- 2018 07/27
- 著者に聞く

明治維新150年に際して、『斗南藩―「朝敵」会津藩士たちの苦難と再起』を刊行した星亮一さんにお話を伺いました。
――本書は会津藩主松平容保の京都守護職時代を描いた中公新書『幕末の会津藩』、戊辰戦争を描いた『会津落城』につづく、会津藩史三部作の三作目となる作品ですが、前二書に続き、どのようなことが描かれているのでしょうか?
星:ようやく三部作の完成です。読み返して見ると、『幕末の会津藩』『会津落城』ともに我ながらよく調べて書いたと自画自賛しております。
なぜ会津藩は敗れたのか、一にも二にも軍事力の差でした。端的に表現すれば、新式銃対刀槍の戦争でした。会津藩は文武両道ではなかった。会津武士道も連発銃には無力だったことです。
もう一つ重要な問題はミカド、つまり天皇をどちらが戴くかでした。孝明天皇が急死し、明治天皇を薩長側が手中に収めた。これは決定的なことでした。官軍薩長、賊軍会津に色分けされ、敗因はそこにもありました。はなはだ残念なことでした。
戊辰戦争に敗れた会津藩は、現在の青森県下北地方と三八、上北地方に流されました。挙藩流罪です。本書では、この青森県で「斗南藩」として再興した会津藩と藩士たちの苦闘、そしてその後の会津藩士たちのさまざまな人生を描きました。米のとれない斗南藩の地は、日々の食事にも事欠く始末で、その扱いは、まさしく罪人でした。「長州は許さない」とする会津人の怨念は、この流罪に由来するといってよいでしょう。それは今日まで続いているのです。
――下北での会津藩士たちの生活はどのようなものだったとお感じでしょうか?
星:会津残酷物語ですね。薩長も会津人も同じ日本人、ここまで会津人を追い詰めることはなかったはずです。これは明らかに木戸孝允や西郷隆盛の犯罪です。
――実際に下北へ何度も取材されていますが、そのときの印象をお聞かせ下さい。
星:40年前から10回は斗南に出かけました。毎回、涙、涙の取材でした。子供は朝敵、賊軍と罵られ、いじめに遭っていました。反乱が起きなかったことが不思議なくらいでした。
負ける戦争をしてはならない。そのことも感じました。
――本書ご執筆にあたって、とくに苦労されたことはなんでしょうか?
星:取材で集めたデータが多すぎて、いかにコンパクトにするか、試行錯誤の執筆でした。
――書き終えた今、とくに若い人々に「これだけは伝えたい」ということがありましたらぜひお聞かせください。
星:明治維新とは何か、戊辰戦争とは何か、官軍とは何か、賊軍とは何か、人間はなぜ戦争をし、相手をここまで痛めつけるものなのか。広い視野から150年前を考えてほしいものです。