2022 10/27
中公新書の60年

学知の実用を支える基盤/坂井豊貴【ここから始める中公新書 経済編】

経済学はさまざまな学問のなかで、近年最もプレゼンスが上がった分野のひとつだと思う。生活やビジネスにおける思考や分析の道具として、以前よりはるかに認められている。わたしは経済学を用いたコンサルテーション事業を営んでいるが、学知が現実に役立つことをいちいち説明せずともよくなった。そうした変化が起きたのは近年だが、変化を可能としたのは、変化を支える土台が築かれてきたからである。そのような土台、いわば学知の実用を支える社会基盤のうち、中公新書は控えめに言っても最重要なもののひとつである。

梶井厚志『戦略的思考の技術 ゲーム理論を実践する』が出版されたのは2002年である。当時ゲーム理論は経済学の分析ツールとしては地位を確立していたが、あくまで学問上のツールであり、世間一般での存在感は薄かった。しかし梶井はゲーム理論を日常の思考ツールとして捉え直し、世間一般に軽快に説明した。この本でゲーム理論を学んだビジネスパーソンは多い。最近はゲーム理論に基づく思考法の本が多く出版されているが、そのようなジャンルを確立したのは梶井である。

大竹文雄は一連の著作『経済学的思考のセンス お金がない人を助けるには』(2005年)、『競争と公平感 市場経済の本当のメリット』(2010年)、『競争社会の歩き方 自分の「強み」を見つけるには』(2017年)で、「高度な専門知をカジュアルに届ける経済学の読み物」とでも言うべきジャンルを開拓した。大竹の著作を読んだ人は、経済学を役に立つもの、面白いものとして見てくれるようになった。そのような記者や編集者にわたしは何人も会ったことがあるから、各種メディアを通じての社会的影響もきわめて大きいはずである。

一冊の本が個人の人生に影響することは愛書家なら誰もが知っていよう。だが本はそれだけではなく、ときに社会変化を起こしたり、変化の土台として潜伏していたりする。それは出版してすぐに見えるものではなく、次の時代になってから分かる。そうした強い力をもつ本は全体の中のごく一部ではあるが、中公新書はその割合が明らかに大きい。少なくとも、ここで挙げた各書が存在していなかったら、今日の日本での経済学の活用は大きく遅れていたはずだ。

坂井豊貴(さかい・とよたか)

ロチェスター大学Ph.D.(経済学)。(株)エコノミクスデザイン取締役・共同創業者、プルデンシャル生命保険(株)社外取締役。主著『多数決を疑う』(岩波新書)は高校国語の教科書に収載、著書はアジアで翻訳多数。読売新聞読書委員、朝日新聞書評委員を歴任。