2017 03/10
著者に聞く

『織田信長の家臣団―派閥と人間関係』/和田裕弘インタビュー

1万を超える大軍勢(方面軍)を率いた柴田勝家・羽柴秀吉・滝川一益・明智光秀らは、巨大な織田軍団における、いわば「派閥」のボスである。ボスとその配下の関係性に迫った『織田信長の家臣団―派閥と人間関係』の著者、和田裕弘さんに話を聞いた。

――今回のテーマを選んだ理由は何でしょうか。

和田:織田信長の直臣のことはかなり研究も進んでいますが、陪臣(家臣の家臣)になると、その出自も含めて不明なことが多い。いわゆる方面軍司令官の軍団そのものの構成員がどのようになっているのかがわかれば、その軍団の実態が見えてくるのではないか、と思って取り組みました。

――執筆中に苦労した点は。

和田:やはり陪臣ということもあり、残存している良質な史料が少なく、いわゆる二次史料に頼らざることを得なかったことです。当初の目論見は非常にハードルが高く、もう一度、基礎から調べなおす必要があると痛感しました。今後の課題です。

――そもそも信長研究にのめり込んだきっかけとは。

和田:研究者や歴史好きの方の話を聞くと、小さい頃から歴史に興味を持っていた人が多いようですが、私は随分遅い「デビュー」になります。20歳ころだったと思いますが、兄から桑田忠親さんの『石田三成』(講談社文庫。のち中公文庫に)を薦められたことが歴史に興味を持つきっかけでした。「敗者の歴史」を知ることの面白さもあり、三成関連の書物を読み進んでいくうちに、織田信長に出会いました。なかなか興味深い人物と感じ、それから信長について少しずつ調べ始めました。ただ、好きな武将は誰ですか、と聞かれた時、信長と答えることはありません。あくまで興味を持っている人物という接し方です。

――思い入れの強い武将はいますか。

和田:信長の家臣ということなら、一人は塙直政(ばんなおまさ)。実妹が信長の側室になったという系図もありますが、それはさておき、信長が足利義昭を奉じて上洛した当時は母衣衆(ほろしゅう)の一人という身分だったと思います。義昭を追放する頃から急激に台頭し、実態は別としても、山城と大和の「守護」に抜擢されるというスピード出世を果たしました。その後の活躍も期待されましたが、本願寺との戦いであっけなく討死します。信長の戦略ミスだと思いますが、佐久間信盛にしろ、荒木村重にしろ、本願寺と戦った武将は何となく貧乏くじを引いたような印象です。直政が存命であれば、本能寺の変も含め、もっと違った歴史になっていたと想像すると、興味深いものがあります。もう一人、信長の嫡男信忠にも関心を持っています。取り上げてみたい武将の一人です。

――今後書いてみたいテーマがありましたら。

和田:信長の伝記『信長記(信長公記)』についてです。良質なテキストがありませんので、自筆本を含めた伝本を校合し、これに解説を加えたテキストを作りたいですね。また、信長の一門に絞ったものや信長の逸話集のような読み本も面白いのでは、と思っています。本命は信長の伝記ですが、いまだに年表づくりの段階です。

――読者へのメッセージをお願いします。

和田:「はじめに」でも触れましたが、地縁・血縁関係は大事な要素だったことを漠然とでも感じていただければありがたいですね。登場人物が約1000人に上っていますが、編集部作成の人名索引が巻末にありますので、理解の一助にしていただければと思います。

和田裕弘(わだ・やすひろ)

戦国史研究家。1962年、奈良県生まれ。共著書に『真説 本能寺の変』『信長公記を読む』『『信長記』と信長・秀吉の時代』など。本書が初の単著となる。