては軍拡路線失敗のなかからの国家再建の道筋を描いたのです。
――藤堂藩(津藩)の創始者である藤堂高虎に着目されています。高虎は先生のご出身である愛媛県、そしていまお住まいの三重県ともに縁が深い人物ですが、その魅力は何でしょうか。
藤田:これまで家康による天下掌握は、「徳川四天王」をはじめとする英雄的家臣たちの活躍に求められてきました。しかし、内的な発展によって大大名になることはできても、天下人への質的転換については説明できません。
天下を取るためには、政治・経済面はもとより技術・文化面における前政権の中枢人脈を引き継ぎ、それに加えて朝廷との親密な関係を築くことが必須でした。これを家康に実現させた人物こそ、豊臣秀長の重臣だった藤堂高虎なのです。家康が天下人になれたのは、外様大名である高虎の献身的な奉公にあったことは、興味深い事実です。
まったく偶然ですが、身近に家康の参謀を発見した喜びは、なにものにもかえがたいものでした。
――隠れたテーマとして、現在の「地方創生」についてのお考えがあるようです。
藤田:拙著においては、現代社会が直面している深刻な問題解決の糸口を、自国史すなわち400年前の国家再生プロジェクトに求めようとしたのです。
天下統一事業とは、私的土地所有の限界を打ち破り、国家的な「共有制度」への流れをもたらすものであったこと、それを進めた原動力は、出自にとらわれない実力者が領地を預かり仁政を敷くという、信長以来の改革思想「預治思想」にあったことに着目しました。藩とは、「地方創生」を進めるためのシステムであり、幕府の全国政権化に伴い誕生したのです。
現代の「地方創生」事業も、国家改革と一体にならなければ、地方切り捨てに終わるだけだと確信します。なお、拙著は昨年度の大学院地域イノベーション学研究科の授業をもとにまとめたものです。
――現在、また今後の研究テーマについて教えていただけますか。
藤田:三部作で完結したつもりでしたが、拙著執筆中に2世紀以上に及ぶ「泰平の世」を支えたのが幕府と藩が一体となった「高度な武装国家」だったことに気づき、そのしくみを明らかにしたいというのが、次の課題です。
たとえば、一国一城令の実態は、役所としての藩庁をひとつに定め、軍事拠点の城郭は「古城」などとよんで石垣・堀・土塁などを藩が管理し、一部は幕府も認定するものでした。また海禁(鎖国)体制は、長崎などの出入り口ばかりではなく、全国的な異国船に対する監視・通報・防御システムに支えられていたのです。
建前と本音ではありませんが、「泰平」を保障した国家的な軍事システムの実像について、気長に研究してゆきたいと思っています。