マンダラチャート@6 高校入学 一九七五年 / @7 天ヶ瀬に落胆した日 / @8 天ヶ瀬からのプロポーズ

@6 高校入学 一九七五年 
    
 私と天ヶ瀬は、県立緑山高校に入学した。
 二人とも電車通学になり、行き帰りの電車で話ができるようになった。それもあって、そろそろ交換日記は必要なくなってきたと思い始めていた矢先、天ヶ瀬は帰りのホームルームが終わると、ノートを持って私のクラスまで来るようになった。
 俺たちは交換日記をしている仲なのだと、まるで見せびらかすように堂々としている。それというのも、入学早々に女子に注目され、ファンクラブ結成の噂が耳に入ってきたからだという。女子に囲まれて鬱陶(うっとう)しい事態に陥る前に、既に俺には彼女がいるんだと機先を制したらしい。
 それを聞いたとき、私は怒りまくった。
「私の立場も考えてよ。女子から総スカンを食らうじゃないの。卒業までずっと孤立したままの状態になったらどうしてくれるのよ」
 すると、天ヶ瀬は反論した。
「北園さんは高校生なんかと友だちになりたいの? そんな必要、ある?」
 六十三歳までの人生を経験した自分が、十代の女の子と友人になりたいわけではない。それでもやはり天ヶ瀬とのことで嫉妬(しっと)むき出しの視線を浴びたり、無視され続けたりしたら、さすがに六十代のおばさんといえども神経が参ってしまうのではないかと恐れたのだ。
「私は目立ちたくないんだよ。静かに暮らしたいの。そんなささやかな願いを天ヶ瀬くんは自分勝手にぶち壊したのよ」
「あ、なるほどね。気づかなかった。ごめん、ごめん」
 なんて軽い言い方だろう。
 そのとき、ふと既視感に襲われた。即座に納得したふりをして簡単に謝る男たち。表情は平然としていて、どこにも謝罪の感情は見当たらない。そういった違和感を、これまで何度も経験してきた。
 天ヶ瀬も他の男たちと同様、自分ひとりの一直線の人生しか眼中にないのか。女を添え物くらいにしか見ていないから、女の立場や都合などどうでもいいのか。たぶん無自覚だろうから悪気がないともいえるが、その分、余計に罪深くて質(たち)が悪い。
 だが、作詞家に抗議の手紙を送ったと女中部屋で話したあの日......。
 ――日本の男女観はおかしいだろ。
 彼はそう言ったのではなかったか。だから私は天ヶ瀬を、日本人にしては珍しくまともな男だと認定したのだが、早とちりだったのだろうか。

 そんなことがあってから、昼休みになると、別のクラスの生徒たちがわざわざ私の顔を見にくるようになった。
「うそ、あれが天ヶ瀬の彼女なの? へえ、意外」
 小さい声で言ったつもりかもしれないが、はっきりと耳に入ってきていた。
「へえ、意外」というのは、「へえ、あんな顔でよく選ばれたもんだね」という意味であるのは明らかだった。
 そんな日々が続いてうんざりしていたが、そのうち知れ渡ったのか、見にくる生徒はいなくなり、やっと心に平安が戻ってきた。
 ケメコも奥山由香も沢田直美も、隣市にある別の高校へ進学し、それまでの親しい友人がいなくなった。だが、寂しいどころか、プライベートを根掘り葉掘り尋ねてくる人間が周りからいなくなり、ほっとしていた。
 こうなってみると、天ヶ瀬との交際が知れ渡ったのは、却(かえ)ってよかったのかもしれない。誰も私に近寄ってこなくなり、自分のことに集中できるようになった。
 中学生にタイムスリップした当初は、余計なことを口走らないようにと、学校ではひたすら無口でいることを自分に強いていた。だがあまりに無口だと、人を馬鹿にしているように見えると気づいてからは、微笑みを絶やさないよう努力した。しかし頰の筋肉が引きつってうまくいかなかった。
 周りにどう思われたっていいんじゃない?
 貴重な二度目の人生なのだ。他人の目を気にする時間も気力ももったいない。この際、周りに変わり者だと後ろ指差されてもかまわないではないか。
 ――目立ちたくない、中学生に溶け込まなきゃ。
 今までそう思って必死になっていたのは、未来からタイムスリップしてきたことがバレるのが恐ろしかったからだ。
 だけど、「お前は本当は六十代だろ」などと、いったい誰が疑う?
「五十年先の世界からタイムスリップしてきたんじゃないのか?」などと、いったい誰が考える? 
 どこから見たって私は中高生にしか見えないのだ。
 本来の性格から言えば、友人たちと群れることが苦手だった。中学のときは単独での行動が目立つと、内申書に「協調性なし」と書かれるのではないかと恐れていたし、高校入試のローカルな情報を得るためには友人が必要だった。だが高校入試が終われば、もう不要だ。
 五十代も半ばを過ぎた頃からだったか、協調性どころか友だちなど必要ないと考えるようになった。
 わからないことがあればスマホで検索すれば事足りる時代だ。インターネットを検索すれば、そこには実用的な情報だけではなく、同じ悩みを抱える人々の相談と回答がたくさん載っている。それらを読むことで、精神的落ち込みから這(は)い上がれることが多くなっていた。
 身近な人間に相談するのとは違い、匿名(とくめい)の世界だから他に話を漏(も)らされる心配もない。そして、思いもつかない様々な貴重なアドバイスは、友人知人だけの似た者同士の狭い世界では決して得ることができないものだった。
 そんなことがあって六十代になった頃には、とうとう友人知人との関わりを最小限にした。世間一般にも、「断捨離」が人間関係にまで及ぶ風潮が広がりつつあった。
 それまでも、近隣の主婦などと軽く立ち話をしたとき、ついつい余計なことまでしゃべってしまって後悔することが少なくなかった。それに、何気なく言ったことでも自慢だと捉えられることがしばしばあった。これといって取り柄のない私のようなパート主婦のどこに嫉妬するのかが謎だった。逆に、五十歩百歩の貧富の差で見下されることもしょっちゅうだったから、そのたびに嫌な気分になったものだ。
 夏目漱石の『草枕』の冒頭にある「とかくに人の世は住みにくい」を実感するような毎日だった。人間というものは、他人との少しの差を見つけては優越感に浸ったり劣等感に打ちひしがれたりするらしい。そういった鬱陶しい世界から身を引きたくて、カフェで一人コーヒーを飲みながら読書を楽しんだり、雨の日は手芸をしたり、家で映画を見たり、日帰りのプチ一人旅をしたりと、一人で楽しむことが増えていった。
 だから、高校生の孤立など、どうってことはない。
 大谷翔平のマンダラチャートを思い出せ。
 彼は十時間以上の睡眠を確保するために、食事や飲み会に誘われても断わるのだそうだ。人生を野球に捧げているからだ。私も彼のように一直線の人生を歩みたい。無駄なことに神経をすり減らしている暇なんかない。
 将来は建築関係に進みたいと考え始めていた。使い勝手の悪い台所や、掃除のしづらい浴室や、断熱材をケチったせいで夏は暑く冬は寒い建物など、生活者目線を無視した内装や建築方法を修正したかった。
 そして何より女が安心して一人で住める家が必要だと感じていた。今後さらに少子高齢化が進むと、戸建てに住む独居老人が増えるだろう。マンションを選ぶにしても一階は物騒だ。一階なら庭付きの物件が少なくないことを思うと、庭仕事が好きであっても諦めざるを得ない。
 そういった様々なことを、ひとつひとつ解決していくことを人生の目標にしたいと考えていた。その第一関門として、大学の建築学科に入りたかった。
 前の人生では、両親は私に短大しかダメだと言ったが、今回の人生では四年制大学に進学させてくれるに違いない。というのも、三歳違いの兄が調理師専門学校へ進んだことで、学費が少なくて済んだからだ。
 兄が大学へは行かないと言ったとき、母は大反対して泣き落としにかかった。だが兄の決意は固く、両親ともにとうとう諦めて兄を送り出した。
 兄は東京へ発つ前の晩に、両親に言った。
 ――僕の学費が浮いた分は雅美に回してやってほしい。雅美は僕よりずっと優秀だから。
 そのときの母は、私の方をちらりと見ただけで、すぐに兄に向き直り、「そんなことより圭介、身体に気をつけて暮らすのよ」と言った。私の将来がかかっているのに「そんなことより」なんて言い方はひどい。そう思って助けを求めるように父を見たが、父はすっと目を逸(そ)らした。
 だが、これも私のいつもの悪い癖で、きっと考えすぎなのだろう。第一子が初めて親元を離れていこうとする場面だったのだ。大切な息子の今後のことが心配で、それ以外のことは考えられなかったのだと思う。
 本物の高校生だったときと比べて何倍も勉強が捗るのは嬉しい誤算だった。六十数年間の人生経験で、段取りの良さや計画性が身についていたし、今ここで怠けてしまったら将来何も達成できないことを身に染みてわかっていた。だから自分に甘えや怠け心を許さなかった。そんなストイックな心構えと、知識をどんどん吸収できる十代の脳ミソの組み合わせは最強だった。
 歴史が苦手だったはずなのに、歳を取ったことで、歴史上の人物の人生に思いを馳(は)せるようになり、楽しんで覚えることができた。そして、あれほど頭に入らなかったはずの化学記号がすんなりと頭に入ってくるのは、将来の目標がはっきりしていたからだろう。
 そんなとき、大学受験のための模擬試験が行われ、私は校内で四百人中十八番だった。
 緑山高校では、上位三十人の氏名と点数が廊下に張り出されるので、成績優秀者が全校生徒に知れ渡ることになった。そのとき初めて「天ヶ瀬の彼女」ではなく、「北園雅美」の名を知った同級生もいたようだった。
 夕飯のとき、「大学の建築学科に進みたいんだけど......」と、私は切り出し、模擬試験の結果を両親に見せた。
 兄が大学に行かなかったからといって、それほど家計が楽になったわけではないのは日々の暮らしを見ればわかっていた。兄の専門学校の学費が安いわけでもないし、生活費の仕送りも必要だ。それに、両親の今後の生活や老後のこともある。
 田舎に生まれると、つくづく不利だと思う。この地方には家から通える範囲に大学が一校もない。
 ――東京に自宅があって東京の大学に進学するなんて、タダみたいなものよ。
 これはのちに親友となった美人の百合子から言われた言葉だ。
 互いの第一子が大学受験のとき、メールで連絡を取り合っていた。地元で暮らす百合子は、娘が京都の大学を受験するが、受かった暁(あかつき)にはアパート代や生活費の仕送りがいかに大変かを嘆いたのだった。
「建築学科ってことは、雅美は大工になりたいのか? 女の大工なんて見たことも聞いたこともないぞ。女がそんなとこ進んで何になる? どうせ嫁に行くのに金がもったいない」 と、父は熱燗(あつかん)を吞みながら言った。
「短大に進んで幼稚園の先生になりなさい」と、母は命令口調で続けた。「子供好きの優しい女の子やと思われるから男の人にウケがいいんだわ。きっと見合いの話もたくさんくるよ」
「私は男にウケるために生きてるんじゃないんだよ。私の人生は私のものなんだよ。嫁に行くために生まれてきたんじゃないんだよっ。私の可能性を押しつぶさないでっ」
 怒りを抑えきれず、大きな声を出してしまった。
 両親は揃ってぽかんと口を開けて私を見ている。
「最近の雅美、どんどん変になる」
 母は気味の悪いものを見るような目で私を見た。
 父は、もう話は終わったとばかりにテレビに向き直っている。
「この模試の結果を見てなんとも思わないの? うちの高校は男女共学だよ。つまり、私より点数の低い男が二百人以上もいるんだよ」
「そりゃあ女でも東大に行けるくらい優秀だっていうんなら話は別だけどな」と、父は視線をテレビに向けたまま言った。
「えっ、東大? それは、いくらなんでも......」
 兄ならFランクの大学であっても、説き伏せてまで進学させようとしたのに、女の私は東大じゃないと行かせてくれないのか。
「本気で大工になりたいと思ってるわけじゃないんだろ? もしも学校の先生になりたいっていうんなら、考えてみんこともないけどな」と、父が言った。
「お父さん、何を言うとるの。学校の先生なんて絶対にあかん。気の強い女やと思われて嫁の貰い手がなくなるわ」
「お母さん、頭が古すぎるよ。お母さんだって女なのに、どうして女の足を引っ張るの? ああ、もうっ」
 だがこれ以上は強く出られなかった。なんせ親は金持ちではない。
 だけど......兄の学費分が浮いたのは事実なのだ。
 きょうだいなのに、兄にはお金を出せるが私には出せないのか。そうなると、考えが古いだけではなくて、愛情の差もあるのではないかと思えて悲しくなってきた。
 そのとき、テレビから不快な言葉が聞こえてきた。
 ――ほんま不細工やなあ。
 ――大きなお世話やわ。
 テレビから漫才師の掛け合いが流れてきた。
 ――お前、そないに不細工な顔やからいつまで経っても嫁に行かれへんねん。
 ――あんたみたいなハゲに言われたないわ。
 父が、「しょうもない番組だな」と吐き捨てて、すぐにチャンネルを変えた。
 両親が、容姿をこき下ろす漫才を見て笑う人間でなくてよかったと、ほっとしたものの、 こういった漫才は、今後四十年以上も続くのを私は知っている。

 その夜、スヌーピーのレターセットを取り出した。
 ――不美人な女性や、禿げた男性をバカにするのは金輪際(こんりんざい)やめてください。そもそも子供でも考えられるレベルのネタを、恥ずかしいと思いませんか?
 プロ意識を持っていただきたいのです。卵を投げつけて笑いを取るのと同じ低レベルだと思うのですが、いかがでしょうか。
 私を頭の固い人間だと思われるかもしれません。ですが、現実問題として容姿に劣等感を持っている人々がどれだけ嫌な思いをするかを今一度じっくり考えてみてくれませんか。
 テレビの影響力は絶大です。子供たちまでが、ブスは女として価値がない、禿げた男はかっこ悪いと思い込むようになるのです。それによって人を差別したり、自分を卑下する人間に育っていくのです。人間の価値は外見では決まらないと教えるのが大人の責務ではないでしょうか。――

 二学期になる頃には、友人と呼べる女子が何人かできた。友人など要らないと思っていたが、お昼にお弁当を食べる仲間ができたのは、やはり嬉しかった。
 私が天ヶ瀬と交際しているからといって、全女子生徒が敵に回るわけではないらしい。それもそのはずで、いくら天ヶ瀬が女子にモテるといっても、女子全員が天ヶ瀬に恋をするわけがない。観察してみると、恋愛自体にさほど興味のない女子が思ったより多かった。
 それに、ケメコからの電話もあった。
 ――もしもし、北園さん? 聞いたよ。すごく成績がいいらしいね。天ヶ瀬は、女を外見じゃなくて中身で判断しとる、そういうところも素敵だって評判だわ。でも、本当は天ヶ瀬とは単なる友だちなんやろ?
 緑山高校に通っているケメコの従姉がいろいろと教えてくれるらしい。
 ――そうなのよ。ただの勉強仲間にすぎないのに、みんなに誤解されて迷惑してる。
 そう言うと、ケメコは満足そうに言った。
 ――やっぱり思った通りだわ。どこから見たって、二人はお似合いじゃないもん。天ヶ瀬は高校生になってから、さらにカッコよくなったって聞いとるしね。

    @7 天ヶ瀬に落胆した日

 放課後になり、いつものように天ヶ瀬と一緒に校門を出た。
「コーヒー飲んでから帰ろうぜ」
 最近になって天ヶ瀬は、毎週金曜日になると私を喫茶店に誘うようになった。
 この時代は、家にはインスタントコーヒーしかなかったから、たまには豆からドリップしたコーヒーを飲みたいと思う気持ちは私も同じだった。それに、東京での暮らしでは天ヶ瀬も頻繁にカフェに出入りしていたらしく、二人とも喫茶店という空間が好きだった。
 高校の最寄りの駅前には、田舎でよく見かけるアーケードの商店街があり、その中に喫茶店が数軒あった。
 とはいえ、親からもらう小遣いが少なかったから、コーヒー代を捻出(ねんしゅつ)するために、貯金箱からお年玉預金を少しずつ取り崩していた。
 それにしても隔世の感がある。自分が子供を育てた平成時代は、携帯電話やパソコンを買い与えねばならなかったし、携帯電話の月々の料金や塾やお稽古ごとなどで、子育てにはびっくりするくらいお金がかかったのだ。
 だがこの時代の田舎の高校生ときたら、ご飯は家に帰って食べる以外の選択肢はないし、学校帰りに立ち寄るところといえば、せいぜい精肉店の店先でコロッケを立ち食いするくらいだったし、学習塾や予備校はひとつもなかった。
 この当時の田舎では、高校生の分際で喫茶店に出入りすること自体が想定外だったのだろう。校則の禁止事項にも書かれていなかった。それと同じように、パーマをかけたり、ビールで髪を脱色したりする生徒もいたが、それらも禁止事項には盛り込まれていなかったからか、教師は注意することもなかった。
「天ヶ瀬くんに前から聞きたいと思ってたことがあるんだけどさ」
「うん、何?」
 私は、運ばれてきたばかりの熱いコーヒーをひと口啜ってから言った。「日本の男女観は変だって言ってたことがあったよね」
「うん、言ったかもな」
「あれはどういう意味だったの?」
「タイムスリップするちょっと前に、ノルウェーに出張に行ったんだ」
「あ、わかった。あの国は地球上で最も男女平等に近い国だって言われてるもんね。それに比べて日本は遅れてるってことだ」
「うん、そういうこと。打合せが終わったあとの雑談で、ノルウェー人の女性取締役がジェンダー・ギャップ指数の話を始めたんだよ」
 確か二〇二三年は、日本は一四六ヶ国中一二五位だったと記憶している。
「そのとき俺たち日本人の男たちは、思わず目を見合わせちゃったよ。まずい話題になったなって。商談がうまくいかなくなるかもって緊張した」
 そう言って天ヶ瀬は笑った。「きっと日本人男性の俺たちが血祭りに上げられるんだろうって覚悟してたら、そうじゃなかった」
「だろうね。天ヶ瀬くんたちが個人攻撃されても困るよね。日本の組織や法律の問題も大きいからね」
「いや、そうじゃなくてさ、日本人の女はどうしてそんなに情けないのかって、聞かれたんだ」
「えっ、日本人の女が情けないって? 何それ、ひどいじゃない。心外だよ。その取締役の女の人は、どういう意味で言ったの?」
「日本は男女の賃金格差も大きいし、議員のクオータ制も取り入れていない。それなのに、女たちはなぜ闘わないのかって」
「そんなこと言われたって......」
「彼女は日本を旅行したとき、京都で白塗りの舞妓を見かけてショックを受けたって言ってたよ」
「どうして?」
「舞妓と芸者と売春婦のイメージがごちゃ混ぜになっているみたいだった」
「そんなの単なる誤解じゃないの」
「だけど、どう見ても男の慰(なぐさ)み者にしか見えなかったって。何枚も重ねた着物や厚底のポックリを見て、男に襲われても走って逃げられない恰好(かっこう)をしてるって」
「そんな勝手な想像で言われてもね」
「それに、過剰な化粧が気味が悪かったって」
「それは断じて失礼よ。外国人がどう感じようが知ったこっちゃないよ。よその国の文化に対して敬意なさすぎ」
「そうは言うけどさ、感覚的なものだから責められないよ」
「だけど、いくらなんでも......」
「舞妓の姿が日本人女性の姿と重なるみたいだった。何百年経っても日本人の女は変わらないって。いつでもどこでも意味なくへらへら笑ってるって」
「本当にそんなこと言ったの? へらへら意味なく? 頭にきた。失礼にもほどがあるよ」
「でもさ、中国人や韓国人と比べたら段違いに愛想はいいよね」
 そういえば......戦争に負けて満州から引き揚げるとき、中国人のふりをして難を逃れようとしても、愛想笑いで日本人の女だとバレてしまったと聞いたことがある。
「でもさ、スマイルは世界共通の挨拶だと思うんだよね」
「たぶん行き過ぎると人間性を疑われるんだよ。日本人女性は、みんな黙って男に従って先回りしてサービスをする。男を歓ばせることが仕事で、要は慰み者の地位から脱してないんじゃないかって言ってた」
「かなりショック」
 男が悪いのだとずっと思っていた。国会議員の席も家長の席も、絶対に女に譲ろうとしないからだと。
「ノルウェーではウーマンリブのデモ行進をしただけで牢屋にぶち込まれた時代があったらしいよ。だから女たちはみんな柔道を習いにいったんだってさ」
「えっ、柔道? 腕力でも男に勝とうとしたの?」
「そうらしい。俺もびっくりしたけど」
「......そうか。私、ちょっと考えてみる」
「考えるって、何を?」
「考えが甘かったかもって。もっと自助努力の道があったかもって思った」
 ノルウェーの女性たちが、武道を身に付けようとまでしたのは衝撃的だった。腕力でも男に勝とうとする、その強烈な思いは、それまで虐(しいた)げられてきた日々が日本の女の比ではなかったからではないだろうか。
 日本は、なんだかんだ言っても、妻が家の中を取り仕切っていて、財布を握っている家庭が多い。だが欧米では、夫が妻に週に一度、生活費を渡すのが普通だ。私なら、その時点で屈辱的な気持ちになるだろう。そのうえ白人は男女の体格差が大きいから、男の機嫌を損ねることへの恐怖心は、日本人の女には想像できないレベルかもしれない。
「そうだよ。女も変わるべきだよ。日本人の女って、考えが甘いところがあると前から思ってたんだ」
 そう言ったときの天ヶ瀬の顔つきが偉そうで、心の中がモヤモヤした。
 まるで、俺は女の問題くらい知ってるよ、なんなら君より詳しいくらいだ、とでも言いたげに見えて。

 その翌日、私は少林寺拳法部に入部届けを出した。
 緑山高校には柔道部がなかった。武道といえば少林寺拳法部と剣道部しかなかったので、 どちらに入部すべきか考えた。暴漢や痴漢から身を守ることを想定すると、剣道なら竹刀がないと闘えない。常に持ち歩くわけにもいかないから、選択の余地はなかった。
 護身術を身に付けたら、すぐにでも退部するつもりだった。人生は短いからぐずぐずしている場合ではない。
 その旨を正直に話すと、意外にも顧問である初老の男性教師は、二つ返事で引き受けてくれた。週に一回は、練習が終わったあとに女子部員を集めて護身術を教えてくれることが決まった。部員でなくても誰でも参加できるようにしてほしいと言ったら、「いい考えだ」と顧問は快諾してくれた。
 何でも言ってみるものだ。あの父にしたって、夕飯の支度を手伝うようになったのだから。
 初日には部員以外にも数人の女子生徒が集まった。その中に、意外にも美人の百合子がいた。常にちやほやされている美人がなぜ護身術を習おうとするのか、こんなことが知れたら人気が落ちるのではないかと、他人事ながら心配になった。
 だが考えてみれば、百合子とは中学時代から一度も同じクラスになったことがなかったから、彼女がどんな性格で、どういった考えの持ち主なのかは全く知らなかった。学年一の美人であるという認識しかなかった。
「初日の今日は、背後から暴漢に抱きつかれたときの対処法を教える」
 顧問はそう言い、副部長である大柄な女子生徒に暴漢役を命じた。そして、小柄な女子部員の背後から覆いかぶさるようにして抱きつくよう言った。
「君ならどうやって逃げる?」と、顧問は小柄な方に尋ねると、その女子生徒は副部長の腕を振り払って逃げようとしたが、更に背後から強い力で引き戻されてしまった。副部長は暴漢役をやり慣れているようだった。
「前方に逃げたら暴漢の思う壺なんだ」と顧問は続けた。「力ずくで引き戻されるだけじゃなくて、更に暴漢を興奮させてしまう。こういうときは、その場に素早くしゃがみ込むんだ」
 小柄な女子生徒が、すぐにしゃがんでみせた。
「そうだ、いいぞ。しゃがんだ人間をそう簡単に動かすことはできない。そして大声で叫ぶんだ。暴漢は不意を突かれる。そしてヤバいと思って逃げる可能性が高い。やってみろ」
 それぞれが二人組になって練習した。
 私は百合子と組まされた。百合子は真剣そのもので、にこりともしなかった。
「実際に、『助けて』と大声で叫んでみろ」
 私は力の限り大きな声で叫んだ。家で大声を出したら何ごとかと近所中が驚いてしまう。それを考えると、大声を出すだけのことでも、練習場所は限られてくるのだと知った。
 驚いたことに、百合子の声が誰よりも大きかった。
 もっと驚いたのは、大声を出せない女子が何人もいたことだ。大声くらい誰でもいつでも出せると思っていたが、間違いだったらしい。
「どんな声でもええんだわ。『助けて』じゃなくても、キャーでも、オーでもギャーでも。とにかく大きな声を出さんと」と、副部長が指導する。
 何度も練習するうち、ほぼ全員が大きな声を出せるようになった。
 そのとき、ふと思い出した。
 ――NO!と言おう。
 小中学生を対象とした啓発活動の一環で、イジメや性被害に遭わないようにするための標語だ。
 実際に日本人の子供たちが「NO」と言ったりするだろうか。
 そんなの比喩(ひゆ)に決まってるじゃないのと、この標語を考案した大人はきっと嗤(わら)うのだろう。
 だが、比喩なんか何の役にも立たない。弱者へのアドバイスに具体性が欠けるのは、真剣みが足りないのと、考案者が強者だからだ。
 ああ、もう、この世の中、おかしなことだらけじゃないの。
「しゃがんで大声を上げても暴漢が逃げない場合はどうするか。それはまた来週教えます。今日はここまで」
 
 その夜、スヌーピーの便箋を取り出した。
 ――文部大臣殿。
 小中高の女子に護身術を教えてください。
 体育か家庭科の時間を利用すればよいと思います。
 弱い者の立場に立った教育を切にお願いいたします。
 それと、西暦二〇〇〇年に入ると、イジメや性被害に遭いそうになったときなどに、「NO!と言おう」と小中学生に教える人が出てきます。それを、「やめろ!と叫ぼう」に変更してください。
「やめてっ」ではダメです。その言葉には懇願(こんがん)の意味が含まれるので、痴漢なら更に興奮するし、イジメをする人間なら、更に舐(な)めてかかります。
 女性であっても、できるだけドスのきいた低い声で「やめろ!」と叫ぶ練習をするよう、周知徹底してください。――
 
   @8 天ヶ瀬からのプロポーズ

 その日は進路指導の個別面談があった。
 まだ一年生ということもあってか、志望調査だけだったが、クラスで私だけが調査票を出し遅れていた。両親の説得に時間がかかったからだ。
 担任が体育教師だったので、グラウンドに建つプレハブの体育教官室へ行った。体育教師たちの机がずらりと並べられていて、窓の大きな明るい部屋だった。部屋の奥で、他の体育教師がガリ版印刷機を使っているのが目に入った。
「建築学科? 女子にしては珍しいな」と担任教師は言った。私はこの教師に好感を持っていた。あっさりした優しい人物だったからだ。
「明解大学と清山大学を受けようと思うんですが」と、私は私立大学の名を出した。
 あれから私は両親を毎晩のように説得した。休日に帰省した兄が加勢してくれたのが功を奏したのか、
 ――そんなに言うんなら仕方がない。
 そう言って最初に折れたのは父だった。母は最後まで短大の幼児教育科に固執していたが、結局は父に従った。
「北園さんなら十分に実力圏内だと思うよ。努力次第でもっと上を目指せるんじゃないかな」
 担任教師がそう言ったときだった。
「女が理系とかいったって、たいしたことないわ」
 奥にいた体育教師がつぶやいた。
 独り言のように思わせて、実はこちらに聞こえるように言っているのは一目瞭然だった。
 その言葉で凍りついたのは私だけではなかった。担任教師も目を見開き、ひどく動揺しているのが見て取れた。
「ええっと? それでっと」と担任教師は言い、無理に大きな咳払いをした。「北園さんの志望校はわかりました。この調子で頑張れよ」
 奥にいた教師の方が先輩なのだろう。担任教師は言い返すことも、私を庇(かば)う発言もなかったが、一刻も早く面談を終わらせて、この部屋から私を追い出すことが、精いっぱいの優しさだったのだ。
 奥にいた体育教師は、他の学年を教えていたから、話したことさえなかった。それなのに、憎悪とも思える強烈な感情を向けられたことが、ただただ衝撃的で恐ろしかった。
 どうやら理系の女が憎いらしい。
 なぜだか許せないらしい。
 馬鹿にしたくてたまらないらしい。
 女のくせに自惚(うぬぼ)れるなよと言いたくて仕方がないらしい。
 たぶん彼はこう思っているのではないか。
 ――男の俺でさえ理数系が苦手なのに、女のくせに、なんという生意気なヤツ。
 昔から、女は理数系ができないという根拠のない決めつけがあった。裏返せば、男は理数系ができないとカッコ悪いと刷り込まれているのではないか。
 そう考えれば、彼も「男らしさ」という呪縛に囚われた犠牲者なのかもしれない。
 そういった空気の中で、昭和、平成と私は生きてきたのだと思うと、当時の自分が不憫(ふびん)でならなかった。
 この閉所恐怖のような感覚は、何度も経験したことがある。六十代になってからも、若かりし日に理由なく蔑まれた場面を思い出すたび、大声で叫び出したくなるのだった。完全にトラウマとなっている。たぶん死ぬまで消えることはないだろう。
 平成時代の終わりごろ、医学部受験で女子を差別していることが判明して大騒ぎになったことがあった。その年にたまたまバレただけで、本当はもう何十年にも亘(わた)って点数を操作してきたのだ。だが世間からバッシングを受けたのがきっかけで、その後は点数順に上から合格とするようになった。すると、日本全国の医学部合格者数は女性が男性を抜いたのだ。
 そのことを教えてやりたい衝動にかられたが、そんな未来の話を誰が信じるだろう。頭がおかしいと思われるだけだ。私は気を鎮めるために深呼吸を繰り返しながら、体育教官室を後にした。
 放課後になり、帰り支度をしていると、天ヶ瀬が教室まで迎えにきた。いつものように、「一緒に帰ろう」と言いながらウィンクを寄越す。
 彼のウィンクには毎回どぎまぎさせられる。だが天ヶ瀬も他の男と同じように女を軽く見ているのではないかと疑い始めたことで、彼への憧れは以前ほどではなくなっていた。 しかしそれでも、女子生徒に人気ナンバーワンの男を独占しているといった卑しい優越感だけは心の中に居座り続けていた。
「あれ? 北園さん、何かあったの? 暗い顔しちゃって」と、天ヶ瀬が尋ねた。
「何もないよ。さっき進路指導の個人面談が終わったところだから、いろいろと考えることがあってね」
 駅前まで歩くと、「今日は金曜日だから」と、当然のように天ヶ瀬は喫茶店に入っていく。
 どこの喫茶店も、中高年男性の常連客ばかりだった。高校生はもちろんのこと、女性客も見たことがなかった。最初の頃は、私と天ヶ瀬の高校生カップルを奇異な目で見る人間が多かった。上から下まで遠慮なくじろじろ見られることが嫌でたまらなかったが、一ヶ月もしないうちに、そういった目つきで見られることはなくなった。
 ぼそぼそと小さな声で話す二人の間には、恋愛ムードが皆無だからだろう。店のマスターも、私たちがカップルではなくて、友人か部活仲間かそれとも親戚関係かきょうだいのいずれかだと見るようになったのだと思う。
 いつもの窓際の席に向かい合って座った。
「天ヶ瀬くんは、進路はどうするの?」
「俺は琉球大学に行きたいと思っている」
「えっ、なんで沖縄なの?」
「この時代は、国立の医学部の中で琉球大学がダントツに偏差値が低いから、もしかしたら受かるかもって思ってさ」
「天ヶ瀬君は医者になりたかったの?」
「いや、特にそういうわけでもないんだけど」
「だったら、なんで?」
「手に職をつけたいと思ってさ。それで......」
 天ヶ瀬は言いかけて黙った。
「それで、なんなの?」
「自由に生きていきたいんだ。医者のアルバイトって、すごく時給が高いんだ」
「そりゃあパートのおばさんの時給とは桁(けた)が違うんだろうけど」
「例えばさ、今年一年はがっぽり稼いで、翌年一年間は外国を旅して回る、みたいな生活をしたいんだ。リュック一つで海外を旅する若者たちをYouTubeで見るたびに、羨ましくて悔しくて地団太踏む思いだったんだ。俺の人生なんだったんだろうって」
「天ヶ瀬くんはよくても、そんな生活、奥さんが納得しないんじゃない?」
「結婚なんかしないよ。二度としない」
「えっ、そうなの? だって美人の奥さんと優秀な息子さんたちがいて、理想的な家庭だってケメコから聞いたことあるけど」
「本気で言ってる? 家族構成だけ聞いて幸せだって決めつけるの、おかしいだろ」
 二度と結婚しないと言いきるほど不幸だったというのか。例えば離婚寸前とか家庭内別居とか? それとも息子たちは優秀ではあっても引きこもりだとか、気に入らないことがあると暴れるとか?
「俺、今になって思うんだけど、結婚するんなら北園さんみたいな女の人がよかったよ」
「え? それ、どういう意味?」
 告白でないことは重々わかっていた。
 いつも一緒に登下校し、毎週金曜日には喫茶店に寄るようになった。互いのプライベートなことも少しずつ話すようになっていたし、性格や考え方もだんだんわかってきていた。だから、天ヶ瀬は私を同志として見ているのであって、女としては見ていないと思っていたのだが、違ったのか。
「天ヶ瀬くん、さっき二度と結婚はしないって言ったばかりだよね?」
「北園さんが相手なら結婚してもいいよ」
「したい、じゃなくて、してもいいよっていう言い方が私は気に入らないけどね」
「あ、ごめん。そうじゃなくてさ、令和時代まで経験しているのは俺たち二人しかいないだろ? もしかしたら探せばどこかにいるかもしれないけど、見つけ出すのは至難の業だ。だったら二人で協力して生きていくしかないんじゃないかなって思ってね」
「あ、なるほど」
 それはルームメイトという意味なのだろうか。
 きっとケメコなら言うだろう。初恋の人と結婚できるなんて羨ましい、あなたは運がいいね、と。
 だけど私は知っている。知りすぎてしまった。どんな恋愛でも必ず冷めるし、結婚したら男女の関係は大きく変わることを。
 母親と息子のような関係になるという人が多いけれど、そんな美しい関係ではない。たいがいの男は実の母親には優しいが、妻には偉そうにふるまう。ご主人様と家政婦の上下関係ができ上がる。
 もう男はこりごりだった。
 私は自分の人生を生きると決めたのだ。
 その道を邪魔をするのは、他の誰でもない、夫となる人間なのだ。
 そうは思うが、中学時代に憧れ続けて、とてもじゃないが手に入りそうになかった天ヶ瀬に言われてみると、結婚してもいいような気がしてくる。
 ああ、その優柔不断さが、自分でも嫌になる。
「北園さんは地味だから、ブランドものを買いまくったり、ママ友に見栄を張って贅沢したりしないだろ? だから結婚相手にいいと思ったんだ」
 は? 何なのそれ。
 それはまさに、天ヶ瀬の妻の性格と正反対のことを言っているのだろう。
 高級ブランドを買いまくる派手な女で、ママ友にも見栄を張る。天ヶ瀬の妻はそういったタイプだったのか。
「それに何より......」と、天瀬は言いかけて宙を睨(にら)んだ。
「何より、何?」と、私は先を促した。
「北園さんて、きちんと家庭を守ってくれて、男に尽くしてくれそうだから」
 絶句していた。
 この世の中で「男に尽くす」という言葉が最も嫌いだった。
 天ヶ瀬に対する恋愛めいた感情が一瞬にして消え去った。
 もうこれ以上は交換日記を続けたくないし、喫茶店に来ることも、交際自体も終わりにしたい。
 こういった男が私は最も嫌いなのだった。
 そのとき、ふっと自嘲(じちょう)的な笑いが込み上げてきた。
 だよねえ、私の理想とする男なんて、この世にいるわけないんだよ。今まで一回でも見たことある? いなかったでしょう? 
 そんなこと最初からわかりきってたじゃないの。「女卑」でないだけましだけど、「男尊」には違いないんだからさ。
 若い頃の恋愛を振り返ってみても、「男尊」が見えた途端に男を振ったことが何度かある。会社に勤めていたときだって、それが見えた途端に男性上司に対する尊敬の念が一瞬で消え失せた。
 だが、令和時代からタイムスリップしてきた人間は天ヶ瀬と自分の二人しかいない。天ヶ瀬との交際をやめたら独りぼっちになってしまう。同級生はみんな子供だし、なんなら両親だって私から見たら子供っぽい上に考えが古すぎて、分かり合える相手にはなりえない。
 真っ暗闇の中に放り込まれたような気分だった。
 こうなってみると、なんとしてでも令和時代に戻りたくなってきた。
 ああ、今すぐ戻りたい。そんな衝動にかられた。
「北園さん、いま何を考えてる?」
 気づくと、天ヶ瀬が真剣な眼差しで私の顔を覗き込んでいた。
「えっと......別に何も考えてないけど」
「嘘つくなよ。怒ってるだろ。俺、なんか悪いこと言った? どこが悪かったか言ってくれよ」
 そうはいかないでしょ。決定的な亀裂が生じたらどうすんのよ。
「北園さん、俺たちの仲が悪くなるのを恐れてるだろ。他に話の通じる人間がこの世にいないから」
 へえ、この男は案外と鋭いんだな。
「仲が悪くなってもいいじゃん。すぐ仲直りすればいいんだから」
 またしても軽薄男の匂いがした。
「天ヶ瀬くん、そんな簡単にいかないでしょ。人間関係っていうのはさ、いったんヒビが入ったら......」
「だったらヒビを埋めればいいさ。どう転んだって俺たち一蓮托生だぜ」
「どう転んだって?」
 天ヶ瀬の言う通りかもしれない。関係を断ち切ったとしても、互いに助けを求めたい場面は数限りなく出てくるのではないか。仲が良かろうが悪かろうが、運命共同体には違いない。
 たとえ天ヶ瀬の男女観が古いとしても、良識のある善良な人間であるだけでも幸運だと言えるのではないか。令和時代からタイムスリップした仲間が、とんでもない悪人だったらどうなっていただろう。
「北園さんの携帯電話の番号を教えてくれないかな。二人の間に深い溝ができちゃう前にさ」
「携帯の番号って? この世にガラケーが出現するのは何十年も先のことだよ」
「わかってるよ。だけど、ある日突然タイムスリップして元の世界に戻るかもしれないだろ。そしたら北園さんに連絡を取るのが難しくなるから」
 そんなことまで考えているとは思わなかった。用意周到な面もあるらしい。
「タイムスリップした仲間は北園さんだけなんだ。元の世界に戻ったとしても、俺はきっと連絡を取りたくなると思う」
 そのとき、ふと二〇二三年の東京のどこかのカフェで向かい合う情景が頭に浮かんだ。できれば、六義園(りくぎえん)か小石川後楽園あたりを散歩したい。六十三歳の初老の男女の姿で。
 あ、ダメだ。互いの配偶者にバレた場合、不倫の疑いをかけられたら面倒だ。
「で、どうなの? さっき北園さんは何を怒ってたの?」
 思ったことは言った方がいい。
 言わなきゃわからないからだ。
 いや、本当にそうか?
 多くの妻が不満を口に出さずに耐え忍んで生きている。五十歳を過ぎたあたりから、その苦悩が顔に現れ始めるのを何人も見てきた。身体に変調をきたす妻も少なくない。妻たちは若い頃、何度も口に出して言ったのだ。だが、言っても無駄だった。妻の心情を汲んで理解しようとする夫はほとんどいない。だから妻はもう二度と言うまいと誓うのだ。自分の正気を保つために。
 だが、あきめたら終わりだ。あきらめたら何も解決しない。夫婦の関係も、世の中のジェンダー・ギャップ指数も。
 馬鹿にされても、せせら笑われても、言い続けなければならないのだ。次世代の弱者のためにも。
「じゃあ、言うけどね」
 そう言うと、天ヶ瀬は居住まいを正してこちらを見た。
 その構えが嬉しかった。さあ聞くぞといった姿勢ではないか。この一点を取ってみても、夫よりマシだ。
「さっき天ヶ瀬くん、言ったでしょ。私がきちんと家庭を守って男に尽くす女に見えるって。それ、めちゃくちゃ頭にきた。なんで私があなたに尽くさなきゃならないの? 私にとっても一度きりの人生なんだよ。私だって私のために生きる権利があるんだよ。天ヶ瀬くんの世話に明け暮れる人生なんて真っ平ごめんだよ」
 そう言うと、天ヶ瀬は黙って冷めたコーヒーをごくりと飲んだ。
「悪かった。言われてみればその通りだ」
 こいつ、本当に簡単に謝る男だな。
 生まれつき軽薄なのか、それとも女を舐めきってんのか。
「でもさ、男だって自分の人生を生きられないんだよ」
「はあ? 何言ってんの? 私は搾取されてきたんだよ。家事労働や子育てで人生そのものを搾取されてるの。奴隷状態なのよ」
「俺だって家族のために働くだけの奴隷人生だったよ。三十代の頃、どうしても転職したかったんだけど、うちの奥さんに猛反対されて実現しなかった。一円でも給料が下がったら困るって言われたんだ。俺、会社の仕事が面白くなくて、そのうえ雰囲気も合わなくて苦しかったんだ。もっと遣り甲斐のある仕事がしたかったんだ。でも俺の気持ちなんか、うちの奥さんはどうでもいいみたいだった」
「それは知らなかった。可哀想かも」
「給料が減る分は副業でなんとかするって言ったんだけどね。そしたら......」
「そしたら?」
「そしたら今度は、うちの奥さんの両親が俺を説得しにわざわざマンションまでやってきた」
「それは嫌だなあ。娘夫婦の暮らしに口出しするような親御さんだったのね」
「蜘蛛(くも)の巣に引っかかったような気分だったよ。何もかも嫌になって鬱になりそうだったけど、なんとか定年退職までは我慢したんだ」
「偉い。辛抱強いね」
「偉くなんかないよ。男はみんなそうやって我慢して働いてるよ。問題はそれからなんだ」
「定年した後に何かあったの?」
「六十歳で定年退職して、やっと自由になれると思ってたら、六十五歳までは働いてほしいって奥さんに言われちゃってさ。聞けば預金ゼロだって」
「ええっ、ゼロ?」 
「家計を任せっきりにしてたのが間違いだった。預金がかなり貯(た)まっていると俺は思ってたんだ」
「だろうね。天ヶ瀬くんは高給取りだって聞いたことあるよ」
「高給取りなんかじゃないよ。たかが年収一千万円なんて、マンションのローン払って子供を私立に行かせて、ある程度こぎれいに暮らしたら、赤字すれすれなんだってさ。うちの奥さんがそう言ってた。だから、嘱託(しょくたく)として会社に残って働かざるを得なくなった」
「奥さんは家計を助けるためにパートか何かしてたんでしょう?」
「してないよ。世間体ばかり気にするプライドの高い女だぜ?」
「そうなの? 私は何十年もパートで働いてきたけどね」
「やっぱり北園さんはいいね」
「普通だよ。私の周りの女の人もみんなパートに出てたよ」
「俺さ、もっと自由に生きたかったんだ」
「だったら簡単な話じゃない。今度は一生独身を通せばいいのよ。稼いだお金も時間も、全部自由に使えるよ」
「それはいくら何でも寂しいよ。やっぱりパートナーが必要だと思うんだ。自由に生きるためには、俺を支えてくれる女性にそばにいてほしいんだよ」
「あっそう。でも、私にはその役はできない」
「どうして?」
「全くもう、私に尽くしてほしいなんて、どの口が言ってんだか。理解不能だよ。そもそも天ヶ瀬くんって、私を下に見てるよね」
「まさか、そんなことないよ。絶対に、ない」
「だったらなんで私に尽くしてほしいなんて言うのよ。優劣つけている証拠でしょう? バカにしないでくれる?」
「そうじゃないよ。優劣なんかつけてないよ。ただ、うちの奥さんと違って北園さんは堅実で聡明だと思ったから」
「それが誉め言葉だと思ってるの? おだてりゃ木に登るとでも思ってんの? 私を騙(だま)そうなんて百年早いよ」
「ちょっと待てよ。騙そうなんて思ってないってば」
 話しているうちに、天ヶ瀬という男が心底イヤになってきた。夫よりは幾分マシかと思っていたが、これじゃあ五十歩百歩だ。
 私はこんな男に中学時代から憧れ続けていたのか。
 虚像に過ぎなかったらしい。
 私も御多分に漏れず、中高生にありがちな超面食いな少女だっただけだ。

 その翌日は、部活で護身術を教えてくれる日だった。
 男子部員も何人か参加していた。暴漢役を買って出てくれたという。
「男は関節が固いから関節技に弱いんだ。ほら、俺の手首を握ってみろ」
 顧問は自分の手首を、部長をしている男子部員に差し出した。
「こうですか?」
 そう言いながら男子が手首を握った途端、顧問は自分の腕をくるりと捻った。
「痛てっ、先生、手加減してくださいよ」
「だろ? 痛いだろ? でも女の人は関節が柔らかいからあまり痛くないんだよ」
 百合子と向かい合って相互に試してみたが、男子のように悲鳴を上げるほどではなかった。
 そのあと、肘(ひじ)を逆側に曲げる関節技を習った。
「次は、バラ手の目打ちを教える」と顧問は言って、見本を見せてくれた。 
 手の甲側を相手の顔に当てるように、手首のスナップをきかせて打つらしい。
「三秒間は確実に目が見えなくなる。その隙にダッシュで逃げるんだ」
 実際に相手の顔に手を当てる練習はできなかったが、寸止めで何度も練習したら、コツがつかめてきた。 
 こういったことを、どうして学校で教えないのだろう。学校教育では、生きていくうえで本当に大切なことを教えていないのではないか。

 その日の夕飯のときだ。
 干しガレイを食べながらテレビを見るともなしに見ていた。
 ――私作る人、ぼく食べる人。ハウスシャンメンしょうゆ味。
 あ、これ憶えてる。
 このインスタントラーメンのCMは女性差別だとして大問題になったのだ。
 当時まだ若い結城アンナと少女が「私作る人」と言い、十代の佐藤佑介が「ぼく食べる人」と言う場面に、女性団体が「男女の役割分担を固定化してしまうものだ」として抗議した。
 その当時の私はこう思った。抗議するほどのことじゃないでしょう。いくら何でも大げさだよ。騒ぎすぎでしょう。だからウーマンリブはヒステリックだと言われるのよ。
 そして......。
 ――抗議したのは、きっとブスなおばさんの集団なんだろうな。
 うっすらとそう感じたのではなかったか。
 マスコミの影響や世間の風潮に惑わされて、女子高生だった自分までもが男性目線になっていた。そしてその数十年後に、私も六十三歳の「ブスなおばさん」になった。
 仮に、抗議したのが若い美人の団体だったならば、世間の評価も違ったのだろうか。美人か不美人かの違いが、抗議内容の是非を左右してしまうのか。
 この食品メーカーはCMを取りやめたが、この女性団体に対しての世間のバッシングはひどかった。批判した側には女性も多く、様々な週刊誌による低次元な攻撃も数えきれなかった。
 抗議のきっかけとなった出来事を知ったのは後になってからだった。この女性団体の会員の小学生の娘が、「このCMのせいで、男子が給食当番をやらなくなった」と話したことで、影響の大きさを考えた女性たちが立ち上がったという。
 やはりマスコミの罪は重い。
 女性たちは抗議したことで、世間からブスだのバカだのと言われて屈辱的な思いをしたことは想像に難くない。だが、それでも言い続けなければ世の中は変わらないのだ。そして少なくとも彼女らの抗議は世の中にインパクトを残した。人々の心の奥底に響いた人も少なくなかったと信じたい。
 だから私はあきらめない。                  (つづく)

マンダラチャート

Synopsisあらすじ

「私」は、現在63歳。子どもは巣立ち、夫と二人で暮らす平凡な主婦だ。夫は私に関心がなく、家政婦程度にしか思っていない。

ある日、私はふと、気がつく。WBCで活躍した、大谷選手やダルビッシュ、ヌートバー……。彼らは子どもの頃からの夢を一途に追いかけて、あの場所に立っている。なぜ自分はここで、こんなふうに不満ややるせなさを抱えて生きているのだろう。「私は、成績も良かった、努力すればもっと自分の能力を生かせる生き方が出来たはず。けれども、美しくあろうと外見にばかり注力してきたために、今はただのオバサンになってしまった、もし、あのとき、外見をつくろったり、男性の目を気にすることなく、自分のやりたいことを一途に貫いていたら」

もう一度、人生をやり直したい……激しい後悔とともに、そう強く願った私は、気がつくと、中学生に戻っていた……。

Profile著者紹介

2005年『竜巻ガール』で小説推理新人賞を受賞し、デビュー。テレビドラマ化された『リセット』『夫のカノジョ』『結婚相手は抽選で』『定年オヤジ改造計画』や、映画化された『老後の資金がありません』のほか、『四十歳、未婚出産』『夫の墓には入りません』『姑の遺品整理は、迷惑です』『うちの子が結婚しないので』『もう別れてもいいですか』『あきらめません!』『懲役病棟』など著書多数。

Newest issue最新話

Backnumberバックナンバー