マンダラチャート@9 大学生になる(1978年)/@10 大学一年生の夏休み

@9 大学生になる(1978年)

必死に勉強した甲斐あって、建築学科に合格した。天ヶ瀬も志望通り、沖縄県にある琉球大学医学部に受かった。
この時代の女子の四年制大学への進学率は一割ほどだったが、その大部分が文学部に進んだ。令和時代までを経験した身からすると、なぜみんな揃いも揃って文学部以外の選択肢を考えなかったのだろうと残念でならない。
当時の女子高生たちは、将来が見えなかったのだ。先々のことまで考えようとしても、具体的なイメージを思い浮かべることができなかった。
特に田舎町では、一般の会社に勤めて活躍している女性でさえ見当たらなかった。女性を正社員として採用するところは、信用金庫や農協など数えるほどしかなかったし、それとて寿退職を慣例としていたから、職業人として見本となる大人の女が周りにいない時代だった。
その結果、高校の同級生の中で、大卒の資格が職業に生かせた女性は、教師か薬剤師になった数人だけだった。言い換えれば、教師か薬剤師ならば女の分際でも働き続けてよいと、世間が許可を与えていた時代とも言える。
そういう時代背景もあって、建築学科のクラスには、自分を含めて女子が二人だけしかいなかった。友人を選ぶ余地がないのだから、普通ならすぐにでも親しくなりたいと思うところだが、もう一人の女子は遠目に見てもだらしない雰囲気をまとっていたので、あまり近づかない方が良さそうだと考えた。
痩(や)せ型の猫背の女で、入学式だというのに毛玉だらけのカーディガンにジーンズ姿だった。そのコート代わりとも思えるビッグサイズのカーディガンが肩からずり落ちそうになっているのに気にする様子もなく、学長が祝辞を述べる間も、さらさらの前髪をひっきりなしにかきあげていた。
それでも入学式が終わると、彼女はにこやかに話しかけてきた。
「女が二人だけとはびっくりだね。私ね、明田芳子っていうの。みんな私のことアケタって呼んでっからさ、あなたもそう呼んでくれて構わないよ」
 見かけ通り、蓮(はす)っ葉な物言いだった。
 そのあと私も簡単に自己紹介をした。
「ああ、トイレ行きたい。あの式場、広すぎて身体がすごく冷えちゃってさ」と、アケタは言った。
「私も行きたかったの」と私は言い、アケタと一緒にトイレを探した。
トイレはあちこちにあるのだが、その全てが男子トイレで、女子トイレがなかなか見つからなかった。
「あった、あった。やっと見つかった」
アケタが嬉しそうに叫び、小走りになって向かっていく。
そして......。
それぞれの個室から出てきたとき、二人は思わず顔を見合わせていた。
「あのベル、何なんだろ。怖い」と、アケタは目を見開いて言った。
トイレの個室のひとつひとつに大きくてがっちりとした防犯ベルが設置されていたのだ。
二人並んで手を洗おうとしたときも、洗面台のひとつひとつにまで防犯ベルが設置されていたので、びっくりして思わず鏡を通してアケタと見つめ合った。
「過去にここで何かあったのかな、まさかね」と、私はつぶやいていた。
「きっと何かあったんだよ」と、アケタが断じるので恐ろしくなってきた。
「でもさ、ここはれっきとした大学だよ」と、私は抵抗を試みた。
「だって何の事件もないのに、こういうの、つける? トイレ全体で一個ならまだしも」
「うん......確かに変だね」
この瞬間、決めた。今後は絶対に一人でトイレに行かないと。
つまり、アケタがいないときはトイレを我慢しなければならないことになる。
いや、まさか、まさか。
そんな不便な日常を今後四年間も続けられるわけがない。
この時代には防犯用の笛やブザーも売っていなかったはずだから、何か代わりになるものを探さねば。
「ねえ、帰りに喫茶店に寄っていかない?」と、私はアケタを誘った。
 ついさっきまでアケタのことを友だちにしたくないタイプだと思っていたのに、防犯ベルを見て考えが変わった。アバズレでも何でもいいから早急に女友だちを作る必要がある。
「喫茶店? うん、いいね。濃いコーヒーを飲みたいと思ってたところだったんだ。昼夜逆転した生活してっからさ、もう眠くて眠くて」
アケタはそう言って朗らかに笑った。
 連れだって大学近くの喫茶店に入った。
 メニューを見て驚いた。こんなに高価なら、大学生協の喫茶部に行くべきだった。この当時は、安価なコーヒーショップのチェーン店がなかった。そのうえコンビニも百円ショップもユニクロもしまむらもニトリもなかったから、すべてが高額だった。
親からの仕送りが少ないのだから、細心の注意を払ってお金を使わねばと、あらためて肝に銘じた。
仕方なくコーヒーを頼んだあとも、生協の喫茶部なら、確かこの時代は八十円くらいで済んだのにと、内心うじうじしていた。
しばらくすると、すっと二人の前にコーヒーが運ばれてきて、いい香りが鼻をくすぐった。
「北園さん、あなた現役合格? だったら私はあなたより二歳上だよ。というのも私はね」
アケタはコーヒーを啜(すす)りながら身の上を語り出した。
 それによると、アケタは北関東の高校を卒業すると同時に上京し、学費を稼ぐために銀座や新橋にある場末の店でホステスとして二年間みっちり働いたのだという。今は週三日に減らしたとはいうものの、日々の生活費を稼ぐためには続けざるを得ないという。
ああ、なるほど。まさにそんな経歴が、アケタの立ち居振る舞いから透けて見えるようだった。
以前の人生で、田舎から出てきたばかりの世間知らずの私なら、アケタを違う世界に住む女だと捉えて距離を置いただろう。
だが六十三年の長い人生を送る間に、水商売の女に対しての偏見(へんけん)はきれいさっぱり消えてなくなっていた。そもそもアケタは私から見ればほんの子供なのだ。とはいえ、金銭的な苦労を乗り越えて自立し、そのうえで受験に臨んだことを考えれば、根性の据わった女であることは間違いないだろう。

最初の授業は体育だった。
建築学科は女子が二人しかいないため、文学部の女子と合同クラスとなった。
体育のような必修授業が一限目からあるのがつらかった。
通勤のラッシュ時にぶつかる時間帯で、乗車率二百パーセントを超える。その超満員電車に乗ると、百パーセントの確率で痴漢に遭うのだった。
お尻を触られたり、背後から下半身をしつこく押し付けられたりするたび、吐き気がするほどぞっとしたが、どうしても大声を出すことができなかった。
この時代は女性専用車両もなかったし、駅員や警察に言いに行ったところで、「ケツを触られたくらいで。美人でもあるまいし」と相手にしてくれないことを知っていた。そして、訴え出たことで痴漢から逆恨みされる事件を、ニュースで見た覚えがあるから余計に恐ろしかった。
いったい、いつまでこういった痴漢行為から女は逃れられないのだろうか。
もしかして、未来永劫(えいごう)なのか。
だが黙っていては、いつまで経っても女性は痴漢の被害から逃れられない。
では、どうすればいいのか。
体育を担当するのは、五十歳前後と見える短髪の女性教授で、ボーイッシュを通り越して、七三分けの銀行員の男のような髪型をしていた。
体育着は動きやすい服なら何でも可ということだったので、思い思いの格好をした女子が体育館に集まっていた。私は高校時代に使っていたジャージと、アケタがプレゼントしてくれたTシャツを着ていた。胸に「JUN」と書かれた黒いTシャツで、流行っているのだとアケタは自慢げに言った。
「遅刻した場合、たとえ一分であったとしても欠席扱いにしますから注意してください」
 挨拶もそこそこに教授はそう言った。
 そのとき、どこからか、「えっ?」という声が聞こえてきた。
 教授は声の方をちらりと見てから続けた。「授業開始前に着替えて整列しておくように。それが間に合わない人も遅刻とみなします」
 そのとき、背後にいたアケタが、私のTシャツの裾を引っ張った。昼夜逆転気味の生活だから厳しすぎると訴えているのだろうか。だが、教授の言っていることは当たり前のことなので、変に同情する必要もないと思い、振り返らなかった。
「欠席するときは必ず届けを出してください。病気などのやむを得ない事情のときは考慮します。妊娠しているから授業を受けられないといったときも、遠慮なく申し出てください」
 この昭和時代にも、望まぬ妊娠をする女子大生がいたのだろう。教授は、口では厳しいことを言いながらも、そういったことまで配慮してくれているらしい。みんなも同じように思って感動したのか、場が静まり返った。
「まっ、といってもね、私が若い頃にはそんなふしだらこと、考えられなかったですけどね」
教授がそう吐き捨てるように言ったとき、思わず振り返ってアケタと目を見合わせていた。
 ――そんな言い方されたんじゃあ、余計に言い出せなくなるじゃん。
 アケタの顰(しか)めっ面がそう言っているように見えた。
 妊娠するのはふしだらなことであるらしい。いつの世も妊娠させた男性は非難されないが、女は非難の的となる。
ふとアメリカの元大統領を思い出した。彼は、性暴力の結果の妊娠であっても、中絶を全面的に禁止したいようだった。二〇二四年の大統領選に再出馬しようとしていたはずだが、タイムスリップする以前の世界は今頃どうなっているのだろうか。彼は当選したのだろうか。だとすれば、どんどん恐ろしい世の中になっているのではないか。いつだって犠牲になるのは弱い立場の者たちだ。

五月に入り、大学生活も慣れてきたのでアルバイトを始めることにした。
ぎりぎりの節約生活から抜け出すためだ。このままでは好きな本も買えないし、映画も見に行けない。
駅前のケーキ屋の店員で、時給五百円という額の少なさに溜め息が出たが、この時代の相場だから仕方がなかった。 
この頃から既に東京の家賃は高かった。駅に近いアパートには手が出なかったので、駅から徒歩十二分もかかる木造アパートの二階を借りていた。近道もあることはあるのだが、暗くて物騒だったので、遠回りになるが幹線道路を歩くようにしたら、更に時間がかかるのだった。
同じクラスの男子は、地方出身者が多く、みんな風呂なしのアパートに暮らしていた。そもそも風呂付きのアパートというものが少ない時代だった。
住宅街の中にある銭湯へ行くには暗くて細い道を通っていかなければならなかった。もしも暗がりから暴漢が飛び出してきて押し倒されたら防ぎようがない。
それをアケタに話したところ、中古の自転車を買って銭湯の行き帰りは全速力で疾走すればいいとアドバイスをくれたので、それに従うことにした。
 その日、アパートの郵便受けを開けると、封書が一通入っていた。天ヶ瀬の筆跡だった。
昭和五十年代は携帯電話が存在しなかっただけでなく、学生は電話も持っていないのが普通だった。電話を引くには、電電公社の債権を購入しなければならず、学生には高額すぎて手が出なかった。当時は気づかなかったが、強盗がアパートに押し入っても110番さえできない状態だった。
 その一方で、天ヶ瀬は琉球大学に入学すると同時に、親が電話を設置してくれたらしい。一人っ子でもあるし、田舎では裕福な部類の家庭だった。

――北園さん、お元気でお暮らしのことと存じます。
僕はなんとかやっています。
沖縄での生活にも少しずつ慣れてきました。
とはいえ、見たことのない食べ物や蒸し暑さには、いまだ手こずっています。
それに、米軍が我が物顔で街を闊歩しているのも、なんだかね。
夏休みになったら、東京へ行こうと計画中です。
調布の伯母の家に居候して、アルバイトをするつもりです。
こちらは時給が低すぎるから、東京の方がいいかなと思って。
そのとき北園さんに会いたいと考えています。
それとも北園さんは帰省してしまうのかな?
日にちが決まったら、また連絡します。
北園さんからの手紙もお待ちしています。    天ヶ瀬良一

内容のない手紙だった。
これといって面白いこともなければ、苦悩することもないのだろうか。
――本当のところはどうなの?
そう尋ねてみたい衝動にかられていた。
だが、自分も当たり障りのないことばかりを手紙に書くようになっていた。というのも、メールもLINEも存在しない世の中では、遠方に住む相手に心配の種の片鱗(へんりん)を見せることを躊躇(ちゅうちょ)してしまうのだった。手紙となると、ただでさえまどろっこしいのに、沖縄までからとなると届くのに何日もかかるのだ。
天ヶ瀬は夏休みになったら上京すると言っているのだし、そのときに会って積もる話をすればいい。そう思うと、返事を書く気が起こらなかった。
テレビを点けてから、畳の上に座布団を並べて寝ころんだ。リモコンというものも、この時代には存在しなかったので、テレビを点けたり消したりするのさえ面倒に感じていた。 
この時代の学生が持っているテレビと言えば、みんな十四インチだった。令和の時代に五十インチの画面を見慣れていたから、びっくりするほど小さくて、ついつい至近距離まで近づいてしまうのだった。
女優の結婚記者会見が始まっていた。
この女優は大人気で引っ張りだこだが、相手はあまり知られていないミュージシャンだった。女優は二十八歳で、ミュージシャンは三十七歳だという。
「得意料理は何ですか?」と、レポーターが女優に質問した。
「これから勉強しようと思っています」と、女優は申し訳なさそうに答えた。
「えっ、今から、ですか? でも、カレーライスくらいは作れますよね?」
「うーん、自信ないです」
「ええっ、そうなんですか? 旦那さまは、そんな奥さまでも大丈夫なんですか?」
「本人が勉強するって言ってんだからいいんじゃないの? 俺は期待してる」
「ほう、寛大な旦那さまですね」
「そうかな」と、夫は褒(ほ)められたと思ったのか、嬉しそうに笑っている。
「で、料理もできない女房なんてやっぱり我慢ならないと不満が募って、もしも旦那さまが浮気したら、どうします?」
「あら、嫌だわ。どうしようかしら」
 何なんだろう。この質疑は。
どう見たって、女優は稼ぎまくっているが、ミュージシャンの方は全く売れていないのだ。誰が見たって女優が一家の大黒柱じゃないか。
とはいえ、女優は女らしさを売るのが商売だから、ここで男女同権を振りかざしたりはしないだろう。そんなことをしたら、男性ファンを一気に失ってしまう。
「最も肝心な質問なんですけどね、結婚後も引退されないと聞いてますが、それは本当なんですか?」
「ええ、しばらくは女優を続けようと思ってますけど?」
「旦那さまは、それを許すおつもりですか?」
「うん、俺はやりたきゃやってもいいって言ったんだ」
「それはそれは。なんとも理解のある旦那さまですね」
 そうじゃないだろ。女優を辞めたら一家が食っていけないからだろ。
こんなの茶番じゃないか。
この男、単なるヒモじゃないか。
主夫という言葉もあるにはあるが、それを実践している夫婦などめったにいないことを私は以前の人生で知っている。妻の収入に頼って生活している夫のほとんどが、家事育児を申し訳程度にしか手伝わない。そんな男と結婚して不満を募らせている妻が、パート仲間や同級生の中に何人もいたからだ。
「旦那さまのご両親とは仲良くやっていけそうですか?」
「さあ、どうでしょうか。お義父さまとお義母さまに気に入られるよう、努力するつもりではいますが」
 おいおい、女の方の親はどうでもいいのか?
 ああ、私はこういう時代に大切な若いときを過ごしたのだ。結婚した途端に、女は「嫁」以外の何ものでもなくなる風潮だった。
売れっ子女優なのだから、何もわざわざ結婚なんかしなくていいのにと思うのは、私が令和まで経験した六十代の女だからだろうか。
何を好きこのんで、こんな夢ばかり追って稼ぎのない男の世話をするのか。見るからに健康体で、日に焼けているじゃないか。
そういう私も若い頃は、恋愛感情が最も尊いものだと心底信じていて、男女間に損得勘定などもってのほかだと考えていた子供っぽい時期が長くあった。
ああ、頭が爆発しそうだ。
この記者会見を見た若い人々はきっと影響を受けるだろう。男女の役割分担や、嫁の立場を当たり前のものとして受け取ってしまう。
売れっ子女優の妻は分刻みで働いて何億と稼ぎ、夫は昼間からパチンコに行っていたとしても、女はカレーライスを作れる程度では許されないのだと。
やはり、レポーターに忠告しなければならない。
スヌーピーのレターセットを実家に置いてきてしまったから、明日は学校帰りに文房具屋に寄ろう。
ついでに天ヶ瀬にも返事を書こう。アケタのことや、トイレの防犯ベルのことなど、書こうと思えば本当は話題は尽きないのだから。

   @10  大学一年生の夏休み

夏休みになった。
 帰省したところで、あんな田舎では何もすることがないし、古い考えの親にあれこれ言われるのもウンザリだったから、東京に残ってアルバイトをすることにした。
 ケーキ屋のアルバイトは辞めて、他のアルバイトを探すつもりだった。店主からのセクハラが耐え難かったからだ。
 ショーケースの前に立って客の相手をしていると、五十代の店主は決まって私の背後を通りすぎる。その一瞬の隙に、私のお尻をさっと撫でていくのだ。
若いときの私は、五十代や六十代にもなった男性が、若い女性を性的な目で見ているなんて夢にも思っていなかった。とんでもない世間知らずだったのだ。
だが平成、令和と、老齢男性のセクハラが相次いで報道され、初めてその生態を知ることとなった。
 ある日、我慢できずに「いい加減にしてくださいっ」と大声を出すと、店主が心底驚いた顔を向けたので、逆にこちらが驚いてしまった。
「サービスのつもりだったんだよ。あんたみたいな女の子、どうせ男にはモテないだろうと思ったからさ」
 その顔つきからして、皮肉でも冗談でもないようだったので二度びっくりだった。というのも、私は男の子から声をかけられることが少なくなかったからだ。女子が少ない環境にいることが大きいが、六十年以上も生きてきたから、化粧や服装のセンスについても鍛練(たんれん)されていたことも関係しているのだろう。 
翌日、アケタに相談すると、すぐにでもアルバイトを辞めた方がいいと言う。ホステスならまだしも、ケーキ屋で無償で触らせることはないと。
アケタの考え方が自分のとはズレているような気がしたが、もう二度と行きたくなかったので、アケタのアドバイスに従うことにした。
店に行くと、店主は競馬場に行っていて、女将(おかみ)さんしかいなかった。
「すまなかったね」
女将さんはそう言ってから、その場でバイト料を清算してくれた。女将さんは自分の精神の安定を守るために、「どうせあんたの方からうちの亭主に色目を使ったんでしょ」などと難癖をつけてくるのではないかと覚悟していたが、その考えは大変失礼なことだった。年配女性は視野が狭くて客観的に物事が見られないなどと、自分の目に偏見の厚い膜が被さっていたのに自分でも驚いてしまった。
「学生さんを雇っても雇っても、うちの亭主のせいでみんな辞めちゃうのよ」
「えっ、私だけじゃなかったんですか? だったら女将さん......」
私は女将さんの顔を穴のあくほど見つめてしまっていた。
次の瞬間、
――よくもそんな男と結婚生活を続けられますね。
と言いそうになってしまい、慌てて両手で口を押さえた。
尊敬できない夫を持つつらさを私は知っている。そして、そんな男であっても、離婚したら食べていけなくなる己の悔しさや情けなさも。
「まっ、男ってどうしようもない動物だよ。でも仕方ない。どこのご主人も同じようなものだもの。あなたも大人になったらわかるよ」
女将さんはそう言って苦笑いした。
ああ、そうやって自分の精神が崩壊しないようにしているのか。
――男がみんなそんなわけないじゃないですか。まともな男性に対して失礼ですよ。
もう少しでそう言いそうになったが、客が店に入ってきたので言わずに済んだ。
次のアルバイトはすぐに決まった。同じクラスの上田くんの家が北千住で工務店をやっていて、事務兼雑用のアルバイトを募集しているという。同じ働くなら、建築関係の仕事がしたいと思っていたので、渡りに船だった。

 天ヶ瀬と待ち合わせた喫茶店に行くと、奥の席から手を振っているのが見えた。
ずいぶんと日に焼けていた。そのうえアロハを着て長髪だからか、高校のときとは別人のようだった。これでサングラスでもかければ間違いなくチンピラに見えると思う。真面目な医学生には見えなかった。
「北園さん、頼むからアパートに電話を引いてくれないかな」
挨拶も何もなく、いきなりだった。
「俺さ、いちいち手紙なんか書いてらんないし、すぐに話がしたいときだってあるんだ」
「そんなお金ないってば」 
 電電公社の債権を購入するだけでも八万円もする時代だった。アルバイト代の大半を食費に使っていたから、貯金は少ししかなかった。
「足りない分は俺が出すからさ」
「冗談でしょ。そうはいかないよ」
「出世払いで返してくれればいいから、ね? 頼むよ」
 天ヶ瀬は家庭教師のアルバイトでかなり稼いでいるらしい。沖縄で琉球大学医学部といえば最高峰の学歴だから、時給が高額なのだという。そのうえ、担当している大金持ちの家の息子の成績が大幅に上がり、親からボーナスまでもらったという。
「そこまで言うなら電話を引くよ。でも、必ずお金は返すから」
 そう言うと、天ヶ瀬はホッとした顔をしてから、「北園さんはいいよね」と、羨ましそうに言った。
「いいって、何が?」
「東京で学生時代を送れることだよ」
 医者になる道が開けたことには満足しているようだが、大都会東京への未練があるらしい。
「そうは言うけど、都会で暮らす女子は色々と大変だよ」
「手紙にも書いてあったトイレの防犯ベルのこととか?」
「それ以外にもたくさんあるんだよ」と私は言い、電車での痴漢のこと、そしてケーキ屋の店主のセクハラのことなどを話した。
「ええっ、そんなことがあるのか」
「私、以前にも増して男が嫌いになりそうだよ」
「でもさ、もうケーキ屋も辞めたんだし、銭湯に行くとき用に自転車も買ったんだろ? だったらあとは、満員電車を避ければいいだけじゃないか」
「どうやって?」
「一限目から授業があるときは始発電車に乗ればいいよ、うん、そうしなよ。始発なら空いてるだろ?」
 自分の思いつきを得意げに語る天ヶ瀬から目を逸(そ)らし、私は言った。
「そうね。天ヶ瀬くんの言う通りだね。朝四時台の電車に乗れば済む話よね。大学に着いてから一限目が始まるまで二時間半くらい待てばいいだけだから、簡単なことだよね」
 そう言ってから、これ見よがしにハアッと深い溜め息をついた。
「え? あ、ごめん」
 さすがの天ヶ瀬も、私の言葉が皮肉だと気づいたらしい。
「さっきの俺の発言、忘れてほしい。それにしても......」と、天ヶ瀬は宙を見つめながら言った。「女の人って、そこまで警戒して暮らさなきゃならないとは、俺、今まで気づいていなかった」
「あっ、そう。六十三歳までの人生経験があるわりにはお気楽なものね。結婚してたんだから、奥さんの生活も間近で見てきただろうに」
「そう言われればそうだけど、いくらなんでもそこまでとはね」
「令和の時代はSNSが広がって、男性の卑劣さが露(あら)わになったでしょう?」
「そうだっけ? 例えば?」
「例えば大学共通テストの日に女子の受験生に痴漢するとか。絶対に遅刻できないから我慢するしかないのを狙っているのよ。それに、車椅子の女性が自力で逃げられないことをいいことに、電車の中で目をつけて家まで尾行して卑劣な行為に及ぶとか、それに......」
「ちょっと待てよ。そういう事件があったのは知ってるけど、男がみんな卑劣なわけじゃないよ。少なくとも俺は違う。絶対に違う」
天ヶ瀬は怒ったように、そう言った。
 ああ、この光景だ。
同じような顔つきの男を、今まで何度見てきただろうか。男たちはみんな「俺は違う」と声を揃える。その中には、侮辱されたと勘違いして女を敵対視するようになる男もいる。
「あのさ、天ヶ瀬くんがそんな男じゃないことは知ってるよ。いつの時代も、一定数のクズ男が存在するってことよ。そのクズ集団の中に天ヶ瀬くんは入ってないよ」
 そう言うと、天ヶ瀬は少し安心したような顔になった。
 類は友を呼ぶの言葉通り、天ヶ瀬の仲の良い友人たちや親族の男たちの中にも、そういった卑劣なクズ男が一人もいない確率は高い。
つまり、天ヶ瀬のような善良な男たちは、卑劣な男たちと接点がないまま人生を終えるのだ。
だが女は違う。ほとんどの女が、卑劣な男たちと接点を持たずに暮らすことは不可能だ。
 だって、東京の満員電車で痴漢に遭ったことのない女がいるだろうか。
 そのことを、天ヶ瀬に丁寧に説明してみることにした。前の人生では、納得いくまで夫と話すという姿勢が抜けていたからだ。それが以前の人生での最大の反省点だ。
「......なるほど。気づかなかった。女の人は想像以上に大変な生活を送ってるんだね」
「そういった卑劣な連中は、女の抗議に耳を傾けたりしないのよ。徹底的に女を下に見ているからね。だけど、男の言うことなら聞く場合もあると思うの。だから、せめて痴漢を目撃したときは女の人を助けてあげてほしいのよ」
「そう言われてもねえ」
「え?」
 俺はいつだって弱きを助けているよ、などという言葉が返ってくると思っていたので、びっくりして天ヶ瀬を見つめた。
「だってさ、世の中にはとんでもなく野蛮な男がいるじゃないか。こっちが刺されたりしたらバカを見るだろ」
「とばっちりを受けるのは真っ平ごめんってこと?」
「そういう言い方するなよ。まるで俺が卑怯みたいじゃないか」
「卑怯だよ」
「なんでだよ。俺は何も悪いことしてないだろ。それなのに刺されて死ねって言うのかよ」
「天ヶ瀬くんのこと......嫌いになりそう」
「それはひどいよ。俺に、正義の味方のスパイダーマンになれとか言ってんの? 身を挺(てい)してまで?」
こういう男性が一般的なのだろう。
天ヶ瀬に向かって、他人の犠牲になれとまでは言えない。
となると、女はどこに救いを求めればいいのか。
「天ヶ瀬くん、私、言いすぎたかも。ごめんね」
「いや、謝らなくてもいいけど......」と、天ヶ瀬は歯切れが悪い。
「高校生のときに護身術を習っておいて正解だったよ。やっぱり頼れるのは自分だけだもん。いくら女が非力だからって、それでも赤の他人の男に期待するのは間違ってるんだね」
 そう言うと、天ヶ瀬は黙って私を見つめた。
防犯ブザーは思った通り売っている店は見つからなかったが、体育教師が持っているような笛は手に入れていた。鋭い音が鳴るタイプの物を買い、いつもポケットに忍ばせておくことにしたとアケタに話したら、「私も欲しい」と言って、同じものを買ったのだった。
 田舎で暮らす両親は、満員電車に乗ったこともなければ、夜遅く銭湯に出かけることもない。自分の娘が四六時中警戒して暮らしていることになど、きっと考えも及ばないだろう。         (つづく)

マンダラチャート

Synopsisあらすじ

「私」は、現在63歳。子どもは巣立ち、夫と二人で暮らす平凡な主婦だ。夫は私に関心がなく、家政婦程度にしか思っていない。

ある日、私はふと、気がつく。WBCで活躍した、大谷選手やダルビッシュ、ヌートバー……。彼らは子どもの頃からの夢を一途に追いかけて、あの場所に立っている。なぜ自分はここで、こんなふうに不満ややるせなさを抱えて生きているのだろう。「私は、成績も良かった、努力すればもっと自分の能力を生かせる生き方が出来たはず。けれども、美しくあろうと外見にばかり注力してきたために、今はただのオバサンになってしまった、もし、あのとき、外見をつくろったり、男性の目を気にすることなく、自分のやりたいことを一途に貫いていたら」

もう一度、人生をやり直したい……激しい後悔とともに、そう強く願った私は、気がつくと、中学生に戻っていた……。

Profile著者紹介

2005年『竜巻ガール』で小説推理新人賞を受賞し、デビュー。テレビドラマ化された『リセット』『夫のカノジョ』『結婚相手は抽選で』『定年オヤジ改造計画』や、映画化された『老後の資金がありません』のほか、『四十歳、未婚出産』『夫の墓には入りません』『姑の遺品整理は、迷惑です』『うちの子が結婚しないので』『もう別れてもいいですか』『あきらめません!』『懲役病棟』など著書多数。

Newest issue最新話

Backnumberバックナンバー