2023 07/31
著者に聞く

『柴田勝家』/和田裕弘インタビュー

柴田勝家と羽柴秀吉が対決した賤ヶ岳(滋賀県長浜市)の山頂付近から琵琶湖を望む

勇猛果敢で知られる戦国武将、柴田勝家。だが勝家には羽柴(豊臣)秀吉の引き立て役という負のイメージがつきまとっている。小説やドラマで繰り返し描かれる人物像は、はたして真実の姿を映し出しているのか。初の本格的評伝『柴田勝家 織田軍の「総司令官」』を著した和田裕弘さんに話を聞いた。

――まず、柴田勝家が織田信長に仕えた経緯を教えてください。

和田:もともとは信長の父信秀に仕えていたと思いますが、信秀没後は、信長の実弟信勝付の家老のような立場になりました。信長の家老林秀貞兄弟と共謀して信勝を織田家当主にしようと画策しましたが、信長との稲生原(いのうはら)の戦いに敗れて降伏します。その後、信勝が再度の謀叛を企てた時、信長に密告し、信勝が誘殺されることになります。これを機に信長に転仕しました。『信長公記』(信長の一代記)の首巻にはこの時の忠節によって、のちに越前国(福井県)の支配を任された旨の記述があります。

――信長との間でのエピソードがありましたら。

和田:信長から先陣を命じられた時の逸話があります。勝家は辞退したものの信長の命令ゆえに引き受けましたが、下城する時、勝家は信長の旗本衆の一人とぶつかったため、切り殺しました。信長の耳に入り、釈明した勝家は「威厳がないと先陣は務まらないので、最初、先陣を辞退したのである。これくらいの豪壮さがないと諸手に下知できない」などと言い放ち、信長を感心させたといいます。

また、元亀元年(1570)9月、将軍足利義昭を奉じて摂津(大阪府北西部と兵庫県南東部)で三好攻めをしている時、浅井・朝倉軍が京に迫る勢いを見せたため、信長は浅井・朝倉討伐のために近江(滋賀県)の坂本に向かおうとしましたが、勝家は、まずは将軍義昭に付き従って帰京し、京の治安を優先するように進言しました。信長は敵に向かわずに、帰京するとは、「汝は老耄(ろうもう)したるか」と言い捨てて通り過ぎましたが、勝家は追いかけて信長の馬前に至り、「父土佐守より、某(それがし)まで二代の内、戦場に向かいて、終に老耄したる不調法は仕らず」と言い放って京に戻りました。さすがの信長も返答に詰まり、言葉なくそのまま進軍しました。勝家は京の騒動を鎮めた上で、敵勢に威圧を与えつつ信長の本陣に到着し、これを見た周囲の者は勝家に対し「比類なき武勇の忠臣」と褒めそやしたそうです。

変わり種の逸話もあります。信長は美女を集めるため、勝家の領国の越前にも隠密裏に使者を派遣していましたが、勝家の知るところとなりました。勝家は、人の妻女を誘拐することが知れ渡れば信長の名誉のためにもよくないと判断し、その使者一行十余人を捕らえて海に沈め、そのことを信長に報告しました。信長は興ざめし、勝家の処断を褒め、それ以後は妻女の誘拐をやめたそうです。

――あの信長に対してさえ一歩も引かない豪胆さがうかがえます。ところで、副題にある「総司令官」とはどういったことでしょうか。

和田:元亀4年(天正元年=1570)、将軍である足利義昭が信長に対して京都で蜂起した時、この「討伐軍」の総大将となったのが勝家でした。当時来日していた宣教師ルイス・フロイスの書簡の「柴田殿が戦場での総司令官になった」「総司令官の柴田殿」という記述から採用しました(総司令官の原語はcapitão geral)。その後、信長は各地で敵対する大名に対し、いわゆる「方面軍」を設置したため、織田軍全体の総司令官という地位は限られたものになりましたが、信長家臣の中では勝家と佐久間信盛が両大将ともいうべき地位にあり、信盛追放後は、勝家が「信長の重鎮」として他の方面軍司令官とは一線を画す存在であったように思います。

――当時の記録にも残っている表現なのですね。ところで「織田家の筆頭家老」といった言い方を聞いたことがあります。

和田:信長の筆頭家老という地位にいたのは、林秀貞という譜代の家臣です。『信長公記』には一番家老のように表記されています。これは形式的なもので、実質的に軍事面での筆頭家老といえるのは、佐久間信盛追放後は、勝家の地位を表現しているといってもそれほどの的外れにはならないと思います。

――勝家のおもな戦績を教えていただけますか。

柴田勝家の居城だった北庄城の礎石。明治7年(1874)に同城の内濠跡から出土した。西光寺境内、柴田勝家とお市の方の墓の傍らに置かれている。

和田:尾張時代には、信長の実弟信勝の家臣として、萱津(かやづ)の戦いなど清須織田家との戦いで活躍しました。信長との稲生原の戦いでは負傷して退いたあと、敗戦しています。将軍候補の足利義昭を奉じた上洛戦では、三好方の拠点である勝龍寺城攻めなどで武功を挙げました。その後も信長の軍事行動にはほとんど従軍していたと思います。ただ、長篠の戦いには従軍していなかったようです。

天正3年(1572)に越前国に封じられてからは、北陸道の総督として上杉氏や一向一揆との戦いで武勇を示しました。天正8年11月には加賀(石川県南部)の一向一揆を追い詰め、討ち取った頸(くび)を安土へ進上し、信長の実検に供えています。天正10年には越中(富山県)への侵攻を加速させ、上杉景勝(謙信の後継者)を滅亡寸前まで追い詰めていましたが、本能寺の変で事態は急変しました。翌年の賤ヶ岳の戦いでは羽柴秀吉に敗戦し、本拠の北庄(きたのしょう)城に戻って華々しい最期を飾りました。

――戦場にまつわるエピソードは伝わっていますか。

和田:戦場において矢玉の飛び交う中、兵卒が鉄炮に恐れて屈(かが)んでしまったことがありましたが、勝家は屈むことなく立ったままで、鉄炮などは「当たらぬもの」と豪語したといいます。もっとも、この逸話は勝家の武勇を示したものではなく、蛮勇という評価です。森可成や坂井政尚は「いくら勝家でも当たらないということはない。本当の武者というのは、屈む時は屈んで鉄炮・弓に当たらないようにするものであり、出撃する時には、何にも恐れずに突撃するものである」と批判されています(『利家公御代之覚書』)。

また、江戸初期の笑話集『戯言養気集』に、勝家の家臣は「どんな敵であっても、強引に押し破りそうである」と比喩されています。もっとも、実際には勝家は殿軍(しんがり)での活躍が多いようです。『武家事紀』にも「勝家、武勇絶倫、信長軍旅を率するごとに必ず先軍を務め、城を攻め、邑を破る、信長兵を返す時、その退口大節ならんには、勝家、また後殿を承る」と絶賛しています。

――勝家という武将は、戦いはめっぽう強いものの、他はからっきし不得手だったイメージがあります。

和田:たしかに、一般的に知られているように猪突猛進型の側面もあったと思いますが、それだけで信長が重用したとは思えません。永禄11年(1568)の上洛以降、軍事面では一方の大将を務めつつ、畿内を中心に奉行職もこなし、岐阜に下向してきた宣教師も手厚くもてなしたこともありました。勝家の宗旨は禅宗ですが、他の宗教も認め、キリスト教にも寛容でした。

「織田政権」下では、方面軍の一つとして拡大し、本国とした越前はもとより、加賀・能登(石川県北部)を制圧し、越中の奥深くまで侵攻し、隣接する越後(新潟県)の上杉景勝を滅亡寸前まで追い詰める軍事的成功を収める一方、北陸道の総督として、軍事侵攻と並行して、伊達氏をはじめとした東北の諸大名を織田政権に従属させる役割も担っていました。

合戦だけでなく、行政手腕にも優れていたように思われます。吏僚系を除くと、信長のもとで出世した武将には、秀吉も含めて政事・軍事ともに優れていた者が多いですね。

――外国人の目に映った勝家の人物像とは。

和田:象徴的なのは、天正9年(1581)に勝家の領国越前を訪問した時の宣教師ルイス・フロイスの記述です。「柴田殿は職務、身分、家臣(の数)、栄華、封禄においては当国の国主にも等しい人である」「彼は越前国の半分乃至はそれ以上、並びに征服した加賀国全土の国主のような人であるゆえ、当地では手柄、身分及び家臣については信長にも等しく人々は彼を上様、その息子を殿様と呼んでいる」と記しており、勝家の身分の高さを評しています。

――織田家中で特に親しかった武将は誰でしょう。逆に対立していた武将はいますか。

和田:信頼できる史料で親しかった武将を確認するのは困難ですが、のちに与力とした前田利家や、森可成、坂井政尚らとは戦陣を同じくする機会も多く、親しかったと思われます。山城・大和の守護を兼ねたといわれる原田直政は、勝家の娘婿であり、親密だったと思います。厳密な意味では織田家中ではありませんが、和田惟政(はじめ室町幕府に仕え、のち信長に重用された)とは親友と書かれています。

のちに敵対した秀吉とは、もともと仲が悪かったという思い込みがありますが、戦場を共にすることもあり、特に不仲だったとは思えません。信憑性の低い史料には、秀吉の結婚を取り持ったのは勝家というものもあります。もちろん信用はできませんが。

――勝家は自らの後継者をどう考えていたでしょうか。

和田:勝家には複数の養子がいたとされていますが、確実なのは伊賀守勝豊です。しかし、実子の権六(ごんろく)が成長するなかで地位が低下していったものと思います。権六には信長の息女が嫁いでいるようなので、最終段階での後継者は実子の権六だったと思います。なお、実子かどうか不明ですが、宮内少輔勝政という子供がいました。天正6年(1575)を最後に良質な史料では確認できなくなるので、早世した可能性があります。こうした背景から後継者は権六に決定していたものと思います。

――本能寺の変後、主君の敵討ちにおいて秀吉に後れをとります。なぜでしょうか。

和田:勝家と秀吉の置かれていた環境の違いでしょう。地の利という面では、京都からの距離が決定的です。また、敵対者の脅威も勝家には不利に働いたのではないでしょうか。秀吉が敵対していた毛利氏は確かに強大でしたが、戦意という意味では、勝家の敵とは雲泥の差があろうかと思います。毛利氏は和睦を望んでいたようですが、勝家が敵対していた一向一揆は勢力が衰えたといえども執拗ですし、上杉氏も謙信時代の軍事力はありませんでしたが、景勝個人の意志の強さは毛利氏の比ではないように思います。さらに、秀吉軍団に比して、勝家の軍団というのは、佐々成政や前田利家らのように与力の分限が大きく、まとめ上げるのが困難だった側面があったと思います。一致団結すればこれほど頼もしい与力はいませんが、信長あっての与力であり、本能寺の変で信長が落命したあとは、与力という箍(たが)が外れた可能性もあります。

もう一つ、信長の家臣の中で本気で主君の敵討ちを全力で実行しようとしたのは、秀吉しかいなかったのではないでしょうか。後年の秀吉の野望は切り離して考える必要があります。信長への恩義は本当に感じていたのだと思っています。実は勝家も秀吉を上回るスピードで敵討ちに向かおうとしますが、北庄城に戻ってからの動きは万全を期しすぎたきらいがあります。ただ、これは結果論です。秀吉の東上がもう少し遅ければ、勝家が光秀と正面切って戦っていたでしょう。横道にそれますが、秀吉の「大返し」がなくても、光秀の謀叛は失敗に帰したと思います。逆にいえば、光秀にいわゆる「天下への野望」があったとは思えません。

――賤ヶ岳における秀吉との対決、そして敗戦から自害までとは。

和田:明智光秀の討伐では、地の利が悪く秀吉に後れをとりましたが、野心に燃える秀吉を掣肘(せいちゅう)するため、信長三男の信孝、織田家重鎮の滝川一益らと結び、反秀吉の行動を起こします。しかし、秀吉軍との賤ヶ岳の戦いに敗れ、本城の北庄城に帰城したあと、華々しい最期を飾りました。後世に語り継がれることを意識していたと思います。

――仮定の話をして恐縮ですが、もし本能寺の変が起こらなかったとしたら、勝家は残りの人生をどう送ったと考えられますか。また、秀吉の関係はどうなったでしょう。

和田:信長による、いわゆる「天下統一」に向けて、北陸方面の平定を完了し、上杉景勝を滅亡させていたと考えられます。景勝が降伏すれば、滅亡までは追い込まなかったと思いますが。秀吉との関係は、信長が健在であれば、敵対することもなかったでしょう。勝家、秀吉ともに信長の一門衆に列していたので、ともに将来は安泰だったと思います。

――執筆にあたって特に力を入れた点、苦心した点などありましたら。

和田:勝家は北庄城に滅んだため信頼できるまとまった史料が少なく、そのため、できるだけ広範囲に史料を蒐集(しゅうしゅう)するように努めました。本来ならクライマックスともいえる秀吉との賤ヶ岳の戦いについては、数多くの軍記物がありますが、信頼できるものが少ないため、合戦の実態には深く踏み込みませんでした。賤ヶ岳の戦いに限らず、合戦の様相についての良質な史料はほとんど確認されていないのが現状だと思います。

「あとがき」にも記しましたが、変化がないと思われていた勝家の花押(サイン)の変遷がある程度追えるようになったのは収穫でした。これまで知られていなかったと思われる勝家の文書も、いくつか見いだせたと思っています。

――羽柴(豊臣)秀吉や明智光秀のような大物は除くとして、今後取り上げてみたい信長の家臣はいますか。

和田:比較的知られている人物としては、信長の最晩年に最大エリアを管掌するようになった滝川一益が興味深いですね。また、文字通り羽柴秀吉に天下を取らせた丹羽長秀や、大和の筒井順慶も面白そうです。

和田裕弘(わだ・やすひろ)

戦国史研究家。1962年、奈良県生まれ。『織田信長の家臣団―派閥と人間関係』『信長公記―戦国覇者の一級史料』『織田信忠―天下人の嫡男』『天正伊賀の乱』などの著書がある。