2021 10/26
私の好きな中公新書3冊

入門書の愉しみ/綿野恵太

本川達雄『ゾウの時間 ネズミの時間 サイズの生物学』
小島亮『ハンガリー事件と日本 一九五六年・思想史的考察』
竹内洋『教養主義の没落 変わりゆくエリート学生文化』

編集者として働きはじめたころ、ミリオンセラーを出したことがあるベテラン編集者に呼び出された。「どっちの本がおもしろいと思う?」とそのとき差し出されたのが、『ゾウの時間 ネズミの時間』と『生物多様性』だった。どちらも同じ著者で、同じ中公新書。内容はもちろんちがうけど、ふらっと本屋に来た人が手に取りやすいのは『ゾウの時間 ネズミの時間』だろう。専門家や愛好家と一般読者がおもしろそうと感じるタイトルは、それぞれまったく別であることをその編集者は教えてくれた。

『ゾウの時間 ネズミの時間』は「歌う生物学者」がサイズという切り口から生物のさまざまな側面を紹介したものだが、ぼくもこんなふうに内容を的確に紹介しつつ、それでいてキャッチーなタイトルをつけたい、とつねづね思っている。とはいえ、そのベテラン編集者は二〇〇〇年代の新書ブームを戦ってきた人だったので、「新書はタイトル勝負だから! タイトルさえ良ければそれで全部O Kだよ!」とまで言っていた。さすがにそれは間違いだと思ったのだが、ド直球のタイトルが多い中公新書を見るたびになぜかその編集者のギラギラした野心みたいなものを思い出してしまう。

『ハンガリー事件と日本』は詩人の黒田喜夫を読むための参考書として手にとった。黒田の有名な作品「ハンガリヤの笑い」は本書のエピグラフに引用されている。本書は、一九五六年のフルシチョフによるスターリン批判はその範囲を個人崇拝にとどめたことで、実はスターリン体制を温存させるものでしかなく、むしろ同年におきたハンガリー動乱こそが、左派に衝撃を与えてニューレフト(新左翼)の誕生をうながす世界史的な事件だったと位置づける。宮本顕治ら共産党指導部から、のちに警察官僚として新左翼運動に対峙する佐々淳行まで網羅し、広範な資料を丁寧に読みこんでいく本書は、共産党と新左翼のちがいもわからなかった学生時代の自分にとってありがたい左翼入門書だった。

『教養主義の没落』は大正教養主義や旧制高校文化を知るために読んだ。いま読み返すと、フランスの社会学者ピエール・ブルデューを用いた社会学的な分析よりも、夏目漱石、宇野浩二、久米正雄、石坂洋次郎、中野孝二、黒井千次、石原慎太郎らの小説やエッセイへの言及が目を引く。たとえば、石原慎太郎の小説『亀裂』における、アダム・スミス研究者の高島善哉をモデルとした老教授を罵倒するシーンが引用されているが、知的権威やエリートに反発する反知性主義や日本独自に発展を遂げた市民社会への嫌悪といった論点がすでに指摘されているようで、石原慎太郎を読み直さなきゃ、と感じさせてくれる。まあ、いまでは本書にあったような文学的な教養も失われて久しいわけだが。

綿野恵太(わたの・けいた)

1988年大阪府生まれ。出版社勤務を経て文筆業。詩と批評『子午線 原理・形態・批評』同人。
著書に『「差別はいけない」とみんないうけれど。』(平凡社、2019年)、『みんな政治でバカになる』(晶文社、2021年)、論考に「谷川雁の原子力」(『現代詩手帖』2014年8-10月)、「原子力の神──吉本隆明の宮沢賢治」(『メタポゾン』11)などがある。