マンダラチャート@13 天ヶ瀬の妻と会う

 暗い気持ちのまま大学に行った。
 大学に来るのは四日ぶりだった。三年生までにほとんどの単位を取ってしまったので、四年生になってからは週に二回しか通っていなかった。その他の時間は、アルバイトと就職活動に明け暮れていた。
 この暗い気分を何とかしたかった。
 こんな沈んだ顔でゼミに出たら、男子たちは私がまだ内定をもらえていないことを一瞬で見抜くだろう。同情の視線も鬱陶(うっとう)しいが、「女だから仕方がない」として、気にも留めない表情を見るのも嫌だった。
 最近になって、ソッタラのにやにや笑いがぽっと頭に浮かぶ回数が増えた。頭を左右に振って追い払おうとしたが、しつこく脳裏にへばりついて離れない。
 ゼミが始まるまでにまだ時間があったので、コーヒーでも飲んで気分を切り替えようと決め、胸を張って深呼吸しながらキャンパスを斜めに横切り、大学生協の喫茶室に向かった。
 薄汚れたガラス扉を押して中に入った。入口から最も遠い席が霞(かす)んで見えるほどのだだっ広さだ。授業中なのか、学生はまばらだった。ここに来るたび資材置き場のようだと思う。殺伐(さつばつ)としていて温もりは全く感じられない。セメントで固めた床に、折り畳み式の会議机のようなガタついた代物と、パイプ椅子の方がまだマシかと思える安っぽい椅子が、何の規則性もなく乱雑に置かれている。
 女子大やミッション系の大学では、食堂も喫茶室も西欧風でお洒落だと聞いたことがある。この大学の喫茶室も、いくら何でももう少しどうにかならないのかと、来るたびに思う。建築学科の学生に授業の一環としてリフォームさせてくれればいいのにと、入学当初から思い続けてきたことを今日もまた思った。
 こんなオンボロ喫茶室でも有線放送だけは流れていて、雅夢の「愛はかげろう」のサビの部分がいきなり胸に突き刺さった。二十代で聞いたときより、六十代まで経験した今の方が胸に切なく響いて泣きそうになる。
 喫茶室にいる学生たちに向かって大声で呼びかけたくなった。
 ――ねえ、みんな、愛なんて陽炎みたいなもんだよ。特に男女の愛なんて、錯覚にすぎないんだからさ、恋愛なんかで自分を見失わないように気をつけるんだよ。だって恋の賞味期限は短いけど、人生は長いからね。
 コーヒーカップの載ったトレーを持ち、どこに座ろうかと見渡していると、窓際の席で大きく手を振っている女がいた。目を凝(こ)らして見ると、アケタだった。
 向かいに座るやいなや、「ねえ雅美、『ぴあ』に載ってたんだけどさ」と、アケタはいきなり勢い込んで話し出した。この期に及んで無邪気な笑顔を作れるのがすごい。感心しながらアケタを見つめた。
「あのね、陽水がね、近所の大学でコンサートやるらしいんだよ。雅美も一緒に行こうよ、ねっ?」
 中学時代から井上陽水の大ファンだというアケタは、興奮気味に言った。
「そうか、『ぴあ』に載ってたのか......」
 雑誌『ぴあ』は、中央大学の学生が創刊した、小冊子と言ってもいいほど薄い月刊誌だった。映画やコンサートなどの情報が載っていて、それまでそういった情報誌がなかったから、若者にとっては画期的で重宝するものだった。
 この「ぴあ」が、のちに有名企業に成長することを私は知っている。だがこのとき、いったい誰がそんなことを想像しただろうか。
 就職先が見つからなかったら、「ぴあ」のように起業するという手もある。というのも、兄は調理師専門学校を出てから京都の料亭と大阪のレストランで修業したあと、実家近くの空き店舗を安く買って改装し、レストランを開いた。それまで田舎にはおしゃれな店が一軒もなかったこともあり、順調に売り上げを伸ばしている。
 そして去年の春、兄は京都の修業時代に知り合った女性と結婚した。オープンしたばかりの結婚式場は、白亜の殿堂と銘打った西洋のお城のような建物だった。素敵だとみんな声を揃えたが、私は張りぼての安っぽさを感じていた。だが、披露宴そのものは、私が見た中で最も豪華だった。新婦は三回もお色直しをしたし、招待客も多かった。
 それまでの田舎の披露宴といえば、公民館や自宅でやるのが一般的だったが、都市部では既に大型の結婚式場が普及していた。やっとここに来て、田舎にもオープンしたのだった。芸能人でもあるまいに、一般人が披露宴に数百万円もの費用をかけることが普通のことになっていた。
 新郎となった兄は、気弱だった子供の頃とは違い、自信に満ちた顔をしていた。遣り甲斐のある仕事や経済的余裕が顔つきをこうも変えるのかと、万感の思いで蝶ネクタイの兄を見つめた。これは去年のことで、自分の就職がうまくいかないなどとは夢にも思っていなかった時期だから、私も兄に負けないよう頑張ろうと心に誓ったのだった。
 新婚旅行は当時定番だったハワイではなく、新婦のたっての希望でイギリスに旅立った。新婚カップルだけを募集した贅沢なツアーで、ホテルは五つ星で、食事も最高級だと兄は語った。
 兄の幸せそうな姿を見て、私は胸を撫で下ろしていた。
 ――お兄ちゃん、寿司職人になればいいのに。
 ――そうなると僕は大学はどうするの? 行かなくていいのか?
 ――行かなくていいんじゃない?
 うろ覚えだが、そんなような会話をしたことがあった。私が余計なことを言ったばかりに兄が不幸になったらと考えると気が気でなかった。しかし、これほどまでに良い方向に転じたのだ。
 私は四十代になった頃、自分の結婚式のことをときどき思い出すようになった。子供の学費や住宅ローンに追われ、土日までパートを入れて心身ともに苦しい節約生活を送っていたときだ。
 いつも思い出すのは、チャペルのヴァージンロードに沿って両脇を飾る花の代金のことだった。
 ――花束一つが二万円でございまして、一列が六個で、それが両脇にありますので全部で十二個になります。ですから合計二十四万円になります。
 結婚式の打ち合わせで、係の女性がそう言った。
 その他にも招待状が一枚八百円だとか、引き出物の紙袋代だけでも一枚三百円だとか、ありとあらゆる細かなところまで代金を請求され、積算額を見たときは目が点になった。花なんかどうせ使い回すくせにと悪態をついて席を蹴飛ばして帰りたくなったのを、昨日のことのように憶えている。
 そもそもヴァージンロードって何なのよ。「処女の道」なんて、聞くたびに鳥肌が立って吐き気がする。だが外国の習慣だから仕方がない。今までずっとそう思ってきた。それなのに、あるとき和製英語だと知って驚愕(きょうがく)したのだ。英語ではウェディングアイルと言い、訳せば単なる「結婚式用通路」なのだ。
 本当は結婚式も披露宴もしたくなかった。お金ももったいないし、花嫁を品定めしようとする夫側の親戚や友人知人たちの視線も耐え難かった。だが式場の打ち合わせのときでさえ、夫の両親は頼みもしないのに勝手についてきて、細かなことにまで口を出したので、言いたいことは何ひとつ言えなかった。
 ああ、夫の両親ときたら......お金は出さないが、遠慮なく口を出すタイプだった。そしてその後も、そういったことが何十年も続いて私を苦しめたのだ。
 あのとき地味婚にしておけば......。
 あのとき夫が毎晩のように飲み歩かなければ......。
 あのとき夫が中古の車で我慢してくれていれば......。
 ああ、後悔したらキリがない。あのとき私が自分の意見を押し通していれば、もっと余裕のある人生が送れたはずだ。
 見栄を張れば張るだけ、あとで苦しむことになるのだ。
 今後一切余計なことにはお金を使いたくなかった。納得できないことには一円だって払いたくない。お金は上手に使いたいのだ。大金持ちではないのだから。
 兄は新婚旅行のお土産だと言って、高級なティーカップのセットを東京の私の元へ送ってきた。私はそのとき初めてミントンというブランドを知り、その価格を知り合いに教えてもらったときは驚いた。割ったらどうしようと思うと恐ろしくて使えず、今も押し入れの奥にしまったままだ。
 兄は贅沢しすぎなのではないか。
 この先に不景気が来るのを私は知っている。
 だから兄から電話で用事――東京で売っとるイギリス製の洒落たペーパーナプキンを大量に買って送ってくれ。田舎じゃ売っとらんから頼むわ。代金はあとで振り込むけん――を頼まれたとき、私はついでを装って遠回しに忠告した。
「お兄ちゃん、儲かっているときこそ財布の紐(ひも)を締めて、しっかりお金を貯めた方がいいよ」
 ――なんで? 自営業は定年がないから、ずっと働けるのに。
「その町は過疎になるんだよ」
 ――カソって? 
「だんだん人口が減って、高齢者が五十パーセントを超えるのよ」
 ――ああ、その過疎か。そういや来年度から小学校のクラスがひとつ減るって聞いたわ。
「そうでしょう? もう既に少子化が始まってるんだよ」
 ――ショー鹿? フランス料理?
「ふざけないでよ」
 ――え? 俺、ふざけとらんけど。
 この時代、少子化という言葉はなかったのだろうか。それとも兄は相変わらずバラエティ番組が好きで、ニュースは一切見ないのだろうか。
 お兄ちゃん、新型コロナウィルス感染症が流行るんだよ。そしたら営業できなくなるよ。そう言いたかったがやめておいた。言ったところで誰が信じるだろう。ペストのように大勢の人が死ぬのよ、などと言えば、過疎や少子化までもが、占い師か何かの怪しい予言に聞こえてしまう。
 このまま内定が出ないのであれば、兄のように私も起業したかった。
 だが資本金がない。アルバイト代は生活費に消え、銀行の残高は十万円にも満たない。「ぴあ」のような小冊子とは違って、建築関係ともなれば、何をするにもまとまった資本金がいる。兄は田んぼの中の安価な居抜き店舗を担保にしてローンを組んだが、私には担保となるものは何もない。それ以前に、上田工務店でのアルバイト経験だけでは何をするにも無理がある。
 夢中になって書いたあのマンダラチャートは何だったのだろう。
 女性が住みやすい家を作りたいという願いは、このまま夢と消えるのか。
 ――そら見たことか。
 すぐ耳元で、意地悪そうな顔をした夫が囁いたような気がした。
 そういえば、あの日......。
 ――本気で言ってんのか? 自分と大谷選手を比べるなんて、お前のその自惚(うぬぼ)れって、いったいどこから来てんの? 信じられない。
 ――そんなこと絶対に他人には言うなよ。頭がおかしいと思われるぞ。大谷選手と自分を比べて落ち込む主婦なんて滑稽だよ。こっちまで恥かくよ。
 夫はそのようなことを言ったのだった。
 ああ、悔しい。
 一つも内定がもらえない現実は厳しかった。まさか零細企業のアパレルからも不採用通知が届くなんて思いもしなかった。あの日、鈴倉商事での集団面接の途中から私は決心していた。内定をもらっても蹴ってやると。こんな差別的な男たちが牛耳っているくだらない会社はこっちから願い下げだと。
 あの集団面接のメンバーと比べたら、アケタと私だけが飛びぬけて偏差値の高い大学の学生だったのだから、採用されないわけがないと思っていた。
 それなのに......。
 ああ、せめて一級建築士の資格さえあれば、小さな設計事務所を立ち上げられるのに、受験資格には実務経験が二年以上必要だった。信じがたいことだが、女子大の建築学科卒ならば三年以上と決められていた。そんな法律が改正され、大学を出てすぐに試験を受けられるようになるのは令和時代になってからだ。
「雅美、ぼうっとしちゃって、どうしたの? 行こうってば、コンサート」
「よくそんな気分になれるね。内定ひとつも出てないのに」
「だから行くんだよ。心をぱあっと解放して心機一転するの。ね? きっといい方向に転がるよ」
「心機一転か......いいかもね。もうヤケクソだね。行っちゃうか」
 もしも突破口があるのなら、何でもいいから縋(すが)りつきたい気持ちになっていた。
 アケタとそんな会話をした日の夜、天ヶ瀬から電話があった。
「北園さん、就職、どこに決まったの?」
 天ヶ瀬に悪気がないのはわかっていた。単なる挨拶代わりだろう。彼は医学生で大学は六年制だから、就職はまだ先のことだし、こちらの事情を知っているはずもない。 
 だから話題を変えた。
「そういえば天ヶ瀬くんは高校時代から陽水のファンじゃなかったっけ?」
「今だって熱烈なファンだよ」
「大学祭でコンサートやるから友だちと行くの。羨(うらや)ましいでしょ」
 ――ええっ、俺も行きたい。俺の分のチケットも取ってくれよ。
「だって天ヶ瀬くん、沖縄にいるんでしょう?」
「コンサートに行けるなら一泊で沖縄にとんぼ返りするよ」
「そこまで言うなら一応頼んでみてあげるけどね、取れるかどうかわからないから期待しないでよ」 
 そう言って電話を切った。
 
 アケタが指定した待ち合わせ場所は、国鉄の駅前にある噴水広場だった。
 私とアケタは、天ヶ瀬が来るのを待っていた。コンサート会場はここから徒歩五分くらいだという。
 まだ日が高かった。コンサートは夕刻からだが、早めに行って学祭の模擬店で腹拵(ごしら)えしようとアケタが言ったからだ。
「はい、これ。雅美と雅美の友だちの分のチケットだよ」
「ありがとう。あれ? まさか、この会場って......」
 アケタから渡されたチケットを、思わず凝視していた。
「コンサートの会場って、東華講堂だったの?」
 天ヶ瀬の妻は、ミス東華女子大ではなかったか。
「そうだよ。東華女子大って、雅美、聞いたことある? 良妻賢母を目指す大学でね、自分の名前を漢字で書けさえしたら入学できるってくらい偏差値の低いとこだよ」
 この当時は「Fラン大学」という言葉がなかった。その代わり、「自分の名前を漢字で書けさえしたら入学できる大学」という言い方が一般的だった。
アケタがそんな差別的な言い方をする理由は、すぐにわかった。
「この女子大の子はね、みんな大企業に就職できるらしいよ。特に短大の方は引く手あまただってさ。日本ってのはおかしな国だね。あんなに必死で受験勉強して、やっと名のある大学に入れて喜んだ過去の私が可哀想になるよ」
 私もアケタも世間知らずの田舎者だったのだ。そのことを、上京後すぐではなく、大学四年も終わり頃になってから思い知った。
高校生のときの受験校選びは、『螢雪(けいせつ)時代』や、分厚い『大学受験案内』を参考にするしかなかった。ネットのない時代の指標といえば偏差値だけで、それ以外の情報は田舎にいれば皆無だった。予備校どころか学習塾さえ田舎にはなかったのだ。
 そのうえ麗山大学は女子が極端に少ない大学で――そのことにしたって入学式で初めて知ったのだったが――女性の先輩と親しくなって就職の情報を得る機会にも恵まれなかった。
 だからまさかFランクの女子大が「お嬢様大学」として東京では価値があるなどとは思いもしなかった。そして、就職に際して女子に期待されているのは技能や能力ではなく、美しさと「穢(けが)れなき」若さだったなんて。
 女性の年齢に対する世間の評価も、時代とともに変わってきた。令和の時代には、三十歳を過ぎてから結婚する女性は珍しくないどころか、普通になりつつあったが、昭和時代には「年増」と呼ばれていたのだ。三十歳を過ぎると高齢出産とされ、母子手帳にはマル高のハンコが押された。そのハンコが押される妊婦が身ごもっていたのは、たいてい第三子か第四子だった。
「雅美、あそこ見てよ。すごくかっこいい人がいる」
 そう言ってアケタは私を肘(ひじ)でつついた。雅美が指さす方を見ると、ジーンズにTシャツといった若者らしい恰好(かっこう)をした天ヶ瀬が改札を出てくるところだった。
「あれが天ヶ瀬くんだよ」
「ええっ、本当? 雅美とどういう関係? まさか彼氏とか?」
「違うよ。単なる同級生だって言ったでしょ」
「だよね。かっこよすぎるもん」
「はいはい、私とは不釣り合いですよ」
 天ヶ瀬が私に気づき、ぱっと笑顔になった。女のハートを鷲摑(わしづか)みにする優しそうな笑顔は相変わらず健在だった。コカ・コーラのCMに抜擢されてもおかしくないほど爽やかで、清潔感が溢れている。
「まずい。私、惚(ほ)れちゃいそうだよ」とアケタは言った。
 恋愛において誰しも外見の好みに大きく影響されるのは、男女を問わず人間の本能かもしれない。だが、それを就職の採用基準にすれば、美醜がまるで人格そのもののような錯覚を世間に広め、じわじわと人々の物の見方を歪(ゆが)めていくのではないか。令和の時代になると、気軽に美容整形手術を行う風潮が広がり、顔だけでなく脂肪吸引や豊胸手術にも人々は驚かなくなる。男も肌に気を遣うようになって男性用化粧品が発売されたり、植毛したり、プロテインを飲んで筋骨隆々の身体になろうとしたりする。
「北園さん、久しぶり」と天ヶ瀬は言ってから、すぐにアケタに向き合い、「僕の分のチケットまで取ってくださってすみません。ありがとうございます」
 そう言って、天ヶ瀬は丁寧に頭を下げた。
「天ヶ瀬くん、これ、チケット」
 私はチケットを渡しながら、天ヶ瀬の表情を観察した。
「サンキュー」と言いながらチケットをじっと見つめている。
「あ、この大学の講堂だったのか。そうか......東華女子大でやるのか」
 妻の出身校だとわかったようだが、特に表情の変化は見られなかった。
 大通りを下っていくと、ほどなくしてレンガ造りの校舎が見えてきた。ヨーロッパのおとぎ話に出てきそうな外観だ。門を潜ると、たくさんの模擬店が並んでいるのが見えた。
「何か食べようよ。たこ焼きか焼きそばか、ソフトクリームも食べたいし」
 珍しくアケタが子供のようにはしゃいでいるのは、天ヶ瀬のようなかっこいい男がすぐそばにいることも一因なのだろうか。
 模擬店の売り子役だけでなく、キャンパス中の女子大生がハマトラの格好をしていた。ハマトラとは横浜トラディショナルの略で、フクゾーのトレーナー、ミハマの靴、キタムラのバッグが女子大生の三種の神器と言われていた。見回してみると、ジーンズ姿の女は私とアケタだけだった。
 しばらくすると、マイクを通した男性の声がどこからか響いてきた。
「今からミスコンを始めますので、みなさんステージの方にお集まりください」
 ここは女子大のはずだが、男が取り仕切っているらしい。
「ミス東華女子大コンテストだってさ。見に行こうよ」
 買ったばかりのたこ焼きとみたらし団子で両手を塞(ふさ)がれたアケタが、ずんずん進んでいく。見ると、キャンパスの真ん中あたりにステージが作られていて、若い女がずらりと並んでいた。
 初秋で肌寒いというのに水着姿だった。審査員席の男子学生たちは、これ以上ないといったほどニヤけている。
胸に名札がつけられていた。もしかして天ヶ瀬の妻がこの中にいるのではないか。いや、いくら何でもそんな偶然はないだろう。そう思いながら端から順に名札を見ていった。
 そのとき「伊藤里奈(20)」と書かれた名札に目が留まった。
 里奈......どこかで聞いたことがある。
 突如としてケメコの言葉が脳裏に蘇ってきた。
 ――天ヶ瀬と結婚した人はね、リナっていう名前なんだってさ。ハイカラだよねえ。そんな名前、田舎じゃありえんわ。顔だけやのうて、名前まで私ら完全に負けとるがな。
 二十代後半のときの同窓会でケメコはそう言い、みんなで溜め息をついたのだ。
 いま目の前にいる伊藤里奈という女が天ヶ瀬の妻となった人物なのだろうか。女子学生に人気のファッション雑誌『JJ』の表紙を飾ってもいいほどのすらりとした美人だった。見るからに都会育ちと言った垢(あか)ぬけた雰囲気がある。その笑顔は愛想笑いではなく、自然の笑顔であり、本当に楽しそうだった。その華やかさや明るさは生まれ持ったものなのだろう。この女は、私にはないものをたくさん持って生まれてきたらしい。 
 背後にいる天ヶ瀬を振り返ると、私は何も言っていないのに、「うん、そうだよ、あいつだよ」と言ってから、鋭い視線を舞台に戻した。
 アケタが、カメラを持ってきていたので、私はアケタに頼んでみた。
「左から二番目の人を撮ってよ。それとなく、ね」
 天ヶ瀬に聞かれたくなかったので、アケタの耳元で囁くように言った。
「二番目の人を? なんで?」と、アケタが問い返した。
 なぜ里奈の写真を撮ろうとするのか、自分でもわからなかった。だが、いつの日か、この日の里奈をもう一度見たいと思う日がやって来るような気がした。
「いいから撮ってよ」
「全身?」
「全身一枚と顔一枚」
「わかった。事情はあとで聞くよ。嫉妬で燃えた目をしてる雅美を初めて見たよ」
「えっ、嫉妬? 私が? そんなことないってば」
 そのあと、候補者の自己紹介や質疑応答などがあった。それが終わると審査発表が行われた。
「それでは発表しまーす。今年度のミス東華女子大は、ダダダダダダ」
 ドラムの音を口で表現しているらしい。
「ダダダダダダ、伊藤里奈さんでーす」
 振り返って天ヶ瀬を見ると、口を真一文字に結んで冷静そのものの表情で舞台を見つめていた。
「そろそろコンサート会場に行こうよ。開演の三十分前だから」
 アケタの声で、はっと夢から覚めたように天ヶ瀬は視線をアケタに移し、「そうですね。もう行きましょう」と言って歩き始めた。
 大理石造りの立派な講堂に入り、会場の真ん中あたりの列に、天ヶ瀬、私、アケタの順に三人並んで座った。
 若い頃の妻を見て天ヶ瀬はどう感じたのだろうか。聞いてみたい気もしたが、天ヶ瀬がずっと硬い表情のままだったので聞けなかった。
 開演の数分前になって、前ドアから慌ただしく五人ほどが駆け込んできた。男子学生たちに囲まれた里奈だった。隣の天ヶ瀬を見ると、彼はとっくに里奈を視界に捉えていたようだった。
 コンサートの間、最前列に座っている里奈たちの一団にときどき目をやった。後頭部から肩までしか見えなかったが、彼女が拍手をしたり、身体を左右に揺らしたりしているのが、なぜかいちいち私の神経を逆なでした。
 嫌いなのか。
 そうか、どうやら私は里奈が大嫌いであるらしい。
 六十代にもなって、二十歳やそこらの女子短大生を私は目の敵にしている。いい年をしてみっともないと思いながらも、私の胸は敗北感でいっぱいで、その劣等感を宥(なだ)めるには、自分をどういう言葉で励ませばいいのかがわからなかった。
 コンサートが終わって、ぞろぞろと外へ出た。
 夜の八時を回っていて、外は真っ暗だった。
「久しぶりに会えたんだし、飲みに行こうよ」と天ヶ瀬は言った。聞けば、明日の朝いちばんの飛行機で沖縄に帰れば、なんとか午後の授業に間に合うという。
「じゃあ私はここで」とアケタは気を利かせたつもりらしく、帰ろうとしている。
「明田さんも一緒にどうですか? チケットを取ってくださったお礼にご馳走させてください」
 天ヶ瀬がそう言って誘うと、アケタの私を見る目が、「私も行っていいの? お邪魔だよね?」と問うていた。
「アケタも行こう。一緒の方が楽しいよ」
 私がアケタの腕を取って校門を出ようとしたときだった。
 校門のところに、里奈を取り囲む集団が立っているのが見えた。横を通りすぎようとしたとき、その集団の中から女の子が一人抜け出し、「芳子ちゃん」とアケタに向かって小さく叫んだ。
「あ、順子ちゃん。陽水のチケットありがとね。すごくいい席だったよ」とアケタは言い、私と天ヶ瀬を振り返って言った。「この子は私の従妹の順子ちゃんで、東華女子大英文科の二年生なの。無理を言ってチケットを取ってもらったのよ」
「北園雅美です。アケタと同じ大学です。チケットありがとうございました」
「いえいえ、どういたしまして。私は明田順子です」
「順子ちゃんも私たちと一緒に飲みに行かない? 伯父さんの葬式以来だから積もる話もあるし」
「行きたいのはやまやまなんだけど、でも」
 そう言いながら、順子は後ろを振り返った。背後には里奈と取り巻きの男子学生たちがいて、こちらをちらちらと覗(うかが)っているのが見えた。これからどこかへ行く予定があるらしく、順子と私たちの話が終わるのを待っているようだった。
 そのときだった。里奈がさっとグループから抜け出てきて順子の隣に並んで言った。「順子ちゃん、こちら、紹介してよ」
 里奈の視線は、はっきりと天ヶ瀬に向いていた。のちに結婚したくらいだから、やはり好みのタイプなのだろう。
 天ヶ瀬も里奈を見ていた。若き日の妻の姿を間近で見て、どんな思いでいるのか。
「こちらは私の従姉とそのお友だち」
 順子の紹介の仕方が簡単なのは、ここで里奈に詳しく言う必要はないと判断したからだろう。里奈も「どうも」と軽く会釈しただけで、再び天ヶ瀬を真っ直ぐに見た。要は、順子の従姉やその女友だちなんかどうでもいいから、早く天ヶ瀬を紹介しろと言っているのだ。
 だから私はご親切にも教えてあげた。「こちらは医学生の天ヶ瀬くん」
「あら、お医者様を目指してらっしゃるの?」
 そう言った里奈の目は、一層輝きを増したように見えた。
「悪いけど里奈ちゃん、従姉と会うの久しぶりだから、こっちの飲み会に参加してもいいかな」と順子が言った。
「いいけど、でも......」と、里奈は宙に目を泳がせて、何やら考えているようだった。
「そっちのグループは里奈ちゃんさえいればいいんだから、私なんかいなくても大丈夫だってば」
 思わず本音を漏(も)らしたといった感じだった。もしかして、里奈の引き立て役ばかりさせられることに、順子はウンザリしていたのではないか。
「そもそも私は大学祭の実行委員の一人にすぎないんだし、どうして私がミスコン担当にさせられたのかもわからないし、それに......」と不満を言い募る順子の言葉を聞いているのかいないのか、里奈はすばやく後ろを振り返って男子たちに向かって言った。「ごめんね。飲み会はまた次回」
 一斉に「ええっ」と取り巻きの男の子たちは声をあげて残念がったが、里奈は気にもしていない様子で、「いいお店を知ってるの」と言うと、先頭に立って歩きだした。
 その判断の速さと行動力に舌を巻いていた。取り巻きの男子学生が落胆していても、まるで虫けら程度にしか思っていない心が透けて見えた。
 この時代は、いや、令和の時代でさえ、将来有望な高給取りの男か、それとも実家が資産家である男を捕まえて結婚することこそが、女が安泰な生涯を送れる数少ない道の一つだったのかもしれない。その証拠に、同じクラスの男子たちはテレビCMでよく目にする有名企業から内定をもらい、自分やアケタは中小零細からも蹴られた。だったら自分が就職するよりも、クラスの男子をひとり捕まえて結婚した方が、安全安心な人生を手に入れるためには手っ取り早いではないか。
 里奈のように、なりふり構わず有望株の男を必死で物色するのは、良い悪いではなくて死活問題だったのだ。
 つまり......この女は若いのに賢すぎる。
 それに比べて私やアケタは純粋で馬鹿正直な「お子ちゃま」だった。いったい、この違いはどこで生まれるのだろう。それを探るためにも、里奈という女をじっくり観察してみたくなった。
 居酒屋に行くものとばかり思っていたが、里奈が扉を押したのは、洒落た店構えのイタリアンの店だった。学生の分際で普段からこんな高級そうなレストランに出入りしているのだろうか。マクドナルドでさえ滅多に入れない私とは雲泥の差がある。
 以前の人生では六十数年も生きてきたのだから、つき合いでそういった店に入らざるを得ないことは何度もあった。だが、出される料理が値段に見合うと思ったことは一度もない。都心の一等地にあれば場所代だから仕方がないと思い、高層ビルの中にある店なら眺望代だと諦(あきら)めた。そうこうするうち高級レストランへの憧れは皆無となった。 
 だから、こんな高そうな店には入りたくなかった。バイト代が何日分も飛んでしまう。話さえできればいいのだから、どこかの喫茶店でナポリタンか卵サンドの軽食を取るくらいで私は十分満足だ。それだって学生の私にとっては贅沢なことだった。
 里奈が店長と思しき男と親し気に話をしているのが、素通しのガラス扉から見えた。
 きっと里奈は財布を開いたことはないのだろう。男たちが奢(おご)ってくれるに違いない。それもこれも美人だから、あちこちから声がかけられるのだろう。とすると、若くても私よりたくさんの経験を積んでいるのではないか。交友関係も広く、いろいろな場所で様々な人と話をする機会が多いに違いない。そう考えると更に劣等感が募ってきて、押しつぶされそうだった。
 しばらくして里奈は店の外に出てくると、華やかな笑みを浮かべて言った。
「今夜は予約がいっぱいだけど、里奈の頼みだから仕方がないって。特別に席を用意してくれるそうよ」
 先頭に立っていた天ヶ瀬が動こうとしないので、その後ろに並んでいた私と順子とアケタも店に入れなかった。
「どうしたの? さあ、早く入って」
「すみません、えっと、里奈さん、とおっしゃいましたっけ?」と、天ヶ瀬は白々しく元妻の里奈に呼びかけた。「悪いんだけど、俺はこういった高級な店は苦手なんだよね。居酒屋かなんかで焼き鳥でもつまみながら一杯やろうと思ってただけなんで」
 天ヶ瀬はそう言って踵(きびす)を返したので、すぐ後ろにいた私とぶつかりそうになった。私が咄嗟(とっさ)によけようとすると、天ヶ瀬は私の肩を抱いて無理やり引き寄せ、「行こう」と言った。
「え、でも......」
 戸惑う間もなく、天ヶ瀬は私の肩をつかんだまま歩くので、引きずられるようにして私もその場を離れた。
「店長、ほんとごめん。また来るから、ねっ?」
 振り返ると、里奈が拝むように両手を擦り合わせているのが見えた。
 私は肩の上に載っている天ヶ瀬の手を力任せに振り落とし、「私を利用しないでよ」と、天ヶ瀬だけに聞こえる小さな声で叫んだ。
「ごめん」
 恋人関係ではないとアケタに言ってあるのに迷惑な話だ。俺には既に彼女がいると見せつけるためだけの演技には高校時代から翻弄されてきた。高校時代はそのことで優越感に浸った自分のいやらしい性格もどうかと思うが、今回のように里奈への復讐の匂いがする行為には巻き込まれたくなかった。
 私はわざと歩を緩め、天ヶ瀬から数歩遅れてアケタと並んで歩いた。
 背後から走ってくる足音がして、里奈が私たちに追いついた。
「本当は私だって居酒屋の方がよかったのよ。でも順子ちゃんの親戚の人もいるし、ちゃんとしたお店の方がいいかなって思ったの。これでも精いっぱい気を遣ったんだからね」と、恩着せがましく里奈は言った。
「うん、ありがとう」と順子が静かに応えた。
 里奈はスキップしそうな弾んだ足取りで天ヶ瀬の横に並ぶと、そのまま歩き始めた。
 二人の後ろ姿を見ていると、不思議な思いにかられた。かつて若い頃、この二人は相思相愛だったのだ。美男美女が惹かれ合い家庭を築いて二人の子供を儲けた。それなのに天ヶ瀬は里奈を憎むようになる。里奈の気持ちはどうだったのだろう。天ヶ瀬と同じように愛が憎しみに変化したのか。
 人生百年時代と言われるようになったのはいつ頃からだったろう。百歳の双子であるきんさんぎんさんが持てはやされたことがあった。あの当時は百歳まで生きる人は少なかった。ましてや双子という珍しさもあり、そのうえ頭もしゃべりもはっきりしていてユーモアまであるから爆発的な人気を呼び、まるでアイドルのようだった。
 しかし令和になる頃には、百歳以上の人が数万人にも膨れ上がるのだ。人生の長さに比例して夫婦である期間も長くなると、同じ相手と暮らすこと自体に無理が生じてくる。長年連れ添えば、そこには情という名の愛の残滓(ざんし)があるに違いない。だがどんなに仲の良い夫婦であっても、双方の心の奥底には少なからず積年の憎しみが確固として存在する。
 駅近くの居酒屋は混んでいたが、奥のテーブル席が一つだけ空いていた。
「どうぞお先に。奥へ詰めてください」
 天ヶ瀬にそう促されて、里奈はコの字型の席の奥へずれていく。里奈のすぐ隣に天ヶ瀬が座るかと思ったら、天ヶ瀬は突っ立ったままで、アケタや順子に「詰めて、詰めて」と言い続けている。「北園さんはこっち側から入って」と、天ヶ瀬に指示され、私は逆側から入った。
 ふと里奈を見ると、期待を裏切られたからか、呆然と天ヶ瀬を見つめていた。
 ――男の子は誰だって私の隣に座りたがるのに。
 顔にそう書いてある。六十数年間の人生経験が、私を読心術さえ備えた魔女に変えてしまったらしい。
 最後に天ヶ瀬は私の隣に腰を下ろした。里奈はといえば、コの字型席の、いわゆるお誕生日席に座っている。
 酎ハイやらビールやら焼き鳥やら厚揚げやらを次々に注文し、みんなで乾杯すると、天ヶ瀬は生ビールを一気に半分ほど飲み干した。
 陽水に関する話題が一段落したとき、天ヶ瀬はジョッキをテーブルに置くと、唐突に尋ねた。
「里奈さんの将来の夢は何ですか?」
 里奈が勘違いするに十分な質問だった。
「嬉しい。早速私の名前を覚えてくれたんですね」
 そう言ってから、里奈は恥ずかしそうに微笑んだ。すぐに順子が目を逸らしたところからして、これは里奈の定番の演技なのだろうか。
「そうねえ、私の将来の夢はね、いい奥さんになって、いいお母さんになることかな」
 そういう女が好まれる時代だった。
「里奈さん自身の夢はないんですか? こういう職業に就きたいとか」と、天ヶ瀬は尚も尋ねる。
「職業ですか? 私は夫を陰で支える縁の下の力持ちになりたいから、自分のことなんて二の次です」
 またもや男受けする答えをしている。
「ってことは、就職しないってこと?」と、アケタが尋ねた。
「里奈ちゃんは大企業から内定をたくさんもらってるんですよ。どこに決めようか迷うくらいだよね」と順子が言った。
「うん、まあね」と、里奈が笑顔で応える。
「例えば、どういうところから内定もらったの?」
 私の正面に座っていたアケタは、にこりともせず尋ねた。
「例えば、丸住商事とか東都銀行とか大製建設だとか、その他いろいろですよ」
 思わずアケタと目を見合わせていた。大手建設会社の名前があったからだ。そのうえ銀行も商社も超一流企業ばかりだった。もしも私がそういった有名な会社に就職できたなら、田舎の両親は近所に自慢しまくるに違いない。そんな母の姿を想像すると、急に悲しくなってきた。
「すごいところばっかりだね」と私は言った。
「そうですか? うちの短大ではみんな似たり寄ったりですけど」
「で、結局どこに就職するの?」とアケタは尋ねた。
「今のところ東都銀行かなって思ってます」
 タイムスリップする前の人生で、天ヶ瀬は東都銀行を定年まで勤め上げた。二人が出会ったのは職場だったのだろう。
「銀行業務に興味があるの?」と、天ヶ瀬がとぼけたような顔で尋ねた。この質問は皮肉なのか。
「まさか。興味なんてありませんよ。三年くらい勤めて寿退社する予定です」
「あら、もったいないわね」と、順子が言った。
「順子ちゃんは四年制だから、あと二年あるよね。どういうところに就職したいと思ってるの?」と、アケタが尋ねた。
「私は地元に帰って役場に勤めたいと思ってる。採用人数が少ないらしいから、無理かもしれないけど」
「役場って、栃木県川下郡川下町役場? 東京では就職しないの?」
「だって四年制女子だし自宅じゃないから、どこにも就職できないもん。そのうえ私は里奈ちゃんみたいに美人じゃないから結婚できないかもって考えたら、給料は安いけど安定してる公務員になって定年まで頑張ろうかなって」
「順子ちゃんて堅実だ。子供の頃から変わらないね」とアケタが言った。
「里奈さんは、いわゆる腰掛けってやつだよね」と、天ヶ瀬が話を戻す。
「そうです。腰掛けです」と、里奈は悪びれもせず続けた。「三年も勤めたら社会勉強には十分ですよ。将来結婚したときに夫の仕事の大変さもわかってあげられるだろうし」
 里奈がそう応えたとき、天ヶ瀬は苦笑交じりに言った。「それに、東都銀行にはニューヨーク支店もあるしね」
 どういう意味なのかわからなかった。
 ニューヨーク支店とは? いったい何の話?  
 口には出さずに私は天ヶ瀬を見た。
「よくご存じですね。そうなんです」と里奈は続けた。「職場結婚してダンナさんがニューヨーク支店に転勤になったらついていこうと思ってるんです。すごく楽しそうでしょう? 五番街で買い物したり、セントラル・パークを散歩したり。それに子供もバイリンガルになれるし。でも今日は天ヶ瀬さんにお会いして、お医者さんもいいかな、なんて思っちゃいましたけど」
 上目遣いの笑顔が可愛いことをちゃんと計算している。
「ニューヨーク支店じゃなくて青森支店になったら、すんごく嫌な顔して夫を責めるんだろうな」
 みんなぽかんとした顔で天ヶ瀬を見た。いったい何の話をしているのかと問いたげだ。でも私にはわかった。里奈との結婚生活で、実際にそういったことがあったのだろう。
「天ヶ瀬さんは、お父さんもお医者さまなの?」と里奈が尋ねた。
「いえ、うちの父は司法書士です」
「そうなんですか。ご兄弟は?」
「一人っ子です」
「ああ、そうなんですね。どこの大学の医学部なんですか?」
「琉球大学です」
「りゅうきゅう?」
「沖縄県です」
「えっ、沖縄の方なの?」
「いえ、出身は山陰地方ですが」
 まるで身元調査だった。
 里奈は短大の二年生で、まだ二十歳だ。それでもしっかりと将来を見据え、条件に合う男かどうかを見極めようとしている。
「お母様は専業主婦でいらっしゃるの?」
「家でピアノ教室を開いてます」
「あら、素敵」
「ちょっと里奈ちゃん、初対面なのに質問攻め。失礼よ」と、順子が諫(いさ)めた。
「えっ、そうだった? ごめんなさい。あまりに素敵な方だから何でもかんでも知りたくなっちゃって」
 里奈はそう言ってピンクの可愛い舌をペロッと出して、茶目っ気たっぷりに笑った。
「その若さで、もうお婿さん探ししてんの? 末恐ろしいね」と、アケタが不愉快さを隠しもしない顔で不躾(ぶしつけ)に言った。
「そういう言い方、ひどくないですか。私、別にそんなつもりじゃ......」
 泣きそうな顔をするのも演技なのか。
 私にはこういった感じの友人がいないから、演技なのかどうかもわからない。
 アケタもホステスのバイトをするときは、里奈のような女に豹変(ひょうへん)するのだろうか。ときどきバイト先でのエピソードを聞かせてくれるが、「あんたは気さくで不細工だから気安く話せて楽しい」などと客にからかわれることも多いらしいから、同じ男受け狙いでも、里奈とは違うキャラを演じているのだろう。
 その帰り、みんなとは駅で別れて、天ヶ瀬と二人で同じ方向の電車に乗った。
 というのも、天ヶ瀬は私の住むアパートがある最寄りの駅前にホテルを取っていたからだ。
 駅に着いて改札を出ると、天ヶ瀬は高校時代の金曜日恒例のごとく、「コーヒー飲んでいこう」と言って、私の返事も待たずに駅中にあるドーナツショップのチェーン店に入っていった。
「どうだった? 若い頃の奥さんに会って」
 席に着くなり私は尋ねた。
「どうって......」と、向かいに座った天ヶ瀬は口ごもり、コーヒーを啜った。
「懐かしかった?」
 今の私は里奈よりさらに不躾かもしれない。人の心に土足で踏み込んでいこうとしている。
「知らない人を見てるみたいだった」
「そうなの? 不思議だね。恋に落ちて結婚したんだろうに」
「だって俺も若かったから」
「若かったから、何なの?」
「北園さん、どうしたんだよ。いつもと雰囲気違うじゃん」
「ごめん」
「だったら北園さんも若かった頃のダンナに会ってみなよ。実家も勤め先も知ってるんだから簡単に捜せるだろ?」
「会いたくない」
「ほらみろ」
「えっ、天ヶ瀬くんも里奈さんに会いたくなかったの?」
「当たり前だろ。会いたいわけないだろ」
「どうして?」
「嫌いだから」
「ずいぶんはっきり言うね」
「でも会えてよかった。選択を間違えたことがはっきりして」
「選択って?」
「二度目の人生はもっと冷静に結婚相手を選ぶべきだってわかった」
「冷静になったら結婚なんてできないでしょ」
「確かに。だから俺はたぶん二度と結婚しない。北園さんはどうなんだよ。なんでダンナに会いたくないの?」
「大っ嫌いだから」
 そう答えた途端、天ヶ瀬はアハアハと妙な息継ぎをしながら笑った。
「あっぶねえ。今コーヒーが大量に気管に入るとこだった」
「選択を間違えたっていうけど、だったらどういう女が良かったの?」
「前に言っただろ。北園さんみたいな女がいいって」
 忘れたりしない。高校時代に天ヶ瀬に言われたのだ。結婚は二度としたくないが、北園さんとなら結婚してもいいと。
 その理由を尋ねたとき、天ヶ瀬は言った。
 ――北園さんは地味だから、ブランドものを買いまくったり、ママ友に見栄を張って贅沢したりしないだろ? だから結婚相手にいいと思ったんだ。
 あのときは、なんと単純な思考だろう、人を馬鹿にしているのか、などと思ったのだが、天ヶ瀬が言いたかったことは、価値観の違いが夫婦に亀裂を入れる決定打になるということだったのかもしれない。
「俺、田舎者だったんだよ」
「えっ、田舎者? えっと? 急に何の話?」
 そのとき、店に流れていた五十嵐浩晃の『ペガサスの朝』が終わり、堀江淳の『メモリーグラス』が流れてきたから、気分が曲調に合わせて湿っぽくなってきた。
「北園さんは上京する以前に実家で暮らしてたとき、どんな服を着てた?」
「高校の制服よ」
「そうじゃなくて私服のときだよ。どの店でどんなの買ってた?」
「商店街の藤山洋品店でセーターとかスカートとか買ってもらってたけど? あ、それと、新しくできたショッピングセンターで買ってもらったこともあった」
「そういった店に何万円もする高級ブランドの服やバッグは売ってなかったよな?」
「もちろん売ってない。田舎じゃそんなの買う人いないもん」
「藤山洋品店とか駅前のショッピングセンターは、東京で言えばスーパーの二階にある衣料品売り場って感じだったろ? 値段も手頃でさ」
「違うよ。藤山洋品店の方がもっと安かったよ」
「どっちにしろなんで東京の人ってみんなあんな高いもの買ってカッコつけるんだろ」
「東京の人みんながみんなってわけじゃないと思うけど」
「でも人数割合は田舎に比べたら格段に高いと思うよ」
「それは経済的に余裕のある人が多いからじゃないかな。それに田舎の小さな町じゃ家族構成も経済状態もばればれだから、見栄張っても意味ないし。違う?」
 私の問いに天ヶ瀬は返事もせずに深い溜め息をつき、「俺の人生を返せ」と言いながら、いきなりテーブルに突っ伏した。
「え? 何なの、急にどうしちゃったのよ。今頃になって酔いが回ってきたの?」
「あれくらいじゃ酔わねえよ。ザルって言われてんのに」
 天ヶ瀬は上体を起こして座り直した。
「あいつ、フランスだかイタリアだかの有名ブランドのバッグを次々に買ってたんだ。いったい誰の目を気にしてんだか知らねえけど、誰もお前のことなんか見てねえよって大声で叫んでやりたかった。そういうバッグ、北園さんも持ってた?」
「私は持ってなかったけど、同級生の中にはヴィトンの財布を持ってた子が何人かいたよ。あ、バッグも一人いたかも。あの頃すごく流行ってたもん」
「清水の舞台から飛び降りるつもりで一つだけ買って後生大事にしてんならまだ可愛げもあるけどさ、金持ちでもないのに、老後のことも考えずに、そんなのばっかり買ってバカじゃねえの? どう思う? 里奈って大バカ野郎だろ?」
「さあ、なんとも......」
「里奈の見栄のために俺の稼ぎが消えてったんだぜ」
 だから結婚は二度とごめんだ、だけど私となら結婚してもいい。それは、私が地味で節約志向の女だからだ、ということか。
「あいつ、社内でも評判の美女だったんだ。結婚した当初はみんなから羨ましがられて俺もいい気分だったんだけど、今になって考えてみると俺が出世できなかったのは、それが一因かもしれない。俺の上司が里奈にぞっこんだったんだ。妻子持ちの四十男のくせに、俺を見る目が嫉妬にまみれていて怖いくらいだった」
「だからニューヨーク支店じゃなくて青森支店に転勤になったの?」
「確証はないけど、たぶん。そもそもうちの銀行は、ニューヨーク支店に行けるのは東大卒のやつだけなんだ。だから俺はニューヨークはあきらめてたけど、ヨーロッパのどこかの支店に行きたかった。ドイツとかイタリアとか。それなのに青森だった」
「家族で青森に行ったの?」
「いや、単身赴任だよ。子供の学校があるからって。青森はリンゴが美味しいし、物価も安いし、一緒に行こうって俺は何度も言ったんだけど」
「物価が安い?」
 そう言って、私は吹きだしてしまった。
「何がおかしいんだよ」
「だって里奈さんは野菜や肉や魚の値段なんか興味ないでしょ?」
 そう言うと、天ヶ瀬はハハッと乾いた笑い声を出した。
「俺も若かったよ。あんな美女に迫られたら、男なら誰だって結婚するだろ?」
「ふうん、そういうものなのか」
 一気に嫌な気分になった。だがそれはたぶん、嫉妬から来るものではないと思う。男たちから持てはやされて優遇される幸福な人生というものに釈然とせず、納得できないままの心をどうしていいかわからず、気持ちが悪くてしかたがなかった。
 大企業で出世している「紅一点」と呼ばれる女たちの特集を、いつだったかテレビで見たことがある。そのとき、不自然なほと美人率が高いことに気づいて愕然としたのだった。
「あいつ四十歳を過ぎたあたりから劣化したよ」
「えっ、劣化?」
 びっくりして、つい大きな声を出してしまった。
 この天ヶ瀬という男は、そんなひどい言葉を使う輩だったのか。
「その言い方、人としてどうかと思う」と私ははっきり言った。
「そうかもしれないね」と天ヶ瀬は言い、白けたような目で私を見た。
「男だって老けるでしょ。太ったり禿げたり顔にいっぱい大きな濃いシミができたり。人にもよるだろうけど、女よりずっと劣化が激しい男も多いよ。それとも外見を問われるのは女だけで、男は中身で勝負だなんて言うつもり?」
「そうじゃなくてさ、劣化なんていうひどい言葉を使いたくなるくらい、俺は里奈のこと恨んでたらしい」
「らしいって、他人事みたいな言い方するね」
「うん。だって俺、今初めてそのことに気づいたから」
 私はとっくに気づいてたよ。
 ついさっき、互いに配偶者を「嫌い」だと言ったはずだ。そんな子供みたいな単純な言葉こそが、本当の気持ちを表している気がしていた。 
「あの結婚生活は人権蹂躙(じゅうりん)だったと思うんだ。だって月の小遣いが五万円ぽっきりだったんだぜ。俺が稼いだ金だっていうのに」
 私は、夫に月々三万五千円しか渡していなかったが。
「お小遣いが少ないってこと、奥さんに抗議しなかったの?」
「そんなこと言えないだろ。子供の塾や習い事や私立中高で金がかかるって言うし、住宅ローンもあったし、それもこれも俺の稼ぎが少ないせいだからと思ってたから」
「......そうか」
「同僚に聞いてみても、ほとんどが三万円から五万円の間だったしね。それと、こんなことカッコ悪すぎて大きな声じゃ言えないけど......」
「何よ、言ってみてよ」
「これ言うと、北園さんにも嫌われそうで怖いけど......」
「だから何よ、言いなさいってば」
 もうとっくにあんたのこと嫌いだから何を言っても大丈夫だよ。女に対して劣化という言葉を使った時点でアウトなんだから。
「つまりさ、今夜は死ぬほど鯖(さば)の味噌煮が食べたい日ってあるだろ?」
「鯖の味噌煮? いや、私にはないけど?」
「えっ、ないの?」
「カレーとかステーキとかお寿司なんかだったらあるけど」
「わかった。じゃあカレーにしよう。つまり今夜は絶対にカレーが食べたいって昼間から生唾飲み込むことって、北園さんにもあるよな?」
「もちろんあるよ」
「だろ? だけど、家に帰ったらグラタンとサラダだったりすることもあるわけだよ。それでも我慢して出されたものを食べなきゃならないだろ」
「......そうか。なるほど」
「男たるもの、食い物に文句垂れるなって子供の頃から親に言われて育ったから、要は男は食べる楽しみを放棄しなきゃならないってことだよ。それに、そもそも......あ、これは言いすぎかな」
「何なの。この際、言いたいことみんな吐き出しちゃいなさいよ」
「里奈は料理が得意じゃなかったんだ。はっきり言ってまずかった。里奈も自覚があったみたいで、途中からデパートの総菜を買ってくるようになった」
「あーそれはお金がかかるね。でも人には向き不向きがあるし。いっそのこと自分の分は自分で作ればよかったじゃないの」
「定年退職してからそうしたよ。嘱託扱いになって時間的余裕ができてからは」
「本当に?」
「本当だよ。もっとうまくなりたくて、『男の料理教室』っていうのにも通った」
「そうか、そうだったんだね」
 会社勤めは数年でやめて、結婚後は夫を支えるとはっきり言うくらいだから、てっきり料理上手なんだろうと思っていたが、実際は違ったらしい。
「それと、受験のことも意見が対立したんだ。今思っても、私立の中学に行かせる必要があったのかなと思う。自宅から徒歩五分のところに公立中学があったのに、電車で一時間もかけて通わせるなんて俺は大反対だったんだ。それよりもっと嫌だったのは、小学生が夜遅くまで塾で勉強すること」
「その気持ち、わかるよ。私たちの田舎には学習塾も私立中学もなかったし、小学生の頃は暗くなるまでドッジボールに明け暮れてたもん」
「俺の意見は何も通らなかった。意見が食い違うと、向こうの親がしゃしゃり出てくるし、そうなるともう面倒臭くなっちゃって。なんせ仕事でいつも疲れが溜まってたから」
「忙しすぎると、いったい何が最も大切なのかがわからなくなるよね」
「そうなんだよ。だから俺、結婚は二度としたくないけど、仮に結婚しない奴は全員死刑なんて法律ができたとしたら、俺と同じ田舎者の北園さんと結婚したいと思うんだ」
「あっ、そう。それはどうもありがとう」
「なんだか突っかかる言い方だな」
「天ヶ瀬君、明日の朝、早いんじゃなかったっけ?」
「あ、ヤバい。もうこんな時間だったのか」
天ヶ瀬はそう言うと、慌ただしくコーヒーカップを返却口に持っていった。
「じゃあ、また連絡するよ。元気でな」
そう言って、ウインクを寄越した。
ドキッとするほどカッコよかった。                        
(つづく)

マンダラチャート

Synopsisあらすじ

「私」は、現在63歳。子どもは巣立ち、夫と二人で暮らす平凡な主婦だ。夫は私に関心がなく、家政婦程度にしか思っていない。

ある日、私はふと、気がつく。WBCで活躍した、大谷選手やダルビッシュ、ヌートバー……。彼らは子どもの頃からの夢を一途に追いかけて、あの場所に立っている。なぜ自分はここで、こんなふうに不満ややるせなさを抱えて生きているのだろう。「私は、成績も良かった、努力すればもっと自分の能力を生かせる生き方が出来たはず。けれども、美しくあろうと外見にばかり注力してきたために、今はただのオバサンになってしまった、もし、あのとき、外見をつくろったり、男性の目を気にすることなく、自分のやりたいことを一途に貫いていたら」

もう一度、人生をやり直したい……激しい後悔とともに、そう強く願った私は、気がつくと、中学生に戻っていた……。

Profile著者紹介

2005年『竜巻ガール』で小説推理新人賞を受賞し、デビュー。テレビドラマ化された『リセット』『夫のカノジョ』『結婚相手は抽選で』『定年オヤジ改造計画』や、映画化された『老後の資金がありません』のほか、『四十歳、未婚出産』『夫の墓には入りません』『姑の遺品整理は、迷惑です』『うちの子が結婚しないので』『もう別れてもいいですか』『あきらめません!』『懲役病棟』など著書多数。

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