2021 10/13
著者に聞く

【小林秀雄賞受賞記念】『音楽の危機』/岡田暁生インタビュー

パンデミックの時代に「音楽の未来」を追求した『音楽の危機 《第九》が歌えなくなった日』が第20回小林秀雄賞を受賞しました。受賞を記念して、著者の岡田暁生さんにいまの想いや本書の制作秘話、コロナ禍で苦境が続く音楽界への提言などをうかがいました。

――小林秀雄賞ご受賞おめでとうございます。受賞を知って、どのように感じましたか。

岡田: 小林秀雄といえば、私が高校生のころ、受験国語の勉強で避けては通れない作家でした。非常に頻繁に入試に出ていたからです。しかし、当時の私には難しすぎて……(笑)。本格的に親しむようになったのは、30代を越えたくらいからでしょうか。『モオツァルト』はいうまでもなく、河上徹太郎司会の『近代の超克』での発言、それから何より吉田秀和に与えた影響など、私にとっては「伝説の人」となりました。ですから、彼の名前を冠した賞をいただけるということは、月並みですが「身に余る」としか形容できない光栄です。

――受賞作『音楽の危機』の話に移ると、「本書の大部分は、いわゆる緊急事態宣言下にあった二〇二〇年四月から五月にかけて執筆された」と《まえがき》にあります。パンデミック初期のパニックにも似た状況で、どのように思索を深め、書き上げられたのでしょうか。

岡田: 信じてもらえないかもしれないですが、「何かが降りてきた」という感覚がありました。ものすごい勢いで執筆しましたから。しかも迷いはまったくなかった。僭越ではありますが、ストラヴィンスキーの体験に似たところがあります。彼は、『春の祭典』を作曲したときのことを、「どう作曲したかまったく覚えていない。私は聞こえてきたものを楽譜に書いただけだ」と回想しています。それに近い経験でしたね。また、「いま何か言わなくていつ言う? こういう状況において何か言う/言えるためにこそ、これまでの研究はあったんじゃないか?」と、急き立てられるような感覚もありました。世界で少なくとも数か月のあいだ、「生の音楽」が消えていた――。これって人類史上未聞のことでしょう? そういう状況のなかで、「私は研究者ですから」などと、象牙の塔にこもっていてはいけないなと。

――義務感、そして凝縮された時間感覚を感じていたわけですね。「時間」と言えば、選評でも〈「時間論」としても優れた論考〉と評されています。本書の第二部でされているように、「時間モデル」で音楽のあり方を見つめ直し、新しい音楽の形を模索するというアイデアは、どのように生まれたのでしょうか。

岡田: 執筆中、一貫してシミュレーション・モデルにしていたのはオリンピックです。当時はまだ延期も決定されていませんでしたが。音楽について言えることは、オリンピックについても言えるはずだと思ったわけです。ですから、この本の「音楽」とか「第九」という言葉を「オリンピック」と読み替えても、ほとんどそのまま意味は通るようになっているはずです。私に言わせれば、音楽とスポーツは高度成長社会モデルのアイコンそのものでした。「力を合わせれば明日はよくなる、みんなで盛り上がろう!」という〝がんばれソング〟です。それに対してコロナ禍は、近代の音楽(例えばベートーヴェンの第九)やスポーツ・イベントが象徴してきた「盛り上がりモデル」を無効にしてしまうものだという確信が、当初からありました。「盛り上がって最後は勝利と和解のフィナーレに至る」という時間図式は、多くの音楽イベント(作品)、そしてオリンピックに共通するものです。これが無効になってしまう可能性を考えなければいけない。つまり、コロナ以後に要請されるのは「時間図式の根本的な組み換え」なのだという確信がありました。

――意外なお答えで驚きました。現在、刊行から1年が経っています。本書の反響をふくめ、その後の社会や文化のありようをどのようにご覧になっていましたか。

岡田: 読み返してみて、いまの状況に鑑み事後修正したくなる箇所がまったくないことに、自分で驚いています。いろいろな可能性のシミュレーションをしたうえで書いたのは確かですが……。とはいえ、音楽が置かれた状況を考えれば、手放しで喜んだりすることはできません。コロナ禍の当初、友人で免疫が専門の医学研究者が、「このウイルスは人間社会の一番弱いところをピンポイントで衝いてくる。その意味でものすごくたちが悪い」と言っていたことを思い出します。彼いわく、「感染した人がみんな発病するわけではないからこそ、人と人がお互い疑心暗鬼になる。波が過ぎたかなと見せて、またぶり返しが来る。人が安心して集まれなくなる」。執筆のヒントになった言葉です。

音楽イベントなどの「人の集い」が、再開されて元に戻るように見えて、まるで芯の湿ったロウソクのようにいつまでも火がつかない状況が続くと、もう復「旧」という発想を捨てるしかないのではないかとも感じます。僕は、当初よりあの本の中で「危機は希望だ」と論じてきました。想像もつかなかったような状況になった以上、後戻り=「旧/昔に戻すこと」を考えて徐々に体力を奪われていくより、思い切って「こんなことでも起きなかったら考えるはずもなかったこと」を前向きに考えたほうがいいという主張です。

音楽界に目を転じると、この1年のあいだに、「こんなことでも起きなかったら構想され得なかっただろう」ぶっとんだ試みが、ほんの少しはありました(2020年9月に作曲家の三輪眞弘さんが岐阜サラマンカホールで行った配信イベント「ぎふ未来音楽展2020三輪眞弘祭――清められた夜」など)。ですが、音楽関係者の多くが、なんとか当初のスケジュールのとおりに催しを行うことに忙殺され、それ以外の可能性に目を転じる余裕をなくしていたように見えるのは、とても辛いことです。オリンピックなどでも事情は同じだったのでしょうが……。

――「こんなときでなければ考えられなかった新しい「音楽をする場」を探そうではないか」というのが、『音楽の危機』の結びの一文でもありましたね。やや脱線しますが、同じくコロナ禍が文化に与える影響を考察した書籍や論考として、ほかに興味深いものはありましたか。

岡田:アートプロデューサー、ジャーナリストの小崎哲哉さんによる『現代アートを殺さないために ソフトな恐怖政治と表現の自由』(河出書房新社)ですね。パンデミック下での行政による芸術関係の対策や問題点、新しいアートのかたちの模索、業界の動きなどが極めて具体的に書かれていて、コロナ禍の記録としても非常に役に立ちます。何より小崎さんは、いまの状況は実はすでにコロナ以前からあったもろもろの矛盾が誰の目にも明らかに顕在化しただけだともいえ、わたしたちはこの数十年来の諸矛盾の前に立たされているのだということを、正しく見抜いておられるように思います。

吉見俊哉さんの『東京復興ならず 文化首都構想の挫折と戦後日本』も、コロナで顕在化するに至った「近代日本」の根本矛盾を実に見事に分析したものとして、強い感銘を受けました。拙著と問題意識は完全に重なっていると思います。

――ご教示ありがとうございます。最後に、読者へのメッセージをお願いします。

(C)中央公論新社

岡田:本の中でも強調しましたが、生の音楽と、CDやアプリなどで聴く録音音楽とはまったく別のものです。演劇と映画、生のスポーツ観戦とテレビ観戦くらい違う。「どっちで聴いても同じでしょ」とだけは思わないでほしい。僕にとって、あの「空気の共有感」の放棄は、ほとんど「あなた人間やめますか?」と言われているのと同じことです。

そうは言っても、間違いなくネット社会はこれからますます加速していくでしょう。「対面は最低限のことだけでいい」となりかねません。確かに、なにごとにつけ対面は面倒です。それにいまの状況では慎重にも慎重を期すべきでしょう。しかし音楽を含めた対面コミュニケーションの「あの感覚」を、いつか来る日まで、絶対に忘れないようにしてほしいと思います。

岡田暁生(おかだ・あけお)

1960年(昭和35年)、京都市生まれ。大阪大学大学院博士課程単位取得退学。大阪大学文学部助手、神戸大学発達科学部助教授を経て、現在、京都大学人文科学研究所教授。文学博士。著書に、『〈バラの騎士〉の夢』(春秋社)、『オペラの運命』(中公新書、サントリー学芸賞受賞)、『西洋音楽史』(中公新書)、『恋愛哲学者モーツァルト』(新潮選書)、『ピアニストになりたい!』(春秋社、芸術選奨文部科学大臣新人賞受賞)、『音楽の聴き方』(中公新書、吉田秀和賞受賞)、『音楽と出会う』(世界思想社)、『モーツァルト』(ちくまプリマ―新書)、『音楽の危機』(中公新書、小林秀雄賞受賞)などがある。