- 2018 02/08
- 特別企画
ヨーロッパ研究の大家として名高いマーク・マゾワー氏の著作"The Balkans"が、2017年6月『バルカン――「ヨーロッパの火薬庫」の歴史』として刊行されました。
翻訳にあたって監修をおこない、序文と解題を寄せてくださったのは、『物語 近現代ギリシャの歴史』の著者でもある村田奈々子さん。マゾワー氏とは長い付き合いがあるそうで……
――マゾワーさんと面識があるそうですね
村田:じつは以前から付き合いがあります。
私は2009年に、ニューヨーク大学で博士号をとりました。そのときの審査で副査を勤めてくださったのが、マゾワーさんです。
それ以前にも何度か接点はあります。日本で修士課程在学中に、ギリシャ関係の論文がほしくてイギリスの大学に手紙を書きました。1990年代前半ですから、まだe-mailもない時代です。といっても、そんな手紙を書いた記憶すらなかったのですが、先日手紙を整理していたら、その返事の手紙がひょっこり出てきて。その手紙の相手が、当時ロンドンの大学にいたマゾワーさんだったんです。びっくりしました。君もイギリスにきたらもっと勉強できるよ、というようなことが書かれていました。彼自身もその手紙のことは覚えていないでしょう。
マゾワーさんを最初にお見かけしたのは、1999年のアメリカのプリンストン大学で開催された近代ギリシャ研究の学会でのことです。その頃、彼はすでに研究者の間で有名だったので、そうかあれがマゾワーか、と。それより数年前に彼から手紙をもらっていたことを私は忘れていたのですが(笑)。
――交流は、いつ始まったんですか?
村田:マゾワーさん、日本にも来ているんですよ。2002年、日本西洋史学会に彼は招かれています。私もアメリカから日本に一時帰国していて、その時に初めて彼と話しました。浅草で一緒にご飯を食べたのを覚えています。卓袱台を買ったということを彼はうれしそうに話していました。つき合いはそれからですね。
その後、博士論文の副査になっていただきました。コロンビア大学の彼の研究室にもうかがって、論文の草稿を読んでいただいてコメントをもらったり、史料蒐集にギリシャに行ったときには、推薦状を書いていただいたりしました。『物語 近現代ギリシャの歴史』も送りました。私が大学に就職が決まった時も、メールで報告したら喜んでくれました。
――どんなお人柄なんですか?
村田:彼は気さくで、物静かな人です。ギリシャ人みたいな瞬間湯沸かし器ではない(笑)。
彼はまず、オックスフォード大学で西洋古典学を学びました。修士号は、アメリカのジョンホプキンス大学(国際関係論)で取得しています。博士課程では近現代史をやろうと思ったそうです。イタリアの歴史にしようか、ギリシャの歴史にしようか迷ったらしいです。ちょうどそのとき、ギリシャではPASOKが総選挙に勝利し、ギリシャで初の左翼政権が誕生しました。変化を期待するギリシャ国民の熱狂する姿をみて、よしギリシャをやろう、と。
近現代ギリシャ史のようなマイナーなことをやっている人がヨーロッパ史の大家になったことは、同じ分野の研究者として嬉しいことですね。
――ギリシャ研究とバルカン研究は交差しますか?
村田:私はギリシャ近代史が専門ですが、ギリシャとバルカンの関係は少々複雑です。ギリシャはヨーロッパのほうしか見ていない節がある。もちろんバルカンの他の国々もヨーロッパのほうを見ているのですが、ギリシャはその度合いがずいぶん強い。バルカン諸国と同盟を結ぼうと奔走したこともありましたが、東西冷戦の時代になると、非-共産圏のギリシャはバルカン諸国と疎遠になってしまいました。
ヨーロッパ側からしても、たとえばフランスがギリシャを見る目と他のバルカン諸国を見る目は違います。やはり、ヨーロッパ文明の起源としての古代ギリシャという輝かしい「遺産」がヨーロッパにおよぼす力は大きいですね。もちろん、社会主義、共産主義の経験の有無も、(西側の)ヨーロッパにとって、バルカンを見る目に大きく作用していることは確かです。
――ギリシャを中心にバルカンがまとまっている、というわけではないのですね
村田:バルカンの中でギリシャが圧倒的な求心力を持っているとは言えないと思います。バルカン自体、中心を持っていないといっていいでしょう。
西寄りの、たとえばスロベニアはオスマン帝国の支配を経験したこともありませんし、文化的にドイツに近い。たとえば、料理とか。典型的なバルカンの料理は、ヨーロッパよりもむしろ中東の料理に近いものですが、スロベニアはむしろドイツ料理に近い。とはいっても、スロベニアのほうがドイツよりご飯が美味しいと私は思いましたが。ともあれ、バルカン内でも国や地域によってそれぞれで、アイデンティティはまるで違います。
それでも「バルカン」という語でひとくくりにされてきた歴史を持つ国々ですから共通点ももちろんあります。バルカン研究とギリシャ研究の交差点は、オスマン帝国支配の経験という点に見出されると思います。
――バルカンの実際の様子というものは、なかなか日本人にはわかりません
村田:行ってみないとわからない、というのももちろんありますよね。たとえば私はバルカンというと、羊飼いと羊という伝統的な風景、(いわゆる中東の料理で使われることの多い)独得の香辛料の匂いが漂う雑多で活気あふれる市場が思い浮かびます。でも、現在の多くの日本人にとって、バルカンといわれてこれだというイメージってあまりない。
話は飛びますが、このところマレーシアに行く機会が多いので、そこでの体験から感じたことがあります。100年前のバルカンって今のマレーシアみたいだったんじゃないかって。
マレーシアにはマレー人と中華系、インド系の住民、それから地図で見るとすぐ近くにオーストラリアがあって、そこからヨーロッパ系の人たちが来ている。イギリスの植民地だったということもあって、共通語は英語ですが、マレー語・タミール語・中国語も聞こえてきます。宗教もバラバラで、マレー人はイスラーム教徒だけれど、まわりにはインド系も中華系の住民もいて、ヒンズー教や仏教の寺もそこらじゅうにあります。でも民族や宗教の違いが、全くとは言いきれませんが、少なくとも日常生活の場でそれほど大きな問題にはなっていないように見受けられます。異なる宗教的背景を持っていて、さまざまな言語を話す民族が、完全に理解しあうことなど必要とせず、なんとなく理解し合いながら共存しているのです。
オスマン帝国時代のバルカンもそうですよね。正教キリスト教徒とイスラーム教徒が混在していましたし、双方への改宗もなかったわけではありませんでした。言語も民族もバラバラです。こうした、宗教や言語の違う人たちと共存するという感覚が、日本人にはわかりにくいかもしれませんね。
――『バルカンの歴史』には「バルカンはヨーロッパの未来」とも書かれています
村田:かつてヨーロッパは、近代化のモデルとされ、世界中の地域や国家のお手本とされたばかりでなく、自分たちもその役割を自負していました。ところが、今、ヨーロッパと同一視されることの多いEUはわけのわからないことになっている。自分たちが、この先どの方向に進めばいいのか迷っているような有様です。ヨーロッパは、もはや国家や地域統合の唯一のモデルとは言えないでしょう。
ユーゴスラヴィアの崩壊と内戦状態への突入が、今現在の揺れ動くEUの将来を予見していたようにも思われます。ユーゴスラヴィアの内戦は民族浄化の血みどろの戦闘でしたが、『バルカンの歴史』では、EUの場合は、実際の戦争状況に至ることは想定されていません。しかし、戦後構築されてきた「統合」が今、危機に立たされていることは確かです。
侮れないのは、ユーゴスラヴィア崩壊時と同様に、ナショナリズムの力です。現代はグローバルな社会だと言われて久しいですが、ナショナリズムが消えてなくなることはありません。EUも、ナショナリズムの力で、この先どうなるかまるで読めません。
――ヨーロッパも大変ですね……
村田:といっても、日本ももうなんだか崩れかけていますけどね。ちゃんと自分の頭で考えて、自分の脚で立たないとダメです。ヨーロッパやアメリカの大学に行くと、日本の大学と比べて学生がずいぶん大人に感じます。
日本の学生は、国家が常にある(そして、未来永劫に存在しつづける)ことを当然視しています。その国家が自分を守ってくれるから何も考えなくていいという一種の「平和ボケ」が蔓延しているように思います。一方、ヨーロッパ、とくに国境がめまぐるしく変わるような歴史を経ているバルカンの小国に暮らす学生にとって、国家の存在は絶対ではありません。国はいつなくなってもおかしくない。このため政治はより身近なものとなっています。彼らは自国で働くことが当たり前とも思っていません。日本人よりもずっと厳しい競争のなかで生き抜く力を持っています。そのためのスキルとしても外国語を学びますし、よく話します。
そういう意味では、日本語ができればそれだけで生きていける、仕事にも就ける日本人はうらやましがられる対象なのかもしれませんけどね(笑)。