2024 05/10
著者に聞く

『足利将軍たちの戦国乱世』/山田康弘インタビュー

12代将軍義晴が亡命生活を送った近江・桑実寺(滋賀県近江八幡市)

11年に及んだ応仁の乱の終結後、室町幕府の将軍の求心力は低下し、群雄割拠する戦国時代が幕を開ける。だが、幕府はすぐに滅亡したわけではない。歴代将軍は百年にわたり権威を維持し、各地の戦国大名に対して影響力を行使した。その「しぶとさ」の根源は何だったのか。『足利将軍たちの戦国乱世 応仁の乱後、七代の奮闘』を著した山田康弘さんに話を聞いた。

――戦国時代の足利将軍に関心を持ったきっかけは何だったのでしょうか。

山田:私がこのテーマを勉強しはじめたのは、今から30年ほど前です。そのころは、戦国時代の将軍に関心をもっている研究者は、ほとんどいませんでした。それは「この時代の将軍は、細川氏などの有力者によってカイライ(=あやつり人形)とされていた」と信じられ、これが通説となっていたからです。当時の私も、ぼんやりとそう考えていました。

ところがある時、たまたま戦国時代の将軍について調べてみることがありました。すると、どうも変なのです。「カイライ」であるはずの歴代将軍たちが、かなり主体的に活動している様子が見てとれたからです。そこで「通説は、じつは間違っているのではないか」と考え、この問題を本格的に勉強してみよう、と思いたったわけです。

――そうだったのですね。その後のご研究について教えていただけますか。

山田:最初は、戦国時代の将軍たちが裁判をどのようにおこなっていたのか、について調べました。もし通説どおり、将軍が細川氏のカイライになっていたならば、裁判は細川氏によって主導されていたはずです。しかし調べてみると、裁判は依然として将軍が自身で主導していたことが判明しました。つまり、「将軍=カイライ」説は誤りである可能性が高まったのです。

次に、数多くの戦国大名たちが将軍と良好な関係をなお保とうとしていたことに注目し、それはなぜなのか、を問いました。そして、戦国大名たちにとって将軍は依然として利用価値のある存在であった、ということを突きとめていきました。現在は、こうした研究結果をふまえたうえで、「戦国時代の将軍は、当時の日本列島全体においてどのような存在だったのか」という問題に取りくんでいます。

――9代義尚から15代義昭まで、7人の将軍が登場しますが、とりわけ興味深い将軍をあげるとすれば誰でしょうか。

10代将軍義稙の像(富山県射水市にある放生津橋)

山田:一人あげるとすれば、それは10代将軍の足利義稙(よしたね)でしょうね。彼は、地方で青春時代をすごし、偶然が重なって思いがけずに将軍となります。すると、諸大名を率いて各地に出征し、没落しつつあった将軍家の再生を果たそうとしました。ところが、この試みがまさに成功しかけたその瞬間、家臣にそむかれ、逮捕・幽閉されてしまうのです。

でも、義稙はここであきらめませんでした。なんと幽閉先を脱走し、各地を転戦します。そして、百戦百敗しながらもしぶとく生き残り、ついに将軍復位を果たしたのでした。まさに「不屈の将軍」といえるでしょう。こうした義稙の人生から、私たちは生きる勇気を得ることができます。

――ずばりうかがいます。弱体ともいわれる戦国時代の足利将軍は、なぜ滅ぼされなかったのでしょうか。

最後の足利将軍・義昭が本拠とした鞆の浦(広島県福山市)

山田:一口で言えば、将軍が「オンリー・ワン」の存在だったことが大きいでしょう。将軍は軍事的には弱小でした。しかし、有力大名といえども簡単には真似できない特徴をもっていたのです。それは、「武家の棟梁」として全国の武士たちから一定の尊崇を受けていたことです。また、数多くの戦国大名たちと人脈をもち、この人脈を通じて各地の情報を入手しうる立場にもありました。こうした将軍のもつ「オンリー・ワン」の特徴が、戦国時代においても大名たちを将軍に接近させ、将軍の存続を可能にさせていったといえましょう。

今でも、他社が簡単には真似できない技術をもっている企業は、強いですよね。それと同じです。「ナンバー・ワン」でなくともよいわけです。

――なるほど、将軍に対する見方が変わりました。執筆にあたって苦心された点はありますか。

山田:新書は、いわゆる研究者ではない人たちも読むものです。そこで、わかりやすく書くことを心がけました。そのため、あまり重要でない事柄はカットしました。

ただ、何を削り、何を入れるのか、その判断に迷うことが多々ありましたね。削りすぎると面白くなくなるし、入れすぎると難解になってしまいます。なかには「本文に書くと詳細になりすぎてしまうが、削ってしまうのはもったいない」というエピソードもあります。そこで、そういうものは本文ではなくその脇に、少し小さい字でコラムのような形で書きいれました。読者の皆さんには、本文とあわせてお楽しみいただければと思います。

――今後の取り組みのご予定をうかがえますか。

山田:戦国時代といっても、大名たちはいつも戦争しあっていたわけではありません。戦争はリスクが高く、コストもかかります。そこで、大名たちはできるだけ戦争を避け、近隣の者同士で協調しあえるようにしていました。では、それは具体的にどのようにやっていたのでしょうか。戦国時代では、大名たちの上に、彼らを統制する警察も裁判所もありません。そのような中で、武力をもつ大名同士が戦いを避けて協調しあうには、何か「工夫」が必要だったはずです。では、それはいったい何であったのか。この問題は、これまであまり検討されてきませんでした。そこで、今後考えていきたいと思っています。

――素朴な疑問で恐縮ですが、歴史を学ぶ意義は何だとお考えでしょうか。

山田:「歴史を学ぶ」とは、単に過去を知ることではありません。過去を知り、この過去を使って現代(現在)をよりよく知る、ということです。すなわち、過去を知り、たとえばこの過去と現代とを比べていくのです。すると、現代をみているだけでは気がつかない、現代の特徴があれこれと浮き彫りになってきます。そしてその結果、私たちにも、日ごろは当たり前すぎて考えもしない「現代の姿」がみえてくるのです。

このように、過去を知るだけでなく、現代をもまたよりよく知る――ここに、歴史を学ぶ意義があるといえます。それは、私たちがほかならぬ現代に生きているからです。そしてまた、私たちは「今、自分がどのような場所にいるのか」がわかってはじめて、「これからどちらに進むべきか」を考えることができるからでもあります。

――では最後に、歴史を学ぶみなさん、とりわけ若い人たちへのメッセージがありましたら。

山田:戦国時代は、日本史の中でもとりわけ興味深いエピソードであふれています。この時代を知ることは実に面白いですよね。でも、もっともっと、何倍も面白くなる方法があります。

それは、歴史の本だけでなく、それ以外のジャンルの本――たとえば、政治学や心理学、経済学の本などもあわせて読んでみることです。すると「戦国大名たちのこうした動きは、政治学のこの理論で説明できるのではないか」といったことに気づくことがあります。そうなると、戦国時代を知ることがますます面白くなってきます。この方法はおススメです。是非、実践してみてください。

――ありがとうございました。

山田康弘(やまだ・やすひろ)

1966年、群馬県生まれ。学習院大学文学部卒業。同大学大学院人文社会系研究科博士後期課程修了。博士(史学)。現在、東京大学史料編纂所学術専門職員。専門分野は日本中世史。著書に『戦国時代の足利将軍』『足利義稙』『足利義輝・義昭』など。