- 2024 08/29
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世界の思想・宗教に大きな影響を与え続けているインド思想。それを記述する大事なことばがサンスクリットです。じつはこのことばは日本語の語彙にもたくさん流入していますし、50音図もそもそもサンスクリットに由来します。この「永遠・不変の言語」について『サンスクリット入門 インドの思想を育んだ「完全な言語」』を刊行した赤松明彦先生にお話を伺いました。
――そもそもサンスクリットとはどういうことばでしょうか? お墓の卒塔婆とかに書いてあるのもサンスクリットですか?
赤松:そうですね。「そもそも」と言われると答えるのが難しくなるのですが、まず言えるのは、サンスクリットは古代のインドで使われていたことばだということです。そして、私たちはこのことばで残された数多くの文献をもっています。ヒンドゥー教や仏教の聖典、詩や演劇の文学作品、さまざまな哲学の典籍、法典や医学文献、天文学や数学の理論書、音楽理論や美学理論の本、占星術や占いの本もあります。これらの作品は、現代に至るまでの二千数百年の間に生み出されてきました。
サンスクリットを死語という人もいますが、現代でも国際学会では、サンスクリットで研究発表をする学者がいますし、研究者間でサンスクリットで会話していることもあります。
では、その始まりはいつ頃かというと、パーニニという学者が生まれた紀元前350年頃ということになります。
「サンスクリット」という名称は、「サンスクリタ」という語に由来します。「完成された」、「仕上げられた」という意味です。このことばは、パーニニによってその文法規則が決められたので、後の時代になって、このことばを「サンスクリタ」、つまり「完成されたことば」と呼ぶようになったのです。
実際にこのことばを「サンスクリタ」と呼んでいる用例は、文献で確かめられるのは紀元後の5世紀頃からです。つまり、サンスクリットの文法が固定化されて、学ばれるようになるまでの間には、それぞれの規則について学問的に検討がなされ、解釈が加えられた期間があったわけです。
パーニニの規則は、パーニニの後に続いたカーティヤーヤナによって補足され、さらにパタンジャリが出て、規則のいちいちについて詳細に議論し、注釈を加えました。パーニニとカーティヤーヤナとパタンジャリの3人を、「ムニトラヤ」、つまり「三聖人」と読んでいます。
「サンスクリット」は、このような経緯を経た結果、その文法が学ばれるべき言語として、つまり生まれつき身につくことばではなく、学習によって二次的に習得されることばとして、おそらく紀元前後に固定化したのです。
もっとも、もちろん、これはパーニニが新しい言語をゼロから作り出したということではありません。パーニニにとっては、そのことばは、両親から生まれつき受け継いだ話し言葉であったでしょう。また、彼が育った環境のなかで、伝統的に受け継がれてきた祭式において使用されるヴェーダ語にも、彼は身近に親しく接していました。つまり、パーニニは、彼が所属する社会階層(ヴェーダ祭式を執行する宗教的知識人としてのバラモン階層)が使用していることばを主な対象にして、そのことばを構成している単語のいちいちがどのようにして作られ、生まれてくるのかの規則を定めたということができます。
そして、その後の展開の中で、「完成された」ことばという意識をともなって、学習され、習得されて、それぞれの作品へと結晶化されたのが、サンスクリットだと言えます。
サンスクリットということばを、言語の発展という歴史的な観点から説明しておくと、まず、神々への讃歌を集めた『リグ・ヴェーダ』や、ブラーフマナ、さらにウパニシャッドといったヴェーダ文献のことばであるヴェーダ語があって、これが紀元前の1000年間ぐらいの間に発展していきます。このヴェーダ語も含めて、広い意味での「サンスクリット」と呼ぶこともあります。その場合、パーニニ以後のサンスクリットを「古典サンスクリット」と言っています。
このヴェーダ語も含めた「サンスクリット」は、印欧語に属することばですが、インド亜大陸には、印欧語が入ってくる以前から、当然のことながら、その土地のことばがありました。たとえばドラヴィダ語系のことばがそれで、現代のインドでも、南の方の地域で使われているタミル語などは、この系統のことばとして残っています。
ということは、現在、北の地域で使われているヒンディー語やベンガル語、マラーティー語などは、印欧語の系統のことば、つまりサンスクリットに関連することばですが、それらも遡ればそれぞれの地域で使われていた古いことばとして存在していた時代があるということになります。
古い時代に、それぞれの地域で地方語として存在していた話し言葉は、中期インド語と総称されています。仏教の開祖ブッダのことばを伝えるパーリ語や、ジャイナ教のマハーヴィーラのことばを残すアルダマーガディー語が、中期インド語です。「中期」と言っても、ブッダの生きていた時代ですから、紀元前5世紀には存在していたわけです。
パーニニが母語として自然と習得していたことばも、その地域で生きたことばとして話されていた地方語であったはずです。パーニニは、その一方で、彼が所属する階層が1000年以上にわたって伝えてきたヴェーダ語にも親しみました。そこで、彼は、伝承されたヴェーダ語と現に自分が話している母語(地方語)の間にある音の変化の規則性のようなものに気づいたはずです。彼は、伝承されてきたヴェーダ語と、当時の話し言葉であった中期インド語と、さらには古代のドラヴィダ語などからの影響も見られることばの総体を対象にして、そこから、4000の文法規則を導き出して、「サンスクリット」と呼ばれることになることばの体系を作り出したということができます。
こうして固定化されたサンスクリットは、その文法を学習することによってしか習得できないことばになりますが、まさにそれゆえに、「永遠・不変の言語」として、インド文化の精華とも言うべき多くの作品を生み出し、現代に至っているということができます。
お墓の「卒塔婆」の話をしておきますと、サンスクリットの文は、「音」の連続です。この「音」を表す文字としては、デーヴァナーガリー文字が代表ですが、古くはブラーフミー文字やカローシュティー文字で表されましたし、今でも、インドのルピー札を見ればわかるように、それぞれの地域(州)にはそれぞれ言語と文字があります。そのそれぞれの文字でサンスクリットの文を表すことができます。本書では、ローマ字を使いましたが、ローマ字は、サンスクリットの「音」を表すには大変適した文字です。実は、最初はカタカナで工夫して表すことを考えましたが、それはどうしても無理でした。
それで、卒塔婆の文字ですが、卒塔婆には「悉曇(しったん)」と呼ばれる文字が書かれます。書かれているのは、サンスクリットというよりは、世界の根本要素である「地・水・火・風・空」を表すそれぞれの文字(「種子」)です。
京都のお寺に行くと、五輪塔というお墓のようなものが見られますが、これが卒塔婆の原型だろうと思われます。よく見ると、お墓の卒塔婆と同じ文字が、一つ一つの石に刻まれています。
――本書の特徴はどういうところにありますか? あるいは執筆に当たってとくに工夫された点や苦労された点がありましたらお教えください。
赤松:編集者から最初に依頼されたのは、「新書や単行本として一般向けのサンスクリットの概説書は現在出版されていないようなので、そのような新書を作りたい」ということでした。もう15年も前のことです。
内容的には、基本的な文法の概説に加えて、サンスクリットの歴史、作品の紹介、サンスクリットが後代に与えた影響、日本語の中のサンスクリットなどについて盛り込みたいということで、かなり欲張りです。
最初は、実際にそれらについて一般の方に、つまりサンスクリットにまずは関心をもたれた読者に読んでもらえる形で書くことはなかなか難しいことに思えました。
とはいえ、私は、それ以前に、中公新書で『楼蘭王国』(2005年)という本を書いています。
こちらは、中期インド語であるガンダーラ語のカローシュティー文書を最後の章で扱ったとはいえ、インド哲学を専門として中央アジア史にも中国史にも門外漢であった私が、「楼蘭王国」という大変魅力的な響きをもった場所の歴史について一般向けに書いた本です。いわば素人が書いた歴史の本ですが、インド学という別の視点から見た中央アジア史・研究史ということで、それなりにおもしろく読んでもらえる本であったと思っています。
そして、この『楼蘭王国』を書くことで、一般の方にも広く読んでもらえる新書を書くという仕事に、正直に言って私は強く惹かれるようになっていました。
こういうわけで、サンスクリットについて、一般の方にも「読める」本をという依頼に答えることになりました。もっともそのときは、それが無謀なことだと(専門の先生方から)言われることもわかっていました。サンスクリットに関心をもつ人が、その文法を独習すること、つまり専門の先生の手ほどきを受けることなくひとりでサンスクリットを学ぶことはかなり難しいと思えるからです。
実際、当時、日本語で出ているサンスクリットの文法書で入手可能なものは、辻直四郎先生の『サンスクリット文法』(岩波全書)と、ゴンダの『サンスクリット語初等文法』(春秋社)ぐらいだったと思います。辻先生のものは専門的な文法書、ゴンダのものは教科書です。これらで独習するのはかなり難しいでしょう。平岡昇修先生の『サンスクリットトレーニング』(世界聖典刊行協会)が、独習用のドリルとしてありましたが、こちらはサンスクリットについて「読みたい」と思う人が手を出すことはなかったと思います。
このように、文法を学ぼうとするだけでも難しいのですから、その歴史や文学作品などについての「読める」本を書くことは、なおさら難しいということになります。
しかし、英語なんかであれば、サンスクリットの入門書で、読みながら学ぶという感じのものはいくつかあります。
まあそれなりに分厚かったり、版が大きかったりしますが、私も学生時代に、当時出版されたばかりであったTeach yourself booksシリーズの1冊であったCoulsonのSanskrit: An introduction to the classical language(New York 1976年)を手に入れて読みました。500頁超の本です。サンスクリットの文章を読むコツのようなことが随処に書かれていて、なるほどなるほどと思いながら読みました。
もっとも、その頃は、大学でのサンスクリットの初級・中級のクラスは終えていましたから、おもしろく読めたのかもしれません。
実はこの本、ツッコミどころ満載で、「独習用でも、初心者用でもない」問題の多い本という評判を得ています。(ちなみに、著者のCoulsonは、出版前に亡くなっています。)デーヴァナーガリー文字はともかくとして、不細工なローマン活字で読みにくいし、転写の間違いも多いとか言われ、散々でした。
でも考えて見て下さい。まだパソコンは出回っていません。Apple IIが出るのが1977年です。私たちがパソコンとしてサンスクリットのデータを入力するのに使用し始めたNECのPC-9801が出るのは1982年です。サンスクリット(デーヴァナーガリー文字)がユニコードに入ったのは2009年です。
要するに当時は、サンスクリットのものは、原稿を書くにしても、それを本にして出版するにしても、とても時間がかかり困難を伴うものであったわけです。
余談になりますが、私は博士論文を、アクセント記号用にデッドキーを特注したオリベッティのタイプライターをたたいて書きました。出典などの資料は大量の手書きのカードで残っています。頭の中にはそれ以上の情報がたまっていたはずです。ノートも手書きで、今見直すと何が書いてあるのか自分でも読めません。
だいぶ脱線してしまいました。とにかく、私としては、サンスクリットについて「読める」本を書きたいという思いで書いたのがこの新書ということになります。
その後、2010年になって、上村勝彦先生の遺稿を、風間喜代三先生が補訂・整理されて、『サンスクリット語・その形と心』(三省堂)として出版されました。この本は、文法事項の説明は簡潔ですが、一般の読者に向けた「読める」本になっています。また、サンスクリットの文を読むための独習書にもなっています。
私のものは、これよりももう少し、文法的に説明が詳しく、関連してあげられているサンスクリット文の解釈などについてもその背景の説明など、すこし深入りしているところがありますので、これを特徴として挙げることができるかと思います。
苦労したのは、やはり文法事項の説明です。これを無味乾燥なものにしないためにどうしたらよいか、と最初考えました。
それで、日本語のもつ様々な特徴と引き比べて説明したらどうかと考え、最初の「連声」の部分を書き始めたときには、日本語の連濁のことや、方言における音の変化のことなど、いろいろ自分でも勉強しながら説明を書きました。その結果その部分だけで100頁を超えるようなことになってしまいました。(もっとも、この新書でも50頁近くを占めていますが。)
この調子で書き進めると、とんでもないことになるので、結局のところ文法事項の説明は、できるだけ簡潔にしてあります。また、サンスクリットの文章の原典からの引用も、最初はもっとあれこれあったのですが、これもかなり減らしました。
私としては、とにかく「新書」の形で出したいという気持ちが強かったです。この気持ちに答えて下さった編集の酒井孝博さんには感謝していますし、文法の表やサンスクリットの文を、うまく頁の中に収めて下さったDTP担当の市川真樹子さん、そして校閲の方にも、心から感謝しています。
――本書の「はじめに」にはパーニニの規則が4000くらいあるとお書きでした。この本で説明されたことは、そのうちのどのくらいですか?
赤松:そうですね。1000くらいですね。
サンスクリットの初級文法と中級の読本を一通り終えてから、私は、パーニニの規則集(『パーニニ文典』)を授業で読みました。『パーニニ文典』と言っても、パーニニの『アシュタ・アディヤーイー』は、暗号のような規則文が、暗記用に、省略に省略を重ねて並んでいるだけです。
これを実際の語形を作り出すのに必要な規則ごとにまとめて、一連の文法操作として説明する実用的な解説書があります。『シッダーンタ・カウムディー』という本で17世紀に作られました。この本の、術語の定義の部分と、複合語(「サマーサ」)の部分を、最初に読まされました。しかし、この本も、その全体は、『パーニニ文典』と同じだけの大きさ、あるいはそれ以上の大きさがあります。
『パーニニ文典』には、ヴェーダ語に関連する規則も数多く含まれています。こういった規則は、古典サンスクリットを読む上では、実際のところあまり必要ありません。
そこで、古典サンスクリットの本を読むために最低限必要な知識を与えてくれる規則だけを取りだして、説明してくれる本として、『ラグ・カウムディー』という解説書があります。やはり17世紀につくられたものです。この本に収められている規則が、おおよそ1300なんです。これが通常のサンスクリットを支配している文法規則の数の目安になります。
――サンスクリットに関心をもった人が本書の次に読むとしたら、どんな本が良いですか。
赤松:私としては、新書に限らず、インドの哲学や宗教、あるいは言語や文学についての本を書かせてもらうときには、できるだけ「読める本」としてそれを書きたいと思っています。つまり専門書とか学術書とかではない本という意味です。そんな意味で、サンスクリットに関連しての「読める本」があればいいのですが……。
今は古本でしか手に入りませんが、白水社の文庫クセジュに『サンスクリット』という1冊があります。ピエール=シルヴァン・フィリオザの著作で、フランス文学者で空海や悉曇学の研究者でもある竹内信夫さんの訳です。この本は、サンスクリットの文法と言うよりは、その構造と歴史に重点を置いて、インドにおける伝統に基づきながらサンスクリットについて述べています。
著者のピエール=シルヴァン・フィリオザの講義には私も出ていたことがあるのですが、父親は偉大なインド学者であったフランス人のジャン・フィリオザです。幼い頃からインド的な環境で育ち、サンスクリットにどっぷり浸かった先生ですから、先生の『サンスクリット』は、土着的というか、生のサンスクリットの話を聞いている感じがします。
今回の私の『サンスクリット入門』は、文法の説明が主になっていて、それに関連して文学や思想について話すという形をとりましたが、サンスクリットという言語については、単に文法的、言語的な事象としてだけでなく、文化的な事象としてお話ししたい沢山のことがあります。サンスクリットという言語の影響を受けた文化のアジア世界における広がりは、われわれが想像している以上に広いのです。
今回の本では、残念ながらそこまで扱うことはほとんどできませんでした。それで、サンスクリットの文化的な広がりをテーマとした、『サンスクリットの世界』という新書の続編を書きたいと思っています。
ちょっと脱線してしまいましたが、ほかに「読める本」として、私が推薦したいのは、たとえば、ハインリッヒ・ツィンマー『インド・アート』(せりか書房)ですね。この本は、インドの神話について、いろいろな文献に基づきながら興味深い話をしてくれています。
インド哲学に関してということであれば、『インド哲学10講』(岩波新書)を、私は書いています。「インド哲学」についての「読める本」というのを、これは目指しました。
同様に、ヒンドゥー教についてであれば、これも岩波新書で『ヒンドゥー教10講』というのを、私は書かせてもらいました。私としては、こういった本は、できるだけ多くの人に読んでもらいたいという気持ちで書いています。つまり、専門的な研究書ではないということです。
そして、こういった本を読んで、もし専門的に研究したいと思ったならば、そういう人は、大学などで、仏教を含めたインドの思想や宗教を専門に教えておられる先生方のもとで、学んでほしいと思います。日本の多くの大学には、インドを専門にする先生方がたくさんおられますので、専門的に学ぶことはそんなに難しいことではないと思います。
最後に急いで付け加えておきたいのですが、『パーニニ文法講義』(臨川書店)という本が9月に出版されます。著者は、パーニニ文法学・サンスクリット文学の専門家である川村悠人さんと、印欧比較言語学者のアルバー・キャットさんです。「パーニニ文法学に対する本邦初の入門書」ですが、絶対に信頼できるものになっているはずですので、パーニニ文法学について学びたいと思っている方には、お薦めします。
――ところで本書にはヨーロッパの学者の名が出て来ます(日本の研究者の名も出て来ます)。サンスクリットの研究はどの地域で盛んなのでしょうか。欧米でなぜ盛んなのか、日本で盛んだとして、他の東アジア諸国ではどうなのか、そもそもインドではどうなのでしょうか。
赤松:サンスクリット研究者の国際組織があって、ほぼ3年に1度、国際サンスクリット学会を開催しています。
1972年にニュー・デリーで第1回大会が開催され、2009年には京都で第14回大会を開催しました。インド以外のアジアの国で最初に開催されたものです。第2回がトリノ、第3回がパリ、第4回がワイマール、第5回がヴァラナシ(ベナレス)、そして京都の前の第13回がエジンバラ、その前がヘルシンキというように、インド以外ではもっぱらヨーロッパで開催されてきました。次回は、今年の12月にネパールのカトマンドゥで開催される予定でしたが、事情で延期されました。
京都での第14回大会では、私が事務局長を務めました。サンスクリット学会と言っても、サンスクリットに関連するいくつかの学問分野に属する研究者が集まりますので、サンスクリット文学や文献学だけでなく、インド哲学や宗教学の研究者はもちろん、科学史や芸術史、社会学や法学、また現代インドの研究者も参加します。仏教学については、国際仏教学会が別にありますが、この学会にも参加しています。
京都での国際サンスクリット学会では、正式に参加登録した者だけで488名、35カ国からの参加がありました。その内の367名が講演発表をしました。日本からの正式参加者は、145名で最大でしたが、これは開催国として当然でしょう。
インドからは86名が参加しました。海外からの参加者としては最大です。京大の周辺で、急にインド人の姿が増えたので何事かと驚かれました。アメリカからは51名、ドイツから35名、イギリスから25名、フランスから23名、オーストリアから20名、イタリアとスイスから各13名、韓国から10名、カナダとオランダから各9名、オーストラリア6名、フィンランド5名、デンマークとタイから各4名、ハンガリー、ノルウェー、スウェーデンから各3名、ベルギー、クロアチア、ポーランド、ロシア、台湾から各2名、そして、中国、チェコ、インドネシア、イラン、イスラエル、メキシコ、ルーマニア、シンガポール、スロヴェニア、ヴェトナムから各1名でした。
参加者はその国を代表するサンスクリット学者と新進気鋭の研究者たちです。このように多くの国にサンスクリット研究者がいることは間違いありません。そして、上の数字からは、欧米の国々でサンスクリット研究が盛んであるということもわかるでしょう。もう15年も前の数字ですから、状況はかなり変化して、日本と同様に欧米でも古典学や人文学の講座は数が減っていますが、それでも欧米の主要な大学には、いまもサンスクリットに関連する講座がいくつか必ずあります。
欧米でサンスクリット研究が盛んな理由には、歴史的な背景があります。やはりインドがイギリスの植民地であったことが大きいでしょう。有名な東インド会社による植民地経営の時代、1772年に初代のベンガル総督となったウォーレン・ヘイスティングズは、「インド人はインド人固有の法律にもとづいて統治されるべきである」という決定を下します。それはつまり「サンスクリットの法典によって統治すべし」ということです。
しかし「インド人の法典」として最初に英語にされたものは、サンスクリットをペルシャ語にまず翻訳して、それから英語に翻訳されたものでした。ヘイスティングズは、ベンガル語もヒンディー語も話せ、ペルシャ語にも精通していたようです。しかし、当時、サンスクリットに通じたイギリス人はカルカッタ(現在はコルカタと表記されます)にはひとりもいなかったのです。そこでまず東インド会社の社員であったチャールズ・ウィルキンズがサンスクリットを学び始めます。
そして、その後、1783年に、「オリエンタリズム(東洋学)の創始者」とされるウィリアム・ジョーンズがカルカッタに来て、サンスクリット研究を開始し、ウィルキンズの協力などを得て、1784年にベンガル・アジア協会を設立してから、サンスクリットから直接英訳された『バガヴァッド・ギーター』や『マヌ法典』などが出版されるようになるわけです。
その後、1800年の初頭には、サンスクリット研究の中心はパリに移ります。カルカッタでサンスクリットを学んできたアレクサンダー・ハミルトンというイギリス人が、パリでたまたま捕虜になった結果、サンスクリットを学ぼうとする学生たちが、ヨーロッパ各地からハミルトンのもとに集まります。そして、1815年にはパリのコレージュ・ド・フランスでサンスクリットの講義が始まります。また、1818年にはドイツのボン大学にドイツで最初のサンスクリットの講座が開設され、アウグスト・シュレーゲルが教授になります。さらに1821年にはベルリン大学のサンスクリット及び比較文法の講座の教授にフランツ・ボップが就任します。
このようにして、ヨーロッパにおけるサンスクリット研究の基礎が整えられました。そこには、サンスクリットが、ギリシア語やラテン語と近い関係にあり、印欧語のもとにある言語であるという強い思いがあったようです。
そこから、後に比較言語学や比較神話学、比較宗教学といった学問へと展開することになる「比較」という方法論も生まれてきます。
それはまたインドの思想や宗教への関心が熱狂的に高まった時代でもありました。
1823年にアウグスト・シュレーゲルが『バガヴァッド・ギーター』の校訂テキストとラテン語訳を出版します。これを受けて、1825年に、ヴィルヘルム・フォン・フンボルトが、ベルリンのアカデミーで講演を行います。そして1827年に、ヘーゲルがフンボルトやシュレーゲルへの批判を行うのです。このような状況の中で、フランスでは、ヴィクトル・クザンが、その講義でインドの哲学を論じますし、イギリスでは、1823年に、コールブルックが「インド人の哲学について」の講義を開始しています。
インド哲学をめぐるこのような状況について、私は、『『バガヴァッド・ギーター』――神に人の苦悩は理解できるか?』(岩波書店)の中で書いたことがあります。また、少し時代が下がって、ショーペンハウアーがウパニシャッドを熱心に読んだことはよく知られていますが、いま、私は、このショーペンハウアーのインド哲学に対する理解を中心にして、ヨーロッパにおいて、インド哲学がどのように理解されたかということについての本を書いているところです。
現代のインドでサンスクリット研究が盛んと言えるのかどうかわかりませんが、インドの「国学」ですから、サンスクリット関連の講座をもつ大学は公的なものだけでも20近くあります。また、アーユルヴェーダ(医学)や天文学・占星術に関連する大学の講座もありますから、多くの研究者や学生がいることは間違いないです。
また、アジアの国々でも、特に仏教との関係でサンスクリット研究が盛んに行われています。サンスクリットに関連する学問は、非常にインターナショナルな学問だと言えます。日本の若手の研究者の中にも、国際的に活躍している人たちが多くいます。
日本におけるサンスクリット研究も、やはりその始まりは仏教研究のためのものでした。オックスフォード大学のマックス・ミュラーのもとで学んだ南条文雄や高楠順次郎によって日本における近代的な仏教学とサンスクリット研究は開始されたと言えます。南条は1885年から梵語(サンスクリット)学を東京帝国大学で講じています。高楠順次郎も、1897年に東大の講師となりサンスクリットを講じます。そして、1901年に新しく開設された梵語学講座の初代の教授となります。こうして東京大学において、その後の日本の印度哲学・仏教学研究やサンスクリット研究の発展を担うことになる宇井伯寿や辻直四郎といった優れた学者が育つことになるわけです。
ちなみに、高楠順次郎は、「中央公論」の名づけ親とされていますね。『中央公論』の前身である『反省会雑誌』(1887年創刊)は、西本願寺の有志が設立した「反省会」という団体の機関誌でしたが、高楠は、この団体の設立当初の中心人物でした。
――日本では、近世以前の梵語学と現代のサンスクリット研究はひとつながりのものとしてつづいているのでしょうか。それとも文法の解説とかはもうまったく別のものだと思ってよいのでしょうか。先生が習ったときはどんな感じでしたか。
赤松:私が大学2年生(1973年)の4月から最初に初級サンスクリット文法を習った先生は、大地原豊先生でした。大地原先生は、パリ大学の教授で世界的にも有名であったサンスクリット学者でヴェーダ研究の権威であったルイ・ルヌー先生のお弟子です。
また、その年の秋にはハーヴァード大学で博士号をとって帰って来られた小林信彦先生から、引き続き初級サンスクリット、さらには中級サンスクリットを教わりました。
というわけで、私が習ったサンスクリット文法は、パーニニの文法と西洋のサンスクリット文法学を踏まえたものです。その教え方は、この『サンスクリット入門』にも、反映されています。
教科書も、大地原先生は、ペリー(E. D. Perry)のA Sanskrit Primerで、これを最初からやりました。この教科書は、サンスクリットの部分が、すべてデーヴァナーガリー文字で印刷されていますから、最初の2回ほどで文字を覚えてくるようにと言われました。
小林先生になってからは、ジョージ・ハート(George L. Hart)のA Rapid Sanskrit Methodが教科書になりました。ハートは、後にタミル語の専門家になります。この教科書は、1984年には本として出版されますが、当時はまだ私家版でした。小林先生がハーヴァードから持ち帰られたものだと思います。
まったく新しく習う古典語で、しかも習得することが難しいと言われている言語を、英語の教科書で習うのですから、私にとっては悪戦苦闘でした。
仕方がないので、荻原雲来の『実習梵語学』(丙午出版社)を古本で買って、参考にすることにしました。(今は、この本の新訂版である『実習サンスクリット文法』(吹田隆道編著、春秋社)が出ています。)
しかしこれがまた文語体で書かれていて、しかも文法用語が漢訳風でピンとこないものでした。1974年の春に、辻直四郎先生の『サンスクリット文法』(岩波全書)が出たときには、ほんと飛びつきましたね。
近世以前の梵語学の代表的人物として、江戸時代の慈雲尊者(1718~1804)がいます。
河内の高貴寺の住職であった慈雲尊者は、当時日本全国に散在していたサンスクリットの写本、その大部分は仏教の経典ですが、それらを収集して、その本文を対照したり文法的な解釈を示したりしながら研究し、辞書を編纂したりもしました。そうした資料を集めたものが、『梵学津梁』(ぼんがくしんりょう)と言われるもので、様々な形態ですが全部で1000巻あるとされています。
先にお話しした京都での国際サンスクリット学会では、その期間中に京都大学の時計台で「慈雲展」を開催しました。高貴寺に保存されている資料をお借りして、慈雲尊者の梵語学の一端を世界の研究者たちに見せることができました。
その展示資料の中に、慈雲自身の書き入れのある『七九略鈔 蘇漫多 上』という刊本の草稿がありました。「蘇漫多」は、このまま読めば「ソマンタ」でしょうが、subanta(スバンタ)の音写です。「七」というのは、呼格を除いた7つの名詞格語尾を指していますが、それを、subantaつまり「supに終わるもの」と呼んでいるのです。(「supに終わるもの」=「格語尾に終わるもの」=名詞については、『サンスクリット入門』172頁で触れています。)
もう一方の「九」は、動詞の9つの語尾変化を指しています。そしてこれは、「底彦多」(テイゲンタ)と書かれています。tiṅanta(ティナンタ)です。(同じく171頁参照。)『梵学津梁』のうちのどれぐらいのものが、実際に刊本として印刷出版されていたのかはわからないのですが、この『七九略鈔 蘇漫多』(上・中・下)や『七九略鈔 底彦多』(上・下)は、実際に木版本が印刷されたようで、京都大学附属図書館には、安永3年(1774年)刊行のものが貴重書として保管されています。
このようなことから見て、仏教学の伝統の中で、僧侶たちによって梵語学は江戸時代にも、さらにはそれ以前にも学ばれていたことは確かです。しかし、現代のサンスクリット研究とつながっているということはないようです。ここでもやはり、江戸と明治の間の文化の断絶は大きいと言えるのではないでしょうか。

――そもそも先生はなぜサンスクリットを志したのでしょうか?
赤松:「志した」と言われると、そんな大層なと思ってしまいます。
とりあえず、大学に入った頃からの話をしますと、まず、「哲学」を専攻したいとは思っていました。教養課程でも、哲学の講義や演習(教養課程ですから、西洋哲学に関連したものしかありませんでした。ヤスパース、ヘーゲル、カント、ホワイトヘッド、フンボルト、ブーバーなど)に出ました。その頃は、論理学と言語哲学をやりたいと思っていました。それで、中世哲学のオッカムあたりにしようかとラテン語の授業を2回生からとったのですが、何かの拍子に、「インド論理学」というものがあることを知りました。インドにも論理学があるということを知り、余り人がやっていそうもないので興味が湧いたことは間違いありません。それで、初級サンスクリットの語学演習の授業にも出ることにしました。
ラテン語もサンスクリットも、とてもハードな授業で、週2回で1回当たり4時間のクラスと言いながら、実質は、倍の1週間あたり全部で8時間ぐらいやっていたと思います。夏休みが明けたときには、ラテン語からは脱落してしまいました。授業だけは年末まで出ていた記憶はありますが、修了はできませんでした。というわけで、サンスクリットが残ったわけです。
それでインド哲学史講座に入りました。当時、京都大学文学部には、インド哲学史と梵語梵文学と仏教学の3講座が、インド学に関連する講座としてありました。そして、服部正明先生、大地原豊先生、梶山雄一先生がおられて、海外の先生方からも「ムニトラヤ」(「三聖人」ということですが、重要なのは3人の凄い先生が同じ時期に揃っていたということです)と呼ばれていました。私は、インド哲学を専攻して、当初の希望どおり、「インド論理学」の勉強を始めました。これが、まあ、サンスクリットの勉強とインド哲学の研究を始めた頃の話ということになります。
なぜ志したのか、ということになると、サンスクリットということばに惹かれたということ、そして、「ことば」というものの不思議さについてあれこれ考えることが好きだったということになるかと思います。
――本書「おわりに」の坂口安吾のエッセイに出てくるサンスクリットの先生の言葉は大変印象的でしたが、先生が研究をこれまで続けてきて、思い出深いことはなんですか。
赤松:はじめてインドに行って国際的な学会(「第1回バルトリハリ学会」)で発表したときのことです。
私はパリに留学していたので、そのときに多くの同世代の研究者や当時第一線におられた先生方、そして伝説的な大先生方ともお会いしたり、話したりしていましたので、国際学会での発表といっても、正直言って、恐くもなんともなかったのですが、プネーであったこの学会での経験は強烈でした。
まったく見ず知らずのインド人研究者から、猛烈に攻撃的な質問を受けて、ビックリしました。その場におられたインド人の大先生が、その研究者に声をかけられて、その場はおさまりました。知り合いのインド人やフランス人の研究者からは、インドにはああいう研究者もよくいるのよと慰められました。
しかしよくよく考えて見ると、あの質問者の興奮の仕方も理解できないわけではありません。
プネーと言えば、サンスクリット研究のメッカのような場所のひとつです。プネー大学のサンスクリット・プラークリット学科は、言ってみれば、インドの国文学の総本山です。そして、バルトリハリ(5世紀)と言えば、インド文化の歴史の中で、最高の詩人であり文法学者であり哲学者です(詩人のバルトリハリと文法学者のバルトリハリはおそらく別人でしょうが)。
そのバルトリハリの思想について、どこの国の若造かわからない人間が偉そうに話したのですから、頭に来たのも無理はないような気が、今となってはします。偉い国文学者が集まった日本の学会で、どこかの国の若者が、本居宣長についてこんなこと知ってますかと話したようなものですから。
サンスクリットの勉強は、何年経ってもうだつのあがらないものだということは、今になれば実感できるのですが、当時の私は、サンスクリットを読むことには自信たっぷりでしたから、愛国心の強いインド人にはきっと鼻持ちならなかったのでしょう。
――先生は若手研究者を育成する京都大学白眉センターのセンター長も長年務められましたが、最後に読者、特に若い人に伝えたいことがありましたら、なんでもお教えください。
赤松:私の学生時代は、たとえば、新潟(あるいは横浜)からナホトカまで船で行き、ウラジオストクからハバロフスク経由でモスクワまでシベリア鉄道に乗り、さらにその先のヨーロッパにまで鉄道で行くということがありました。このルートで、実際にドイツに留学した先輩もいます。当時はこれが一番安い行き方だったと思います。5日~6日はかかったでしょうか。時間はかかりますが、その間にじっくりものを考えたり、ヨーロッパでの生活の心構えができたりしたようです。もっとも私は、アンカレッジ経由の飛行機でパリまで行ったのですが。
とにかく若い人には、海外に出て学ぶことを薦めますね。今は、世界の情勢もよくなく、円安で旅費も高いですので、海外留学はなかなか難しいかもしれませんが、多様なものの見方を身につけて、自由にものを考えることが出来るようになるために、若い間に、是非とも海外に出て、ひとりになって学び、何かに没頭する時間をもってほしいと思います。とにかく、若いときにしか使えない時間というものがあると思いますので、その貴重な時間を無駄にしないように過ごしてほしいです。
本書の刊行を記念して、赤松先生による講座「インドの思想をはぐくんだ言語」が、朝日カルチャーセンターのオンライン講座として開講。9月20日の全1回です。詳しくは下記をご覧ください。 「サンスクリット入門」 インドの思想をはぐくんだ言語
出版記念