2020 06/22
著者に聞く

『織田信忠―天下人の嫡男』/和田裕弘インタビュー

本の帯の写真は織田信忠の肖像(滋賀県立安土城考古博物館蔵)

織田信長には正統な後継者がいた。長男の信忠である。偉大な父の陰に隠れ、その活躍は見えにくいが、19歳(数え年)で織田家の家督を継承しており、織田軍の総大将としての実績も申し分ない。26歳の若さで本能寺の変に散った信忠の潜在能力を高く評価し、初の本格的伝記『織田信忠―天下人の嫡男』を著した和田裕弘さんに話を聞いた。

――旧著『織田信長の家臣団―派閥と人間関係』著者インタビューで、「取り上げてみたい武将の一人」として織田信忠を挙げておいででした。実際に評伝をお書きになっていかがでしたか。

和田:良質な史料にこだわって、それなりにまとめることができたのではないか、と多少の自負はあります。やはり信忠は優秀な二代目だったと再認識できました。ただ、「あとがき」にも書きましたが、信忠についての逸話があまりにも少ないことに改めて驚きました。また、彼の生涯がいかに短かったのかも改めて感じました。

――信忠の生涯を描いた伝記としては初めての本と言ってよいでしょうか。

和田:上梓後の反響を見ても、やはりこれまで、まとまった伝記は刊行されていなかったようです。その意味では、それなりの成果があったものと理解しています。

――信長には数多くの子供がいたようですが、子供たちへの接し方はどのようなものだったのでしょう。

和田:史料が残っていないので、なかなか難しいですが、次男の信雄(のぶかつ)の失態に対しては折檻状をしたためてはいるのですが、やはり実の子であり、汚名返上の機会を与えています。三男の信孝に対しても、彼の執拗な要望を聞き入れて、四国攻めの総大将に抜擢しています。四男の信房は幼いころに他家に養子に出し、さらに武田氏の人質になるという悲運がありましたが、織田家に送り返された後は、犬山城主に取り立て、信長の乳兄弟である池田恒興の息女を娶らせています。

また、徳川家康の嫡男信康に嫁した「徳姫」は信忠の同腹の妹ですが、信長から愛されていたようです。初孫が生まれた後、三河へ鷹狩に出掛けていますが、これは徳姫と孫娘に会うためとも、信康と徳姫の夫婦仲を心配しての下向ともいわれています。信長も人の親といったところでしょうか。

――長男である信忠と、弟たちの関係は。

和田:信雄は同母弟でもあり、手紙のやり取りも頻繁だったようです。異腹の信孝とは疎遠だったかもしれませんが、仲が悪かったとは思えません。3人で一緒に能を演じたという逸話があるくらいです。信忠は後継者として名実ともに突出しており、ライバルになるような力関係ではなかったと思います。

――信忠の力量をどのように評価しますか。

和田:信忠については、武将としての力量を疑うような逸話が残っています。信長という強烈な父親を持った後継者の不運ともいえます。しかし、実際の信忠は、決して凡庸な二代目ではなく、かなりの力量を備えていたと思います。当時、最大の軍団を指揮し、他の戦国大名はもとより、ある意味、信長以上の実績をあげつつありました。もちろん、信長の威光があったればこそですが、信忠を過小評価することはできません。

――信忠の戦績を具体的に教えていただけますか。

松永久秀の居城・信貴山城の城址碑(奈良県平群町)。信忠率いる大軍の攻撃を受けて落城した。

和田:かつての畿内の実力者であった松永久秀が信貴山城で謀叛した時、信忠は初めて総大将となりましたが、老獪な久秀をあっという間に滅ぼしています。播磨国の三木城攻めは羽柴秀吉の武功の一つとして知られていますが、信忠が三木城の支城の攻略や三木城に対する付城(つけじろ)を構築するなど、かなりの側面支援を行っています。天正10年(1582年)の武田攻めは、実質的には信忠が総大将となって武田氏を滅亡に追い込んでいます。押しも押されもせぬ天下人の後継者でした。

――本能寺の変が起こった天正10年、信忠は一足早く上洛し、到着する父を京都で出迎えました。信忠の宿泊先は、本能寺からわずか1キロメートルほどの妙覚寺でした。危機管理の観点からすると、この「近さ」に問題はなかったでしょうか。

和田:現代でいうなら、大企業の代表取締役である会長と社長が同じ飛行機に搭乗するとか、同じホテルに宿泊するようなもので、危機管理が甘かったという見方もあるでしょう。ただ、信長自身は少人数で移動することも珍しくなく、取り立てての油断とも思えません。たしかに2人同時に葬られるというのは危機管理が甘かったといえるかもしれませんが、命がけで謀叛を計画されれば、危機管理にも限界があるのではと思っています。

――明智光秀の謀反を知った信忠は、防御力の弱い妙覚寺から二条御新造(二条御所)に移って籠城しますが、最後まで戦うことなく自害します。この判断をどう評価しますか。

和田:これも結果論からいうと、京都から脱出できたのに、早まった判断という見方もあるようですが、明智軍の重囲を予想したのは当然でしょう。また、結果的に自害に追い込まれましたが、京都市中に分宿していた家臣が二条御新造に集まってくれば、ある程度持ちこたえることができ、周辺から援軍が来ることも期待したかもしれません。

永禄12年(1569年)正月、将軍足利義昭の仮御所だった本国寺が、敵対する三好勢に急襲されましたが、持ちこたえることができました。こうした過去の事例を知っていたかもしれません。もっとも、この時は当の籠城軍に明智光秀がいましたから、光秀は逆の立場で一気呵成に自害に追い込む必要があると思っていたことでしょう。

――歴史にイフは禁物とされますが、もし信忠が生き長らえたなら、と想像せずにはいられません。和田さんはどうお考えですか。たとえば秀吉の台頭はあり得たでしょうか。

和田:信忠を買いかぶりすぎるのはよくありませんが、秀吉の出番はなかったと想像しています。信忠が健在で、もし秀吉が織田家簒奪のような動きをすれば、丹羽長秀や池田恒興らは秀吉に与するとは思えませんし、柴田勝家をはじめとした北陸の諸将も秀吉の台頭を阻むでしょう。袋叩きに遭うという感じでしょうか。もっとも、頭のいい秀吉ですから、そんな無謀なことはしなかったと思います。

――終章の「織田家督の行方」を読み、本能寺の変後に織田一族がたどった運命に興味が湧きました。いずれ一冊の本にする可能性はありませんか。

信忠の長男・秀信(1580~1605)のものと伝わる墓。高野山光台院(和歌山県高野町)の裏手にひっそりと建つ。本能寺の変後に開かれた清須会議で、織田家家督の継承者は当時わずか3歳だった秀信(三法師)と決まった。

和田:私自身、関心があります。断片的に触れたことはありましたが、一冊にまとめてみるのも面白いですね。

和田裕弘(わだ・やすひろ)

戦国史研究家。1962年、奈良県生まれ。単著に『織田信長の家臣団―派閥と人間関係』『信長公記―戦国覇者の一級史料』、共著書に『真説 本能寺の変』『信長公記を読む』『『信長記』と信長・秀吉の時代』などがある。