2022 03/17
著者に聞く

『刀伊の入寇』/関幸彦インタビュー

「この世をばわが世とぞ思ふ」に始まる有名な望月の歌が詠まれたのは、千年ちょっと前の1018年。藤原道長は3人の娘を次々に天皇や皇太子の后とし、得意の絶頂にあった。だがその翌年、驚くべき事件が起こる。中国大陸に住む女真族(刀伊)が海賊化し、朝鮮半島を経由して対馬・壱岐、北九州沿岸に侵攻したのである。教科書での扱いは小さいこの事件について、『刀伊の入寇 平安時代、最大の対外危機』を著した関幸彦さんに話を聞いた。

――先生のご専門は。

関:日本の中世前期を勉強しています。平安時代から鎌倉時代にかけてです。かつては中世といえば鎌倉時代からというイメージでしたが、中世は平安後期あたりから始まるという理解が主流となりました。高校の教科書などでも11世紀後半を起点とする院政期が中世の入口と書かれています。そうした時代、武士がどのように誕生したかについて興味を持っています。

――執筆依頼を受けてどのように感じましたか。

関:刀伊の入寇には以前から関心があり、論文も何本か書きましたが、一冊の本となると、はたして書けるのか不安でした。『小右記』(藤原実資の日記)その他、若干の史料しかこの異賊侵攻事件については触れておらず、相当の苦労が予想されました。新書に限らず、刀伊の入寇を主題とする著作は出ていないようです。

直木賞作家・葉室麟さんが『刀伊入寇』という作品を書いていることは知っていましたが、あえて読みませんでした。小説に感化されてしまい、先入観を持って執筆に着手するのはよくないと思ったのです。

――事件が起きた1019年というと、日本はどのような状況でしたか。

関:摂関政治の時代で、かの有名な藤原道長が栄華を極めていました。紫式部、清少納言といった才女たちが活躍していたのもこの頃です。いかにも「王朝」の語感がふさわしい時期ですが、他方では都で疫病がはやり、多くの犠牲者が出ました。

ところで、藤原道長に仕えた武者、源頼光をご存じでしょうか。京都を荒らし回った鬼の一味の頭目「酒呑童子」を退治したとされる人物です。もちろん酒呑童子は説話上の存在ですが、疱瘡(ほうそう)を象徴する鬼神だという説があります。全身が赤かったと言われるのは、酒を呑んだからではなく、疱瘡による発熱のためだというわけです。勇敢な武者が鬼(=疫病)を退治したという物語には、かつての人々の英雄願望が反映されているのかもしれません。

――では当時の東アジアの情勢とは。

関:かつて東アジアの中核だった唐が滅び(907年)、周辺地域では新しい動きが現れました。朝鮮半島では新羅に代わって高麗が、満州地方では渤海に代わって契丹が誕生したのです。中国では唐の滅亡後の分裂時代を経て宋が建国されました(960年)。

女真族の活発な動きは、こうした東アジア全体の状勢と連動していました。女真族は、中国(宋)、朝鮮(高麗)、満州地方(契丹)の3勢力に挟まれた存在だったからです。なお、「刀伊」とは高麗の人々による女真族の呼称です。

――「刀伊の入寇」と呼ばれる事件について、かいつまんで教えていただけますか。

関:朝鮮半島で略奪を繰り返した女真族(刀伊)はその後、1019年の3月末から4月にかけて対馬、壱岐、北九州沿岸を襲いました。とりわけ対馬と壱岐は、老人・子供が殺害され、壮年男女が捕虜として連れ去られ、牛馬が斬食されるなど、甚大な被害をこうむりました。日本側の迎撃態勢は必ずしも充分なものではありませんでしたが、大宰府の長官だった藤原隆家の指揮のもと、現地の武者たちの奮戦もあり、女真族を撃退することができました。

この事件について、高校教科書では1~2行程度しか触れられていません。かつては「刀伊の入寇」という用語が使われていましたが、モンゴル襲来を「元寇」と呼んだのと同様に、自国の国益を重視する意識が色濃いため、昨今の教科書ではより中立的な「刀伊事件」や「刀伊の来襲」と表記することが多いようです。本書でも本文中はおもに「刀伊事件」や「刀伊の来襲」を用い、書名は人口に膾炙している「刀伊の入寇」とさせてもらいました。

――事件において目覚ましい活躍をした藤原隆家とはどんな人物ですか。

関:藤原道長の長兄・道隆の息子で、「闘う貴族」の代名詞のような人物です。隆家の兄の伊周(これちか)は、叔父の道長とは政治的ライバルでした。隆家もそうした関係から、道長に対抗意識を持っていたことが歴史物語『大鏡』に描かれています。

その隆家の大宰府赴任は、刀伊の入寇の5年ほど前でした。異賊来襲の報に接するや、隆家は自ら軍勢を指揮し、博多の警固所に向かったとされます。隆家のリーダーシップは、親しい関係にあった藤原実資の『小右記』に記されています。二人は親子ほどの年齢差がありましたが、ともに道長とは距離を置いており、ウマが合ったのでしょう。『小右記』には隆家指揮下で活躍した武者たちの名も記されています。

――なぜ日本は刀伊を撃退できたのでしょうか。

関:当時、律令時代の農民を中心とする軍団制は解体し、有名無実の状態でした。結果として、武芸に秀でた精兵が異賊の迎撃に当たったのでした。

彼らはその出自から2つのタイプに分類できます。一つは藤原隆家ら中央貴族の護衛で九州に下向した「ヤムゴトナキ武者」で、その多くは10世紀前半の反乱(平将門の乱と藤原純友の乱)を鎮圧した功臣の末裔でした。そしてもう一つは地域に根差した名士で「住人」と呼ばれた人々でした。

要するに、有事に際して中央系の「ヤムゴトナキ武者」と地方系の「住人」から成る混成部隊がうまく機能したのです。刀伊の入寇に対する防衛戦争においては、律令国家の古代的軍制とは異なる、王朝国家の軍制のあり方が見て取れます。それは、来たるべき中世国家の軍制の前提と言えるものです。

――出版後の反響はいかがですか。

関:東アジア状勢をふまえて日本の海防問題を論じたことで、研究者の方々から好意的な評価をいただきました。従来、対外危機といえば鎌倉後期のモンゴル襲来ばかりが強調されますが、それに先立つ刀伊の入寇の重要さを示すことができたのではないかと考えています。

――今後の取り組みのご予定は。

関:本来の専門分野でいえば、諸国の武士団の盛衰について研究を進めています。それとは別に、最近は武家と天皇の関係にも興味があります。日本の前近代における権力システムの祖型について、有益な議論を提示できればと考えています。

関幸彦(せき・ゆきひこ)

1952年生まれ。学習院大学文学部卒業後、同大学大学院に進む。鶴見大学教授、日本大学教授などを歴任。専門分野は日本中世史。『英雄伝説の日本史』『武士の誕生』『鎌倉殿誕生』『東北の争乱と奥州合戦』『承久の乱と後鳥羽院』『武家か天皇か』『藤原道長と紫式部』ほか著書多数。