2024 07/17
著者に聞く

『元朝秘史―チンギス・カンの一級史料』/白石典之インタビュー

モンゴル国の首都ウランバートル市中心の大統領政庁前のチンギス・カン像

チンギス・カンの生涯と事績を中心に、はるかなる祖先の系譜から第2代君主オゴデイの治世までを綴った『元朝秘史』。モンゴル帝国の草創期はこの史書なくしては語れない。長年にわたる文献史学の蓄積に加え、モンゴル民主化以降に継続された考古学的調査から、いったい何が見えてきたのか。『元朝秘史―チンギス・カンの一級史料』を著した白石典之さんに話を聞いた。

――白石さんのご専門は。

白石:モンゴル高原を研究対象とするモンゴル考古学です。モンゴルの遺跡を発掘して得られた成果に基づき、匈奴(きょうど)、突厥(とっけつ)、モンゴル帝国といった遊牧王朝の興亡史を研究しています。

――チンギス・カンに関心を持ったきっかけは何ですか。

白石:バブル経済が絶頂だった1980年代末、作家の司馬遼太郎さんらモンゴルに興味をもつ著名人たちが、チンギス・カンの墓を探そうという壮大な計画を発案しました。彼の墓所は見つかっておらず、世界中の探検家が長らく探し求めていました。司馬さんらの考えに賛同した読売新聞社など日本の企業がスポンサーとなり、日本とモンゴル国(当時はモンゴル人民共和国)の学者が共同で、チンギス・カンの墓を探すことになりました。その隊員に選ばれたことが、私とモンゴル、そしてチンギス・カンとの出会いとなりました。

――これまでモンゴルで行ってこられた発掘調査とその成果について教えてください。

チンギス・カンの「大オルド(宮廷)」跡と考えられているアウラガ遺跡の発掘風景

白石:1990年から4年間も探査しましたが、チンギス・カンの墓は見つかりませんでした。それでもチンギス・カンと関連する多くの遺跡を発見することができました。その一つがアウラガ遺跡です。訪れてみると当時の生活用品の残骸が所狭しと散らばっていました。アウラガ遺跡を調べればチンギス・カンの実像に迫れると直感しました。

2001年からアウラガ遺跡で発掘を始め、現在までにチンギス・カンの宮殿、彼の霊廟、強大化を支えた武器の工房などを発見しました。おぼろげながらチンギス・カンの実像が見えてきました。

――今回、執筆依頼を受けてどのように感じましたか。

白石:モンゴルに行くことになり、予習のために手に取ったのが東洋史の泰斗岩村忍さんの『元朝秘史』(中公新書、1963年刊)でした。以来、何度も読み返しています。私にとってモンゴル研究の原点ともいえる一冊です。平易な口語体で、大変読みやすい良書でしたが、残念ながら絶版になってしまいました。その後継として本書の執筆のお話をいただいたときは、大変嬉しく思いました。

――今回、執筆にあたって工夫された点は。

白石:わが国では優れた『元朝秘史』の訳書や研究書が数多く出版されています。ただ、それらは文語調だったり専門的だったりと、『元朝秘史』の扉を開けたいと思う人にとって、あまりに固く重いものでした。私自身も見慣れない人名や地名に、何度もつまずきそうになりました。そうした経験も踏まえて本書では、できるだけ平易な表現を用い、図表や写真を増やして、読者の方々が理解しやすいように心掛けました。

――『元朝秘史』の成り立ちについて教えてください。

『元朝秘史』巻一の冒頭(四部叢刊本)

白石:『元朝秘史』の内容は、モンゴル帝国の始祖チンギス・カン(テムジン)と、その息子で第2代君主のオゴデイの事績が中心です。おそらく原本は13世紀中頃に成立したと考えられます。当時の題名はわかりません。そののちクビライ(チンギスの孫)が元(大元ウルス)を建て、都を大都(現北京)に置くと、この書は大都の宮廷書庫に秘蔵されました。1368年に元を滅ぼした明によって、この書が世の中に知られることになりました。

明では、モンゴル語で綴られたこの書を、語学テキストに使おうと考えました。中国語に訳してタイトルを『元朝秘史』とし、また、テキストとして使いやすいように12の巻に分けました。本書でもこの12巻に対応した章立てになっています。

――モンゴル帝国は外征を繰り返し、空前の広大な版図を現出しました。モンゴル軍の強さの秘密とは。

モンゴル帝国の版図。緑色がチンギス・カンの征服地域、薄緑が13世紀末のモンゴル帝国最大の版図

白石:史料には、奇襲や伏兵といった狡猾な戦術がモンゴル軍の強さの秘密のように書かれていますが、それだけではありませんでした。装備や馬具を軽量化して騎馬隊の機動力を高める工夫や、長い行軍でも人馬が疲弊しないような後方支援の仕組みが整えられていました。そうしたシステムを作ったチンギス・カンは、軍事の天才だったといえるでしょう。

――現代の私たちがモンゴル帝国について学ぶ意味とは何でしょうか。

白石:ユーラシア大陸の東西にまたがるモンゴル帝国は、そこに暮らすさまざまな人々を統治するため、民族の融和を進めるとともに、信教の自由も認めました。民族や宗教に起因する紛争が絶えない現在において、モンゴル帝国の歴史を学ぶことは、私たちにとってあながち無意味ではないと思います。

――最後に、読者へのメッセージがありましたら。

ウランバートル市郊外のツォンジン・ボルダグ公園にあるチンギス・カン像

白石:『元朝秘史』は、チンギス・カンという英雄を礼賛する書にとどまりません。彼の喜び、悩み、涙、怒り、嫉妬、過ちなど、人間臭い部分も包み隠さず伝えています。ドイツの『ニーベルンゲンの歌』やわが国の『平家物語』にも勝るとも劣らない中世文学の傑作といえます。そうした魅力的な『元朝秘史』について、コンパクトにまとめたのが本書です。歴史だけでなく文学に関心がある方など、多くのみなさんにお読みいただければ嬉しいです。

白石典之(しらいし・のりゆき)

1963年、群馬県生まれ。筑波大学第一学群人文学類卒業後、同大学大学院歴史・人類学研究科に進む。博士(文学)。現在、新潟大学人文学部教授。専門分野はモンゴル考古学。『チンギス・カン』『モンゴル帝国誕生』ほか著書多数。2023年、モンゴル国北極星勲章を受章。