マンダラチャート@17 上田工務店/@18 天ヶ瀬のアドバイス/@19 天ヶ瀬は救世主か
@17 上田工務店
上田工務店に就職するかどうかをはっきり決めないまま、十二月も中旬になってしまった。
今日の昼食メニューは春雨スープと八宝菜(はっぽうさい)だった。いつものようにダイニングルームに集まって食べていた。
アルバイトの大熊は休みで、社長は組合の用事で留守だったから、社員二人と専務と私の四人だけだった。
「北園さん、年末年始はどうするの? 帰省するの?」と、専務が尋ねた。
「それが、まだ決めてなくて」
田舎では初雪が降ったらしい。年末年始は積もりそうだという。
たぶん地球温暖化はとっくの昔に始まっていたのだろうが、この頃はまだマスコミなどでもほとんど報道されていなかった。盛夏に気温が四十度を超える地方などなかったし、シベリアの氷河が解(と)け始めているとも聞いたことがなかった。
昭和時代は、実家のある山田町の辺りでも、冬になると毎年しんしんと牡丹(ぼたん)雪が降り積もった。雪の少ない東京に住んでいると、無性に雪が恋しくなることがあった。
だが、まだ就職先が決まっていない身で、両親や地元の友人たちに会うのは億劫だった。仮に上田工務店に決めたとしても、社員三人の会社だと言えば、両親は落胆するだろう。だからといって、大きな会社に就職できたと噓をつけば、その後もずっと噓で塗り固め続けることになる。それも面倒だった。
「北園さん、よかったら、大晦日(おおみそか)からうちに泊まりに来ない?」と専務が言った。
「えっ、大晦日に? それも、泊まりで、ですか?」
先輩社員二人も驚いたように皿から顔を上げた。
「一緒におせち料理を作ったり、紅白を見たりしましょうよ」
専務がなぜそんなことを言うのかわからなかった。私を親戚の子か何かのように感じていたのだろうか。私はそこまでの親しみを抱いてはいなかった。昼食作りを手伝ってはいるが、あくまで雇用主と学生アルバイトとしての立場をわきまえているつもりだった。
専務は実家の母と同世代の女性だが、全く違うタイプだ。専務はさばさばとした都会的な女性だが、実家の母は世間体ばかりを気にする噂好きで教養のない田舎のおばちゃんである。二人が似ても似つかないからか、専務のことを「お母さん」のようだと感じたことは一度もなかった。
「だって北園さん、一人暮らしでしょう? お正月に独りぼっちなんて寂しいじゃないの。昌喜(まさき)も年末年始は家で過ごすと言ってるし」
「はあ、でも......」
上田工務店は、道路に面した一階部分の四十平米ほどが店になっているが、その奥と二階は住居だ。資材や車両などは、道路を挟んだ向かいの大きな倉庫に置いてある。
住居部分はダイニングとキッチンしか足を踏み入れたことはないが、構造からして、たぶん奥に一部屋あり、二階は四部屋はありそうだ。
だが部屋数が多かったとしても、泊まる気などさらさらなかった。年末年始くらいはゆっくり寛(くつろ)ぎたい。社長夫婦と上田昌喜がいる家なんて気を遣うばかりだ。まさかと思うが、私に家政婦のような働きを期待しているのだろうか。
「遠慮しないでいいのよ。うちは娘がいないから、一緒におせち料理を作りたいの。上田家の味を北園さんに伝えていこうと思ってるしね」
「伝える? 上田家の味を、ですか? 私に? なんで?」
「だって、そうなるかもしれないでしょう?」
「そうなる、とは?」
「だから、将来、ねっ?」と、専務はウインクを寄越した。
天ヶ瀬のウィンクと違って、専務のは意味深で背筋がぞくっとした。
「へえ、そういうことだったんですか。北園さんが上田工務店の若奥さんになるとはね」と痩身の先輩社員が言った。
「あーなるほどね。全然気づかなかった。俺としたことが」
小太りの先輩社員はそう言い、二人して顔を見合せてにやにやしている。
「ええっ、何ですか、それ」
私はわざと大声を出した。
というのも、私はこれまで全く気づきませんでした、私の知らないところで話が進んでいたんですね、だから私には責任はありません、とにもかくにも関係ないですから、ということを、ここではっきり示しておきたかった。
上田昌喜の視線がいつも私を追っていることに気づいたのは、大学一年生の頃だった。だがクラスに女子が二人しかいないので、そういう視線はよくあることだったから、気に留めてもいなかった。
それにしても、上田が私に色々と親切にしてくれていたのは、そういった想いがあったからなのか。私は彼を、単に性格のいいヤツだと思っていた。それもこれも、私が本当は六十代で、クラスの男子たちを男として意識していなかったからだろうか。
「昌喜は高校が男子校だったでしょう。そのうえ大学に入学してみたらクラスに女の子が二人しかいないって言うからびっくりしたわよ。だったらテニスのサークルにでも入ればって勧めたのに、囲碁サークルじゃあどうしようもないわよ。女の子が一人もいないって言うんだもの」
全身が粟立ってくるような感覚があった。
「それでね、北園さんは真面目だし、落ち着いていて賢いし、上田家の家風に合ってると思うの。質実剛健とでも言うのかしら」
「ああ、そんな感じっすね」と、痩身の方が口を挟む。
こんなプライベートなことを、専務はどうして他の社員がいる前で話すのだろう。彼らとは家族同然といった気持ちなのか。
「ついでに本音を言うとね、学生の分際で高級ブランドのバッグを持ったちゃらちゃらした女の子が私、大嫌いなのよ。そこいくと北園さんは地味でしょう? それに頭がいいから、きっと賢い子が生まれると思うの」
そのとき、小太りの方がぷっと噴き出した。「専務、いくらなんでも気が早いっすよ。もう孫のこと考えてるんすか?」
「何も今すぐ結婚ってことじゃないのよ。だって今はまだ学生だもの。来年三月に卒業して、昌喜だって初めて社会に出るんだし、昌喜もそこまで焦ってないとは思うんだけど」
「それはつまり、専務が焦ってるってことなんすか?」と、痩身の方が言って、何が面白いのかいきなりゲラゲラと大げさに笑った。
「バレた? だっていい年して独身の男が親戚に三人もいるんだもの。そのうちの一人が私の弟よ。来月五十になるんだけど、弟に彼女がいたのは高校時代だけなの。弟も今になって、あのときの彼女を離すんじゃなかった、なんて言って後悔してんのよ。だからね、チャンスは逃しちゃだめなの」
「いいなあ、俺も結婚してえ」と小太りの方が言った。
「無理だろ。だって今のきゅう......」と痩身の方が言いかけて、「この八宝菜の味付け、専務ですか? それとも北園さん? すごいうまいっすよ」と、もの すごい早口で話題を変えた。
今、何を言いかけたのか。
今のきゅう......つまり今の給料では結婚は無理だということか。
二人とも勤続十年で三十歳だと聞いている。それなのに結婚できないほど給料が安いのか。
ああ、一刻も早くここを立ち去りたい。
そして、ここには二度と戻りたくない。
私が黙って俯いているのを見て、恥ずかしがっているとでも勘違いしたのか、専務は優しく微笑んで私の背中に手のひらを当てた。
背中に体温が伝わってきた。思いきり振り払いたいのを我慢するだけで精一杯だった。
「実はね、昌喜からも頼まれてたの」と、専務は声を落とした。今さら声を小さくしたところで、テーブルのすぐ向かいに座っている社員二人には筒抜けだ。
「北園さんと将来は結婚したいから、大切に扱ってくれって」
迂闊(うかつ)だった。私の就職がうまくいかない頃から、社長夫婦の私に対する態度が変わったように思っていた。社長は妙に慈悲(じひ)深いような目で私を見るようになったし、専務は距離を縮めてきた。心の距離だけでなく実際にぴったり寄り添って手を握ったり、背中を撫でたりするようになった。
今すぐ上田家と関係を絶ちたい。そんな衝動にかられていた。
できればアルバイトも、今日を最後にしたかった。
この一家とはすぐにでも縁を切りたい。
そのためには、どうすればいいのか。
専務にどう言えばいいのか。
「お茶、お代わり要(い)る人いる?」と専務が尋ねた。
「専務、私が淹(い)れてきます」
「いいの、いいの、あなたは座ってて」
「専務が姑ならお嫁さんもラッキーですね。嫁に意地悪しようって感じゼロだし」
「でしょう? 実は私、自分でもそう思ってるの」
そう言いながら、専務は立ち上がってキッチンに引っ込んだ。
「いいなあ、北園さんは」
痩身の方がキッチンの方を見やり、声を落として続けた。「ここに嫁に来るってことは、この家も土地も手に入るってことじゃん」
「ほんと羨(うらや)ましいよ。やっぱ女は得だわ」
「見かけによらないね。北園さんって、策士だったんだね」
「サクシって何だ?」
「お前は相変わらず教養がねえなあ」
「でも、せっかく大学出てるのに、もったいない気もするけどなあ」
「それはないだろ。山口百恵を見てみろよ。あんなに稼ぎまくってたのに引退したんだぜ」
「それもそうだ。最後のコンサートでマイクを置く場面に感動したよ」
「やっぱり女の幸せは結婚にあるってことさ。稼ぎや学歴なんて女には何の役にも立たねえんだよ」
「大和撫子(なでしこ)とはこういうもんだって、女の正しい生き方はこうだって、身をもって山口百恵は証明したんだよな」
「その通りだ。百恵のせいで時代が逆戻りしたって怒っている女がテレビに出てたけど、冗談じゃねえよ。日本の男女関係が間違った方向に行きかけてたのを、百恵は引き戻してくれたんだよ」
そのとき専務が急須を持ってキッチンから出てきた。
私は立ち上がり、食べ終えた食器を持ってキッチンに向かった。そして専務とすれ違いざまに言った。
「専務、色々とありがとうございます。でもやっぱり帰省しようと思います。お正月は親戚も集まるし、母からも帰ってこいって電話があったばかりなんで」
まんざら噓でもなかった。
――もしもし雅美? あんた、もし帰ってくるなら、お土産は舟和のあんこ玉にしてね。お父さんもお兄ちゃんもあれ好きやから。芋ようかんは要らんよ。 せっかくの東京土産やのに芋なんて田舎臭いけんね。あんこ玉だけの詰め合わせにしてちょうだい。ほんで、帰ってくる日が決まったら早めに教えてね。お父さんが駅まで迎えに行く言うとるし、雅美の好物のブリ大根も作っとくから。
母の声を思い出したら、急に里心がついた。
「ええっ、残念。昌喜もきっとがっかりするわ。うちもお正月には親戚が集まるのよ。そこで北園さんを紹介しようと思ってたのに」
専務は私を恨(うら)めし気な目で見た。そんな顔つきを見たのは初めてだった。
上田家の存続のために、他人の気持ちを慮(おもんぱか)ることもせず、なりふり構わず突っ走っている。そのことに、専務自身は気づいていない。それなのに、優しい姑になれると自惚(うぬぼ)れている。
先輩社員二人にしても、もっと真面目で品のある人たちだと思っていたのはなぜだったのか。今までほとんど会話がなかったからかもしれない。
三年もここでアルバイトをしてきたのに、今日になって初めて専務も先輩社員二人も、私が思っていたような人々ではなかったことを知った。
私という人間は、六十代になった今も人を見る目がまるでないらしい。年齢を重ねるとともに、人の考えていることくらい直感的にわかるようになったなどと自負していたのは、単なる自惚れだったようだ。
どちらにせよ、もうここには来たくない。
@18 天ヶ瀬のアドバイス
その夜、天ヶ瀬に電話した。
誰かと話がしたかった。
アケタに電話しようかと思ったが、彼女は設計事務所に就職が決まっている。たとえ小さな会社であっても、設計の経験を積むことができるから独立に繫がるがる。それに、デザイン力や設計力を強みに案件を獲得できるようになると、インセンティブを多くもらえるようになって収入がアップするらしい。そのことを上田昌喜に言われて初めて知り、クラスの中で将来の希望がないのは自分だけだと打ちのめされていた。だから今日だけは、アケタの声を聞きたくなかった。
「もしもし、天ヶ瀬くん? 今、話をしても大丈夫?」
――大丈夫だよ。北園さんの方からかけてくるなんて珍しいじゃん。もしかして初めてだよな。今すぐこっちからかけ直すよ。
「かけ直す? なんで?」
――だって、この時代の長距離電話代、すげえ高いんだぜ。
「あ、そうだった。今まで天ヶ瀬くんが払ってくれてたんだね。ごめんね。気づかなかった。まっ、それ以前に、この電話を引けたのも天ヶ瀬くんが電電公社の電話加入権を買ってくれたからだけど」
――とにかく俺からかけ直すから、そっちもすぐ切って。
「このままでいいってば。そんなにいつも天ヶ瀬くんに負担を......」と言いかけたら電話が切れた。
受話器を置くと、すぐに電話が鳴った。
――それで、北園さん、なんかあったの?
「いや、別に何もないんだけどね。たまには声を聞きたいと思って」
――噓つけ。何かあったんだろ。そっちから電話してくるくらいだから。
「噓じゃないよ。声が聞きたくなっただけだよ」
――ふうん。まっ、そういうことにしとくよ。あ、そういえばどこに就職するか、まだ聞いてなかった。何ていう会社? あれ? もしもし? もしもーし。北園さーん、俺の声、聞こえてますかあ。
「......うん、聞こえてる」
――どうしたんだよ。北園、大丈夫か?
「ごめん。また今度電話するよ。今日はこの辺で」
――何言ってんだ? 今かけたばっかりだろ。何か俺に話したいことがあったんじゃないのか? おい、もしもし? もしもーし。もしかして北園、お前、泣いてんの?
知らない間に涙が溢れていた。
八方塞(ふさ)がりで、この先、どう生きていけばいいのかわからなかった。
――何があったか吐き出しちゃえよ。なっ? 俺はこの世で唯一の同志だろ?
「......ありがと。でも、何から話していいのやら......それに、うん、たいしたことじゃないし」
天ヶ瀬に話したところでどうしようもないことなのだ。
――いま十二月半ばだよな。
「うん、そうだけど?」
――もしかして、就職がまだ決まってないとか?
返事ができなかった。
――そうなのか? 内定がもらえないのか? もしもし?
「それもあるけどね。他にもいろいろ」
――東華女子大のコンサートに行ったときさ、明田さんの従妹(いとこ)が話してたよな。四大卒で地方出身の女子は就職できないって。
「そう、それ」
――なるほど。問題はそれだけか? 他には? まだあるだろ? この際だから言っちゃえ、言っちゃえ。楽になるぞ。
天ヶ瀬は誘導尋問がうまい。医師より弁護士に向いているのではないか。そんなことを、ぼんやりと考えていた。
――もしもし、聞いてんのか? 他にも嫌なことがあったんだよな? 明田さんと仲違(たが)いしたとか?
「それはない」
――だったらアルバイト先だ。何があった? セクハラされたとか?
「違う」
ふっと電話代のことが頭に浮かんだ。さっき天ヶ瀬が言ったように、この時代は長距離電話の代金が非情なほど高かったのだ。だから本来はこんなにのらりくらりと話をすべきではない。
実家の父は、都会に住む親戚に電話をする前には必ず伝えるべきことをメモしていたのではなかったか。法事の日程などの連絡事項だけでなく、家族の様子なども端的に伝えるために箇条書きにしてから電話に臨んだのだった。
「天ヶ瀬くん、今から全部話す」
そう言って、私はティッシュで涙を乱暴に拭った。
「あのね、まず一点目の就職のことだけど」
機関銃のような早口だったが、天ヶ瀬は頭がいいから瞬時に理解できるだろうと計算してのことだった。
彼はずっと黙って聞いていた。ときどき聞こえてくる大きな息遣いは溜め息なのか。
「次に、アルバイト先の上田工務店でのことを話します。実は、今日ね」
順を追って話した。
全部聞き終えると、天ヶ瀬は言った。
――まず簡単な方から俺の考えを言うよ。アルバイト先でのことだけど。
「うん、天ヶ瀬くんが思ったこと、遠慮なく言ってほしい」
――北園って大人になりきれてないんだよ。もう六十代なのにさ。
「はあ? 何なの、それ」
やっぱり天ヶ瀬なんかに話すんじゃなかった。
普通は、共感するか同情するかの二択でしょうよ。
それなのに、苦しんでいる人間を非難するなんて信じられない。
――俺がお前ならさ、『アタシは上田くんなんてタイプじゃないんですよう』とか何とか明るく言って、けらけら笑って済ませるよ。
「......なるほど」
「北園って、まるで捕らえられた捕虜(ほりょ)みたいな気分になって、すぐにここから逃げなきゃって焦ったんだろ。
「よくわかるね。すごい」
――だって北園ってそういうヤツだもん。
明るく笑い飛ばすなんていう芸当は思いつきもしなかったし、私には難しい。
それにしても、上田昌喜は私との関係を、両親にどういうふうに伝えていたのだろうか。相思相愛とまでは言わなくても、脈ありと感じていたのか。
彼が勘違いした原因は、私が上田工務店でアルバイトを始めたことや、昼食作りを手伝っていることや、正社員になろうとしていることなどだろうか。それらは上田が誤解するには十分な材料だったのか。自分には一ミリもそんなつもりはなかったのに。
――定期入れか手帳に俺の写真入れとけよ。
「なんで?」
――なんでって決まってんだろ。俺の写真を見せて『アタシには彼氏がいるんですよう』って言うんだよ。そしたらどんな男だって速攻で諦(あきら)めるよ。すんげえイケメンだし、そのうえ医学生だぜ? 恐れ入りましたって感じだよ。
「天ヶ瀬くんて、そういうこと、自分で言うんだね」
――言うさ。事実だもん。
「ありがとう。話したらすっきりしたよ。じゃあ元気で」
――おい、北園、待てよ。全然すっきりした声じゃないだろ。
「天ヶ瀬くんにはもう話さない」
――なんでだよ。
「悔しいし、余計に落ち込む」
――何だよ、それ。せっかく俺の写真送ってやろうかと思ったのに。じゃあ写真は要らないんだな?
「一応......送ってみてくれる?」
――で、どうするんだよ。その工務店でのバイトは。
「もう二度と行きたくない」
――だったら行かなきゃいいだろ。
「そうしたいんだけど、うっかり私物を置いて帰ってきちゃったのよ」
――バカ、どうして全部持って帰らないんだよ。もしかして、学生証とか運転免許証とかを机の中に置いてきちゃったとか?
「違う。カーディガンと定規と社内履きのサンダル」
――それだけ?
「うん、それだけ」
――そんなの要らねえだろ。捨てたと思えよ。
「だって、カーディガン三千九百円もしたし、定規だって文房具屋で売ってる小学生が使うやつじゃなくて、製図用のだから高いのよ」
――俺が買ってやるよ。カーディガンだって定規だってサンダルだろうが何だろうが買ってやる。いま俺、開業医のひとり息子の家庭教師やってるからさ、冬のボーナスがびっくりするほど出たんだ。
「さすが医学生だね」
――でも、その子の母親が色目使ってくるから気味が悪い。
「そうなの? イケメンだと苦労するね」
――そうなんだよ。でも当分はカネのために我慢するつもり。なんせ、その男のガキとはすげえ気が合うし。
「私物のことだけじゃないのよ。いくらなんでも最後の挨拶はした方がいいと思うんだよね。三年間もアルバイトさせてもらったんだし。それに卒業式まで三ヶ月もあるから、学校に行ったら上田くんにも会うだろうしさ」
――北園、お前、人が好(よ)すぎる。そのバイト、時給いくらだったんだよ。いいようにこき使われて搾取されてただけだろ。感謝の気持ちなんか捨てろ。
「あーそういう考え方かあ」
――とにかく、そこにはもう行くな。
「......わかった。そうする」
――じゃあ、これで一つ解決だな。次は就職のことだな。
「そのことはいいよ。もう忘れて。自分で何とかする」
――自分で何とかできないから追い込まれてるんだろ? 最後の手段が上田工務店だったんだろ?
「うん、まあ」
――だったら、数年はどこかでバイトして、俺が卒業するの待ってれば?
「天ヶ瀬くんが卒業するのを? それは、どういう意味?」
――俺が医者になったら結婚しよう。俺が養ってやるよ。
「それ、本気で言ってんの? まったくもう」
――やっぱり怒ると思った。
怒ってなどいなかった。それどころか有難くて涙が出そうだった。先が見えなくて、藁をも摑(つか)みたい思いだったのだ。
この時代は派遣会社もなく、アルバイトの時給は五百円前後だから、地方出身で東京に家のない身には食べていくのさえ厳しい。だからといって、田舎に戻ったところで、何をして生きていけばいいのかわからない。
「令和の時代になると、起業する大学生が増えるでしょう? だから、私も何かいいアイデアがないか探しているところなのよ」
心にもないことが口からするする出てくる。
――北園、正月どうする? 田舎に帰るのか?
「迷ってるところ」
――俺、来週東京に行くから、東京から一緒に帰省しよう。
「東京に来るの? 何しに?」
――この時代の東京のクリスマスってどんな感じだったっけなあって考えたら、無性に東京の街をあちこち歩いてみたくなったんだ。銀座とか日比谷とか新宿とか渋谷とか。
「いいねえ。誰と一緒なの?」
――誰って誰だよ。俺が里奈を誘うとでも思ってんのか?
「里奈さんじゃなくても、彼女の一人や二人はいるんでしょう?」
――いねえよ。俺は北園雅美ひと筋だから。
「冗談やめてよ」
――そうだな。冗談はやめる。
「おい、天ヶ瀬」
――でもさ、マジで北園と一緒に街を歩きたいんだ。この時代の東京を一緒に懐かしむことができるのはお前しかいないもん。ド田舎の山田町出身者の仲間として、しみじみ昭和時代の大都会東京を堪能しようぜ。
@19 天ヶ瀬は救世主か
天ヶ瀬が上京したのは、クリスマスイブの前々日だった。
この前の電話では、東京の街をあちこち歩きたいと言っていたから、スニーカーで行くことにした。
待ち合わせた渋谷のハチ公前には、人待ち顔の老若男女がたくさんいた。
「お待たせ」
背後から天ヶ瀬の声が聞こえて振り返った。
すらりとした長身に、アイボリーホワイトのダウンジャケットが似合っている。沖縄から飛行機で来たというのに手ぶらだった。聞けば、荷物は郵便小包でホテルに送ったという。
「俺さ、久しぶりに東急のプラネタリウムに行きたいんだけど」
「いいわね。行きましょう」
プラネタリウムのある東急文化会館は平成時代に取り壊され、三十四階建ての渋谷ヒカリエになることを互いに知っていた。建物の前に並んで建ち、名残惜しい気持ちで全体像を目の奥に焼きつけるかのように凝視した。
彼と並んでプラネタリウムを見るのは不思議な気分だった。以前の人生でも、短大時代に恋人と来場したことがある。そのときは、恋人に手を握られながら天ヶ瀬のことを考えていた。
星に詳しかった天ヶ瀬のことだから、きっとここを訪れたに違いないと思った。中学時代に親しかったわけでもないし、遠くから眺めていただけの高嶺の花だったのに、勝手に彼を身近に感じて温かい気持ちになったのを思い出す。
「やっぱり東京はいいね。東京には何でもある」
天ヶ瀬は、プラネタリウムを見終わって外に出るとそう言った。
ぶらぶらと表参道を歩いた後、青山通りにある洒落た喫茶店に入った。
「北園さん、浮かない顔してる」
「あ、ごめん」
「まっ、仕方ないよ。就職のことが気になってんだろ?」
「そういうこと。寝ても覚めてもいっときも頭から離れない」
「ハローワークに行ってみたら? この時代は職業安定所って言うんだよな」
「職安に? それは考えたことなかった」
「俺は一回も行ったことがないからどんなところか知らないけど、こうなったら、手あたり次第に試してみた方がいいんじゃないか?」
「そうか、そうだね。行ってみる」
以前の人生では、何度か職安に足を運んだことがあった。子供を産んだ後、パートの仕事を探しに行った。あそこは大学生の就活とは全く異なる世界だ。大企業どころか中堅企業の正社員募集なども滅多にないだろうから、期待はしない方がいい。
だが、行ってみよう。天ヶ瀬の言う通り、何でも試してみた方がいい。
とはいえ、たぶん......徒労に終わるだろうけど。
そうなったら、主婦パートのような仕事でも構わない。それが建設関係の仕事であれば御の字だ。生きていくための最低限のお金を稼がなければ、にっちもさっちもいかない。
「何だったんだろうなあ......」
向かいに座る天ヶ瀬が顔を上げたことで、自分が知らない間に呟(つぶや)いていたことに気づいた。それをごまかすために、コーヒーをひと口飲んだ。
ホント、何だったんだろうなあ、私の人生。
何のために一生懸命頑張ってきたんだろう。
顔を上げると、天ヶ瀬が真正面から私を見つめていた。
「天ヶ瀬くん、ごめんね。久しぶりに会ったのに、どうにも気分が落ち込んでしまって」
「そのままでいいよ。自然体のままで。俺に気を遣わなくていいから」
「......うん」
「泣いてもいいよ」
次の瞬間、本当に泣きそうになったので、「バカ、泣くわけないじゃん」と言って、アハハッと笑ってみせると、天ヶ瀬は溜め息をつきながら目を逸(そ)らした。
だから、何か言わなくちゃと焦った。
「私ね、まさかこうなるとは思ってなかったんだよね」
「だろうな」
「ここまでひどい男女差別に遭(あ)ったことがなかったしね」
「だよな。北園さんから電話で聞いたときびっくりしたよ。これほど遅れた社会通念がはびこってるとは知らなかった」
「そこいくといいよねえ、男は」
「......うん、それはそうだけど、でも......」
「でも、何? そっちこそざっくばらんに何でも話しなさいよ」
「前にもちらっと話したと思うけど、俺、銀行に勤めているとき本当につらかったんだ。先輩後輩の上下関係の厳しさが今思うと異常なほどで、後輩は奴隷状態だった」
「そうなの?」
「体力的も限界だった。自分の仕事が終わっても先輩が一人でも残っていたら帰れなかったし、土日出勤もしょっちゅうだった」
「先輩が一人でも残っていたらって、直属の?」
「いや、部署全体。一年でも先輩なら全部先輩」
「だったら毎日帰れないじゃん」
「そういうこと」
「残業代はつくの?」
「つかない」
「バッカみたい。タダ働きじゃん。お金もらえないのに働くって意味がわからない。ボランティアだよね。でも確かにそういう時代だった」
「北園のダンナもそうだったの?」
「うちのはきっちり残業代もらってたよ。ていうか、残業代がなかったら暮らしていけなかった。都銀と違って基本給が安いもん」
「女子行員に対するセクハラもすごかったよ。みんな見て見ぬふりしてたけど」
「えっ、天ヶ瀬も見て見ぬふりしたの」
「もちろん」
「見損なったよ。なんで注意しないのよ」
「もしも遠回しにでも注意しようもんなら、出世が望めないだけじゃなくて、悪質な嫌がらせが始まるんだよ」
「信じられない。でも、女性の総合職が入行するようになってからは、雰囲気は大きく変わったんでしょう?}
トラック業界でも女性の運転手が増えたことで、男性運転手が徐々にこぎれいになっていったと聞いたことがある。芸能人の地方巡業でも、女性が一人加わることでギスギスした雰囲気が消えて穏やかになるとも聞いた。その紅一点は、老女だろうが不美人だろうが関係ないらしい。
「あの当時、総合職の女の人は二、三年で次々に退職していったよ。耐えられなかったんだろうな。セクハラだけじゃなくて、いろんな理不尽な慣行にさ。皮肉なことに、総合職の女より短大卒の事務職の女の方が勤続年数が長かったかもな」
男女雇用機会均等法が施行された頃は、会社の上司が女性社員をどう扱っていいかわからなかったのだ。ちゃんとした仕事を与えなかったために、女性の側がいたたまれなくなって、次々に辞めていくことが問題となった。
「青森支店に転勤になってからどうしたの? そのあと東京に戻れたの?」
「戻れたけど、出世コースから外れた支店に配属された。一回でも外れたら二度と出世コースの支店には行けないってことを知って愕然としちゃったよ」
「でも途中で、何行かと合併してメガバンクになったでしょう? それからは改善されたんじゃない?」
「全く変わらず。余計にひどくなったかも」
「信じられない。あんな有名な銀行なのに? 内部ではそんなことがあるの?」
「ある」
「だって、みんな一流大学を出た人ばかりでしょう?」
「そうだけど? だから?」
「だから、みんな頭がよくて教養があって、育ちのいい人が大多数なんじゃないの?」
「たぶん、そうだろうね。でも俺は、小学生のときでもあれほどレベルの低い意地悪を見たこともされたこともないけどね」
「そんな慣行を打ち破ろうとする人はいなかったの?」
「勤めたての頃は、いつか出世して社内の空気を正してやるって思った。俺だけじゃなくてみんな思うらしい」
「でもそのうち染まってしまうの?」
「毎日疲れ果ててどうでもよくなる。自分のことしか考えられなくなる。人間って怖いよな。それに......」
「それに?」
「俺は田舎者だから知らなかったけど、妻が美人で、妻の実家が資産家だと、その男は出世できないってのは、どの会社でも常識らしいぜ」
「は?」
「つまり、男だって大変だったってこと」
「そうはいっても就職できるからいいじゃない。私みたいに門前払いされてみなよ、どんな気持ちになるか」
「それは同情する。でもさ、妻に家事も育児も押しつけてるって怒る女の人が多いようだけど、毎朝、ああ今日も会社行かなきゃって、鬱(うつ)になるサラリーマンだってごまんといるんだぜ。辞められるものなら辞めたいって俺も思ってたもん。だから、毎年年末ジャンボ買ってた」
「......そうか」
「例えば俺が宇宙飛行士とかプロ野球の選手とか俳優とか、つまり子供の頃からの夢が叶って仕事に生き甲斐を感じてたとしたらまた別の話だけど、あんなわけのわからない銀行で働きたくて子供の頃から真面目に勉強してきたわけじゃないんだよ。一生懸命頑張っていい大学いって、あのザマだ。だから、世界を旅するユーチューバーみたいやつらが死ぬほど羨ましくなったんだ」
「なるほど。だからお医者さんになって、高額バイトするんだね。でもさ、私だって、家事育児の上にパートで働いてきたから、毎日くたくただったんだよ」
「北園さんはパート先を変えたこと、ある?」
そう尋ねながら、天ヶ瀬は冷めたコーヒーをごくりと飲んだ。
「もちろんあるよ。三十代の頃は、セクハラに遭うたび速攻で辞めたし、職場に信じられないほど意地悪な社員がいる場合もね。でも、すぐに次のパート先を探して働いたから、家でのんびりしたことなんて一回もなかったよ。家計を助けるために必死だったもん」
「ほらね」と、天ヶ瀬は言って、私を見つめた。
「何が『ほらね』よ」
「気軽にパート先を変えられるじゃん」
「うん、変えられるけど? どこ行っても時給も大差ないしね」
「パートは気楽でいいよ」
「失礼ね。気楽じゃないよ。持ち場を少人数のパートで回している場合がほとんどだから、そう簡単には休めないし責任も重い。それにしつこいクレーマーには精神をやられそうになる。なんといっても正社員の男に見下されるし」
「だから、そういうときは嫌になって辞めるんだろ?」
「そうだよ」
「さっさと見切りをつけられるのが気楽なもんだって言ってるんだよ。男は一家を養ってるから、そうそう転職できないんだよ。それまでと同じような給料をくれる転職先なんて見つからないし、男が稼がないと一家共倒れになっちゃうし。追い詰められて自殺した同僚もいたよ」
「それは......大変だ。昭和の時代は終身雇用だったから、いったん載ると、そこから降りるのは自殺行為だったかも」
「俺からしたら、里奈が貴族で俺は奴隷みたいなもんだったよ」
「だけど、子育てだって大変だったよ。赤ん坊の頃は夜泣きで睡眠不足の極致で昼間から朦朧(もうろう)としていたし、歩けるようになったらいっときも目を離せないから追いかけるのも体力の限界だったし、それ以外に家事もあるから、私からしたら、外で働くよりずっときついと思ったけどね」
「そういった大変な時期があるのはわかるよ。だけどさ、子供が中学生や高校生や、ましてや大学生になっても大変か? 違うだろ?」
「里奈さんがパートにも出なかったって前に言ってたよね。それはつまり、子供の手が離れてからも働こうとしなかったってこと? 家計に協力する気なんかさらさらなかったってことだ」
「里奈はいつも流行を追いかけていたし、ジムにも通って友だちと豪華なランチに行ってた。子供たちが就職して家を出ていったあとも、ちょっとしたボランティアをするだけで、稼ぐどころか持ち出しばかりだった。そんな里奈のお気楽な暮らしぶりを見ていたから、俺んちは経済的余裕があるもんだと思ってた。定年退職したときに預金ゼロって言われたときのショック、北園さんにわかる?」
「それは可哀相だ。生まれも育ちも違うから、金銭感覚も違って当然なんでしょうね。それに、豪華なランチといっても月に数回のことなんだろうし、昼ならそれほど高くはないでしょう?」
「うん。だからこそ、妻にその程度の贅沢(ぜいたく)もさせられないような男は情けないって俺自身が思ってたんだろうな。だから何も言わなかった。やっぱり俺の頭の中もかなり古かったんだな。それに、恋愛感情はなくなっても家族愛みたいなのはあるつもりだった」
「つもりだった? 過去形で言うの?」
「そうなんだよ。これが過去形なんだよなあ。自分でもびっくりだよ。タイムスリップして人生をやり直せるチャンスをもらえたと思ったとき、もう結婚はしたくないってはっきり思ったんだ。里奈に対する未練が全くなかった。俺って薄情なのかな? 北園さんは、前のダンナさんに未練ある?」
「全くない。やっぱり大嫌い」
そう言うと、天ヶ瀬は嬉しそうに笑って言った。「良かった。俺と同類だね。俺たち冷血人間だよな」
男も女も晩年になると人生を振り返る。
そして、後悔ばかりの人生を、誰かのせいにしたくなる。
――自由に生きられなかった。
誰しもそんな思いが心のどこかにある。
仕方がなかったのだ。
余裕がなかったのだから。
時間がなかったのだから。
お金がなかったのだから。
「そろそろ出よう。俺、新宿にも行ってみたいんだ。まだつき合ってくれる?」
「もちろんよ」
店を出て、電車に乗って新宿を目指した。
新宿駅を出ると、目の前にアルタの大型ビジョンが目に飛び込んできた。
そういえばいつだったか、新宿通りの雑踏の中で、思わず立ちすくんだことがあった。向こうから歩いてくる男の子が天ヶ瀬に似ていたからだ。そのとき自分はとっくに中年になっていたのに、男の子は中学生くらいだった。人知れず苦笑いをしたが、心の中は、耐え難いほどの寂しさに襲われていた。
天ヶ瀬が私立高校を卒業してから東京の大学に進学したことは、ケメコから聞いて知っていたから、いつか会えるかもと期待していたが、東京は広すぎて一度も見かけたことはなかった。
以前の人生の中学時代は、彼を遠巻きに見ていただけで、話をした覚えもほとんどない。それなのに、今こうして並んで歩いているのが不思議だった。
「あれ? ここ知ってるぞ。確か里奈と来たことがある」
そう言って、天ヶ瀬は全面ガラス張りの間口の広い店の前で立ち止まった。
いくつものシステムキッチンが並んでいるのが見えた。
「結婚前の里奈は広い台所に憧れていて、こういったショールームに来るのが好きだったんだ。だからてっきり料理上手だと思ってたら、全然違った」
そう言いながら天ヶ瀬が店に入っていくので、私もその後に続いた。
「いらっしゃいませ」
店の奥から声が飛んできたが、別の客の対応で忙しいらしく、店員は近づいてこなかった。それをいいことに、壁に並んだ様々なシステムキッチンを、二人で順に見ていった。
「これよ、これ。こういうことなのよ。ああ、嫌だ」
私は店員に聞こえないよう小さな声で続けた。「どのシリーズも女の身長に合わせて作ってあるのよ。これが元凶よ。料理は女がするものだって思っているのよ。設計者はきっと男の人よ。台所仕事なんてほとんどしたことがない人が設計するから使いにくいし、掃除もしにくいの」
店内をざっと見渡すと、浴室もいくつか陳列されていたので、そちらに足を向けた。
「そうそう、これこれ。掃除しにくくてたまらないやつ。きっと主婦を暇人だと思っているのよ。そうじゃなければ、こんなに掃除に時間のかかる代物を設計するわけがないもん。それにね、設計者は暮らしの中で使ってみたことがないに決まってるのよ。実際に使ってみたら、どれだけカビに悩まされるか、掃除するたびにどれだけ腰を痛めるかがきっとわかるはず。そしたら改良するはずだよ」
壁際には、床や外壁の建材や、断熱材の見本がずらりと並んでいる。
「日本の家って断熱材をもっと使うべきなのよ。窓も二重にすべきなの。そうすれば夏は涼しく冬は暖かい家になって、光熱費もうんと節約できるし、地球温暖化防止にも寄与できると思うの。なんでそうしないんだろうね。そういうことをきちんと説明したら、ちょっとくらい建築費が高くなっても、お客さんは納得すると思うんだけどね」
自分ばかりがしゃべっていた。
天ヶ瀬は何も言わず聞いていたが、ふっと私を覗き込むようにして言った。
「だったら、こういった住宅設備のメーカーに就職すれば?」
「えっ?」
「北園さんが、この会社に就職して不満点を改善していけよ」
「えっ、メーカーに?」
自分はこれまで大手ゼネコンをはじめとする建設会社や、財閥系のハウスメーカーや、有名な設計事務所だけをターゲットとしてきた。それらが全滅だったから、アケタと一緒にアパレル業界の面接を受けに行った。今考えても、その方向転換はあまりに極端だった。だが、まさかそこからも内定がもらえないとは思っていなかったから、この世の終わりのように落ち込んでしまったのだ。
「北園さんから就職で苦労していることを電話で聞いたときに思ったんだけど......いや、やっぱり何でもない」
「何よ。言いかけたら言いなさいよ」
「気を悪くしないで聞いてほしいんだけど」
「わかった。言って」
「大手を狙いすぎじゃないかと思ったんだ。この時代は厳然と男女差別があるんだから、大学の同じクラスの男と同じような会社に就職するのは、そもそも無理なんじゃないか?」
「確かにね。すごく悔しいけど、それは現実的な視点だよね」
そのときだった。
「何かお探しですか? よろしければ無料でお見積もりいたしますが」
そう言いながら、制服を着た若い女性店員が近づいてきた。
「この会社は業界何位ですか」と、天ヶ瀬はいきなり尋ねた。
「は?」と女性店員は一瞬戸惑うように目を泳がせたあと言った。「私どもの会社はまだ業界六位ですが、社員一丸となって頑張っております。埼玉と栃木に工場がございまして、フル稼働しております」
「ふうん。儲(もう)かってんだね」と、天ヶ瀬は言った。
「はい、お蔭様で。最近は住宅設備にこだわりを持つ人が多くなりましたので」
「あのう、関係ないことを聞いて悪いんですが」と私は切り出した。
「どうぞ、何でもお尋ねください」
「こういった業界って、地方出身の四大卒の女性でも就職できるんですか?」
いきなりこんな質問をされて嫌な顔をするかと思ったら、意に反して彼女は満面の笑みを浮かべた。
「まさに私がその最悪条件でした」
そして周りをさっと見渡したかと思うと、声を落として続けた。「実はどこからも内定がもらえなくて困っていたときに、ここを職安で紹介されたんです」
思わず天ヶ瀬と目を見合わせていた。
店を出たあと、中村屋でカレーを食べてからホテルに戻ると言う天ヶ瀬と別れ、私はその足で新宿の職業安定所に向かった。
この時代はパソコンが導入されていなかったから、閲覧用のファイルを開いて、紙の求人情報を片っ端からめくっていった。
あった。
大洋リビング。住宅設備メーカーだ。
それも、正社員募集だ。たった一名の募集だから欠員が出たのかもしれない。
すぐに窓口に行き、面接を受けたい旨を相談すると、中年の男性職員は電話をかけて問い合わせてくれた。
電話を切ったあと、彼はにっこり笑ってこちらを見た。
「履歴書を会社に郵送してください。建築学科だと言ったら、良い感触でしたよ。書類審査が通ったら、年明けに面接をすると言ってました」
私は丁寧に礼を言ってから職安を出た。
速足で駅へ向かったのは、気持ちが高ぶっていたからだろう。
鼓動を鎮(しず)めるために途中で足を止め、ビルの陰で深呼吸した。
落ち着かねば。
これまでの経験から言っても、採用される確率が低いのは明らかなのだ。
いつごろからか、自分に対して糠(ぬか)喜びするのを厳に戒(いまし)めるようになっていた。駄目だとわかったとき、自分のような人間は生きている価 値がないとまで思い詰めてしまうからだ。
だから予防線を張っておく。駄目でもともとだと何度も自分に語りかける。
社会の風潮に対する怒りは、もちろんある。だがそれ以上に、自信喪失の積み重ねが習い性となり、生涯に亘って心配性や小心やおどおどした態度が女の身体に沁みついていく。
そんな連鎖を断ち切りたかった。
落ち着かないまま電車に乗り、どこにも寄らずアパートに帰った。
(つづく)
Synopsisあらすじ
「私」は、現在63歳。子どもは巣立ち、夫と二人で暮らす平凡な主婦だ。夫は私に関心がなく、家政婦程度にしか思っていない。
ある日、私はふと、気がつく。WBCで活躍した、大谷選手やダルビッシュ、ヌートバー……。彼らは子どもの頃からの夢を一途に追いかけて、あの場所に立っている。なぜ自分はここで、こんなふうに不満ややるせなさを抱えて生きているのだろう。「私は、成績も良かった、努力すればもっと自分の能力を生かせる生き方が出来たはず。けれども、美しくあろうと外見にばかり注力してきたために、今はただのオバサンになってしまった、もし、あのとき、外見をつくろったり、男性の目を気にすることなく、自分のやりたいことを一途に貫いていたら」
もう一度、人生をやり直したい……激しい後悔とともに、そう強く願った私は、気がつくと、中学生に戻っていた……。
Profile著者紹介
2005年『竜巻ガール』で小説推理新人賞を受賞し、デビュー。テレビドラマ化された『リセット』『夫のカノジョ』『結婚相手は抽選で』『定年オヤジ改造計画』や、映画化された『老後の資金がありません』のほか、『四十歳、未婚出産』『夫の墓には入りません』『姑の遺品整理は、迷惑です』『うちの子が結婚しないので』『もう別れてもいいですか』『あきらめません!』『懲役病棟』など著書多数。
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